ジャズとテツノ

1930年代後半、アメリカで生まれた日系二世3人の男女の運命が、ジャズ音楽を軸に回りはじめた。
日本では太平洋戦争が近づくにつれ、ジャズ演奏の場が相次いで閉鎖され、ジャズメンの多くは上海に生活の糧を求めて渡って渡った。
アングラ女優・吉田日出子のハマリ役となった「上海バンスキング」は、そんな時代の男女の姿を描いた劇である。
「バンスキング」とは1930年代後半から40年代前半にかけ、上海に渡った日本人ジャズ・ミュージシャンの総称である。
「バンスキング」の「バンス」とは英語の"advance"の「前へ」という意味で、要するに「前借王」という意味である。
上海に渡った興行主から楽器の購入や生活のために報酬を「前借り」していたことに由来している。
終戦後、上海からの帰国船の「第一寄港地」が門司港だったことが縁で、バンスキングの一部が門司にとどまり、今日なお門司港レトロの多くの店ではジャズの音色が響いている。

ところで「上海バイスキング」の一人が、ミュ-ジシャンかまやつひろしの父のティーブ・釜萢である。
ティーブ・釜萢は、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのジャズ・ミュージシャン兼シンガーで、日本のジャズの「草分け的」な存在である。
日系アメリカ人ニ世として、洋服店を営む日本人の両親のもとロサンゼルス近郊で生まれた。
このティーブ・釜萢と「奇縁」で結ばれたのが、同じ時期にサンフランシスコで育った森山久である。
森山久は、シンガー森山良子の父、森山直太朗の祖父にあたる人物である。
彼らは中国大陸における日米の利害対立に発する日系移民に対する「排斥」の機運を身に感じつつ生きていった。
そして1929年の大恐慌は彼らの運命をも大きく転じていった。
アメリカで日系人が職につく機会が極めて限られていたために、日本でジャズをやればカネになるという話があり、1933年、釜萢は日本に渡り、その翌年には森山も日本に渡った。
彼らは、戦前より東京をベースにジャズシンガーとして活躍していた淡谷のり子のバックバンドをやったりした。
淡谷のり子が日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌うことまでした。その後も数々の曲を世に送り出しその名をとどろかせていた。
そして戦時下で多くの「慰問活動」を行った。
その際に「モンペなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての戦闘服」という、当時としては大胆発言をしつつ慰問をした。
その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を歌で慰め送っていった。
淡谷氏の慰問中に行った数々の「非行」行為によって積み重なった始末書の「厚み」は、この人が並みの歌手ではないことを証明している。
例えば「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行動および発言で「始末書」を書かせられる羽目になり、それが積み重なってヤマとなった。
そのバックで演奏していたティーブ・釜萢にとっても「冷や汗モノ」だったに違いない。
一方、森山の方は昼間レコード会社 のスタジオでトランペッターをし、夜は赤坂のジャズ・ホールで歌った日々だったから、釜萢と森山の二人が知り合ったのはこうしたセッションを通じてであったろうことは想像できる。
二人は日本語は下手だったが、それでも日本でのジャズ演奏は確かにカネになった。
そして釜萢と森山はジャズの活動の中で仲間もでき、母国アメリカに帰っても失業するだけだと考え、日本に「帰化」することを選んだ。
実は「仕事がない」どころの話ではなく、アメリカでの日系移民はすべて収容所に入れられていく運命にあったのだ。
そして釜萢は日本人女性と結婚する。いっぽう、森山も釜萢の家に遊びにゆくうちに、家に出入りしていた釜萢の奥さんの妹と仲良くなり、やがて結婚する。
二人は「ジャズ」、「日系二世」、「日本帰化」、「妻が姉妹」という多くの共通項をもつ「奇縁」を結んだのである。
1938年、日中戦争が勃発し、日本は急激に戦時色が濃くなってゆく。
しかし日本でも彼らが幸せなジャズ演奏に浸れる時間は長くは続かなかった。
国民が「一丸」となって戦争に臨んでいた。ジャズのような軽薄な音楽や番組などモッテノホカという時代だった。
彼ら心置きなくジャズ演奏ができる土地を探し、それが上海であった。
しかしティーブ・釜萢にとって、中国大陸はジャズとばかり結びつく場所というわけにもいかなかった。
第二次世界大戦の末期、日本語がほとんど話せないにも関わらず「召集令状」がきたのだ。
自動車の運転ができたため、輸送部隊に配属され中国戦線に渡ったのである。

実は二人のジャズ活動にもう一人の日系二世の女性の人生がカランデくる。
彼女の人生を知るために、時間を「逆戻し」して、森山良子、かまやつひろしの「祖父の時代」にタイム・スリップしてみたい。
明治のはじめ、貧困から逃れるため、大勢の日本人がアメリカへと移民として渡って行った。
そうした中にに森山、釜萢そしてもう一人、戸栗遵という3人の日本人がいた。
森山祖父は写真術を学びサンフランシスコで「写真屋」を始めた。
釜萢祖父はサンフランシスコ近くのオークランドで洗濯屋からはじめ、やがて古着屋を開業した。
ちなみに森山久は1910年サンフランシスコ生まれで、ディーブ釜萢(釜萢正)1911年ロサンゼルス生まれている。
同じロサンゼルスに1916年戸栗遵にはアイバ・戸栗(戸栗郁子)という娘が生まれている。
時を同じくしてアメリカで育った男女三人の彼らはやがて東京の地で「交差する」運命が待っていた。
アイバ戸栗は成長し、医者を目指してカリフォルニア大学院に通ったが、1941年7月発病した叔母の見舞いのため、突如、日本へと行くことになった。
ところがここで「運命の悪戯」がおきる。
アメリカのパスポートを正式に取得しないまま日本に来てしまった彼女は、帰国の準備に手間取るうちに、太平洋戦争が勃発してしまったのだ。
彼女にすれば「敵国」日本に、ひとり取り残されるハメになってしまったのだ。
周囲の勧めがあったのだが、アイバは日本人帰化を断り、そのまま「アメリカ人」として、敵地で生きてゆくことを決意する。
1943年、NHK海外局のタイピストとしてパート勤務していたアイバ戸栗は、思いもかけぬ「誘い」を受ける。
NHKがアメリカ兵に対して行っていた一連の「謀略放送」のアナウンサーをやってほしいというものだった。
この頃のNHKは、敵のアメリカ兵にホームシックや厭戦気分を起こさせるため、意図的に情報(心理)操作をした番組を仕掛けることを計画していた。
その番組では女性アナウンサーがササヤクように英語で語りかけてきた。
。「アナタがそこで戦っている間、アナタのワイフは自宅に男を呼び込んでいるのよ、気づ かないの?」。「アナタの可愛らしい娘さん、毎晩”パパ!”と言って泣くんですって」、てな具合である。
その間で「スターダスト」「私の青空」といったジャズの生演奏が流れ、そして彼女の甘い声が暗に「戦争なんかやめちゃって故郷にかえろうよ」と誘った。
実はこの番組「ゼロアワー」の「発信源」は、当時NHKがあった東京千代田区内幸町の放送会館で、皇居から間近の場所であった。
そして驚くべきことに、この放送はアメリカ兵にとって大の「人気」となってしまったことだ。
彼らは極東の国から流れてくるトロケルような声の持ち主に対して、いつしか「トーキョー・ローズ」と名づけたのである。
1944年の「ニューヨーク・タイムズ」に次のような記事がのった。
「現在、戦闘しているアメリカのGI(兵隊)たちの中で、ラジオ・アナウンサーの人気投票をするなら、驚くほど多数の票が”トーキョー・ローズ”による”日出ずる国”より南太平洋に流されている番組に集まるだろう」と。
そうしてこうしたジャズによる「篭絡演奏」に加わっていたのが、ほかならぬ森山久(もしくは)ディーブ釜萢だったのである。
ただし釜萢に関しては日本兵として出兵し、中国で終戦を迎えたという資料もあるため、「真偽」のほどはよくわからないという。
しかし、「トーキョーローズ」による敵の戦意喪失をネラッタ放送が成功したにもかかわらず1945年8月、日本は敗戦国となった。
そして日本に上陸したアメリカ軍は、(好奇心もあって)早速「トーキョー・ローズ」を探した。
実は何人もの女性がこの放送に参加しており、アイバ戸栗はその一人に過ぎなかったのだが、アメリカ兵をひきつけたヒロインは、なんといってもアイバ戸栗に他ならなかったのである。
そしてアイバはアメリカ政府により「国家反逆罪」で逮捕されかかったが、「証拠不十分」で釈放された。
ところで早々と日本人となっていた森山久とディーブ釜萢は、敗戦3ヶ月後からNHKで放送開始された「ニュー・パシフィック・アワー」で、思う存分ジャズの演奏に取り組むことができるようになった。
もちろん、自分たちの好きな音楽が「公然」とやれる喜びに浸っていたことだろう。
釜萢は、スターダスト・オーケストラの専属歌手を経て、日本初のジャズボーカルの専門学校である「日本声専音楽学校(のちの日本ジャズ学院)」を開校した。
そこからペギー葉山、平尾昌晃、弘田三枝子らが育っていった。
一方、森山久には1948年に女の子に恵まれ、「良子」と名つけられた。
この森山良子誕生の年、アイバ戸栗は7年ぶりに故国へと帰った。
ところがアメリカで彼女を待ち受けていたのは、またもや「国家反逆罪」の疑いだった。
やがて彼女には「終身刑」が下され、アメリカ市民権を剥奪され、1949年ウェストバージニアの刑務所に収監された。
しかし彼女に同情した人達の長年の運動がようやく実って、1977年フォード大統領の「恩赦」が出て釈放され、ようやくアイバ戸栗に「アメリカ国籍」が戻ってきたのである。
ところで、かまやつひろしは、父親ティーブ釜萢がつくった日本ジャズ学院の生徒だったことがある。
ある時、父親が”th”の発音を「かまやつ君、発音がおかしいからやってみなさい」と皆の前であてられたことがあった。
父親が一生懸命に「先生」になろうとしていたことがイヤで、それ以来学校に行かなくなったという。
どこへ行っても「ティーブの息子か」といわれるのがイヤで、意識的に自立をはかるようになった。
新宿駅の南口でに行っては、手配師にトラックの荷台に乗せられて、横須賀や御殿場の米軍キャンプに行って、ジャズではなくカントリーをやるようになった。
そういえば、ヒット曲「我が良き友よ」はカントリーの雰囲気がある。
1960年代ビートルズのように「虫」をや「動物」にちなんだバンド名が人気になっていた。
当時組んでいたバンドのリーダーである田邊昭知から、英語のできるオヤジにアイデアを聞いてみてくれと頼まれたという。
ティーブ釜萢は息子に「蜘蛛はどうだ?」と一言いったという。
こうして「ザ・スパイダース」が誕生した。

1960年代、かまやつひろしの名前を堺正章、井上順とともにはじめて知ったのは、ザ・スパイダースであった。
グループサウンズ黎明期を飾った人気グループであり、「夕陽が泣いている」はイカシタ曲だったことを今も思い出すとができる。
リーダーは田邊昭知(現・田辺エージェンシー社長)がザ・スパイダースのドラマーであり、今は日本音楽事業者協会(JAME)会長でもある。奥様は元歌手の小林麻美である。
ところで、我が大学時代に同じクラスに塩塚博という人物がいた。ご本人のホームページによると、田邊昭知に憧れて音楽の世界にはいったという。
そしてこの塩塚氏は独自の「音世界」を創りだして、今や「巨匠」とも「カリスマ」とも呼ばれる存在となっているらしい。
実は関東圏に行けば塩塚氏の創造した「音」に出会える可能性は極めて高い。
何しろJR、私鉄、地下鉄の電車がホームに入ったり、出て行ったりする際に聞こえてくるメロディーの多くは、「塩塚サウンド」であるからだ。
塩塚氏は、従来の「駅メロ」の曲想を転換させ「テツノポップ」という分野を切り開いたわけで、そうした駅メロを集大成した「驚愕」のCDまでがつくられた。
「テツノ」という言葉には、「テクノ」と「テツドー」を合わせた言葉であるが、テレビで塩塚氏が「音」を作り出しているシーンを見かけたが、コンピューターを駆使しての「音創り」であった。
学生時代は少し長く髪を伸ばしてギターケースを肌身離さずに持ち歩いていたのを思い出す。
千葉県の岩井海岸であった新入生歓迎合宿では、皆のリクエストに応じてどんな曲でも弾きこなせるというのに、アキレた。
大手百貨店に就職した塩塚氏であったが、それをヤメテ自分の好きな音楽の道を「邁進」されたということになる。
塩塚サウンドのコンセプトは、音数を絞ったシンプルな「ゴージャス・オルゴール」ということであるらしい。
今、時代は「携帯」の時代となり、もともと「発車メロディ」に曲名が無かったが、「携帯電話」の着信メロディとして配信する際に「日本音楽著作権協会」に登録することとなった。
このとき「JR-SHO」という便宜的な曲名がつけられた。
そして塩塚氏の「分身」たる各駅の「出発メロディー」には「曲名」もチャンとつけられているという。
営団地下鉄駅の例をあげれば次ぎのとうりである。
渋谷「おとぎのワルツ」、明治神宮前「てんとう虫のステップ」、新宿三丁目「不思議のワルツ」、西早稲田「クリトフ」、池袋「TOKYO CITY」、千川「オン・ザ・コーナー」、小竹向原「オーバーフロー」といったものである。
通勤の際に、自分作曲の「出発メロデー」で出勤できるとは、なんと洒落たことだろう。