それからの敗者達

いつしか映画「スター・ウォーズ」(ハリソン・フォードのデビュー作)に登場する「悪の権化」ダースベーダーや兵士のヘルメットと黒澤明の「七人の侍」に登場した野武士の冑(かぶと)がカンペキに同じカタチであることを発見し、一人悦に入っていたことがある。
ドウデモイイことでも世界で自分だけが知っていると(主観的に)思えれば、けっこう得意な気分になれるものだ。
ちょうどコンピュ-タ操作で、誰も知らない方法なんか知っていると、ヒソカに楽しかったりする気分に似ている。(ヤな奴ですね)
「スター・ウォーズ」の場合、ジョージ・ルーカス監督が黒沢明監督の崇拝者であったことを思い出した。
ジョージ・ルーカスは「七人の侍」を脳に焼きつくほどに見たそうだから、ヘルメットと兜が全く同じカタチだったとしても、何ら不思議ではない。
それどころか、電子に光る剣を交えて戦うシーンはまるで日本の時代劇のアクションであった。
約30年前にアメリカの映画館で「赤穂浪士」を見たとき、日本人が刀を交える時のあの「間合い」が、外国人の「笑い」をサソッたりしていたものだが。
ところで最近、NHKの「歴史秘話ヒストリア」をボ~ッと見ていたら福岡県の宝満山で400年以上も前に創立された「武術」が紹介されていた。
その武術のワザが以前テレビで見たことのある警察学校の「棍棒」訓練とソックリだと思い、きっとこの武術と警察の「棍棒」訓練との間には「何か」があると直感した。
この「直感」の正しさが証明できたら、5分間はウットリできる。
そしてその「5分間ウットリ」を目指し、調べた。
さて、「歴史秘話ヒストリア」のこの回は「宮本武蔵」をテーマにしたものであり、とても興味深いものだった。
宮本武蔵は江戸時代初期 に実在した剣豪だが、番組は武蔵という「剣の達人」を中心に据えるのでなく、むしろ武蔵に挑み「敗れた」側の人生が描かれていたからである。
戦国の時代が終わり徳川による太平の時代となった。関が原の戦いなどで敗れた側は「取り潰し」などになり、そこ仕えた武士達は新しい就職口を求め、各地で「仕合い」に挑み、その「剣豪」としての名を轟かせようとした。
そのため各地に「道場」もできていた。
宮本武蔵はこうした道場で戦いに臨み、生涯無敗だったという。逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということである。
では、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。
①他流派と戦うことへの疑問を投げかける、徳川家の剣術指南役「柳生一家」がいた。
②武蔵に負けたことで学び、新たな術に目覚めた「夢想権之助」という男がいた。
③剣とは異なる道で天下に名をあげた「吉岡一門」がいた。
NHKの「歴史秘話ヒストリア」では、その三者三様の「生き様」が描かれていた。
ところで「柳生新陰流」は、柳生十兵衛などを生み、その一門の剣術はその後日本中に広まっている。
徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた柳生但馬守・宗矩の長男が柳生十兵衛で、同じく家光の剣指南役をした。
しかし柳生十兵衛はやがて家光と対立し、後に諸国を漫遊し、やがて郷 里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上の弟子に剣術を指南したという。
奈良の柳生の里を本拠とする柳生一族からは大瀬戸と辻風の二人が宮本武蔵に挑み、武蔵が勝ったとされるが、一門の末裔は「試合をするのは考えにくい」と言っている。
その教えの中に「他流仕合」を禁止しているからだというが、逆に武蔵のような独特の剣に敗れたからこそ、そうしたのかもしれないとも思った。
番組のなかでも興味をもったのが、武蔵に敗れた「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という人物であった。
マイ地元の宝満山で武術を磨いて一門をつくったことにも興味をひかれる。
さて「神道夢想流杖術」は今から約400年前に、夢想権之助により創始された武術である。
夢想権之助は宝満山を拠点にして修練を重ね「夢想流」という流派を築いたが、剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツく。
テレビでその「杖使い」を見てハットした。どこかで見た「杖使い」。
かつてテレビでやっていた新人警察官の訓練で見た「棍棒使い」と似ている。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120cmの長い木刀で挑んだのに対し、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と仕合をし、一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と仕合をし二天一流の極意「十字留」にかかり、押すことも引くこともできず敗れてしまう。
権之介は、この武蔵の「剣術」に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参籠し、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授かった。
権之助は御神託をもとにさらに工夫を重ね、ついに四尺二寸一分、径八分の樫の木で、槍、薙刀、大刀の3つを統合した「杖術」を編み出したという。
権之介は宝満山で修行し、その後「杖術」の使い手となる。福岡藩に召抱えられて、術を広め「夢想流」という武術一派を確立した。
「傷つけず 人をこらして戒しむる 教えは 杖のほかにやはある」
杖は、四尺二寸一分、直径八分の樫の円形である。
一見、杖そのものには、他の武術がもつ様に、それ自体の力強さは何一つとてない。
則ち、先もなけれな後もない、見るからに「平凡」であり、「平和」そのものでさえある。
武術として、最も非攻撃的であるかの様にみられるこの杖が、ひと度難局に面した時、その繰り出す技は千変万化なのだ。
伝書の中に「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」とあるが、「杖」は左右の技を連続的の使い、相手をして応戦に暇なしからしむ状態に陥し入れるのが特色である。
「神道夢想流杖術」は当初黒田家の「男業」の一つとして、主に足軽、士分の者、家老等の武士の家臣が学んだという。
そもそも「男業」とは下士、足軽の捕り方武術を総称していうもので、内容は杖、捕手、縄となっていた。
神道夢想流杖術は「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、 幕末までは「杖を学んでいる者を数えるのに暇がない」ほど門弟も数多くいたが、明治維新の改変に伴う廃藩置県で、藩の庇護をはなれ急速に衰えて行った。
しかし道場を開いて「杖術」の伝統を守り抜いたのが白石範次郎重明である。
白石氏没後(1927年)、一人の高弟が「福岡道場」を発足させ、流派の継承に尽力した。
昭和の始め、もうひとりの高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節等の玄洋社社員の後援を得て普及発展をはかった。
その後、「大日本杖道会」を発足し、それをもって柔道の講道館、警察の警杖術を指導したという。
そして、「神道夢想流杖術」の技法の一部は、日本の警察で「警杖術」として採用され、全日本剣道連盟の杖道形として普及し、剣道の理合と融合した武道の「杖道」となったのである。
ついに、5分間ウットリ。

さて、宮本武蔵に敗れた吉岡一門は後に剣の道をすてて、江戸時代初期に「染物屋」に転じた。
たまたま明国の染物職人と「接点」があり、「吉岡染」が完成した。
「吉岡染」といえば、奥深い黒い褐色の「憲法色(けんぽういろ)」である。
憲法とははいっても、「日本国憲法」とはなんら関係なく剣術家の吉岡直綱(号は憲法)が広めたとされることからこの名が付いたという。
色の名が「個人名」に由来する色名としては最も初期のものと言われている。
憲法色は江戸時代を通じて人気の高い色となっている。ところで黒染めには高い技術が必要だったこともあり、吉岡家の堅牢で良心的価格の小袖は非常に人気があった。
京都の多くの染屋が吉岡家から染めの技術を学び暖簾分けされたため、京都の染色業者には吉岡姓の家が多い。
もともと、吉岡一門は足利将軍の兵法師範を務める兵法の名家として名高く、足利将軍家が衰退した後は豊臣秀吉に仕官した。
そのため、徳川家康に与することを潔しとせず、豊臣秀頼に従って大坂の陣に参陣し、宮本武蔵との戦いに敗れた後は家業の剣術を棄て、家伝の染色をもって生計を立てる道を選んだのである。
なお、染色の技術ソノモノは、「門人」であった明出身の李三官という人物から伝わったとされている。
当時の染料の多くは薬草として使用されることも多く、「兵法」の名家が傷の治療などの目的から「生薬の扱い」に慣れ親しんでいたことはそれほど珍しいことではなかったという。
吉岡一門のようにある時点の「敗者」が新しいものを生み出すということならば、最近本屋大賞受賞作の「天地明察」に描かれた安井算哲もピッタリの人物である。
安井算哲は、碁の名人だったが、碁の戦いに破れたことをキッカケに「暦の改革」に生涯をかけることになるからである。
そして名前も天文方・「渋川春海」としての方がよく知られた人物である。
「碁」は中国から日本に入って独自に発達し、特に江戸時代に幕府に保護され、近代碁の礎となった。
江戸時代の初期、「碁」の家である本因坊・安井・井上・林の四家は幕府より五十石の禄を受けた。
安井算哲はこの時代の第一級の文化人であったが、本因坊道策との御城碁で「11戦全敗」というどうしようもない実力差をつきつけられた。
そこで碁では第一人者になれないことを自覚し、天文方となり暦を作ることになる。
天文学には当然ながら高度な数学も必要で、当時の数学を「和算」といった。
和算では春海と同年の関孝和などがおり、関孝和は代数や行列式を考え出した当時世界のトップレベルといってもいい数学者だった。
そのことも渋川春海(=安井算哲)の暦つくりに大きな励みになったと思われる。

さて 現代で思い浮かぶ「敗者」とは、世界チャンピオンの練習風景を見て「ダメだ」と思いボクサーの道を断念し、建築学を独学で学び世界的な建築家となった安藤忠雄である。
安藤氏は今や世界的な建築家となったが、工業高校時代はチャンピオンをめざしてボクシングに明け暮れていた。
17歳でプロのライセンスを取得したのだが、後の世界チャンピオン・ファイティング原田がジムを訪れ、あまりの身体能力の違いにボクシングに抱いた夢を見事にフンサイされたという。
しかし、わずか二年間のボクシング修業ではあったが、リングに上りコーナーでイスを取り出し水を飲み、孤独に一人 に耐えることは、何にも増して貴重な体験だったという。
安藤氏にとって建築の仕事とはリング上の孤独に通じるものがあるという。
安藤氏は高校を卒業する時点で完全にボクシングと縁を切ったものの、大学に進学する余裕もない自分に何ができるかと自ら問うた時、「物づくり」が浮かんだ。
つまり安藤氏が育った環境が、モノつくりにかける職人達が多い地域であったことが建築家を目指すことに大きく作用したといえる。

ところで宮本武蔵は生涯で60回以上戦い、一度も負けなかったという。
そんな武蔵でも30歳にならんとした頃、目指してきた剣の道「ナンバー1」に疑問を持ち始めた。
34歳の時に大坂夏の陣に徳川方御用番として参加して、武蔵はそこで「組織」を学び、それ以後「兵法」の研究に没頭する。
宮本武蔵は1640年57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれ、熊本城内千葉城で晩年を過ごした。
武蔵が熊本に来たのは、終焉の地を求める心のほかに、彼が剣の道から得た真理を治国経世の上に役立てようという気持ちもあったようだ。
「五輪書」は、剣豪宮本武蔵が死の直前に書き上げたという自流、兵法二天一流の剣術である。
1643年武蔵60歳の時、熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」にこもって「五輪書」を書き始め1645年春に完成させた。
武蔵の死去は同年5月であるから、「五輪書」は死の間際まで筆をとり続けた武蔵「執念」の書といえる。
「五輪書」の由来は仏教で説く宇宙の五大要素である地・水・火・風・空に倣ったからだ。
したがって「五輪書」は五巻の巻物であったとされ、「地の巻」では兵法の道に関する概要を説き、「水の巻」は二天一流(二刀流)の剣の技を、「火の巻」は勝負について、「風の巻」は他流と自流との比較を、そして「空の巻」では兵法の極致ともいうべき事柄について記されている。
「五輪書」は六十余年にわたる生涯のほとんどを命のやり取り、生死をくぐり抜けながら実戦の中で会得した心構えとノウハウが書かれている。
「五輪書」は英訳され今もビジネス書として世界で読まれているという。
ところで熊本の武蔵は、「五輪書」の執筆ばかりではなく水墨画にも親しんだ。木枝の鳥が虫を襲う緊迫の一瞬のを描いた「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず」がある。
「歴史秘話ヒストリア」の話の中で興味深かったのは、武蔵の水墨画の筆致を見ても、剣と共通する「筆使い」があるという。
それは、筆を考えて動かすのでは無く、無意識に「筆捌き」が出来ていた。
宮本の筆捌きは、「剣さばき」ソノモノであった。

ところで巌流島の決闘後から晩年をすごした熊本までの生涯を描いた小説「それからの武蔵」(小山清作)がある。江戸や島原の乱でのエピソードをまじえ、修行一筋、悟りの道へと邁進する宮本武蔵の姿が描かれている。
今から50年ほど前、水泳のオリンピック・メダリストである田中聡子は、長崎県生まれで熊本の中学でその才能を見出され、当時水泳の名門校である福岡市の筑紫女学園にかよった。
ローマ・オリンピックで銅メダルをとった田中聡子は、東京オリンピックでもメダルを期待されたが、残念ながらメダルには届かなかった。
ローマ・オリンピック後に引退を考え自分の生き方につき迷っていたところ、筑紫女学園の校長に「それからの武蔵」を奨められムサボリ読んだという。
そして東京オリンピック後に引退し、子供が喘息になったことをキッカケに、福岡市屋形原の国立南福岡病院で、「ぜんそく児」教室を病院プールでひらいていった。
田中聡子の知名度もあって全国から人々が集まった。
つまり水泳のコーチとして、タイムとの戦いに明け暮れることに挑むことはなかったのである。
ともあれ、近代の警察にまで続く「神道夢想流杖術」や、京都の染物技術に貢献した「吉岡染め」が、いずれも宮本武蔵から敗れた者達の絶えまざる修練によって生まれたのは、心励まされるところである。
宮本武蔵に敗れた者達にせよ、オリンピックで必ずしも十分に期待に答えら得なかったにせよ、勝負の決算はむしろ「それから」にある。
結局、宮本武蔵に敗れた者達は「人生の決算」においては「敗れざる者」達であった。
一方、宮本武蔵といえども凡庸な成功に「淫する」ことがなかった点もスガシい。
武蔵は62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られ、あくまでも「剣豪」であり続けた。
この地(滋賀県大津)が選ばれたのは、恩顧をこうむった細川藩主の江戸参勤交代を草葉のカゲから拝したい、という武蔵の願いだったといわれている。