沖縄のチャップリン

この夏、大震災のために各地でお祭りの開催まで自粛する動きが出ているという。
テレビ出演された山笠振興会の委員長氏も3・11以来悩んできたそうだが、博多山笠は例年どうりに実施されるハコビとなった。
今、祭りの最中である。
振興会の委員長氏によれば、もともとの「お祭り」の意義を考えてみれば、むしろススンデやるべきと意を固めたのだという。
「祭り」とは本来、疫病や自然災害など、人智の及ばぬ「想定外」の出来事を鎮めるための行事として発展したものだ。
こんな時にこそ祭りは決行すべきで、中止なんてとんでもないこと。盛大にお祭りを盛り上げて神様へ奉納すべき時だということである。
そして、「御神輿」をかついで街を練り歩き「お清め」を必要なのだから、御神輿や山車はお祭りに「不可欠」なものである。
ところで福岡(博多)における「山笠発祥」の地は、長谷川法世氏の漫画「博多っ子純情」にしばしば登場する櫛田神社と思いこんでいたら、JR博多駅近くの承天寺に「山笠発祥の地」の石碑があり、誠に意外であった。
しか承天寺あたりの地名が「祗園」であり、山笠祭りの正式名称が「博多祗園山笠」であることを思えば、それも納得できるところである。
「祗園」の地名は、京都の「祗園」と同じくもともとは平家物語に登場する「祗園精舎」からきたものである。
さて平家物語の冒頭「祗園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」はあまりにも有名であるが、そもそも「祗園精舎」とは何だろうか。
「祗園精舎」は、インド中部のシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所である。
その名称の由来は「ジェータ太子の森」 (Jetavana) と、「身寄りのない者に施しをする」 (Anathapindada) という言葉を合体してできたものだそうだ。
インドに身寄りのない者を憐れんで食事を給していたために、人々から「給孤独者」(athapindada) と呼ばれていた富豪がいた。
彼の名をスダッタ(須達多)というが、ある日、スダッタが釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院を寄付しようと思い立った。
そして見つかった土地が、ジェータ太子の所有する森林であった。
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、ジェータ太子が「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」とタワムレで言ったという。
しかし、スダッタはそれをマニウケて本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚きそのまま土地を譲って更に自らも樹木を寄付して、寺院建設を援助したという。
これため、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して「祗樹園給孤独園」と呼ばれ、そこに建てられた精舎を「祗樹給孤独園精舎」と称するようになったという。
これが、「祗園精舎」の正式名称である。
ところで夏は「花火大会」の季節だが、この花火大会も「自粛」の動きが出ているという。
しかしながら、納涼花火などはもともと「邪気払い」の行事として始まったものである。
火は、「悪いものもすべてを浄化する」作用があり、ドーン、ドーンという音も「邪気」を払うものなのだ。
それは、ハジケル音とともに「邪気」を退散させる力があるのだという。
とはいえ、花火大会を「自粛」するは、苦しんでいる人々を思いやった時「楽しみ」に走るのは申し訳ないという日本人的「良心」のなせる気持ちなのだろう。
そう思いつつ、沖縄に生まれた一人の「漫談師」と沖縄ポップスの「生みの親」となった人物のことを思い浮かべた。

沖縄出身のバンドで「りんけんバンド」という定評あるグループがある。1977年結成され、1987年にプロ・デビューした。
三味線や島太鼓など沖縄の楽器と現代の楽器との融合した「沖縄ポップ」の先駆者といっていいバンドだ。
ところで「りんけんバンド」の名前は、リーダーである照屋林賢の名前によるものである。
そして、この照屋一家こそが、今日の沖縄出身のミュージシャン達のの「土台」を築いたといって過言ではない。
こうした土台の上に、今日の「BEGIN」や「ORANGE RANGE」が続いているのである。
さらに、安室奈美恵やスピードを育てた「沖縄アクターズ・スクール」の存在があるが、この学校は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の孫であるマキノ正幸が1983年に設立したものである。
マキノ正幸が沖縄を目指した理由は詳らかには知りえないが、沖縄に「現代ポップス」の可能性を感じさせるものがあったからコソ、本州を飛び出して沖縄にやってきたのであろう。
そう考えると、「りんけんバンド」の存在価値はとてつもなく大きいといわざるをえない。
また、1970年代には、マイケル・ジャクソンもいた「ジャクソン・ファイブ」にならった沖縄一家のグループ「フィンガー・ファイブ」の成功も、沖縄行きの理由であったかもしれない。
我々は、沖縄民謡と現代ポップスの「融合」した曲といえば、喜納昌吉の「花」やTHE BOOMの「島歌」を思い浮かべる。
ただ「島歌」の島は、沖縄ではなくて奄美大島であるが、「沖縄ポップス」の流れの一つと考えていいだろう。
ところで沖縄県の石川市は、沖縄本島のほぼ中央にあって、第二次世界大戦後に沖縄で最初にできた「市」である。
それまでは、美里村字石川といって人口2000人足らずの静かな農村であったが、戦争が終わった1945年、米軍によってここに「難民収容所」が設置され、沖縄各地から戦火に追われたたくさんの人々が集まってきた。
そのため、石川の人口は数ヵ月で3万人にふくれ上がり、今日の「石川市」となったのである。
しかし、「市」に昇格したからといって人々の生活が楽になるわけではなく、人々は戦争で受けた心の傷を癒やす間もなく、その日その日を生き延びることで精一杯だった。
軍の作業に駆り出され、食料と物資を手に入れることに追われて疲れきり、毎日希望を失ったまま暮らしていた。
そこに突然に、小那覇舞天(おなはぶーてん)と名乗る風変わりな男が現れた。
舞天は本名を小那覇全孝(おなはぜんこう)といい、今の県立那覇高校を第一期で卒業し、その後日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)を卒業して歯科医となった。
舞天のオモシロオカシは、仕事で白衣を着ている時や家にいる時はまじめで口数の少ない人であったが、一歩外に出ると風変わりな「漫談男」にヒョウ変することだった。
漫談といえば、牧伸治の「ウクレレ漫談」を思い浮かべる。97歳にもなって「あ~~いやんなっちゃった」ともいわず、現役で漫談を続けているのは、もはや「国宝級」の域かもしれない。
さて、小那覇舞天の方は毎晩のように、舎弟「照屋林助」(てるやりんすけ)を呼び出し、まだ起きている家を見つけては甲高い声で「ヌチヌスージサビラ」(命のお祝いをしましょう)とズカズカと入ってくる。
と、突然「ジャカジャカジャン」と三味線が鳴り響き、歌が始まるのである。
突然やって来た中年の男が、その場でつくった歌を民謡の節に乗せ、この地方独特の「琉球舞踊」モドキを踊るのだから、ただただアゼンとするばかり。
しかし、やがて舞天のユーモラスな「踊り」に乗せられ、家の者もツイツイ一緒に踊り始めるのである。
ところが舞天がある屋敷を訪問した時、位牌の前で家主が涙を流している場面に遭遇した。
家主は舞天に、こんな悲しいときにどうして歌うことができるのか?戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに位牌の前でどうして「お祝い」をできようか?、と問うた。
すると舞天は、「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」と答えたという。
舞天の言葉にキョをつかれた主人だったが、家主の表情には明るいきざしが表れた。
こうして口ヅテに舞天の存在は沖縄中に知られていった。
当時は、一軒の家にを10人くらいが詰め込まれて「避難生活」している状態の処も多く、すぐに人の輪ができて「笑い」のウズが巻き起こっていったのだ。
舞天のつくり出す笑いが、「希望を失った人々」にどんなに救いになったか、計り知れない。
避難民達も、舞天の世の中を風刺した漫談に、腹のソコカラ笑い転げ、少しずつ元気を取り戻していったのである。
小那覇舞天は「ブーテン」の愛称で親しまれたが、打ちひしがれた人々の心に灯を点した為か、いつしか「沖縄のチャプリン」ともよばれるようになった。

ところで、舞天とともに民家を訪ね歩いたのが、「りんけん」バンドの照屋林賢の「父」にあたる照屋林助である。
ちなみに照屋林助は、モデルで元・ミスインターナショナル世界第二位の「知花くらら」さんの叔父にあたる人物でもある。
振り返ってみれば、「沖縄芸能」の復興は小那覇舞天・照屋林助コンビによって始まったといえるかもしれない。
それを物語るように、国立民族学博物館にて照屋林助・林賢コーナーが展示されているという。
ところで、沖縄アクターズスクールを設立したマキノ正幸の祖父は「日本映画の父」である牧野省三で、父は映画監督であるマキノ雅弘である。
マキノ正幸の娘が牧野アンナで、安室奈美恵とスーパーモンキーズのメンバーの一人であった。
牧野アンナは、その後アクターズスクールのインストラクターなどを経て、現在は「振付師」としてAKB48やSKE48のの「振り付け」などを行っている。
ところでマキノ正幸は、安室奈美恵の才能をいち早く見出したことでも有名である。
友人に誘われてスクール見学に来ていた当時小学生の安室奈美恵を熱心にスカウトし、困惑する安室の母に「授業料は要らない」と、異例の「特待生」待遇で入学させている。
アクターズスクールが生んだのは、MAX、スピードなどであるが、今が旬の黒木メイサもアクターズスクールに通ったことがある。その後女性ファッション雑誌「JJ」でモデルとして活躍した。
黒木の父親はブラジル人と日本人のハーフで、母親は日本人であるから、黒木自身は「クォーター」である。
4人姉妹の末っ子で、10歳でジャネット・ジャクソンに憧れダンスを習い始めたそうだ。

最近新聞にでていた喜納昌吉の「ハイサイおじさん」の歌が出来た「経緯」には驚いた。
「はいさいオジサン」は沖縄方言をもって、酒飲みのおじさんと少年とのユーモラスの掛け合いを歌詞にしたものである。
喜納昌吉の父は喜納昌永で、1920年代に活躍した沖縄民謡歌手、兼三線奏者である。
息子の喜納昌吉は、沖縄市(旧ゴザ市)島袋という地に生まれたが、少年のある日、近所で起きた「凄惨な事件」を、事後とはいえ「目撃する」ことになる。
それは、7歳の娘が精神を病んだ母親に首をきり落とされるという事件で、母親はソノ首をまな板の上に置いたのだという。
そして喜納昌吉は毛布にくるまれた首のない胴体を見てしまったのである。
この母親の夫はしばしば喜納家に「お酒」をセビリに出入りしていた人物であった。このオジサンこそが、「はいさいオジサン」のモデルである。
様々な苦しみをかかえながらも、ツキヌケて陽気だった。
喜納昌吉によれば、「ハイサイおじさん」は中学時代に作曲したデビュー曲で「こんにちは、おじさん」の意味なのだそうだ。
沖縄には、もっとも凄惨なことでも「陽に」転じることがおきる。それは沖縄の共同体で養われた「生命力」がナセルわざであるかもしれないが、喜納によれば「曲がワーッと湧き起こり、その後ふり降りた感じ」なのだという。
沖縄には「イチョリバチョーデー」という言葉があり、初対面でも一度会ったら「皆兄弟」と意味であるらしい。
また「ナンバルクイナ」という言葉もある。「なんとかなるさ」という意味らしいが、単なる「なんとかなるさ」ではなく、本当は「○○○、なんくるないさー」と、「やるべきことを全てやったから」コソ、「一生懸命やったから」コソの「なんくるないさ」になるということらいい。
日本のコトワザでいうと、「人事を尽くして天命を待つ」という感じに近い。
ともあれ「はいさいオジサン」は、沖縄民謡を元にした独特のメロディーとウチナーグチ(沖縄語)を織り込んだユニ-クなポップスとして、沖縄ばかりではなく多くの日本人の心を捉えた。
さらに喜納昌吉作曲の「花」は、バブル経済でイキリタッタ、日本人の心に癒しや再生をもたらすした。
喜納は16歳の時あった東京五輪の閉会式で選手達がごちゃ混ぜになって場内を行進したのをテレビで見て衝撃を受けた。
自分が生まれ育ったコザでの米兵同士の人種対立や暴動事件とまったく異なる「人種の融合」を見出だすことができたからである。
その後「復帰運動」と「復帰」があって反石油備蓄基地運動がおき地球的規視座で環境を守るべきこと、生命の古里として海や環境を守ることを教えられ、視野が広がっていき、政治も音楽も地球的視野から捉えていくようになりその結果「花」ができたのだそうだ。
2004年、参議院議員通常選挙比例区に民主党から出馬し当選し、「すべての武器を楽器に、すべての基地を花園に、戦争より祭りを」というメッセージを発信した。

沖縄の人々は、悲惨や苦難をその「生命力」をもって乗り越える感がするが、それは沖縄を訪れた灰谷健次郎氏の体験を思い起こさせる。
児童文学者として知られる灰谷健次郎氏は、33歳の時長兄が自殺をする。
その死に対して「ある事情」がカランデいた灰谷氏は、「自責」の念にかられる。
翌年には母親が「兄」を追うように亡くなり、灰谷氏はそれからの「生き方」への迷いから、ヨーロッパ、地中海、中近東、インドを「放浪」するが、「重し」は逃れ難くセマッテきた。
そして38歳の時、ついに兄の自死から立ち直れず教職の仕事を辞め17年間の教師生活にピリオドをうつ。
そして、退職後はアテもなく東南アジアや沖縄に足が向かった。
そして沖縄のパイン工場に行った時に一人の男性と出あう。その男性は灰谷氏に、船を二度沈めて妻と娘を(結果的に)「殺し」てしまったことを語った。
その話を聞いていた老女が、己を責めて生きても死んだ人は喜ばんと言い、その彼女も夫をマラリアで「殺した」と戦争の体験を語った。
さらに、老女は「わたしが死んだらおじいさんも死んでしまうさ。わたしは死ねないさ」と告げた。
それに周りにいた皆が当然のように「肯いた」のだという。
灰谷氏はこの時に衝撃をうけ、「生命観」そのものを根底的に変えられたと言っている。
命は自分ひとりのものだと思っていた灰谷氏はこの時、「生者と死者さえも、すべてが繋がっている」という新しい「生命観」を教えられたのである。
そして沖縄の人達が、自分が小学校で教えてきた「子供達」に似ていることに気がついた。
子供達は重い人生を背負っていてもとても楽天的だったこと、苦しい人生を歩んでいる子供ほど優しさに満ちていたことを思い至った。
灰谷氏はそうした思いを、「兎の目」「太陽の子」などの児童文学に「凝縮」させた。