みんなの物語

一月は旧い暦では「陸月」とよび、皆が睦み合うことから1年が始まるのだそうだ。
こういう月の呼び方は社会の実相に基づくよりもむしろ、一年は「仲良く睦まじく」からスタートしたいという祈りをこめて付けられたものだろう。
昨年末より、政治の世界では国際的緊張を含め対立ばかりが目に付く。そして、法的な根拠のない「仕分け」結果(看板替えなど)や、財源の定まらぬ法人税減税を実施するなど「マニフェスト」政治のどこか虚しさを感じることシバシであった。
だいたい物事は思うようには運ばないのがアタリマエで、日本という社会は全体の和や調和を重んじるために、原理原則を貫徹するというようなことをあまり要求しない。倫理道徳的には「状況倫理」を背景とした社会でもあるのだ。
そもそも「マニフェスト」は「国民の福祉」を最重視するくらいを原理原則とすればよいのであり、状況の変わる中で、あまり中身の細部に拘り「帳尻合わせ」をすることはかえって弊害が大きい。
とにかく期待をもって始まった「マニフェスト」政治なるものは、今や協調よりも対立ばかりをエスカレートさせているようにも見える。
日本人は誰かがリーダーシップを取って何かをやりとげるというよりも、皆で意をあわせて次第にことが成って行くのが「自然」でヨシする「成るシスト」傾向がある。
いや、誰かが強力な意思で事を行おうとしても、それを弱めるかボヤケさせるような「智恵」があると言い換えても良い。
しかしこうした意思遂行のスタイルは責任が曖昧で、様々な「危機管理」(急増する財政負担も)の面からすれば不適合な面があることも確かである。
そこで「マニフェスト」政治に期待がもたれたが、政治の世界ではよほどの強いリーダーシップがない限りは、対立ばかりが目につく結果になった感じさえする。
そこで政治の世界からは少し離れて、昔からいう「仲良きことは美しきかな」ではなく「成り行くこと」の美しさに「癒し」を求めたい気がする。
つまり、いかなる「意思表明」もなく、誰が旗を降るわけでもなく、驕りも嫉妬も生まず、足の引っ張りあいもなく、そこはかとなく事が成り行くこと。
あるいは、誰に促されたのでもない人々のホノカナ善意がことを成し行くこと。
それは、霞がかった四季折々の日本の風景のグラディエーションを思わせる。
そしてこの時「成り行く事」の主人公は、「みんな」という事である。今年はそんな意味での「みんなの物語」をたくさん期待したい。

私が住む福岡市長丘から環状線に出るマサにそこに「桧原櫻」がある。
この「桧原櫻」の話は、環状線建築により切り倒されそうになった桜に、多くの名も知らせぬ人々が、せめてこの春に咲くまで待って欲しいという人々の願いを歌った「短歌」を次々と掲げていった事に対して、近くに住む市長も動き公共事業の計画を動かしたというスガシイ話であった。
「短歌」を掲げていった人々一人一人が何かムーブメントを起こそうとしたわけでもなかった。
そこにあったのは花咲くまでのおおよそ20日間は伐らないでという「共感の連鎖」だけである。
こういう「みんなの物語」は、我が地元に他にもある。
その成り至ったことは、一つの「歌碑」が建ったにすぎないが、それに関わった多くの人々の気持ちは「みんなの物語」とするに相応しい。
博多湾に浮かぶ能古島がありが、この島の頂き近くには「折れたコスモス」と題された歌碑がある。
「小さきは 小さきままに 折れたるは 折れたるままに コスモスの花咲く」。
この歌の作者は、現在110歳にもならんとし、世界各国で特殊教育の講演を続けておられる元福岡教育大学教授・昇地三郎氏である。
昇地氏が100歳を超えてからもますます活動の場を広げてこられてきた事は、驚きという他はない。
昇地三郎氏は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。
ご子息二人はすでに亡くなられたが、能古島の「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」ともナッタのである。
ではどうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。
ことの発端は、能古小学校出身で当時高校二年生の上村啓二君が交通事故で亡くなったことであった。
この上村君は、能古小学校時代に書いた作文で小中学校作文コンク-ルで西日本新聞社・テレビ賞(1978年)を受賞したことがあった。
その中に次のような一節があった。
「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった。」
福岡教育大学での昇地三郎氏の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった。
その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢もいた。
この上村君の「倒れたコスモス」と昇地氏の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長の中野明氏であった。
実は中野氏は、筑紫中央高校時代に武田鉄矢が生徒会長、中野氏が副会長という関係にあった。
また教育大学でも武田鉄矢氏とは一緒にJR南福岡駅から大学がある赤間まで通ったという。
中野校長は、教育大学のかつての先生である昇地氏の碑を何処に建てるか土地を探していた時、その教え子中野校長に上村君の父から、「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。
昇地三郎氏が障害をもつ二人のご子息への思い、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いが、「コスモス」という花を介して交叉したといえる。
その交叉地点こそが能古島であったわけだ。

「桧原桜」そして「折れたコスモス」に続き、もうひとつ国会近くの「ハナミズキ」の話も「みんなの物語」といえるかもしれない。
「空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい つぼみをあげよう  庭のハナミズキ」。
こういう歌詞で始まる一青窈が歌った「ハナミズキ」は、恋愛の歌のようであり祈りのようでもある不思議な歌であるが、この国会近くに植えられたハナミズキと関係している。
ところで、ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。
毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼるという。 このサクラは日米友好のシンボルとなっている。
日露戦争の際アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
日本からサクラが送られた直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れたことがあった。
その時上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた夫人が、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したという。
そして夫人の友人であるジャーナリストが大の日本びいきであったために、その思いに賛同しその実現を促した。
たまたまニューヨークに住んでいた科学者で「タカジャスターゼ」でしられる高峯譲吉などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長だった尾崎行雄に伝わったという。
その後、ポトマック公園にジェファーソン記念堂が建てられてサクラの木が切り倒されそうになった時に、アメリカ市民が女性を中心に体をサクラの木に結びつけて反対したという。
この時、日本はすでにアメリカの敵国に転じていたのだが、ポトマック河畔の桜はもはや「桧原桜」を超えたような「みんなの物語」に化していたのだ。
そして、その桜の返礼として日本に送られたのが「ハナミズキ」であった。
国会側の尾崎行雄憲政記念館のハナミズキの並木は、友好の「お返し」に贈られた木であったのだ。
一青窈が「ハナミズキ」を作った直接のきっかけは、911テロに彼女の友人が巻き込まれたからだそうだ。
彼女がアメリカより日本より送られたサクラのお返しにアメリカよりハナミズキが贈られたという歴史事実を知って、911テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくったという。
彼女の友人の命は助かったものの、その出来事から多くの人々の死を思い、自分が好きな人つまり恋人や家族や友人などの幸せだけではなく、みんなの幸せまで願って「君と君の好きな人が百年続きますように」という歌詞を書いたという。
なお、ハナミズキの花言葉は、「あなたへの返礼」もしくは「私の想いを受けとめて」である。

今から30年ほど前に、ニュ-ヨ-ク・イ-ストハ-レムの小学校に一人の臨時雇いの教師パメラ・グレイが採用となった。
愛する夫に捨てられ、同居する男性との不安定な関係に悩む二人の子持ちの女性である。
この臨時雇いの先生には特筆すべきことがあった。
かつての赴任先で買い込んだ50本のバイオリンをもっていたことと、このバイオリンを使って子供達に与え音楽の素晴らしさを伝えようという並外れた意思を持っていたということであった。
イーストハーレムはニューヨークでも一番の貧困層があつまるブロックでもある。
つまりアメリカで最もバイオリンとは縁遠い地域といってもよいかもしれない。
学校の同僚教師は楽器を与えても子供達には忍耐力がないし続かないと否定的な意見を言った。
実際に子供達は当初、弦を刀がわりにしたりバイオリンをギター代わりに爪弾いてふざけあっていた。
そうした子供達のなかには、祖母を殺害された子供、発砲事件に巻き込まれて命を落とす子供、DVに悩む子供達が多くいた。
黒人の親からは、白人の音楽「キラキラ星」など習わせたくない、バイオリンなどやめさせたいと抗議される。
別の親からはパメラ先生の口が悪すぎて子供が真似るので、もっと上品に接っしてほしいという要望もでた。
そこでパメラ先生、無理に上品に教えようとしたところ子供達からは「気持ち悪い」といわれ、元の口の悪い先生に戻ったという。
この出来事は後に「ミュ-ジック オブ ハート」というタイトルで映画化されたが、女性教師パメラを演じたメリル・ストリ-ブは、役作りのために実際にバイオリンクラスを見学するのであるが、あのメリル・ストリ-ブがパメラ先生の容赦のない指導方を見て思わずタジロイダという。
しかし、そのうちバイオリンをもった子供達に何かしらの変化が起きはじめている。
義足の子供が夜遅くまでバイオリンを一人残って練習している。子供達の目に輝きが宿りはじめているのだ。
その一方でパメラ先生は私生活ではめちゃくちゃで、離婚した後に同居した男性にも去られ、子供達からもそのことを責められるなど悲嘆の日々が続いていたのだ。
しかし、パメラのバイオリンクラスは学校や地域で評判になり、しだいに認知されはじめていった。
そして教えた生徒の数は千数百人にも達した。
しかしあろうことか、突然にニューヨーク市が予算削減を発表しバイオリンクラスの打ち切りが決定したのである。
市に抗議するが聞き入れられず、校長とパメラ先生は親を巻き込んでクラスの継続をはかろうと結集する。その時、有力な音楽関係者を知り合いにもつ一人の親がバイオリン・コンサ-トを開いて資金を集めてはとうかと提案した。
こうした集まりを通じて、バイオリン・クラス打ち切りを学校側が抗議していることが新聞に掲載され、このクラスのことが広く世間に知れ渡り、市民達の共感を得ることになった。
そして市の施設をコンサ-ト会場として借りることになり、子供達は本番にむけバッハなどの難曲の練習に取り組み、同時にコンサ-トのチケット販売も順調に行われていった。しかし思わぬ破綻がおきる。
コンサ-ト会場の水漏れなどが発見され、会場の補修が本番までに完了できなくなったのである。
その結果、別の会場でコンサ-トを開かざるをえなくなったのだが、事態は思わぬ方向に展開していった。
保護者の知り合いの音楽家の働きかけなどにより、世界のミュ-ジシャンの殿堂・カーネギーホールでのコンサートが開かれることが決定したのである。
パメラ先生と子供達は思いもよらなかったビッグ・ニュースに喜びタジロギながら、一丸となって練習に励んでいった。
コンサート当日、イースト・ハーレムの子供達の背後には世界的に著名なバイオリン奏者達も並んだ。
そしてミュージシャン達と子供達とのコラボレ-ションは会場を感動の渦に巻き込み、観客は彼らの演奏にスタンディング・オベーションで応えたのである。
臨時教師パメラが始めたバイオリン・クラスは自力で3年間継続し、その後は財団に引き継がれ今日も続いているという。
このパメラ先生、様々な誹謗や中傷の中、生徒達に自分が伝えんすることを恐れずストレートにぶつけた。
そこにはハカライもなければ点数稼ぎもない。
純粋な「ミュージック オブ ハート」を宿した人々が皆で起こした「ニューヨークの奇跡」であった。

「ミュージック オブ ハート」といえば、昨年英国のタレント発掘ショー”Got Talent TV”にエントリーしたポール・ポットさん(当時36歳)を思い起こす。
ポールさんはウェールズで携帯電話のセールスマンをしていたが、これまで度重なる不運に見舞われてきた。虫垂破裂、副腎に出来た巨大な腫瘍、バイク事故による鎖骨粉砕骨折などなどである。
「タレント発掘ショー」に登場するには見るからに風采が上がらない。ずんぐりした体つき、安物のスーツ、短すぎる髪型、そしてシンガーとしては致命的にも見える歯並びの悪さである。
2000人を超す聴衆がシラケ気味の目で彼を見守っている。そして、舞台脇から3人の審査員たちがモロ冷たい視線を浴びせている。
この男がまもなく会場に空前絶後の感動の渦を巻き起こすとは一体誰が予想しただろうか。
美しい女性審査員がいかにも期待シテマセンという表情で「今日は何を演じるために来たの?」というアマリニ無礼な質問を浴びせたのが圧巻だった。
ポールさんは「To sing an opera」とシンプルに答えた。
彼が選んだのは、オペラ「トゥーランドット」の歌曲の一つで、プッチーニ作曲”Nessun Dorma”、邦題は「誰も寝てはならぬ」たから気がキキすぎていた。
そして、いったん彼のテノール・ボイスが鳴り響くと、すべてが一変する。
「ミュージック オブ ハート」とはこの男の為にあるのかもしれないほどに響く熱唱である。
涙を流す観客。スタンディング・オベーションに湧く会場と化した。
鳥肌が立ったかに表情が一変した審査員達の口からは、賛嘆の言葉しか出てこない。もちろん満点合格である。
ポールさんは、記者の取材を受けて、こう話している。
「みんなに与えた第一印象が良くないことはわかっていました。でも、歌っている間、審査員たちから目をそらさないようにしました。」
ともあれ、ポールさんは、まもなくプロ歌手としてデビューするが、このコンテストに出場を勧めたのは奥さんだったという。
このタレントがこの年になるまで埋もれていたとは一体どうしてなのかと問いたくなる。
学校の音楽の時間に「天才」と言われたことはなかったのかい?宴会(パーテー)で歌ってプロで食えるといわれたことはなかったのかい?、コンクール出場を勧めたのは奥さん以外にいなかったのかい、と。
ともあれ、ポールさんはとても大きな夢をたくさんの人に与えてくれたという意味で、「みんなの物語」の主人公になったようにも思える。