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よく似た二人

「あなたがもう一人いる」などと言われて、さすがにビックリしたことがある。
もちろん、それくらいソックリの人がいるという意味だったが、そのソックリサンを見たわけではないので何とも答えようがなく、ホー、で終わり。
その女性の姉の婚約者が私と似ているらしく、その婚約者が突然大阪から出てきて目の前に現われたのかと思って、私をマジマジと見つめてしまったそうだ。
誤解を与えるほどに。
ちょいと知り合いのその女性とはその頃、駅のホーム、デパート、レストラン、本屋などでなぜか偶然に会い、そのことを告げられた後には、なぜかパッタリと出会わなくなってしまったのだ。
あれは一体なんだったのかと、今思い返しても不思議でしょうがない。
本当に自分がもう一人いたら、というバカバカシイ想念さえ脳裏をかすめた。
別にこういう体験があるからではないが、顔かたちが似ているだけでなく、とても似通った人生や運命を生きる人というのはキットどこかにいるに違いないと思う。
そしてそういう二人が何も気づかずに出会っていたり、接点があったりしたらなんか面白いではないかと思い、そういう材料を無意識に探すようになっていた。

歴史上似た宿命や境遇を生きた人々なら材料に事欠かない。
例えば、市という美貌の母にもつ浅井家の三姉妹(茶々・初・江)は、母が再婚した柴田勝家(浅井家の敵方)の元で小谷城で育つ。
次には柴田勝家が母とともに豊臣秀吉によって自害に追い込まれたが、今度は秀吉の庇護にはいり、茶々は秀吉の側室(淀君)となっている。
このように、敗者となっても一族の血を残して行くのが、戦国の敗者の姫君達のいわば「共通の宿命」だといえる。
ちなみに「浅井三姉妹」の末っ子の江は二代将軍徳川秀忠の妻となり、千姫を生む。
そして、千姫はなんと豊臣秀吉と茶々すなわち淀君との間に生まれた秀頼の正室となる。
つまり、淀君から見ると息子・秀頼と姪の千姫の結婚である。
そして、千姫は徳川家の娘でありながら、今度は豊臣方の姫君となり、大阪の陣では徳川方によって滅ぼされる側に置かれてしまうのだ。
そしていよいよ豊臣方が徳川方によって滅ぼされることになると、当然千姫も殺されることとなったが、徳川家康によって「待った」がかかり、家康命による「千姫救出作戦」がおこなわれる。
なんと大阪の陣では、千姫を豊臣方から救出した者には、千姫を与えるという約束が出来上がっていたのだ。
そして坂崎直盛という武将が「姫ほしさ」に救出に成功したのだが、千姫はブ男だった坂崎がお気に召さず、プイ。
その後千姫は、本多忠刻に嫁入りすることになるのだが、腹に据えかねた坂崎は嫁入りの行列を襲い「千姫強奪」作戦を敢行する。
「千姫救出」には成功した坂崎だったが、「千姫強奪」には失敗し、自害に追い込まれるというあまりにも悲しい運命を辿ることになる。
こうして千姫は、ブ男の血をいれずに「美しい」浅井家の血を残すことにも成功した。
以上のように戦国の姫君はいたるところで悲しい運命を強いられつつも、逞しくシタタカに生きた。
歴史の中で「似た運命」を探し、しかもその者同士の「接点」に大きな意義を見出せるケ-スをNHKの大河ドラマから探すと、江戸幕末の篤姫と和宮の「接点」を思い浮かべる。
薩摩の篤姫は、右大臣近衛家の養女となった後に13代将軍・家定の妻にむかえられ、孝明天皇の妹・和宮は皇室から「公武合体」のシンボルとして14代将軍・家茂の正室に迎えられた。
二人は姑と嫁という関係で最初は不和であったらしい。
天璋院(篤姫)は静寛院宮(和宮)と対面した際、上座にあって会釈も礼もせず、和宮の座には敷物も用意されていなかったという。
しかし、二人にはその時代に置かれた共通の運命があった。
すなわち徳川家に対立することになる側の天皇家または薩摩から徳川家に嫁として入っており、天皇方(薩摩・長州)と徳川家の戦いある戊辰戦争においては、極めて微妙な立場に置かれることになるのである。
運命に翻弄されながらも、「共通の運命」に目覚めていったのか次第に力を合っわせて、徳川家と天皇家の和平に力を注ぐことになるのである。
すなわち、徳川の救済と十五代将軍・徳川慶喜の助命に尽力し、朝廷に働きかけ「江戸城無血開城」についても大きな影響力を行使したのである。

ある時、「天皇家御用達」というという言葉で検索していたら、「よく似た二人」に出あった。
以前ネットに「銀座のモダニズムの物語」として題して書いたことがあるが、「天皇の料理人」である秋山徳三と、天皇御用達の洗濯屋で現在のクリーニングチェーンの「白洋舎」を築いた五十嵐健治である。
二人の店はともに発展し、今も場所を変えながら存続している。
二人は同年代で宮中に出入りしたが、秋山が料理した宮中の晩餐会で使われたテーブルクロスなどは、きっと五十嵐が洗濯したに違いないと想像すると、二人は「ある接点」をもったことになる。
もちろん二人にはそういう「接点」にどんな意味をも見出さなかったと思うが、そういう人々の関わりのアヤは面白いものだと感じる。
例えば、工房で名器といわれたバイオリンを創った人間は、それを演奏する一流の名演奏家と「接点」をもつし、ある熟練のバット職人は、イチローという名バッターと「接点」をもつ。
別に一流でなくとも、モノを介して人々のそれぞれの「接点」があるのだ。
しかし、一つの道を究めようとする人間の思いが強くあればあるほど、そこにある接点はパルスを発するほどに、互いに「引き合う」何かがあったのではないかと思ったりするのである。
秋山はフランスで料理を学びシェフと呼ばれるまでなった頃、大使館より天皇ために料理をつくらないかという話がもちあがり、1913年に帰国し宮内庁内での料理人としての歩みを始めることになる。
秋山はこの時25才で宮内省大膳寮に就職し、1917年には初代主厨長となり、大正、昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大礼の賜宴、宮中の調理を総括した。
人々は彼を「天皇の料理番」とよんだのである。
秋山の生涯はテレビドラマ化され、堺正章が秋山の役を演じたことがあるため、結構知られた存在である。
一方、白洋舎を創設した五十嵐健治は、あまり知られていないが、作家の三浦綾子が100通を越える手紙のやりとりを元に伝記小説「夕あり朝あり」(1987)を書いたため、その生涯がはじめて知られた。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
三国干渉に憤慨しロシアへの復讐を誓い北海道からシベリアへの渡航を企てるが、だまされて原始林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられた
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教のことを聞き、市中の井戸で受洗したという。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として宮内省の御用を務めるが、そのことが彼の人生を大きく変えることになる。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に白洋舎を創立した。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を天職にしようと決心したという。
つまり秋山と五十嵐は、地方から出てきて一つの道を究めようと努力し、同時期に皇室御用達として飛躍した。
料理の世界にフランス料理、洗濯の世界にドライクリーニングとりいれた二人は、それぞれが東京銀座を拠点としそのモダニズムにも一役かったという点でも共通している。

ところで三浦綾子氏には「塩狩峠」という実話に基づく小説がある。
塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。
1909年2月28日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。
偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職したが、乗客は救われた。
三浦綾子氏はこの話を旭川のキリスト教会で、小説の主人公となる長野の部下だった信者から聞いたという。
病身の綾子女史は、さっそく夫の三浦光世に付き添われ現場に足を運び、実際の話を元に「永野信夫」を主人公にした物語を書いた。
東京生まれの永野信夫は、母が「ヤソ」であるために祖母に疎まれ家を出てしまったため十才になるまで祖母のもとで育った。
母は死んだと聞かされて育ったが、母が生きていることを知り祖母の死後は母との生活がはじまった。
初めは母のキリスト教信仰に反発を覚えた。一方で、片足が不自由なうえに結核に冒されている友人の妹ふじ子に思いを寄せるようになる。
そして、明るく振る舞うクリスチャンふじ子や町で出会った伝道師の生き方に魅せられ、キリスト教をうけいれるようになる。
敬虔なキリスト教徒になった永野はふじ子と結婚を約束し、結納のために札幌に向かう。
塩狩峠での事故は、結納に向かう列車で起きたという設定にした。
三浦女史は病の為、著作の多くは口述筆記で仕上げられたが、「塩狩峠」はその最初の一冊であった。
「塩狩峠」のトビラには、三浦女史の希望で新約聖書の一節「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」が添えられた。
最近、この塩狩峠と非常によく似た出来事が長崎でおきていたことを知った。つまり「もうひとつの塩狩峠」である。
長崎のグラバー亭から15分ほど、長崎市郊外の時津町で、「打坂」と言うバス停がある。
このバス停の横に、小さな記念碑とお地蔵さんがならんでいる。
1949年、長崎自動車の当時木炭バスが37名程の乗客を乗せて、打ち坂を登っていった。
すると突然に、エンジンが途中で止まってしまった。
運転手がブレーキを踏んで、エンジンを入れなおそうとしたところ、ブレーキが利かない。
補助ブレーキも働かずギアもも入らず、3重のトラブルが重なってバスが後ろ向きに暴走し始めた。
当時は、運転手は当時21歳の車掌・鬼塚道男氏であった。
運転手が大声で、「鬼塚すぐ飛び降りろ!飛び降りて 棒でも石でもなんでもいい車止めに放り込んでくれ!」と叫んだ。
そして、鬼塚氏が飛び降りて、道の近くに落ちていたものを、どんどん車の下に放り込んだ。
しかし時すでに遅しで、バスには加速度がつき、止まる気配が見えなかった。
乗客は殆どが原爆症の治療の行く老人と子供が多かったが、 当時はガードレールなどがなく落ちれば全員が即死する可能性が高かった。
しかし、断崖絶壁まで4~5メートルのところでバスが奇跡的に止まり、運転手は乗客を誘導して近くの草むらに連れて行って、放心状態の乗客たちを座らせた。
全員がそろった時に、運転手が気づいたのは、車掌の鬼塚氏がまだ戻って来ていないということであった。
そして運転手は、丸太を抱いたような形で、バスの後車輪に飛び込んでいるのを発見した。
鬼塚氏はバスの後車輪に飛び込んで、自分自身が車止めになっていた。
乗客のみんなでバスを押し鬼塚氏を引きずり出したが、その時すでにおそく鬼塚氏は内臓破裂では亡くなっていたという。
戦後まもない1947年に起きたこの出来事は、誰に語られることもなく時が過ぎていった。
しかし長崎バスの社長がこの時の新聞記事を見つけて、こんな車掌がいたことを記念するために、1973年お地蔵さんをたてたのだそうだ。
現在、「打坂地蔵尊」とよばれている処である。

ところで、「夕あり朝あり」「塩狩峠」を書いた三浦綾子自身にも、今回の題材「よく似た二人」のにピッタリの体験がある。
1964年、北海道で雑貨屋を営む、42歳の平凡な主婦にすぎなかった彼女のデビューは衝撃的であった。
時あたかも高度成長期の幕開け、朝日新聞主催の新聞小説の懸賞小説を、処女作「氷点」で獲得したのだ。
当時、テレビドラマ化された「氷点」は、視聴率40%を越える驚異的なブームを巻き起こした。
旭川の新聞記者の娘として生をうけた三浦綾子であったが、彼女の青春期は戦争とともにあった。
生真面目で思いこむと一途な性格ゆえに、軍国主義の色に染まった綾子は、わずか17歳で小学校の教師となり、少年少女に命がけで天皇中心の軍国教育を授けていくことになる。
しかし、それまで綾子が築き上げてきた人生が崩れ落ちる瞬間が訪れた。
太平洋戦争敗戦をむかえたのだ。
かつて教えていた教科書に黒線を生徒に引かせていく虚しさは耐え難いものであった。
信じ切っていた価値観がもろくも音を立てて崩れ落ち、ついに三浦女史は教師を辞職した。
信ずべきものを失った虚無感を抱えながら、自暴自棄の生活に身を投じていく。
どうでもいいという気持ちで二人の男性と「二重婚約」してしまった。
そんな投げやりな思いを抱きつつ一人の男性と結納を交わしていた席上、三浦女史の体に異変が起こった。
死にいたる病「肺結核」を発症していたのだが、それさえもどうでもいいという気持ちだった。
いっそのこと罰せられたい思いがあったのだという。
突然の入院後にも酒を飲みたばこを吹かすが、そんな時、病床に前川正という男性が訪れた。
三浦綾子の幼なじみで、クリスチャンであった前川正は、彼女をナントカして助けようと現れたのである。
三浦氏は次第に心を開くようになっていったが、前川氏自身も結核に冒されており、病魔にその命を奪われることになる。
再び底知れぬ虚無にとらわれ始めた三浦氏であった。しかし、前川氏と「瓜二つ」の男性が、三浦女史の前に現れるのである。
それが夫となる三浦光世氏であるが、「冬のソナタ」ほどではないにせよ、要するに「フイにそうなっちゃった」のだ。
。 前川氏の後を引き継ぐように綾子女史と心を通わせるうちに、13年間も彼女にとりついた結核が「奇跡的」に回復に向かい始めたのである。
そして綾子36歳の時、三浦光世氏と結婚した。
三浦女史はその後も様々な病との闘病を余儀なくされたが、夫は三浦氏の口述を筆記し多くの著作が出版されていった。
それは、「二人三脚」の結実といってよい。
その文学は多くの人に「救い」とまではいかなくとも「勇気」と「励まし」を与えるものとなったのは確かでしょう。