あるエコノミストの死

民主党政権は発足当初より定期的に内閣府主宰の「マーケット・アイ・ミーティング」を開いてきた。
この「マーケット・アイ・ミーティング」は、主に長期金利・株・為替動向やマクロ経済政策、雇用政策などについて民間エコノミストなどからヒヤリングを行うもので「政策の機動性」を高めようとするネライがあると思われる。
菅直人首相が副総理・国家戦略担当相当時の2009年11月5日には勝間和代氏が登場し、「まずはデフレを止めよう」と題したプレゼンテーションを行った。
勝間氏の若年雇用を大きく改善する提言はあまりに大胆なもので、菅担当相は「魅力的」としながらも日銀はとうてい受け入れないだろうと納得はしなかった。
勝間氏はプレゼンの中で、「日銀の白川総裁はデフレスパイラルではないという認識だが、現状はデフレスパイラルだ」と政府・日銀の認識の甘さを指摘し、デフレ対策として、政府と日銀が政策合意を結び、「インフレターゲット政策」を行うことを提案し、国債を発行しそれを日銀が引き受けることによりマネーサプライを増やすことを提案した。
それに対して、菅担当相はカネがないのではなく知恵がないのであり、カネを使わないで需要が増える方法を考えたいと最後まで勝間氏とは距離を置いたという。
以上の話は、新聞報道のアラマシであるが、そのおよそ5カ月後の2010年4月10日、当時内閣府で主任研究官をしていた岡田靖氏が心不全の為に亡くなった(享年54歳)。
実は、勝間氏が提案した主張は日本では「禁じ手」といわれる政策なのだが、あえて「ゆるやかなインフレ」を起こすように経済を誘導すべしとしたアメリカのノーベル賞・経済学者ポール・クルーグマンの主張を日本に適用しようとしたものであった。
しかし、クルーグマンの「インフレ誘導」という言い方は日本では印象が悪すぎたため、「リフレーション」という用語が使われた。
そして、この立場を日本で鮮明に打ち出し推進しようとしたのが長く民間エコノミストにあり、当時内閣府の主任研究官の立場にあった岡田靖氏であった。
そして、勝間氏の「常識はずれ」にも思える主張の背景には、岡田氏ら「リフレ派」の主張があったのは明白であった。
勝間氏は菅氏らへのプレゼンに先立って、よく利用しているツイッター上で「政策への署名」を募った。
特設アカウントをフォローしてもらう形で募り、わずか1日で2300人以上もの署名が集まったという。
分かりにくい金融政策について、多くの人からこれだけの「署名」が集まるのは異例なことであった。
これだけの署名が集まった背景には、前述の岡田氏がマスター的存在となって「銅鑼衣紋」(ドラエモン)の名でネット上の掲示板に「啓蒙的な書き込み」を続けていたこととは無関係ではなかった。
勝間氏は偶然にもドラエモンの大ファンであったことも、岡田氏との「奇縁」のようなものを感じる。
ある新進の経済学者は当時こうした動きをブログで取り上げ、専門家を超えて関心を集めたことに対し「歴史的な政策転換」への出発点となるのではないかと期待していた。
その勝間氏は、心不全で急死した岡田靖氏に次のような追悼文をネット寄せている。
「リフレという言葉を作ったのは石橋湛山先生ですが、”リフレ派”という言葉を作ったのは岡田靖さんだったそうです。
岡田さんは悲願である日本のデフレ脱却を見ることなくこの世を去りました。さぞかし無念であったろうと思います。残された私たちは、全力で日本のデフレ克服に向けて力を合わせていきたいと思います」と。

「リフレ派」は、1929年の世界恐慌後に先述の「禁じ手」とされる政策で深刻なデフレを克服した高橋是清蔵相らの政策を現代のマクロ理論で解析している。
そして勝間氏のツイッター上の「特設アカウント」には、高橋是清の肖像写真のアイコンが使われていたという。
そしてネット上で見つけた岡田氏の論文「長期不況克服はマクロ経済政策によって可能か」の中に、次のような記述を見出すことができる。
「高橋財政は、新発国債の日銀引受という今日では財政法で禁じられている非常手段を採用したが、それによって日本経済は未曾有の危機から救い出されたし、世界に先駆けて大恐慌からの景気回復を実現させたのである。
しかし、 二・二六事件により高橋は暗殺され、彼の生み出した財政金融政策のメカニズムは、もっぱら非生産的な軍事費の捻出のために利用され、急速にインフレを昂進させていってしまうことになった。
つまり、強力な金融緩和政策の採用に反対する人々の主張は、高橋亡き後の高橋財政に対する批判としては正しいものの、高橋財政自体への妥当な批判であるとは考えにくいのである。近い将来に日本で軍事独裁政権が樹立され、止めどもない軍事支出の拡大が起こると予想する理由が、筆者には全く思いつかないからだ。
むしろ、昭和恐慌に至る過程で繰り返された失敗にこそ、教訓があると 思われる。つまり、不良債権問題と割高の為替レート、緩やかとはいえ進行するデフレといった問題を放置し、その一方で財政緊縮を強行することが、どれほど危険なことだったかを知るべきなのである」と。
この最後の言葉、銘記すべし、ですね。

ところで最近まで「デフレ」の深刻さと危険性についてよく知らず、インフレと同じようにデフレにもいい面があるからぐらいに思っていた。
ところが最近NHKニュースで特集された「ジャパン・シンドローム」、即ち戦争やウイルスや飢饉以外で大幅な「人口減」という歴史上どこも体験したことのない局面に直面する日本経済にとって、中途半端な「景気浮揚策」などではとても追いつかないことを痛感させられた。
雇用がなければどうにか結婚しても子供はつくれない。子供が作れなければさらに人口が減る。人口が減ればさらに内需を生み出すことができず雇用が減って行くという「少子化」のスパイラルに陥ってそれがデフレを深刻化させるということだ。
また、デフレは円高を招くので、企業はその生産拠点を次々に海外に移すことになる。
つまり、中国の廉価で優秀な労働力を求めて次々と中国へ製造拠点を移している。事態がこのまま進展していけば、日本の製造基盤がボロボロになった時点で、中国は突然、通貨である元の大幅な切り上げをすると、製造能力を失った日本では中国から高い製品を買わざるをえなくなる。
「元の切り上げ」は中国の輸出に不利になるにしても、ドル建ての借金が減額することになり返済が楽になるという側面もある。
となると、日本は石にカジリついてでも製造業の基盤を国内に残していかなければならない。
一般に、商品の値下がりは、その商品に対する購買意欲を掻きたてる。
しかし、デフレーションすなわち「一般物価の継続的下落」は、購買力を刺激するのではなく「需要の縮小」を引き起こす。
値段が下がれば買おうという気持ちが働くよりももっと下がって買おうということになり、あいかわらず需要の増加つまり消費や投資の増加に結びつかないということである。
その点で、インフレの時には人は早め早めに買おうとするのでむしろ購買意欲は旺盛で需要の拡大をもたらす傾向がある。
だから経済は、「緩やか」ならば「インフレ基調」の方がうまくいくのである。逆にデフレになると色々なものが「機能停止」に陥る。
それゆえにインフレとデフレは「逆方向」のものとして「パラレル」に論じることはできないということだ。そのことを岡田氏らは早くから警告していた。
例えば日本では、銀行がお金を貸す時に土地を担保に取り、それによって初めて貸し出しができるという、いわば「土地本位制」というのが機能してきた。
しかしこれは土地の価値がある程度維持(上昇)されていることを前提としてなりたつものである。
土地の値段が暴落すると、担保を処分しても融資を回収できなくなるために機能を停止してしまう。
これが不良債権の正体であり、不良債権がいまだに増え続けえいるのは、不動産価格が継続的に下落しているからである。
「インフレ基調」に戻さない限りこれは正常に機能しないということである。
また物価が下がっているときは、企業にとって金利はゼロであっても実質的な負担は増すことになり、借金を返せない企業がつぶれていくことになる。
物価はある程度上昇し、金利もプラスになっていないと企業も困るし、年金生活者も困るということだ。
また、デフレーションはカネ回りの悪さ(経済の動脈硬化)を引き起こすことを通じても「需要の縮小」を引き起こす。
一般に「金融商品」とはリスクと収益がつくものであり、人々はその組み合わせによって資産を保全しようとする。
実は「お金」(キャッシュ)は、リスクゼロ、収益ゼロの特殊な金融商品とも考えられる。
そして重大なことは、デフレ時に「お金」はもっとも有利な金融商品と化すのである。
地価も株価もどんどん下がっているため、大量のキャッシュを握っている人は土地や株に投資しようとは夢にも思わない。
つまり土地や株よりもキャッシュのほうが高利回りの金融商品なのである。
だからデフレが進行すれば人々はお金を「握り締め」手放そうとはしない。
お金が回らないから、政府がマネーサプライを増加させても、それが景気上昇になかなかつながらないという事態が生じるのである。
しかし一旦人々の心理が「インフレ期待」にフレルと、お金が回りだす。お金を「握り締め」ておくよりも、株を買ったり債権を買ったりするほうが有利だからである。
そして実際に、お金が回り始めるとそれが次々と「有効需要」となり景気が上向きになっていくということである。
経済は人々の心理によって動く。何より大切なのは「インフレ期待」に持っていくことだ。
それには、政府が「デフレ終結」のための意思表示を強く宣言することである。
今のように何もいわず(逆に責任は問われない)にお金をずるずる印刷すると、お金ジャブジャブになっても人々の「インフレ期待」へと転じさせることができない。
政策当局の役員の首を差し出すぐらい覚悟で「デフレ退治」の意思を高らかに宣言した上で「インフレ何パーセント」実現の意思をに明確にする態度こそが第一である。
以上がおおまかな「リフレ派」の主張であるが、戦後紙幣を印刷しての国債の「日銀引き受け」は大インフレを引き起こした。
また、石油ショックの時代に「狂乱物価」がおきたせいか、特に日銀には「インフレ誘導」にはアレルギーがあるに 違いない。
アメリカのクルーグマン教授が90年代に提言した「今こそ日本はインフレを起こすべき」は衝撃的であったが、とうてい日本の政策当局の受け入れるとこととはならなかった。
しかし、金利もこれ以上下げられない。財政赤字もこれ以上は無理ならば、「インフレ誘導」を明言し金融の量的緩和を続けることを明確に提示すること以外には「デフレ脱出の方法」はないのかという気もする。
紙幣を印刷しての国債の日銀引き受けが「劇薬」ならば、マネー・サプライを増加させる方法として日本銀行が定期的に行っている国債の市場からの買い入れ(買いオペ)を一定のルールに基づき大規模に行うなどが考えられる。

アメリカでグールドマン教授が唱えた「インフレターゲット論」は、インフレがある水準を超えたらそれを抑止するように、あくまでも「マイルドなインフレ」に留めておこうとするものである。
そのため、買戻しがすぐにできる国債や外為を売買するという手法で行う。
しかし日銀が物価をある水準まで「引き下げる」という宣言はあったが、今までに「引き上げる」と宣言したことはない。
その意味でも「リフレ派」の主張は常識に反している。
しかし、「デフレスパイラル」をこのまま引き放置しておくより、まずはインフレ誘導により「機能停止」から脱出するのが先決である。
確かに、景気を浮揚ではなくインフレを起こせというのは、伝統的な考え方からすれば「異常」といえるかもしれない。
しかし、異常な政策を考えなければならないほどに日本は危機的な状況にあるということである。

個人的な話だが、岡田氏とは同じ研究室で2年間過ごす幸運に恵まれた。
とはいっても、学生当時は同じ年齢なのに世の中になんでこんな優秀な人がいるんだと落ち込むばかりであった。
卒業後も新聞や雑誌でしばしば「岡田靖」の名前をさがした。それほどの存在だった。
内閣府主任研究官の時に昨年亡くなったが、民間のシンクタンクでも多くの業績を残されてきたようだ。
岡田氏の訃報に接した指導教官の岩田規久男教授は新聞(夕刊フジ)に次のような追悼文を寄せている。
「1979年10月、太くよくとおる大きな声で、豊富な経済学知識を背景に意見をいう人に出会った。修士課程の学生とは思えず、どこかよその大学の先生か博士課程の院生かと思った。彼は経済学だけでなく、政治学、社会学、歴史などにも詳しく、まさに博覧強記で、私は多くのことを彼から学んだ。その岡田さんも大学の就職には恵まれず、ようやくこの9月からある大学に就職する予定だった。その矢先の急逝で、無念この上ない」
その他ネットの追悼文には、「岡田さんはびっくりするほど鋭く,あまりに(学問的に)潔癖で,呆れるほどに完全主義,そしてシャイな方だったため一般に名を知られることはなかった氏ですが,20年にわたって間違いなく日本の経済論壇のキーパーソンの一人でありつづけた方」というものもあった。
岡田氏がマスターとなった感のある「苺経済板」は2001年から04年冒頭ぐらいにかけて非常な活況を呈した。
もちろんその背景には、小泉=竹中構造改革、そしてなによりも速水優総裁下の日本銀行の政策があったという。
要するに日本の経済危機に多くの人々が不安を抱き、その不安の解消を求めて、ネットの世界を漂流していた。そして少なくない人たちが「苺経済板」にたどり着いていたのだ。
そこで既存メディアで喧伝されていることとはひと味違う見解を示し論じていたのが、銅鑼衣紋こと岡田氏であった。
少なくともネット上では、岡田靖=ドラエモンによって、日本に「リフレ派」が確固たる存在に育っていった。
岡田氏は、経済指標に関しても、実況アナ顔負けの情報収集を行っており、これは証券会社系研究所や外資系証券会社の調査部で、長年働かれた経験によって磨かれたものだろう。
「デフレを甘受し、成長を前提としない経済システムを考えよう」という若者の発言に対して「この世には、大学を出ても仕事のない若者、働こうにも保育所がない母親、介護施設もなく社会的入院を余儀なくされる高齢者、等々が沢山いる。経済が成長しなくて、これらの人々をどうやって救済するのか」と一喝した。
岡田氏は膨大な掲示板への書き込みを残した。検索によるとその数は2万件に迫り、「24時間エコノミスト」とも評さたという
そこにはまた、デフレが超長期化した末の日本の国土の崩壊を描いていた。
なぜそんなに「リフレ」を一生懸命やるのかという問いに、「自分の子供にはミジメな思いをさせたくないから」と答えている。
岡田氏の「昔の風貌」がそのまま伝わってくるような言葉であり、いまだにその死が信じられない。