余りに原理的な

以前、アメリカ先住民のアパッチ族のリーダーであるジェロニモの写真を見た事がある。 土産物屋さんの気のいいオジサンという感じだった。
しかしこのジェロニモは、ジョン・ウェイン(役)率いる騎兵隊と戦った当時の闘争心あふれたジェロニモの写真ではない。
それは、アメリカ軍に敗れ降参し土地を与えられて穏やかに暮らしていた当時のジェロニモの写真である。つまり、「それからのジェロニモ」である。
この写真の背景は詳しく覚えていないが、準観光地化された土地でいわば「見世物」となって、余生を過ごしたジェロニモの姿は、なんとも悲しい。
このたびのビンラディン氏殺害の作戦は、「ジェロニモ作戦」と名付けられていた。
作戦名からすれば、まさか「見世物」にしないとしても、「生け捕り」ぐらいは狙っていたのか、それともそうでもないのか。
そんなことより、またもアメリカの「深層部」が奏でる、あの「リフレイン」が聞こえてきた気がする。

しばしば「アメリカ対イスラム原理主義」といわれる。この言い方にアメリカがすべてのイスラム教徒を「敵」とするわけではないということを明らかにしている。要するにアメリカの敵はあくまでイスラムの一部であって、それが「原理主義」といわれるものだ。
しかし、そもそもの「原理主義」の「本家」はイスラム教徒ではなく、アメリカの方なのだ。
アメリカはイギリスにおける宗教改革が「不徹底」であるために、ヨーロッパからアメリカへと移民してきたピュ-リタンよって「建国」された。
彼らが改革を「不徹底」と感じたことに「原理主義」の根本がある。そして、ピューリタン達は旧きを捨てさって「新世界」という「ビジョン」を描きうるだけの信仰者であることを忘れてはならない。
宗教改革の主人公の一人であるマルチン・ルターは、「純粋な聖書の世界、使徒達の時代へと回帰せよ」と語り、ヨーロッパで蓄積されてきた「中世の神学」を否定した。
それは「回帰すべき根本の宗教原理」を指しており、これこそが「原理主義」(=|ファンダメンタリズム」)の先駆けである。
ところが最近のイギリス国教会におけるロイヤルウェディングで、カンタベリー大司教の前でウイリアム王子夫妻誓い合う姿をみても、「カソリック」の権威主義を免れるものではないことが、よく見て取れる。
結局、神様と自分との間に何の「隔て」ももちたくない、教会からイチイチ指図は受けたくはない、純粋な信仰を持って同じ信仰をもつ兄弟と「神の国」を建設がしたい、そう思ったのがピューリタンである。
彼らは真摯に「神の国」を実現すべく「未知の大陸」に渡ってきたほどの人々だから、並々ならぬ信仰を抱いてきた人々なのだ。
その視線の向こうには、カルバンがジュネーブで目指していた様な「政教一致」、ちょうど今の「イスラム原理主義」が目指すような「神権政治」があった。
ということは、アメリカの建国者達こそが、「原理主義者」なのだ、ともいえる。
ところで独立後の合衆国憲法では、啓蒙的なジェファーソン達にによって「政教分離」が定められたのだが、これはむしろ宗教(信仰)を政治の「世俗性」から擁護するためであり、その逆ではない。
そして建国当初のピューリタン性は、「見えざる国教」として、つまり「原理」として沈潜する。
そしてアメリカという国はこの「原理」が、社会が大きくブレる時などに、「間歇的」に表面化する国なのだ。
今日のキリスト教のファンダメンタリズム(原理主義者)は、ルターのいう「使徒の教会に戻る」というよりも、進化論を否定するなどして、聖書の言葉を「文字どうり」解釈する人たちだが、それにもどこか無理があってホコロビやすい。
建国のピューリタニズムは進化論やフェミニズム、合理主義など現代的思想との対決を余儀なくされ、自由主義(リベラル)的な方に向かった。
そして、キリスト教の使命はただ一つ「神の愛」の実践のみで「社会奉仕」こそが信仰にとって最重要である、などといった神学思想までもが生まれた。
1910年代に、こうしたリベラルな解釈や動きに対して、ロサンゼルスで聖書研究所をたてた人物によって、建国ピューリタニズムの中核思想を「再確認」するかのような内容が、「諸原理」というパンフレットにまとめられた。
そしてこれが300万部も印刷され、全米の教会や神学校に無料で配布された。
このパンフレットのタイトルこそがイスラムにも適用され、「原理主義」という言葉が一般化したのである。
しかし、今日のアメリカの行動を「世界的」に見た場合に、建国ピューリタニズムの「深層」からノミとらえるのは、充分ではない。
アメリカには、ユダヤ教徒だって、カソリック信者だって「新天地」を求めて移民してきているのだから。
アメリカが総体として「奥深く」共有している「何か」、つまりコンピュータのおける「OS」にあたる部分を構成しているのは、それに限られるものではない。
それが、このたびの作戦名「ジェロニモ」にリフレインされているように思えて仕方がない。
「マニフェスト・デスティニー」というリフレインが。

アラブとユダヤ(イスラエル)の確執が続いている。イスラエルの背後にはアメリカがある。
何しろアメリカ上層部と資金源からすれば、アメリカは「ユダヤ人国家」なのだ。
もともと、ユダヤとアラブは同じ神を信仰し、一方はヤ-ウェとよび他方はアラ-とよんでいる。
同じ神を別の名で呼ぶなんてと思うかもしれないが、ヤーウエは「在る」という意味で、アラーは「The God」という意味だから、決して「固有名詞的」ではないので、それほど気にすることではない。
ガブリエルという大天使がムハンマドに語ったことをまとめたのがコ-ランだが、この大天使ガブリエルはキリスト教ではマリアへの「受胎告知」の有名な場面で登場する。
エルサレムはユダヤ教では聖なる都、キリスト教ではイエスの十字架の死と復活の聖地、イスラム教ではモハメッドが幻となってユダヤの神殿の上に現れ昇天したという聖地、となっている。
パレスチナは、ユダヤとアラブそれぞれが神に与えられた土地と主張する。
長年離散しユダヤ人が留守にした土地に大戦後イスラエル国家ができ、ユダヤ人がアラブ人を押しのける形で住み着き、「パレスチナ難民」が生まれた。
確かに何世紀も留守にしておきながら、3000年以上も前の「証文」をだしてきて、我々の土地だと主張し建国を正当化する、イスラエル側および支援国もかなり横暴な気がする。
結局パレスチナは国連の介入でユダヤ人居住区とガザ地区などパレスチナ人(アラブ人)居住区と分けたが、地図を見るとまるで「市松模様」のように入り組んでいて、この「居心地」の悪さでは疑心暗鬼を生み、テロが頻発するのもわからないではない。
このアラブとイスラエルは、聖書によれば、アブラハムの二人の妻・サラとハガルという女の戦いに淵源している。
聖書は、ハガルが生んだ子イシマエルの子孫すなわちアラブ人に対して次のように預言している。
「彼は野ろばのような人となり、手はそべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵してすむでしょう」(創世記16章)
この預言はアラブ人に向けたものだが、「一族」と袂を分かって長く洞窟に住み、世界に弓をひくカタチとなったオサマビンラディンその人に、ピタリという感じもしないではない。顔もロバに似ているし。
ところでアブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、「自分の子」が欲しいというサラの切なる訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
ちなみに「イサク」とは、笑っちゃうほど高齢で生まれたので「笑う」という意味、つまり「笑ちゃん」である。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子はイジメラレル番で、結局追い出されるハメになるが、 荒野をさまようハガル・イシマエル母子をも神は見捨てない。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)
ハガル・イシマエル母子は、流れ流れてメッカに移り住む。
そして彼らの国民はアラブ国家となり、イサク・ヤコブと続くユダヤ人国家つまり今日のイスラエル国家と、時に共存し、時に激しく対立してきたのである。
実はテロの心理の中には、「人種差別」が あるのだが、深層に「奴隷ハガルの子孫」というのが、絶対にあると思う。
メッカの地は現在サウジアラビアであるが、そのサウジアラビアのリヤド生まれたのがアルカイダの首領であるオサマビンラディンである。
オサマビンラディンは、サウジアラビアでモスク建設を一手にひき受ける建設会社を経営する大富豪の下に育ち、52人の子供の中で17番目の子として生まれた。
その母親は第十一夫人であるが、若い頃は他の富豪の息子達と同様に、ベイル-トなどのバ-やナイト・クラブに夜ごとに現れ、湯水のように金をつかって西欧文化の自由と享楽を味わった。
しかし親譲りの事業であるモスクの修復事業に関わるうちに「魂の更新」を経験したという。
アラ-を身近に感じ「敬虔な生活」をしようと思うなか、イスラム原理主義者との交流が増えた。
ところで、サウジアラビアという国は、ワッハーブ派による改革によって生まれた国であるが、その改革とは今日の「イスラム原理主義」を生んだ宗教改革なのである。
つまりワッハーブ派は、預言者ムハンマド以後の教義はすべて原点から逸脱した教えであり、預言者時代の純粋なイスラームに回帰せよ、との主張を声高に叫んだ。
イスラムの始祖「ムハンマドの原点に戻ろう」とするもので、カソリックに対峙した時のマルチン・ルターの主張「使徒の教会に回帰せよ」によく似ている。
ワッハーブ派は、西欧的な近代化を行うイスラム勢力(エジプト)、またイスラーム聖者や聖地に対する「偶像崇拝的信仰」に対して激しい敵意を示した。
そしてリーダーであるイブン・サウードは、ワッハーブ派の「原理」をとりいれることによって勢力を拡大させ、1803年から5年かにかけてメッカ、メディナを占領して「ワッハーブ王国」を建設した。
その後エジプトとの戦いに敗れて、ワッハーブ王国は崩壊するが20世紀にはいって、イブンサウードの末裔が王国を再興し、「サウジアラビア」を建国したのである。
ところで1975年サウジアラビアのファイサル国王がアメリカ帰りの狂った甥に殺害されるにおよび、多くの若者が「西欧の腐敗」を痛感した。
そして、人間が腐敗から逃れる道は、「イスラム原理主義」に立ち返る他はないという「思い」を強く抱くようになっていった。
折しも1979年イランでホメイニが親米のパ-レビ政権を打倒したのは原理主義者を勢いずかせた。
そして、ホメイニ革命の浸透を恐れたアフガニスタンにソ連が侵攻するにおよび、アフガニスタンにはソ連と戦おうという「イスラム戦士」が数多く集まった。
父親の飛行機事故による死で、オサマは「莫大な財産」を相続したが、アフガニスタンにむかうことで一族の事業とは完全に袂をわかつことになったのである。
そして オサマはイスラム戦士の中で単なる「資金源」ではなかった。
最前線で勇敢に戦うオサマの姿は多くのイスラム戦士の尊敬を集めるようになる。
タリバーンにその存在を受け入れられどころか、「カリスマ」となったオサマは、資金力と組織作りの力量を活かし、多数の戦闘的原理主義者をアフガニスタンに集めた。
ところで「タリバーン政権」とはソ連のアフガニスタン侵攻の際に、パキスタン北部に逃れた難民となった若者達がキャンプ周辺のイスラム教原理主義の神学校に通い育った集団である。
タリバーンは「神学生達」という意味で、アラ-のためには命を惜しまないジハ-ジスト(聖戦主義者)の集まりなのだ。
そして、パキスタンの地と原理主義のツナガリもそういう経過によるものだ。
彼らはアメリカの武器をうけてソ連と戦ったのだが、「作戦の主導権」までは決して渡すことはなかった。
そしてアフガニスタンの原理主義者は単にソ連を追い返すだけではなく、純粋な意味での「イスラム国家」建設つまり「神の国」建設を目指した。
それ故に、ソ連撤退後はアメリカが「イスラム原理主義」の最大の敵となったのである。

さてアメリカ原理主義の話に戻ろう。
アメリカの深層部で、ピューリタンのみならず「共有」しているものがある。それはアジア系の先住民族を追い出してそこに住みついたという「罪責感」である。
アメリカ建国がピューリタンならば、その「罪責感」はナオサラであろう。
ジョンウェインの映画では、騎兵隊があくまで「正義の使者」のごとく描かれていたのは、そういう「罪責感」の裏返しといってよい。
もうひとつアメリカ人の感情の複雑は、「黄禍論」つまり黄色人種によって復讐されるというオノノキとしても現れる。
それがフィクションでは「猿の惑星」であったり、現実社会では「トヨタ・バッシング」として表面化したりする。
アメリカでは自らの意思で政府を作り上げる過程で民主主義、自由にもとづく資本主義経済を生み出した。
西部開拓を行く幌馬車隊は、平均200名程度で、出発時に「規約」をつくり、各部隊から「代表者」を出して、徹底した「合議制」のもとで旅を続けた。
見知らぬ個人同士が、共通の目的のために対等な立場で協力しアメリカ的デモクラシ-の伝統は、こうした厳しい歴史的体験から生まれたものだ。
以上が「光」の部分だが、反面で「闇」の部分もある。
自分達がアジア系先住民を殺害をして国づくりをしたという「逆トラウマ」みたいなものが消えない。
あの大国にして清教徒的「原罪」ゆえか、宿痾のように付きまとっている不安なのである。
そこで、アメリカ人の行動は、この罪責を打ち消して余りある「高い使命」に裏打ちされていなければならない。
それが、「マニフェスト・デスティニー」なのだ。
「マニフェスト・デステニー」とは、アメリカが太平洋岸まで発展することは、神から当たえられた「明白の使命」なのだということである。
しかしそれはもともと、アメリカ西部開拓について言われたもので、あくまでも「ロ-カル」なものだった。
しかしそれがいつのまにか「グローバル化」し、軍事力を中東にまで展開している。
アメリカは、社会主義国家とのイデオロギ-対決の過程で、多くの移民を自由や民主主義などアメリカ的価値観のもとで統合して勝利し、今や「グロ-バリゼ-ション」の名の下にアメリカ的価値を世界に広げようとしている。
こうした「明白な使命」のグローバル化を強く後押ししているのが、ユダヤ人の勢力で占める「ネオ・コンザーバティブ」(新保守主義)である。
ネオコンは中東政策における「強硬派」で、「ユダヤ王国」完全復興のビジョンをもっている。
そして、アメリカ的価値である産業主義・商業主義などを強硬に拒絶している「最後の牙城」が、イスラム原理主義に他ならない。
実はキリスト教原理主義者は、ユダヤ人のイスラエル帰還と建国(1948年)を、きたるべき「千年王国」の前兆とみなしており、その側面からは「シオニスト」ともよばれる人々なのである。
シオニストがネオコンと「合従」したのが、今日のアメリカの「対外的意思」であり、その上に「ジェロニモ作戦」が計画されたということだ。
以上ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、つまり「啓典の民」が微妙な(?)信仰のズレを背景に、それぞれの「世界ビジョン」を実現すべくセメギ合っているのが「今日の世界」である。
漂うばかりの日本からすれば、余りにも「原理的」な話ではある。