近江の星

1945年8月15日ポツダム宣言受諾(敗戦)、8月30日マッカーサー厚木基地到着、9月27日マッカーサーと天皇の会談と続いた。
しばらく間をおいて、翌年1月1日天皇の「人間宣言」の詔勅が発表された。ただし、詔勅に「人間宣言」という言葉はなく、マスコミがそのように表現したにすぎない。
すなわち天皇の「人間宣言」とは、天皇は人間を「超越」した存在(現人神的存在)ではなく、国民に信頼され国民と共に歩む存在になったというぐらいの意味である。
微妙なオトシどころで出来た「人間宣言」だったのだが、こういう「天皇観」の背景には、近江(滋賀県)でメンソレータムを売りつつキリスト教の伝道をしていた一人の「宣教師」の存在があったことは、最近明らかになったことだ。
ついでにいうと近江の地が、現在原発事故の被災地である福島県、すなわち会津と歴史的に深い関わりを持つことはあまり知られていない。

幕末、戊辰戦争に敗れた会津藩の人々は、賊軍として青森県南部の「斗南」という不毛の地に「強制移住」され、塗炭の苦しみを味わいながらもそこを開拓し生き延びた。
そういう「強制移住」の体験と今日の原発避難の体験とを重ね合わせてみれば、この地域に住む人々はヨクヨク苦しみを味あわねばならぬ「星の下」に生まれたのか、とカナリ「気の毒」に思えてくる。
実は私個人的に「会津」に心魅かれてきた人間なのだ。今まで国内旅行して一番インパクトをうけたのが「会津若松観光」で、その気持ちがあったために以前「アイヅ・ユニバース」と題してページに書いたことがある。
会津人は閉鎖的で融通が利かない人々なのかと思いきや、意外にもユニバーサルな面をもち合わせた人々が多くいることに気がついたからである。
そのページには1900年に義和団事変で諸外国をまとめた指揮官の役割を果たした柴五郎大佐、第一次世界大戦後に国際法を遵守しつつドイツ人捕虜を遇した板東捕虜収容所の松江豊寿をあげた。
また「白虎隊の精神」はイギリスで誕生したボーイスカウトの精神に生かされていることや、現代では国際的に活躍するフラメンコ・ダンサーの長嶺ヤス子についても書いたことがある。
しかしこういう会津の「ユニバーサリティ」はどこに由来するのかと思っていたら、会津が琵琶湖の東部で活躍した「近江商人」との関係が深いことを知った。
実は多くの著名な商人群像を輩出した近江の地は、戦国時代には大名・蒲生氏氏郷の領地であったが、蒲生氏郷はその後に伊勢松阪に転封となり、さらに福島県会津へと「転封」となっているのだ。
その際に名だたる「近江商人」をも連れて行ったのである。
ここに東北の盆地である会津という閉鎖的な地に「新しい血」または異なる「メンタリティー」が入り込んだことになる。
それでいくと、伊勢松阪の繁栄にせよ、蒲生氏郷が連れてきた「近江商人の存在」をヌキにしては考えにくいのかもしれない。
さて京都からJRで50分ほどで、琵琶湖の東岸すなわち名古屋寄りの地である滋賀県「近江八幡駅」に到着する。
近江八幡には、豊臣秀吉の弟・豊臣秀次の城下であるが、それよりも甲子園常連校の八幡商業高等学校の方がナジミがある。
八幡商業は、その卒業生にはソウソウたる名前がつらなる。
宇野宗佑( 内閣総理大臣)/伊藤忠兵衛 (伊藤忠商事社長)/永井幸太郎 (日商岩井創業者)/塚本幸一( ワコール創業者)/川瀬源太郎(日本生命保険社長)などなどである。
つまり地域の経済人というスケールをはるかに超えた人々なのである。
そして、この学校に英語教師としてやってきたウィリアム・メレル・ヴォーリズという人物がいた。
もともとは建築家として夢を抱いて学んできた人で、後にこの八幡商業高校の校舎の設計をも行っている。
ところでこの人物は、「近江兄弟社」というのを設立して薬品であるメンソレータムの輸入販売をして大きな収入を得た。
しかし、その収入の大部分を伝道活動や、「日本初」の私設結核療養所である近江サナトリウム(現ヴォーリズ記念病院)の設立などに投じたのである。
若年層はあまり知らないかもしれないが、「メンソレータム」はかゆみ止めなど皮膚につけるもので、商標となったマスコットキャラクターとして「リトル・ナース」は懐かしいものである。
現在は、その「商標」の使用権は近江兄弟社を買い取った「ロート製薬」が独占的に保有しているという。
そして、このヴォーリズという人が、日本で一番優れた「商人」を生み出した土地にやってきたということにも「見えざる意思」が働いたとも思えるのである。
ところで近江人の「開明性」は、商業に従事するうちにますます開けていった側面が強いと思われる。
近江から近い若狭湾にある敦賀港の存在は、近江人の商魂を北へ向かせるに充分であった。
実際に北海道・松前藩からイリコの長崎への売りこみを頼まれた近江八幡の西川伝らは18人と共同出資して、北海道産物の一手販売をやり成功した。
また、北海道(蝦夷)へ進出した近江商人は実にアイデアに富んでいたといってよい。
幼稚な漁業しかやっていないのに目をつけると、資本をもちこんで漁具を与え、新しい漁法を教えて生産の促進にも貢献した。
いわゆる「場所請制度」を作り、松前藩の財政にも大きな影響を与えた。
ところで、「近江商人」とヒトマトメにするが、さらに細かくわけると八幡商人、日野商人、五家荘商人に分けられる。
そうした近江商人の群像は、高島屋・大丸・西武百貨店・伊藤忠商事・丸紅・トーメン・ニチメン・ヤンマー・三中井百貨店・日清紡・東洋紡・東レ・日本生命・ワコール・西川産業・武田薬品と一流企業の「創業期」に名を連ねている者が多い。

こういう「近江商人」のスゴサを語るうえで、近江の地が大消費地の京都に近く全国的な情報を入手可能な延暦寺領荘園(得珍保)を拠点としたことあげられる。しかしそういう「地の利」だけでは説明できない「何か」があるように思われる。
それは当時世界最高水準の「複式簿記」を考案したり、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店を積極的に開設するなどした点にも見られる「マインド」あるいは「魂」の部分である。
しかし興味があるのは、こういう近江の「商魂」はどのようにして育っていったかということだ。
実は近江商人の成功の秘訣は、その「哲学」またはそれに基づく「人材」の育成がシッカリしていたということが一番大きいように思われる。
まず丁稚奉公にでる志願者は、近江商人の本家で妻があずかって、雑用をさせ行儀見習いを教えながら、根性のある人物かどうかを評定し採用を決定した。
店へ得ると二十四時間働かされ、手代から番頭にまで昇進する制度の中で、近江商人の商魂は鍛えられた。
10年も20年もかかって年期をおさめて一人前の商人になったという。
また近江商人の哲学に「三方よし」というのがある。
要するに「売り手本位」の商いを禁じるという厳格な経営理念のことであり、徹底した「利他」の商売哲学なのだ。
近江から各地に展開した「出店」で働く従業員は家族を近江に置いてきているので、「商い」を通じて他者に奉仕し、社会から求められ、頼られる存在になっていくことが商売の成功の秘訣であり、また彼ら自身の心の支えになっていたのである。
顧客や地域社会を第一に考える「利他」の経営を貫くことで、組織も強くできるとして、近江商人たちは度重なる不況にも屈せず、永続する企業集団をつくり上げた。
つまり「三方よし」は、「売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし」のことで、そこには「企業の社会的責任」のキザシが見られる。
次に「始末して、きばる」という哲学がある。
つまり、「薄利」でも永続する究極の「ロー・コスト」経営のことである。
近江の言葉で「始末する」とは、ものをムダにせず倹約することで、「きばる」とは本気で取り組むことである。
つまり、「倹約を心掛け仕事に精を出す」ことをいっている。だからといって、始末とケチを混同してはならないことをも戒めている。
ケチはお金を使うのを惜しむことで、時には必要な投資までを手控えたり、周囲に無理を強いたりすることであり、これに対して「始末」は、持てるものの効用を最大限に使い尽くすという意識のことを指す。
代表的な近江商人の1人は、「売りて悔やむは商人の極意」を家訓としており、売った後で悔やむくらいの「薄利」で売ることが、ひいては取引先との「絆」を深め「商売の永続」につながると考えていた。
それは徹底した「始末」の意識に基づいたものだといえる。
近江商人が勢力を拡大した江戸の後半期は、飢饉や財政の逼迫などによる度重なる不況に見舞われた厳しい時代だった。
そんな状況の中で生き抜くためには、徹底して贅肉をそぎ落として強固な財務体質をつくり上げる必要があったのだ。
また代表的な近江商人の1人である初代伊藤忠兵衛は、「利真於勤(利は勤むるに於いて真なり)」という言葉を座右の銘にしていた。
真の利益とは、「地道」に商いに励んだ結果として得られたものだけだ、ということである。
投機的な売り買い、買い占め、売り惜しみなどによる相場の操作、相手の弱みに付け込む強気の商いなどは禁じていた。
つまり、小手先のテクニックや他人に無理を強いることで儲けても、結局は「信頼」を損ねて家業長久の妨げになると考えていたのだ。
また、利益の「正当性」にコダワアルのは、近江商人全般に共通している。つまり、利益を見るときには、「結果」である数字を評価するだけではなく、どのようにして儲けたかというプロセスを重視していた。
安易な利益追求に陥らずに、「ビジネスの本道」を踏み外さないことを常に心掛けていたということだろう。
だから、人材(=奉公人)を見極めるのも、単純な実績主義を採らず、正直であることや周囲への心配りができることなども重視していた。
たとえわずかでも、モラルの綻びを放置すれば、信頼という財産はたやすく崩れてしまうことを、近江商人は自覚していたといえる。
そのこととも関連するがユニークな「押し込め隠居」という方式である。
近江商人は、組織の存続を危うくする不心得な経営トップを「罷免」する厳格な「企業統治の仕組み」を持っていたのだ。
それが「押し込め隠居」という制度で、先代や親族そして経営幹部などで作る取締役会が合議して決定すれば、強制的に経営権を「返上」させることができたのだ。
こうした考えの根底には事業を「永続させよう」という強い意思だったといえる。
そのためには、会社を私物化することなく、 後継者に対しては常におごりや慢心を戒めていたのである。

1905年2月2日、近江八幡駅のホームにウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人青年が降り立った。
この24歳の青年はYMCA本部から宣教のために日本に派遣され、八幡商業高等学校の英語教師として着任した。
着任した八幡商業高等学校は、近江商人たちの多額の資金提供によって開校したばかりの学校であったが、ヴォーリズは、英語教師のかたわら自宅でもバイブルクラスを開き、多くの生徒たちが集まるようになった。
その中には、「フォークの神様」とよばれた岡林信康の父親もいて、ヴォーリズに心酔して牧師となっている。
しかし、地域の人々のバイブルクラスへの反発もあって、ヴォーリズは来日してわずか2年で教師を解任されてしまう。
ヴォーリズはそのまま日本に留まり、キリスト教の伝道をしながら、本来の専門である建築設計の実現のために事務所を開いた。
ヴォーリズの設計で最も有名な建築は、数多くの文豪に愛された東京の「山の上ホテル」である。
1931年、日米関係は最悪の状況になり、暗雲が立ちはじめたが、ヴォーリズは日本への帰化することを選び、「一柳米来留」(ひとつやなぎ・めれる)と改名した。
しかし青い目をした一柳米来留は、戦時体制の影響で建築事務所も解散させられた上に、「スパイ容疑」をかけられ、日本人の夫人とともに軽井沢でひっそりと暮らしていた。
それはとても辛い時期だったに違いなのだが、太平洋戦争が日本の敗北で終わった頃、突然にヴォーリズの運命(もしくは日本の運命)を大きく「転換」するような舞台へとヒキダサレルことになる。
1945年8月30日、厚木基地にマッカーサー元帥が降り立った。
日本に進駐してきたマッカーサーは、天皇を「戦犯とすべき」第一人者と考えていた。
そんな緊迫したなか、元首相の近衛文麿の「密使」が軽井沢のヴォーリズのもとへ向かった。
近衛からヴォーリズに伝えられた要請とは、「天皇陛下の件について、マッカーサーと話し合いたいので、その場を取り持ってほしい」というものだった。
ヴォーリスは、その要請の意味の重大さをすぐに理解することができた。日記に「鉄を流し込まれる思い」と書いているほどだ。
そして、このときに少佐から、マッカーサーが「戦争犯罪者」としての天皇の処遇を思案中であることを聞き出した。
そしてヴォーリズは何とか天皇を守らなければならないと「ある案」を考えついたのである。
それが、天皇自身が神ではなく人間であることを認め、天皇を神秘的世界から解放し、日本国民とともに歩んでいただく、ということであった。
この考え方ならば、キリスト教を神とする連合国側の宗教観と対峙することなく、「妥協点」を見出すことが出来ると考えたからである。
さらに9月12日、ヴォーリズは近衛に会い、天皇が「日本の象徴」として「人間宣言」をするというアイデアを提案をすると、近衛はその提案に満足げに受け入れたという。
ヴォーリズは、信仰者として「またしてもそのお導きがすべてを支配するべく、神は目を注いでおられたのだ」という感慨を抱く中、翌9月13日に、マッカーサー元帥と近衛文麿の会談が本当に実現したのである。
それから2週間後の9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問した。
天皇は自らの命を捧げる代わりに日本国民の「生命」の救済をマッカーサーに頼んだ。
「マッカーサー回顧録」によれば、マッカーサーは、天皇が命乞いに来たものと思っていたが、その国民を思う真摯な態度に打たれ、天皇の戦争責任を不問にすることを決意した。
それどころか「日本国の統治において天皇の存在は必要不可欠」と考えるようになったと言われている。
1946年正月、陛下はいわゆる「人間宣言」をしたが、この裏にはヴォーリズの天皇を守りたいという一心からの「働き」があった。
しかしながら、ヴォーリズは1964年に84歳の生涯を閉じるまで、一切そのことを口にしなかった。
1983年10月31日東京新聞が「終戦直後に、天皇とマッカーサー元帥の会見のためにヴォーリズが大きな活躍をした」という記事を報じて、そのことが世に知られることになった。
それは、ヴォーリズの当時の日記や夫人の証言などから次第に明らかになった事実に基づくことであった。
ヴォーリズは近江商人が作った学校の英語教師からスタートし、メンソレータムを日本で広め、文豪に愛されるホテルの建築設計を行い、そしてキリスト教の宣教師であり、「天皇」を守った人であった。
「近江の星」というタイトルではオサマリきれない存在なのかもしれない。