政治的動物

パンダが40年ぶりに日本におくられた。 動物がここまで国民の注目を浴びる現象は、ほとんどない。しかも政治的なニオイを漂わせながら。
実際、国民の心情的レベルで「尖閣列島沖での衝突」の傷が、これで癒されるのなら、これほど有難いことはない。 結局、パンダは物言わぬ「親善大使」の役割を果たすことになる。
日本の歴史をひもとけば、これほど衆目を集めた動物というのはパンダがはじめてではない。
1728年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、「発注し」取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
ゾウに称号が与えれたコト自体が「政治的」香りがするが、この象を天皇に「拝謁」させることに、幕府方(徳川吉宗)が天皇方に対する「親朝廷」対策の意図があったとすれば、この象は「政治的動物」ということがいえる。
拝謁した象は前足を折って頭を下げるなどの仕草をし、天皇はその感銘を和歌にも詠んでいる。
実はこの時期より少し前の新井白石が行った「正徳の治」の時代、幕府は朝廷側に「閑院宮家」の設立を許すなどの「朝幕関係」の融和政策を行っていたことを付言しておこう。
この象の「発注」主は徳川吉宗であるが、「享保の改革」を行った8代将軍としてよく知られ、「米将軍」とよばれていた。
入試問題でTV番組のタイトル「暴れん坊将軍」の誤解答で有名になった将軍だが、とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した人物であった。
それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みたりした。
また、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
また酪農も推奨し、珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。
とはいっても「生きた象」が日本に渡来したのはこの時が初めてではなく、5回目であったという。
ただ、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたという点で、従来の場合とは異なるところである。
歴史にのこる最初は、1408年で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着した。孔雀2対などと共にインドゾウが献上されたとある。
吉宗が招いた象も1730年6月には早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、「浜御殿」で飼われたという。
もちろん、相当な飼育費がかかったと推測されるが、1741年4月、江戸中野村の源助に「下げ渡さ」れ、見世物になった。
翌年暴れまわって騒ぎを起こすなどしたこともあり、この年の末には21歳の波乱の「ゾウ生」を閉じた。
「官位」までも頂き天皇謁見の栄誉に与った象ではあったが、末路は寂しいものだった。
ただ象がやって来たのが江戸の大衆文化の勃興期にあたり、歴史上これほど多くの人々の目に「さらされた」点で、この象の上に出るものはいなかった。
中国からやってきたこの象は、様々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野にも題材を提供し旋風を巻き起こしたのだ。

2011年2月、中国から引渡しされたパンダはいずれも5歳のオス・メスの「ツガイ」のパンダであった。
5歳といえば、人間で言えば20歳前後の若いペアで、アツアツである。
この引渡しについては、二つの点で意外な感じがした。ひとつは「レンタル」で貸し出された点で、もうひとつは、その「レンタル料」の高さである。
パンダは、中国が「友好の契り」として外国に贈呈するという中国外交のシンボルであり、そういう意味で「政治的動物」ともいえる。
1949年に中国が建国した後、同じ社会主義の友好国ソビエトや北朝鮮にパンダが贈られていた。
その後、1971年、中国が国連に加盟した後は、今度は、西側との関係改善に乗り出し、アメリカやイギリス、フランスなどにもパンダが贈られた。
また日本にも、1972年の国交正常化の年に、カンカンとランランが贈られ、その後も、フェイフェイ、ホアンホアンなどがやってきた。
ところがパンダ人気が世界に広まるにつれて、逆に「貴重な動物だから保護すべきだ」という声が強まり、稀少動物の取引を規制するワシントン条約によって、パンダの輸出ができなくなった。
つまり18年ほど前から、中国はパンダを外国に贈ることができなくなったのだ。
ただ、繁殖などの研究のためなら外国に貸し出すことが認められているため、「繁殖のためのビジネス」という形で、パンダが外国に「レンタル」されるようになったのだ。
今回のパンダ引渡しのそもそものきっかけは、三年前の2008年、上野動物園に飼われていたパンダ・リンリンが亡くなり、動物園が寂しくなったため、たまたまその翌月に来日した胡錦涛国家主席に、日本政府が、新たなパンダの「貸し出し」を求めたのである。
交渉の結果、2010年7月に、「10年間のレンタル契約」が結ばれ、日本側はレンタル料として年間95万ドル、およそ7800万円支払うことになったのである。
レンタル料が高いかそうでないかは、いろいろな考えが成り立つが、中国が高いレンタル料を取るのは「野生パンダの保護」のためだそうだが、そう考えると高いとばかりはいえない。
野生のパンダは、中国だけに生息し、数もわずか1600頭程度しかおらず、絶滅の危機にさらされている。
レンタル料は、そうした野生パンダの保護活動や、人工繁殖を行う保護センターの活動経費として使われるという。
特に、2008年5月に起きた四川大地震は、野生パンダの生息地域や保護センターに甚大な損害をもたらしました。その復興にも莫大な費用がかかった。
今回来日した二頭のパンダも、四川大地震という恐怖の体験を乗り越えてきたのだ。
パンダは、それが送られるタイミングに「政治的な意図」が含まれていると考えると、「政治的動物」といってよいのかもしれない。
つまり、去年秋、日本の尖閣諸島近くの領海で起きた漁船衝突事件の後、さらに高まった日本人の対中国不信感を少しでも和らげたいという「政治的思惑」が中国側にあった事は間違いない。
中国は、去年までの「強気な外交」がかえって中国に対する国際社会の反感を招いたことから、最近、ソフトな外交に方針転換したといわれている。
中国外務省の報道官は、今回のパンダのレンタルについて「両国国民の友好の使者となることを期待する」と明確に述べている。
アメリカを公式訪問した胡錦涛国家主席は、ワシントンの動物園に10年契約で貸し出しているパンダのレンタル期間をさらに5年延長するという、アメリカ国民向けの「お土産」まで持参した。
お金をとって貸し出すとはいえ、中国政府にとってパンダは今なお外国との友好を演出する「政治的な利用価値」がある摩訶不思議な動物なのだ。

北九州の門司港は、地理的に中国大陸に近いことから国際貿易港として発展してきた。
日清戦争から「前進基地」としての役割を果たし、多くの将兵や弾薬、食料、「軍馬」などを数多く運んできた。門司港のすぐ近くには「馬の水飲場」の遺跡が残っている。
また、この門司港対岸の下関の彦島に牛馬の牧場があり、そこに「検疫所」がもうけられていた。
この牧場をもうけたのは、日本の牛乳屋では先駆的な「和田牛乳」である。
そして、この和田牛乳と和田一族には、日本の近代史と共に歩いた家族史があり、一人の「女優」の誕生もその小史の一コマとして存在している。
和田牛乳は、徳川慶喜に仕えた幕臣であった和田半次郎よって創業されたものである。いわゆる「士族授産」の一環として誕生したものであった。
当時、五十を過ぎていた和田半次郎がたまたま住んだ所に、オランダ人に乳牛を学び日本で始めて牛乳製造販売を行っていた前田留吉という男に出会い、その感化を受けた。
さらに半次郎は西洋医学者で初代陸軍軍医総監の松本良順らによる「牛乳が健康に良い」という奨励などあり、「牛乳の需要」が伸びると見込み乳牛業をはじめた。
ちなみにこの松本良順が、日本で最初の海水浴場を大磯につくった人物である。
和田家は日本における牛乳業の「草分的存在」で日本で最初の「低温殺菌牛乳」をつくった一族として知られている。
秋葉原駅近くの旧二長町に牛乳本店とミルクプラントをもうけ、後に北千住などに牧場をもっていた。
二代目和田該輔(かねすけ)の長男の輔(たすく)が後を継ぐべく期待されたのだが、あまりの風来坊気質でとうてい乳牛業にはむかず、輔の弟である重夫が和田牛乳・三代目となっている。
この重夫が日本初の「低温殺菌牛乳」を生んだのである。
ところで、東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。
和可菜は、いわゆる「カン詰用」の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
NHK大河ドラマや山田洋次・浅間義隆の共同執筆による「男はつらいよ」シリーズ35作から最終作は実はここで書かれている。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり「木暮実千代」として知られた女優である。
とはいっても、実質的な経営は、つまの妹である人物が行っていた。
木暮は当時、出演していた映画「源氏物語」から「若菜」という名が思い浮かんだらしく、和田の和をいれて「和可菜」としたという。
木暮は、和田牛乳の「三代目」と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、「三代目」に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくったのだ。
そして、これが「下関彦島検疫所」となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も「政治的」な関わりをもつことになったのである。
つまりここでは、動物と政治が「軍国主義」の台頭という形で結びついていたのであり、そこに「下関彦島検疫所」が存在したのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は「下関生まれ」で山口の梅光学院を卒業した。
東京にでて明治大学を受験しとようと願書を出しにいったところ、締め切りを過ぎていたことが判明した。その為に、帰り道に日大芸術学部に願書を出したところ、合格してしまった。
木暮にもどこか、父親の風来坊気質と似通ったものがあるのかもしれない。
そして日大芸術学部の学生時代に、その「美貌」が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったのである。
木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にイトコで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
和田日出吉は、新聞記者として牧場視察のためウイスコンシン州などを回ったが、結局は「牧場経営」には全く関心を示すことはなかった。
ただし、新聞記者としては一流で当時の政財界を揺るがした「帝人事件」を題材にした小説「人絹」を書き、一躍「時の人」となっている。
また、たまたま首相官邸前を歩いている時、国家をゆるがす大事件に遭遇し、「226事件、首相官邸一番乗り」のスク-プ記事を書いて勇名を馳せたこともあった。
さすがに和田一族だけあって、何か「動物的カン」のようなものが働くらしい。
和田日出吉は後に満州にわたり「満州新京日報社」の社長になり、そこに妻の木暮も呼び寄せて、満州映画協会の甘粕理事長の青酸カリによる自殺に際しては、その死の現場を見届けている。
傍らには作家・赤川次郎の父親である新聞記者・赤川幸一もいたという。
ただ木暮美千代という女優が必ずしも「和田牛乳」の広告塔になれなかったのは、絶えず病との闘いであったこともあったのかもしれない。

ところで昭和40年代に「和田式健康美容法」で知られたのは、この和田一族の一人である和田静郎氏であった。
和田静郎氏は、麻布獣医学校出身で、競馬用の馬の世話には毎日バランスのとれた餌、適度の運動、マッサ-ジにより血行を良くすることなどにより常に一定の体重を保持することが重要であることを知った。
そこで静雄が考案したのが「すらりとやせる和田式美容体操法」で、これが一世を風靡する。
実践者の内から「ミス日本」が生まれさらに大ブレイクするのだが、ただこの美容法が実は「馬の痩身術」からアミダサレたものであったことは、一族以外は知る者はいなかった。
そしてこの和田牛乳も戦争という事態に抗うことが出来ずに、ついには「明治乳業」に合併されている。
ところで近年、牛乳などの乳製品は西洋人の腸には分解する能力が十分備わっているが、日本人の腸にはそれが備わっておらず、牛乳は必ずしも健康にいいとはいいきれないという研究結果が出されたことを知った。
そこで思い浮かべたことは、戦後日本の「学校給食」のことである。
終戦直後、日本は餓死者が1000万人でるといわれるほど食糧事情が悪かった。しかし庶民は、闇米によってどうにか露命を繋ぐことができた。
そして、日本は遅滞した農業生産を回復させようと食糧増産計画を開墾や干拓を一生懸命にやってきた。
ところがGHQから思わぬ提案がなされた。
これからは食糧増産よりもアメリカの「余剰産物」を買いなさい、売った分のお金はそっくり返してあげるから、それで「軍備」を整えなさいというものであった。
日本政府にとってそれはけして悪い話ではなく、むしろ歓迎すべき話であった。
日本政府はこの提案(相互安全保障法=MSA協定)をそっくり受けいれ、農作物購入の返還金で自前の防衛力を整備し、同年7月に陸・海・空の三軍による「自衛隊」が発足した。
さらに興味深いのは同年、学校給食法が制定され、パン食を導入し、アメリカの小麦や粉ミルクを消費するようになったのである。
我々の世代が、鼻をつまんで一気のみした脱脂粉乳や、皮が嫌いで中身だけクリヌイて食べたコッペパンなど「学校給食の思い出」は、実は米軍の「占領政策の転換」と結びついていたのである。
つまるところMSA協定をもって日本は食糧と軍備の悩みから解放されたのだが、もともと占領政策で「日本の無力化」を狙っているアメリカだが、1950年以降日本に「再軍備」と並行して日本人の「胃・腸の再編」も行ったことになる。
もしも、アメリカの目論見どうりに日本人の「胃・腸」の構造が変わったというのならば、戦後の日本人こそマサニ「政治的動物」であったといえるのかもしれない。