管理者パニック

大震災後、被災者の沈着冷静で礼儀正しさが世界のメディアに伝えられ賞賛を浴びる一方で、政府の原発事故についての「対応の遅れ」「情報の秘匿」、さらには「責任逃れ」までも、世界から批判を浴びている。
「政府」がある部分、国民を映す「鏡」であるとするならば、「民」におけるスバラシサと、「官」におけるナサケナサを、一体どう説明したらいいのだろう。
「二種類」の日本人がいるのだろうか。
最近、本屋で「災害ユートピア」なる本のタイトルを見かけたが、タイトルだけもその内容はある程度推測できる。
災害直後に「ユートピア」が出現するというのは、明治時代に生きた幸徳秋水がサンフランシスコ大地震に遭遇した体験談に、そういうものがあったことを記憶している。
幸徳秋水が命を賭するほど夢見ていた「ユートピア」がソノ時ソコにあったというのだ。
実は「災害ユートピア」という本を書いたレベッカ・ソルニット女史は、サンフランシスコ在住のノンフィクション作家なのだそうで、1906年(明治39年)のサンフランシスコ大地震についても多くふれている。
ところで、幸徳秋水が当時なぜサンフランシスコに行っていたかというと、日本で社会主義者への弾圧が強まるにつれて遙かサンフランシスコに渡る者もいて、サンフランシスコは一時日本の「社会主義革命」の拠点となる雰囲気さえあったのだ。
しかしそこまでならなかったのは、孫文が東京を「中華革命の拠点」としようとしたのと比べてみても、サンフランシスコはあまりに日本と遠すぎたことは否めない。
ともあれ、幸徳はサンフランシスコ大地震にあい、あれほど念願した「ユートピア」が出現されるのを目の当たりにした。
社会主義者が未だに成し遂げ得なかった「革命」を「自然」はワケナク実現したが、そこには夥しい犠牲が横たわり、私有財産や貨幣価値が「無効」となったが故に生じた「平等な世界」でしかなかったわけだ。
だから、災害からの「復興」は、皮肉なことにその「ユトーピア」からの離脱を意味するものであった。
今、世界のメディアが賞賛する日本の被災者の秩序だった姿は必ずしも「日本人の美質」なのではなく、ある部分で人間の「普遍的」な姿が表出したものにすぎないのかしれもない。
レベッカ・ソルニット女史によれば、大災害が起きると、秩序の不在によって暴動、略奪、レイプなどが生じるという見方が一般にあるが、本来的には、災害のあと被害者の間にすぐに「相互扶助的な共同体」が形成され、「利他主義」が支配するのだという。
それが混乱に陥ってしまうのはそこに「別の力」が作用するからだとした。
レベッカ・ソルニット女史はその例を、サンフランシスコ大地震をはじめとする幾つかの災害のケースに見いだしており、専門家の間でそれは充分に承認されているのだという。
しかし、国家の災害対策やメディア関係者はこれを必ずしも認めていない。
アメリカの「パニック映画」を見ていると、必ずといっていいほど、「自分だけ助かればいい」というような者がいてデマを流したりするが、救出をする側の敵は「災害」そのものよりも、そういう秩序の撹乱者との戦いこそが「映画」の主題となったりしているのが多い。
昔みた「タワーリングインフェルノ」にせよ、比較的最近見た「タイタニック」にせよ、そうであった。
しかしこうした災害のイメージは、必ずしも正確ではなくサンフランシスコの大地震でもニューオーリンズのハリケーンによる被災でも、被災者の間および外から救援にかけつけた人々の間で、「新たな共同体」がすぐに形成されたのだという。
では、何が「混乱」をもたらしているのかというと、意外にも「政府官憲」が原因となっているものが多いというこである。
混乱の実態は、「必要」以上に「特定」の集団の暴動を恐れた政府官憲が、意図的にデマを流して「封じ込め」をハカッタ結果起きることが往々にしてあるのだそうだ。
サンフランシスコ大地震では、市長が軍と警察に「略奪者の即時殺害」を通達したり、2005年のハリケーン・カトリーナの際ですら「暴徒」の乱入を恐れて近隣地域は橋を武装保安官で封鎖し、威嚇射撃でニューオーリンズからの避難民を追い返したとという。
そして、サンフランシスコにおける死者のかなりの部分は、「暴動」を恐れた軍や警察の介入による火災や「取り締ま」りによってモタラサレタものだという。
そういえばテレビで、火災があった時の被害は、火炎よりも消防車の放水による被害の方が大きいらしく、アメリカでは消防車より先に駆けつけて家具等を運び出すサービスさえあるというのを聞いた事がある。
さらに災害時には、略奪とレイプが起こっているという「噂」がとびかい、被災者の黒人が軍、警察、自警団によって閉じこめられて、大量に殺されたりもする。
こうした「噂」や「風評」の出所がクセモノなのだ。
日本における関東大震災で、大量の朝鮮人虐殺がおこったし、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻の殺害は大正期の世情を「暗く」賑わしたのだある。
日頃、イタメつけて(差別)しているからこそ、非常時にソノ報復を恐れるという面があるからなのだろう。
日本の官憲は、1919年3・1独立運動で7500人もの朝鮮人を殺害したために、「報復」を恐れるにたる「充分な理由」があったわけだ。
しかし阪神・淡路大震災が起きた1995年では、関東大震災のようなことは起こらず、ボランティアをも含んで「分け合う」「助け合う」姿は、「ボランティア元年」とさえいわれるようになった。
政府がヘタな介入サエしなければ平和裏にコトがすすむのだ。
だから阪神神戸の時のように、「政府対応の遅れ」がかえって、「相互扶助的」な「共同体」を自然発生的に生じさせたりするのだ。
1906年のサンフランシスコ大地震で被災した女性が公園で始めたスープキッチンが瞬く間に協力者が次々と現れて皿や調理道具、食材が集まり200~300人規模になっていった。
東北でも、被災して店を流された料理人が、食材を集めて熱い味噌汁を皆にふるまうシーンが見られた。
つまり災害によって、人間は「ホモ・コントリビューエンス」すなわち「貢献人」だる本性をアラワす。
「遊び中間」ではなく、「貢献仲間」が生まれるのだ。
ただ東北の大震災が阪神神戸のと違うのは、「放射能」によって身動きがとれない部分があって、現状の生活があくまで「暫定的」ということが、「コミュニティ形成」への動きの鈍さとなっているのではないだろか。
つまり「政府の救援」が俟たれる部分も大きいが、こうした自然な「共同体」を少しでも「日常化」できる方向で救援ができたらいいと思う。
人々が仮設住宅に入って、自殺者が増える傾向があるのは、あまりにヤルセない。
そして、たとえ災害時における「相互扶助」体験がアワク、ハカナイものであったにせよ、人々に「生きる価値」を教え、その後の生き方を変えうる体験であったりもする。
それは、他人とつながりたい、他人を助けたいという欲望がエゴイズムの欲望より深いという事実を開示するからなのかもしれない。
つまり災害は、人心を荒廃させるとはかぎらず、新たな社会や生き方を「教え」導く機会にもなっているということだ。

ところで今、日本政府にのしかかっている「主な負担」とは、次のようなものである。
現在、日本の財政赤字の累積は先進国最悪で、国と地方の借金残高は本年度末に891兆円、GNP比で184%になる見通しだ。
その一方で、急ピッチで進む少子高齢化の下、社会保障制度をどうするかが問題だ。
また東日本大震災では、復興10年で23兆円かかるというのが発表された。
更にはB型肝炎訴訟の和解金調達も国に重くのしかかることになる。
消費税は10%をこえる水準になるだろうが、これから日本国民が受けられるサービスは、「税金」にツリアウほどあるとはトウテイ思えない。
となると、従来の国家と個人の関係にばかり依存して生きるのは、昨今の「政治の貧困」からしても無理ではないかと思う。
社会保険料たくさん払っても、老後年金が「小遣い」程度にしかならないのをわかって、だれが真面目に社会保険料を払い続けるだろうか。
そんな時代がやってくるというより、スデにやってきている。
ところで、非常時になぜ「官」はダメなのか。「菅」が居座っているからなのか。そうとばかりはいえない。
「災害ユートピア」のソルニット女史は、「エリート・パニック」というコンセプトで説明しているが、これを一応「管理者パニック」と訳すことにする。
多くの人々は「利他的」になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず「思いやり」を示す。
しかし、中には他の人々は野蛮になるだろうから、自分はそれに対する防衛策を講じる必要あると信じる人々も少なからずいるに違いない。
こういう人は往々にして「持てる人」すなわち「失うものが多い人々」なのだ。 こういう人々のデマや風評が人々を混乱に陥らせるのだが、それよりハルカに重大なのは「管理者層」のパニックなのだ。
国家による秩序がある間、政府をオソレカシコンデ暮らしていた人たちは、秩序がなくなったとたん、たちまち別の自生的な「秩序」を見いだす。
また、政府の無力をいいことに、日頃の不満が爆発し、「社会革命」につながることもある。
災害は、政府への要求を何倍にもするが、一方で経済を解体し、政府の組織や管理や道徳的な欠陥をアバキダス。
そして新しいグループを台頭増大させ、既得権益を奪いとることもある。
管理者層の間では、災害の直接的被害を受けなかったにせよ、こうした意味での「心理的」動揺が広がることになる。
管理者層自身がパニックに陥ると、大衆が「暴走」することを防ごうと、自身の「弱み」を隠蔽したり、極端な場合には、銃を向けようとサエする。
管理者層のパニックは、民衆のパニックより恐ろしいかもしれない。情報を操作することも容易で、大きな力を行使できる立場にあるからである。
「災害時」というわけではないが、、私が思い起こすのは日米安保改定の際に国会を民衆にとりか困れた際の岸信介首相の「反応」である。
日本でも安保をめぐる政治闘争が最も激しさを増した1960年6月、国会周辺を30万人の人々が取り囲んだことがあった。
この時に東大の女学生が機動隊ともまれ死亡するにおよび、人々は参議院の承認を経ないままに新安保の自然成立へともちこもうとする岸内閣への怒りを高めていった。
この時、岸首相は、警察隊ばかりではなく「自衛隊の投入」を強く主張した。
しかし、防衛大臣の赤城宗徳は「自衛隊を出したら、同士撃ちになり、まちがいなく自衛隊は国民の敵になる」といって反対した。
この時もしも、赤城宗徳氏が自衛隊投入に強く反対しなかったならば、国会議事堂周辺は大量の流血の騒ぎになり、1986年の中国の天安門事件と同様の事態が発生することになったであろう。
また自衛隊の憲法論争は、さらに違った形で展開していたかもしれない。
とすると、新安保成立の舞台裏で行われた赤城防衛大臣の自衛隊投入の反対は、「現代史の分岐点」になったといえる。
また、管理者パニックの別の側面をいうと、官僚機構や大規模な組織は、一定の「指揮命令」系統と分業体制によって成り立っている。
それが平時であれば、組織の円滑な運営の為に「必須」だとしても、非常時にはそれが「無効」であったり、「足枷」にななたりする。
そして、「管理者層」の「無能力」をアラワにする機会ともなる。
そこで自らの「無能」や「失敗」を隠す意味での「情報の秘匿」がおこなわれる。
もちろん、それが民衆のパニックを引き起こす可能性があるからでもあるが、パニックを恐れるあまり、情報公開を遅れさせ人々をかえって危険な状態に置くことになる。
スリーマイル島原子力発電所事故の際には市民は大した混乱もなく15万人が自主的な避難を行ったが、知事によって避難命令が出たのは原子炉底部の半分がメルトダウンする三十分前であったという。
つまり管理者は、民衆のパニックを何よりも恐れるあまり、情報を操作し民衆の生命をかえって危機に陥れる傾向があるということだ。
そもそも「危機管理」は平時とは異なる方式を準備しておくことだろう。
アメリカの911テロで多くの消防士が死んだのは、平時の「指揮系統」でやろうとしたためか、多くの死者がでたそうだ。
その為に、組織のトップと現場の消防士が直接結びつくようにしたという。
これはアメリカ軍ののイラクへの派遣で適用されることになった。
その結果、最近のアメリカ軍のイラクなどで見る軍事行動も、それまでとは全く異なるものになってきているらしい。
従来、国と国がぶつかりあう戦争では、軍隊というピラミッド型の組織が必要であった。
米軍最高司令官すなわち大統領を頂点とした組織の中で、上意下達の命令ですべて行動が決まった。
ところが9・11同時多発テロが発生した時に、このテの組織が全くといっていいほど機能しなかったために、新たな軍事戦略を構築することが急務となった。
そこでアメリカは、従来のピラミッド型組織を解体し、兵士1人1人が自らの判断で攻撃できるシステムを構築することになったのである。
このシステム変更への第一弾として、2001年10月8日に始まったアフガニスタン侵攻およびイラク進行で、小型衛星通信機を装備した兵士を投入している。
ペンタゴンが解析した情報を、組織の命令系統を経ることなく、直接、前衛にいる兵士1人1人におくり、情報を受け取った兵士は、上官の命令を待つことなく、自らの判断で行動できるようになったのである。
そうした情報が末端の兵士まで瞬時に共有できるようになったので、情報の把握、命令、行動、報告等かつて軍隊という組織の中で行われていたことが、兵士という「個人の中で完結」するようになったのである。
ただし、兵士同士の「互いの顔」が見えなくなったというのは、最近のアメリカの軍事行動の特徴となっている。
その兵士一人一人が小型核兵器や化学兵器などの大量殺戮兵器を携帯するようになったのである。
従来、上司の気質や互いの性格やなどを知りぬいた上ではじめて成り立つ組織的行動とは違い、そこには機能的に結び付けられた「顔のない」人々が中央解析の指令のみで動かされていく世界がある。
しかしこういう組織のあり方は、「管理者パニック」が直接的に各兵士に伝わるということにならないのだろうか。

エリートと呼ばれる人々は、基本的に現行の社会秩序を維持し、その上に権力を行使する立場の人々であるからして、社会的秩序の崩壊と、自分たちの「正当性」に対する挑戦を著しく恐れる傾向がある。
そして災害はまさにその両者が「同時に」彼らに襲い掛かってくる現象であり、「持てる分」だけ非日常的な状況に追いやられることになる。
だからこそ「管理者パニック」がおきやすい。
最近、経済産業省で「辞職勧告」をされた古賀茂明氏によれば、「津波の危険」はスデにいわれていて、原子炉建屋内に冷却装置を置こうとする案が出ていたそうだ。
しかし、それをやると先輩(前任者)がいかに「安全対策」をやってイナカッタことが判明するので、先輩を立てる意味でソレは取りやめになったという。
こういう「東電村」または「霞ヶ関村」のオキテ至上主義者が「危機管理能力」に欠けるのは、むしろ当然すぎるくらいにトーゼンなのだ。
アテにならないものをアテにするより、「新たなコミュニティ」の中で生きる道を模索する方がハルカニ賢い生き方だと、人々は思いつつあるかもしれない。
そのことをつくづく思わせるのが、官と民の「フルマイ」の格差なのだ。