震われぬ国

新約聖書で最も有名な箇所といえば、「マタイによる福音書」の五章の「山上の垂訓」であろう。
それは「幸いなるかな 心の貧しいもの 天国は彼らのものである」ではじまる。
確かに、心の貧しきものは、心を「神」で満たそうとする。神以外で満たされることはないくらい、十分に貧しいともいえる。
では第三訓、「幸いなるかな柔和なもの 彼らは地を受け継ぐであろう」の「地を受け継ぐ」とはどういうことだろう。
これは、とてつもなく大きな言葉である。
ところで、東北・関東の震災で、いくつかの町や村がマルゴト流されたり焼かれたりして、この世から消滅してしまった。
マルゴトだから、そこから救出を叫ぶ声を届けるスベさえなかったという、ムゴサを感じる。
そして、昨日と今日とのあまりにも大きな落差のこと。これから続く果てしなく長い復興への道ノリのこと、「目に見えない」放射能や発生するかもしれないウイルスとの戦いのこと、なども思う。
安否不明者の拡大とともに、高齢者の健康や水・食物への放射能汚染の広がりなど、いまだに「被害の全体像」がつかめないようだ。
しかも、テレビは人権などを配慮してか、本当の「悲惨」をいまだ伝えてはいないのだろう。
人間の命は、善人も悪人も、キンベンもタイダも、エライもエラクナイも、オチャメもゴーマンもすべて呑み込んでしまう。
つまり、人類は終局「同じ運命」にあるのだという聖書が示す結論を、アラタメテ思い知らされる。
ただ聖書が伝える、「世の終わり」のカタストロフィーからさえにも、救われた者達に対しての「脱出」のプロセスが用意してあることは、ほとんど知られていない。(こういうのを「奥義」という)
実は聖書の大テーマは、大災害からの「救出」または「脱出」でさえある。もっといえば「この世」からの救済である。
人によっては、一握りの人間だけが救われて何がイイのかと思うしれないが、聖書はそこに峻厳で厳かな「神の計画」があることを教えている。
一つの世界の崩壊は、「新しい世界」の誕生を意味するのである。
したがって「地を継ぐもの」とは、この新しい地を継ぐもの、という意味である。

旧約聖書では、ノアの洪水、ソドム・ゴモラの消失、出エジプトの過程で下る様々な災い、エリコの崩落、エルサレム陥落などがあり、そこから救出される一握りの人々、あるいは「家族」があるということである。
ノアの家族も、ロトの家族も、ラハブの家族もすべて「神の声」または「御使い」に導かれて、人々に逃れようもなく訪れたカタストロフィーを生き延びた。
それは「この世」の崩落から救出され「神の国」に入る、つまり「地を継ぐ人々」のヒナ形に他ならない。
イスラエルの2代目の王ダビデは、幾多の生死をわける「涙の谷」をとおり、それをいくつもの「詩篇」に表した。
詩篇は幾多の苦しみ、恐怖、悲嘆、などからの救いを魂の奥底から謳ったものであり、現代人が読んでも、その「言葉の力」は衰えをしらない。
人々を襲う「災い」という観点からすれば、詩篇91篇ほど(信徒にとって)大きな支えとなるものはない。
”//「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災いはあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
それは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである。
たとい千人があなたのかたわらに倒れ、万人があなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことがない」。//”
新約聖書にも幾多の災いに見舞われた人々が登場する。
パウロは、ローマの皇帝に弁明のために兵卒にともなわれて護送されるが、途中で嵐に見舞われる。
しかし、「神の導き」を知っていたパウロ一人、嵐の中で大揺れする船中で「平然」と振舞っていた。
使徒行伝27章にその経過は次のように書いてある。
”//パウロは言った。「だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使(みつかい)が、わたしのそばに立って言った、 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
.だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。// ”
実際にパウロがいうとうりマルタ島に打ち上げられるが、ローマの兵卒も船乗りも怯えきり、「囚人」から励まされるとは、なかなか面白い話の展開である。
またパウロは、マルタ島でヘビにかまれ、原住民から命運つきたか、いつ死ぬのかと恐る恐る見守られたが、「神の導き」の確証を握っていたパウロは、ヘビを払いのけ、なんら苦しむ様子も見せず、島民から反対に「神だ」と崇められる始末である。
この出来事は「マルコによる福音書」16章にある、次なるイエスの言葉を思いうかべる。
”//「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。//”
またパウロには、迫害のために獄屋に入れられたが、大地震のために獄屋の扉が開いてしまったエピソードがある。
この出来事の顛末は、「使途行伝」16章に次ぎのように書いてある。
"//獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかとかけておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。
ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。
獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。
すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
それから、彼とその家族一同とに、神の言(ことば)を語って聞かせた。//"
ここでも、パウロやシラスという囚人によって、獄吏の家族が救われるという、予想外の展開が起きているのである。
振り返ればパウロ自身、ステパノを殺すなど信徒を捕縛する側にあったのだから、その生涯の「大転換」も興味深いところである。
ところで、旧約聖書と新約聖書の違いは、前者が神の声や御使いに導かれ「救出」されるのに対して、後者が信徒の内に宿る御霊(聖霊)に導かれて「救出」されるということである。
つまり、イエスの十字架死後50日目(ペンテコステの日)に、天に昇ったイエスにかわって聖霊が下り、救われた者を「導く」ことを保証しているのである。
この保証は、「ヨハネによる福音書」14章に、イエスの言葉として次のように書いてある。
//"わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊(みたま)である。
この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰ってくる。 "//

ユダヤ人の歴史の中には、「敵の中に味方を見出す」ことにより難を逃れることができた「修羅場」がいくつもあった。
ユダヤ人の「民の離散」は、逆に、敵陣の中にも思いもよらぬ「味方」をマギレさせる結果になったのだ。
東西冷戦の終結、つまり「マルタ体制」は、西側と東側の両者にマギレこんだ「ユダヤ人」なしで、果たして実現できたであろうか。
旧約聖書には、そういうユダヤ人の「救済」を暗示させる物語(出来事)がいくらでもあるからだ。
2000年近く、国を失ってもユダヤ人が生き残ったのは、マトマッテ存在していたからではなく、世界各地にチラバッていたからなのかとさえ思われる。
弱小民族の場合は、カタマルよりチッタほうがかえってサバイバルできる確率が高くなるのかもしれない。
そういう「敵陣に味方あり」を示す代表的な話のひとつが、旧約聖書の「エステル記」である。
「エステル記」の歴史的背景を述べると、ユダヤ人は大国アッシリアやバビロニアによって攻められ多くの民が捕虜として強制連行され、ペルシア王国の領土内に「コミュニティー」をつくっていた。
ペルシア・クセルクセス一世の時代、彼はペルシアの首都ともなった歴史ある都・スサで王位に就き、その三年後に180日に及ぶ「酒宴」を開き、家臣、大臣、メディアの軍人・貴族、諸州高官などを招いた。
その後王はスサの市民を分け隔てなく王宮に招き、庭園で7日間の酒宴を開くが、王妃ワシュティも宮殿内で女性のためだけの酒宴を開いていた。
最終日に王はワシュティの美しさを高官・市民に見せようとしたが、なぜかワシュティは王の命令を拒み、来ようとはせず、王は立腹した。
さらに王は側近から、こうした噂が広まると女性達は王と夫をナイガシロにするという助言をうけ、王妃ワシュティを追放した。
そして王は大臣の助言により、「新たな王妃」を求めて全国各州の美しい乙女を一人残らずスサの後宮に集めさせた。
スサは紀元前500年頃から大きなユダヤ人コミュニティーのある都市だが、そこにモルデカイと美貌のエステルがいた。
エステルは両親を失い、イトコにあたるモルデカイが「義父」となっていた関係であった。
モルデカイはエステルを応募させ、エステルは後宮の宦官ヘガイに目を留められ王妃となり、誰にもまして王から愛された。
しかしエステルは、自分の出自と自分の民族つまり「ユダヤ人」であることは誰にも語らなかった。
王はエステルのために祝宴を開くが、その時モルデカイは二人の男が王を殺そうとしていることを察知し、エステルを通じてこれを王に知らせた。
その結果、王は難を逃れることができ、その男たち二人は処刑された。
一方、王の下での最高権力者ハマンは、宗教的な儀礼などで自分に従おうとしないモルデカイに対する恨みを抱くようになった。
そしてハマンは、ユダヤ人全員の殲滅計画をめぐらせ、王に「ユダヤ人」への中傷を王に繰り返し述べて、その計画を着々と進めていった。
そして、「くじ」で選ばれた日にすべてのユダヤ人を抹殺することが決定した。
これを聞いたエステルとモルデカイは悲嘆にくれ、そしてほとんどのユダヤ人は、自分達に訪れようとする運命を嘆くほかはなかった。
ところがモルデカイは養女エステルに言った。
「この時のためこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。
エステルはスサの全てのユダヤ人を集め、三日三晩断食するように命じ、その後意を決して王に会いに行く。
実は、王妃といえども王の身の安全をはかるため、「召し」無くして近づく者は、死刑に処せられることになっていた。
しかし、王は上機嫌でエステルとの面会を許し、エステルは王に最高権力者ハマンとともに酒宴に開きたいという旨を伝えた。
宴会の前日、なぜか眠れない王は、宮廷日誌を持ってこさせて家臣に読ませ、モルデガイがかつて「王の暗殺」を防いだ記録をはじめて知り、その「恩賞」さえ与えていないことを知った。
さて翌日の宴席で、エステルは王に、自分がユダヤ人であることと、ユダヤ人殲滅計画が存在していること、さらにその首謀者がハマンであることを伝えた。
その後王はハマンの計画を追及し、ハマンを柱にかけて処刑した。実はこの柱は、ハマン自らがモルデカイ殺害用に立てたものであった。
そして首謀者ハマンの死とともに、「ユダヤ人ホロコースト計画」は寸でのところで消滅した。
その後、王妃エステルの義父モルデカイは、処刑されたハマンの空席を埋めるかのように、ハマンの財産と地位を譲り受け宰相となったのである。
ともあれ、「エステル記」には、ある種の「神の流儀」を感じさせるような話である。
それは、不思議な「神の導き」により、ワシュティにかわってユアヤ人エステルが、ハマンにかわってユダヤ人モルデガイが、その地位をペルシア人王室の下で就くということである。
ユダヤ人ホロコースト計画は、この二人によって完全に消滅したのである。
聖書には、敵対する相手の陣中に味方つまりユダヤ人がいて、ユダヤ人を絶対の危機から救うというモチーフはいくつかある。
敵対するサウル王家に命を狙われたダビデは、サウル王家にヨナタンという友を得、何度が危機一髪のところで命を助けられている。
ユダヤ人でありながらエジプトの王子となって育ったモ-セがユダヤ民族解放(「出エジプト」)を果たす話や、兄達から疎まれ捨てられたヨセフがアラブの商人に拾われ、いつしか「エジプトの宰相」にまでのぼりつめ、飢饉のときにユダヤ人を救う話などである。
ユダヤ人が大国の興亡の狭間で生き延びたのは、そういう人智でははかり知れない、迂遠なる「神の導き」があったからである。
聖書全般の「主題」は、人に頼るな、神に頼れということであるが、その根拠は以上に見る如き「神の導き」に歩めということであり、旧約聖書にそれはアフレかえっている。
特に「詩篇」18篇は、マルチンルター作詞の賛美歌となり、あまりにも有名である。
"// 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐら。 //"。
そして「新約」では、神の導きは、前述のような「御霊の保証」にもとずくものである。
山上の垂訓の三番目の「地を受け継ぐ者」の地とは、「ヘブル人への手紙」12章に「震われぬ国」としてもあらわされている。
”//あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨(みむね)を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
あの時には、御声(みこえ)が地を震わせた。
しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。
わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。//”