異議申し立て

政治家の失言で閣僚が辞任というのは今までもあったが、就任当初からの辞任が続くというのも珍しい。
これからまた「任命責任」の追求とやらで、大切な時間が奪われていく。
震災の復興大臣にせよ、原子力の主管省庁でもある経済産業省の大臣にせよ、キーポスト就任早々の退任だから「戯画」っぽい。加えて、ガキっぽい。
国民は「あきれている」とは思うが、繰り返し政治的「不快電流」が流されっぱなしで、マットウな感覚が失われていくような気もする。
各家庭にヒックリ返し用「ちゃぶ台」でも配給してもらえば、失われそうな感覚もそのツド取り戻せる。
海外では、日本政府の対応は311以降どう映っているのだろうか。
最近、イギリスのメディアが、日本の「先送り」政治のことを「日本化」と呼び、アメリカも「日本化」していると批判したらしい。
しかしそれでも、世界最大の「財務赤字」を抱えながら、さらに未曾有の自然災害に見舞われた国の通貨が買われるのだから、グローバルに「戯画」が進行しつつあるかのようだ。世界的戯画の進行である。
ところで日本の資産は、1400兆円で圧倒的に世界第一位、その3分の2は60歳以上の高齢者がもっているそうだ。
今後やってくる「超高齢化社会」では、「雇用者(今の若者世代)3人で老人1人を支えていく」ようになるという。
しかし、企業の海外移転に加え雇用さえもままならぬ中、「貧乏な若者」が「金持ち老人」を支えていく図も、ナンカ「戯画っぽく」見えてくる。
老人は貯めた金を使おうとしない、使うにもそれほど使う場面がないからだ。年金を貯めこんで一番の金持ちになるのが「死の間際」というもありうる。
ところで超高齢化していく社会の「働き手」となるだろう今の20代の若者達が誕生した頃は、バブルがはじけて「超氷河時代」に突入した時代である。
不快項目といえば、就職難、雇用不安、年金崩壊など途切れないテロップのように流れつづけている。
消費に消極的で「貯蓄重視」の態度が早くからシミについたとしても、全然不思議ではない。
となると今、カネを使う場面が少ない老人達とカネを使わない若者達によって、極度に「消費」がおさえられる。つまり異常に「金回りの悪い」世の中に突入することになる。
ところで先ほどの「戯画」をもう少しヒネラせると、老人は自分や子供の為にはカネは使わずとも「孫の為」には金を使うことはイトワないらしい。
老人に孫の為にお金を思い切って使ってもらうのが経済活性化の鍵で、孫も数が減りつつあるのだからマゴマゴしてはいられない。
つまり「老人一人につき若者(孫)3人を支える」くらいの考え方のほうが、「金まわり」としてはヨクなるのだ。
これは現在でも、孫の教育費や塾代や遊興費まで、親が払えずに祖父母が助けている家庭も多かろうから、それほどトッピな話ではない。
ただ老人世代が孫世代の面倒を見るという考え方を社会全体で推し進めるようなことはできない。
老人が金を使うのはアクマデ「自分の孫」のためである。
だから、例えば老人に高率の資産税をかけて、多額の「子供手当て」にマワスなんて政策は「支持」されそうもない。
そもそも、死にイタルまで食い潰していかねばならない老人は、ヨホドでないかぎり自分が「豊か」と思えないだろうし、孫に金をつかうのも「個人の裁量」だからそうするのだ。
ただしばらくは超高齢化社会の入口である団塊世代ではリタイア後に「これから人生を楽しもう」という人達は結構多いようだ。
今までおカネを貯めてきたので、老後は一生懸命「夫婦で使おう」というエンジョイ意識は結構旺盛なようである。
それどころか生きているうちに墓をたてる、明るく遺影をとる(写真をとるときイエ~~ィ!)、死に装束のファッションショー、墓トモをさがすなどの「終活」も楽しんでいるという。
団塊世代の「シニア消費」の伸びは注目だが、増税とか年金支給減額とか医療費の自己負担アップなどが「冷水」にならなければよいがと思う。
一方、最近の若者の方は最初から「とにかく将来に備えなくてはいけない」という不安が強い。将来の日本の重荷を負担する側としてのプレッシャーを抱え込んでいるような側面もある。
さらには、若者のライフスタイルは、消費の問題にとどまらず、「物いわぬテロ」という性格を帯びてきているらしい。

バブル崩壊以降に生まれた若者の眼差しの先を、不動産をコロガシて富を築きアットいうまに富を失ってしまう人々、会社そのものを売り買いして金もうけに走る人、時代の寵児になって逮捕される人、足を引っ張りあう党利党略的な政治、特殊法人に天下って国民の税金をカスミとる官僚達の姿が横切っていった。
そのうち「金持ちになるとは?」「高学歴になるとは?」、「偉くなるとは?」とか、既成の価値について、絶えざる疑念のウズの中で過ごしてきたのである。
その世界を昇っていくことへの「虚しさ」や「危うさ」もしっかりスリコマレたに違いない。
ただし、生きてることの「手ごたえ」や「楽しめる」ことを探すという点では、「独自な嗅覚」もあるように見える。
ボランティアなどを通じて、社会との「接点」を持とうとしているのもその表れの一つである。
一方で、なかなか像を結ばない「未来像」の故に、そうした不安や疑念をドコニむけたらいいか定まらぬまま、超「身辺」的なことに喜びを見出しているように思える。
ひたすらな恋愛至上主義、オタク的カルチャーへの傾倒やメイド喫茶なんかに見る美少女指向などがソレにあたるだろう。
本人が意識しているかいないかは別として、深層には既存の社会秩序に対する「拒絶感」、物いわぬ「異議申し立て」をしているようにもみえる。
2011年9月11日、ちょうど10年前ニューヨークで同時多発「自爆テロ」が起きた。
「同時多発」の部分はオウム真理教の地下鉄サリン事件をヒントとし、「自爆」の部分太平洋戦争末期のカミミカゼからヒントを得たかとも思われる。
ついでにその狙われた世界貿易センターも「日本人の設計」であった。
そういう意味では、日本も911テロに一枚カンデルといっても大きな間違いではない。
ところで、日本の歴史をふりかえれば実にユニークな「テロ」が起きている。
テロの中でもっともユニークと問われれば、中世期において春日神社の神木をかかげて町を練り歩いて市民が「神威」をおそれて、一歩も街中に出られなかったという出来事も起きている。
興福寺や比叡山の僧兵が神社の神輿を担いで街中をネリ歩き、横暴を働いたり強訴を行ったりしている。
まるで「お祭りテロ」である。
また現代において、「テロ」というには性格が少し違うが、竹下政権誕生前夜に、右翼街頭車が竹下総裁候補を「ホメ殺し」を行って、心身ともに竹下氏を追い詰めたことも記憶に新しい。
ところで今、日本でもユルヤカナ「自爆テロ」が進行しているという。
それは時限爆弾をしかけるのでもない「物言わぬテロ」なので、「サイレント・テロ」と呼ばれているらしい。
今の20代は思春期の中学生の時に「阪神・淡路大震災」や「オウム真理教事件」、そして大学生のときには「米国同時多発テロ」などの事件や天災が続発している。
それらは、極端にいえば「世界崩落」のイメージさえ脳裏をヨギッタかもしれいない体験でもあった。
その心理的影響は、若者世代の「消費低迷」として表れるばかりではなく、モット広く深く浸透した「ライフスタイル」の変化として表れてきている。
結局、政府や企業からイカニ自分を防衛していくかが最重要課題であるということだ。
従来、国家や企業が年金や健康保険などの生命保障の権を握られ、「自由」を奪われてしまったカンジである。
生命を人質にとられるかわりに、国家や企業は身を守ってくれるハズという思いは、このたびの原発事故や津波災害をみるかぎり、打ち砕かれてしまった感がある。
そうしてニートやひきこもり、晩婚化、自殺などがおきるのも、これを「広義のテロ」ととらえることができる。
それも「爆弾」を仕掛けるのでもない、物言わぬユルヤカナな自爆テロ、すなわちサイレント・テロである。
社会への「異議申し立て」をそうした消極的抵抗としてあらわしていくのだが、結果からみると格差社会の「勝ち組」にも対抗し、就社や婚姻や消費生活に対する否定という形であらわれる。
「何」を変えようにも、若者はソレを変革しうる政治的力をもたず、「自爆」せざるをえない。
ただし、「サイレント・テロ」は、中近東でおきたツイッターによる「ジャスミン革命」のような「横の連帯」が起きるものではない。
つまり本人達が知って知らずか起こしているテロであるので、ターゲットが「独裁政権」ような明確なものではないのだ。
ただただ不快ではあって、ヤッテラレナイ気分が立ち込めているソンナ社会全般がターゲットということになる。
そして後ずさりを繰り返しているうち、いつしか社会からの完全離脱をはかるようにもなる。
それで車はいらないし酒も呑まない。恋人イラナイ結婚しないということになっていく。
社会から撤退してはせいぜいアルバイトで稼いだ生活費で生活は精一杯である。
自動車やお酒を買わなければ、「酒税」「物品税」などが政府の収入源が失われるし、企業収益を 減らし、自らの雇用をさらに厳しくしていく結果になる。
ニートやひきこもりは企業社会への不満、晩婚化や少子化は結婚システムや女性差別への不満、自殺はこの社会すべてにたいしての怒りであろう。
若者はそのような「異議申し立て」を静かなるテロリズムのごとく進行させてきたのである。
それは、テロというほどの「爆発力」があるワケではないので、ちょうどそれは自然災害のおける「深層崩壊」のようなものかもしれない。

近年読んだ本で、元企業戦士の柴田久美子さんという女性を知った。
いわば「企業戦士」から「落人」へ、そして「新生」の道をたどったが、この女性の企業社会に対する「異議申し立て」は、「自爆」しなかったという点で、建設的なカタチをとることになった。
柴田さんはかつて日本マクドナルドで働いていた。
日々、何万ものマニュアルを読み大多数を占める男性社員に馬鹿にされまいと毎日必死で働いた。
自分を見下すような男性社員をいつしか見返してやりたい。そんな気持ちバカリもっているものに、他人の心を思いやるユトリなどあるハズもなかった。
そして柴田さんは過酷なライバル競争を勝ちぬき、念願だったアメリカ行き切符を手に入れた。
シカゴにある親会社で研修をうけ、さらなる飛躍をとげていった。
その時、ハタから見ても、人もうらやむようなチャンスを手中に収めていたのかもしれない。
しかし柴田さんの心はけして満たされることはなく、豊かな暮らしを手にいれればいれるほど、空しさばかりがこみあげてきた。
そして自分が、いつのまにか店の売り上げを伸ばすことしか考えられないような存在になっていたことに愕然とする。
心はスリキレ人間らしさをすっかり見失って、モガキ苦しむうちにいつしか死をココロミルようになっていった。
ついにマクドナルドを退社し、東京と福岡でレストランを経営するが失敗し、夫の事故の入院代さえ払うことができないようになった。
その不安の中で、どこからともなく「愛こそが生きる意味」という声が聞こえ、先のことを何も考えずにレストランをタタンだ。
そのとき近所に住む「特別老人施設」の女性から声をかけられたことがキッカケとなり老人介護と出会った。
そして、機器に囲まれて延命措置のうえ、病院で家族でもない医者や看護婦に看取られながら死んでいくでいく老人達の無残な死をマノアタリにした。
ある日、マザ-・テレサの「死の家」で、愛につつまれて死んでいく人々のビデオをみて釘づけになった。
柴田さんは、高齢者(柴田さんは、幸齢者とよぶ)は家族や愛するものに見取られて自然死をむかえることこそ大事なことである、と思った。
そして、かつて「落人の島」でもあった隠岐諸島の南端に位置する知夫里島に「なごみの里」というものを設立した。
全国でほとんど例のない看取りの家「なごみの里」の最大のコンセプトは、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人生は幸せなものに変わる」である。
実は柴田さんは隠岐の対岸の出雲出身で、出雲といえば、ラフカデイオハーンが愛し居住した土地である。
ハーンが出雲の何処に魅かれたかというと、一言で言えば社会を穏やかに覆っているそうした「親和感」のようなものではなかったか。
ハーンは、巨大な箱庭のような山陰・松江の町で、見知らぬ人でも逢えば挨拶したり、隣に座れば話しかけたり、安心しきったように居眠りする人々の関係を見て、生活の一コマま一コマが、アメリカですっかり傷ついて日本にやってきたハ-ンの心を癒したのではないだろうか。
ひと昔前の日本では、人と関わりあうのを恐れた。それはトラブルがおこるからでなく、むしろ「情が移る」のがこわいからだったという。
以前に「悼む人」という本をソノ題名にひかれて読んだことがある。
このタイトルの中に、何かこの社会に対する「異議申し立て」が潜んでいるように思えて仕方がない。
小説「悼む人」は、誰かのために悼まねばならないと意思している人の話である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人を悼む。
本来、もっと悼まれ看取られてイイハハズなのにそれがナサレナイという問題で、それは「なごみの里」の問題意識にも通じる。
、家族や親族の代わりに知人でもない第三者が、あえて見ず知らずの死者のために「悼もう」とするのである。
マザー・テレサの「死を待つ人の家」で働く修道女達は、街角に捨て置かれた人々を介抱ししっかりと手を握り彼岸へとおくる。
看取る人が現場にいて死を用意することにより、亡くなる人の死はカケガエナイモノとなる。
インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。
「悼む人」のいない死は、飽食日本とてけして無縁ではない。
人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」を思う時に、日本には「悼む人」が登場する必然性が大いにあると思う。
誰が死んでもよかったかのような死を何も準備されずに強いられ、そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「悼ましい」と思う。
それは「無名戦士」の墓に似ているかもしれない。
現代は死が「無名性」を帯びているので、「悼まれぬ死」を悼まねばならぬ、と思う人が居るのはわかる気がする。
「悼む人」とは、いつか「悼まれない側」にマワルであろう「自分」を悼んでいるのかもしれない。
主人公は災難に出会い亡くなった故人のことを知るために、故人の遺族にこう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」という問いである。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死をイトーシム思いから自然に湧き出た気持ちではないだろうか。
そしてこうした行為が「サイント・テロ」に通じるのは、そういう「看取られない社会」とか「悼まれない社会」に対するモノいわぬ「異議申し立て」のように見えるからだ。