アービトラージ

市場経済は需要と供給が一致したところで価格が成立する。
逆に、絶えず需要と供給が一致するように働く価格の機能を アダムスミスは「神の見えざる手」と呼んだ。
しかしこの機能をまるで機械の様な「メカニズム」と見たところが、市場万能主義の「過ち」だったのかもしれない。
実は、こういう市場を成り立てせているのは人間だし、その人間の「行動」こそが最大のポイントである。
実は「見えざる手」の正体は「裁定行動」(アービトラージ)であり、この裁定行動が「健康」になされる条件が成立してコソ、健全な市場が成立するということなのだ。
後述するが、情報が不完全なケースなどでは「裁定行動」は妙な走り方をして、市場そのものを溶かしてしまう(逆選択)ことさえある。
それはちょうど、健康を追求して「病気」になってしまう健康オタクのようなものかもしれない。
というわけで市場経済を「裁定行動」という観点から「人間的」にとらえてみたい。
実は、需要と供給は一致なんかしていない。
真実は、それを一致させようという「絶えざる模索」(ランダムウォーク)があるだけだ。
ところで、世の中でアタリマエすぎて誰も注目しない現象というものがある。そのひとつが「同じ商品」には「同じ値段」がついているということだ。
円の値段はロンドンでもニューヨークでも東京でも、(対ドル評価)でほぼ同じ値をつけている。
そうなる裏に「裁定行動」であり、各人は「自己の利益」しか考えていないのに、実は「社会」の利益を増進させているという、アダムスミスのいう「予定調和」の世界がある。

ところで「アービトラージ」という言葉は新聞の経済蘭でしばしば見かける言葉である。
英語では、“arbitrage”と“arbitrageur”と似たスペルの言葉があるが、arbiter”は、決裁権者、決定者を意味していている。
金脈問題で退任した田中角栄首相の後継に三木首相を決めた懐かしの「椎名裁定」の「裁定」などが、コレにあたるのでしょう。
それに対して、“arbitrageur”は、投資における「鞘取り」「鞘取り業者」を意味して限定的に使われ、あくまで人間の「経済行動」を主題にしている。
「アービトラージ」すなわち「裁定行動」の一例をあげると、同じ商品がAという地域で120円、Bという地域で100円という「違う」値段で売られていたとする。
人々はAという地域の商品は買わず値段が下がり、Bという地域の商品が変われるので値段が上がり、結局は同じ商品は同じ値段になる。
つまり「一物一価の法則」が成立する。
先述の円の価値が世界市場でホボ同じ値段になるのも。こうした「裁定行動」が世界スケールでスミヤカニ行われているからである。
「裁定行動」について、日常行動から擬似的なモノを見いだすことは容易である。
一番身近な行動としては銀行のキャッシュコーナーやレジの「行列」を思い出す。
人々は行列に並ぶ時、少しでもスイタたところを目指して行列をつくるので、結果的にほぼ行列は「同じ長さ」になるのである。
行列において、人々一人一人は自分の時間を少しでも短く、つまり「時間のサヤ取り」をおこなっているのであるが、「行列社会」全体の利益(並び時間の短縮)に貢献するという「予定調和」の世界が成り立っている。
デコボコや不均衡、ギャップがあるところには、サヤトリの チャンスがあり、その結果として「ギャップ」が埋まっていくのである。
経済人類学者のカール・ポランニーは、「すべてのトランザクションは個別である」と言ったが、取引はギャップのあるところにしか発生しない。
例えば古本屋にいって、ある本がべつの古本屋で高く売られているのを見つけて、安く買って高く売って「利ざや」を稼ぐこともできる。
神田神保町のような巨大な古本屋街ならば、本を持ち運ぶのにもコストはかからないので、その差額が利益となる。
これとて立派なアービトラージャーで、社会的デコボコの「ナラシ」をすることは「消費者余剰」の増大という点でも「貢献」をしているのである。
つまりアービトレージャーは、絶えずギャップや不調和を見つけ出し、そこに「小さな金脈」を探す。
しかしいつまでたっても、行列の「ギャップ」が埋まらない場合には、なんらかの「参入障壁」が存在することが想定される。
例えば、「情報が不確実」な場合は、「行列」ソノモノが成り立たなくなる。
自分がどの行列の何番目にいるかサエわからない場合には、並ぶ人々は時間を持て余したヒマな人々 バカリとなり、行列は溶け出す。
このヒマな人というのは時間当りの所得価値が低い人を意味する。
これは、自分が将来病気になる可能性が高い「不健康な」人ばかりが保険に入ろうとする為に、結果的に「保険料」が高くなって、誰も保険に入れなくなるという「逆選択」がおきる場合などをさしている。
また、同じ行列ができるにせよ各人が自由に並ぶのではなく、「指定された行列」に並ばねばならない場合である。
つまり隣の行列がどんなにスイテいようと、移動することなく決まった行列にジット並ばなければならないケースである。
この「指定された行列」に並ばなければならないケースというのが、日本の従来の「電力体制」ではなかっただろうか。

戦時中日本は、電気は日本発送電の「一手」販売だったが、戦後の「電力再編」で今日の様に「地域別10電力」に分かれた。
10の電力会社に分割するような法案がドウシテ通ったのかその経緯までは知らないが、少なくとも「国家管理時代」の名残がシミツイテイルのは確かである。
役人が管轄と指揮命令系統をナニモノよりも重んじるように、日本の送電も機構図がハッキリシしている。
電力会社が「地域独占」というカタチをとる以上、10の「指定された」窓口に、住民の行列ができることになる。
こうした10社による地域独占体制が長く続いてきたが、1995年以降緩やかに行列の指定解除すなわち「電力の自由化」が続いている。
最初に自由化の風穴があいたのは、「電力の卸売り」からであった。
電力の「卸売り」とは、電力を最終消費者に売る電力会社(上記10社)に電力を売る、すなわち「卸売り」することをいう。
10の電力会社は、96年からは昭和電工、日立造船などの「自家発電装置」を持っている企業から「卸売り」で「安い電力」を購入することにより、設備投資の伸びを抑えるなどのコストダウンへの取り組みが進んでいる。
さらに2000年3月から、「電力小売」の自由化もはじまった。特定規模電気事業者が「特定」の最終消費者に電力を売ることができる「部分自由化」も始まった。
ここで、「部分自由化」というのは、小売の対象が「大口需要者」に限定されるからである。
小売電力の「部分自由化」により、経済産業省、三重県(県庁舎)、岐阜大学(柳戸キャンパス)、大阪府(本庁者)などの「大口需要者」は、従来の電力会社からではなく、特定規模電気事業者から安く電力を買うようになったのである。
この自由化では、電力会社がこれまでは営業地域ではなかった地域の「大口顧客」に電力を売ることができるようになった。つまり、「指定行列」の解除がおこなわれてきたのである。
大口の顧客が電力の「供給者」を選べるようになれば、料金の「値下げ競争」が促進されることになる。
だいたい電力といえば、「規模の経済」が働く大規模発電を想像するが、将来の「小売電力」の全面自由化も視野にはいってきたために、さらに発電の技術が進歩すると小規模の固定設備の方が大規模な固定設備による発電よりも費用が低下する可能性がある。
となると、大口以外でも「値下げ」競争が始まる時代になっていく。
しかし、「電力自由化」によって電気料金が安くなることがイイコトずくめかというと、必ずしもそうとはいえない。
10電力会社の地域独占体制の時代では、発電所から都市へ太い「一本の幹線」で電気を送る。だからどこかで突然大きな負荷が起きても、ヨソはそれをひきうけないので、ニューヨークで起きたような大停電は起きない。
このたびの大震災の影響で原発が8割停止して以降ようやく「輪番停電」ということになったが、それ以前は日本の電力会社は各電力会社が「余裕」を見込んで送電設計しているので大停電の心配はなかった。
それに反して「民営化」が進んだアメリカの電力の送電は非常にコスト・コンシャスである。
「送電線」をアチコチ繋ぎまわり、日頃からヤリクリしあっている。
電気代が競争で安くなるのはイイが、余裕がないから、どこかに「過度の負荷」がカカルと飛び火して、ブラックアウトがおきることになる。
そし電力は「量」だけではなく「質」がモノイウ場面がたくさんある。
最近NHK「世界遺産」でイギリスの産業革命の「発祥の地」ともいうべき地域の映像を見た。
イギリス中部の「ダーウェント川」流域に、17世紀から18世紀の産業革命初期に建てられた紡績工場が点在している。
これらの紡績工場こそ、史上初めての「大量生産」が行われて、近代工業産業の幕開けとなった処である。
1771年設立の世界初の近代工場といわれているこの工場には、クロムフォード・ミルの「水力紡績機」が設置され稼動していた。
「紡績」というのは綿糸を紡ぐ産業であるが、この機械によって初めて「均一」の品質の製品を「大量生産」することができたのである。
川沿いに工場が建てられたのは、「水車」による動力で機械を動かしたからである。
この「水車」によってリズムよく正確に動くが水力紡績機が「大量生産」を可能にしたのである。
大規模発電の時代になっても、紡績機械では、周波数が少し変化しただけで、糸を巻く精度にブレが生じ、製品の品質に大きな影響が出るという。
周波数が高いと電気抵抗が増え、低すぎると照明がチラツクなどの障害が起きるらしい。
また、家庭や企業が消費している「電力」は、リアルタイムで発電されたものであり、その時々において需要と供給とが一致している。
仮に、消費電力量が発電電力量を上回るようなことがあると、電圧が低くなったり、「周波数」が不安定になったりして、電球の光がマバタキするように「不安定」になる。
特に、正確な加工が必要な「IC工場」や病院にも大きな影響が出るのは明らかであろう。
また、消費電力量が発電電力量を著しく上回る場合には、送電網に設けられた「保護機能」が働き、送電が止まってしまう。
ちょうど、家庭でブレーカーが落ちるのと同じことが送電網スケールで起こるわけで、これで「停電」となる。
こうした電力供給品質のブレや停電を防ぐために、電力会社では「同時同量」すなわち発電量と電力消費量を常に「一致」させるように発電を行う必要がある。
「同時同量」を維持するには、家庭や企業が消費する電力量を「予め」読んで、それに適合した「発電量」を確保する必要がある。
電力の需要は、1日の時間帯の中で、おおむね同じようなパターンで推移するので、電力会社の側では予測しやすい。
また、電力会社は日々の需要予測や年々の需要予測で日、週、年における電力需要がもっとも高まる時間帯を「ピーク」をつかんでいる。
ところがこうした「電気予報」または「電力予測」は、電力会社が「一元化」されてコソ実現されるが、電力供給が完全に「自由化」されると、それが実質不可能になってくる。
そこで、電力の完全民営化が行われ、停電が頻発するアメリカで考案された仕組みが「スマート・グリット」である。

最近、(福岡市)天神から長住方面にバスに乗ると、電気とガソリンを効率よく「切り替え」ながら、シカモそれを客にわかるように表示しながら走っている「ハイブリット・バス」に乗ることがある。
車体が異常に低く、シートが明るい青色でつくられているのですぐに見分けがつく。
あのバスに乗ると、まるで「説明責任」を果たすかのように走行中の「エネルギー切り替え」が表示されているので、「スマート・グリッド」の仕組みがよくわかる。
その「表示」は単純な図だが、「発進/加速時」にはバッテリーに蓄えられた電気エネルギーを利用してモーターでエンジンをアシストする。
「定常走行時」にはエンジンとモーターの最も効率のよい走りを自動制御し、比較的低負荷の定常走行時は、エンジンのみで走行する。
「減速/制動時」には、電動機を発電機として作用させ、減速エネルギーを電気エネルギーに変換してバッテリーに貯えるなどをする、といった表示である。
ところでスマートグリッドは、「電力の自由化」が進展したために、そのフラツキを制御するためにアメリカの電力事業者が考案したものである。
「スマート」という語が表すように、従来型の中央制御式コントロール手法だけでは達成できない「自律分散的な」制御方式も取り入れながら、電力網内での需給バランスの最適化調整を行っている。
それによって事故や過負荷などに対する「耐用性」を高め、しかもコストを最小に抑えることを目的としている。
ところで電力の電源は、発電の「エネルギー源」に従って水力発電、原子力発電、火力発電、揚水式水力発電などに区別される。
電力会社では、みんなが電力を使わない時間帯には発電設備のある部分を眠らせておき、みんなが電力を使うピークには持てる発電設備の大部分を使って電力需要を満たす。
これらの電源は、「1日24時間動かしておくのに適した電源」と「電力需要に応じて動かしたり止めたりするのに適した電源」とに分けることができる。
一般的な水力発電と原子力発電とは、24時間365日、動かしっぱなしにしておくのに適した電源である。
従って、1日の電力需要の変化の中で、ベースの部分を担う「ベース電源」になる。
一方、 石炭、石油、天然ガスによる火力発電は、需要に応じて動かしたり止めたりがしやすいので、ベース電源で足らない時間帯になると動かす。
これは電力需要のミドル部分を担うので、「ミドル電源」と呼ばれる。例えば、朝、みんなが起き出して、家電製品やエアコンなどを付ける時間帯には、電力会社管内の複数の火力発電所でタービンが回り始めるのだ。
このようなピークの時間帯に、ベース電源とミドル電源では足りない分を供給するのが「ピーク電源」である。
ピーク電源には、火力が使われることもあり、揚水式水力発電が使われることもある。
電力会社では、このようにして、その時々の電力需要に合わせて、ベース電源に加えてミドル電源やピーク電源を動かしたり止めたりしながら、「同時同量」を実現している。
スマートグリッドは、こうした「割り振り」をコンピュータで制御して最適化する仕組みである。
今のところこの方式は採用されてはいないが、日本で今後風力発電など自然エネルギーの比率が今後も高まることが予想され、風が凪ぐなどのフラツキがあるため、フラツキを吸収して「同時同量」を達成するものとして、「スマートグリッド」が期待されている。
ところで、「アービトラージ」とは、広く捉えれば、国内と海外、現在と未来、既知と未知、需要と供給、欲求と充足、価値と無価値、過剰と不足などの「ギャップを埋める」行為のことをさす。
一方、「コンピューター制御」でギャップやスキマを埋めようとするのがスマートグリッドの技術である。
つまり需要と供給が常に一致させる「同時同量」の達成技術である。
だからスマートグリッドが完全に装備された社会では、アービトラージの余地は無くなるが、今のところスマートグリッドが機能する世界は極めて「限定的」であることはいうまでもない。