日中三姉妹物語

歴史上の「三姉妹」といえば、「浅井三姉妹」と「宋家の三姉妹」が思い浮かぶ。他にもたくさんあろうが、それぐらいしか知らないということ。
ただ両三姉妹とも、家の中でママゴト遊びしているわけには行かなかったという点で共通している。
むしろ「敗残の悲哀」や「革命の重圧」といった重い枷をマツロワセながら歩んだといえる。
NHKテレビで「お江」を見たことがない。
どちらかといえば自分がカスカに描いているイメージの方が大事なので、「のだめカンタービレ」の上野樹里によって、それを壊したくない。
「浅井三姉妹」は、浅井長政とお市の方(信長の妹)との間に生まれた姉妹だが、その浅井長政は織田信長に反抗し、その居城を攻められて自殺しなければならならなかった。
だがお市の方は兄・信長によって救い出され、しばらくして柴田勝家に嫁いだ。
我が想像では、信長の妹・お市の方は柴田勝家にとっても豊臣秀吉にとっても憧れの「マドンナ」であったにちがいない。
何しろ柴田勝家は、「領土」の恩賞よりも「お市の方」を望み、自ら好んで「辺地」を領地としたといわれるくらいなのだ。
そして、三姉妹も柴田の居城(北の庄)で生活をする。
お市の方は、当時の秀吉からすれば、まだまだ「高嶺の花」であり、信長の古くからの重臣であった柴田勝家にはとてもカナウものではなかった。
逆に、柴田勝家が秀吉ほどの「天下取り」に燃えなかったのは、そういう「家庭の幸せ」があったからかもしれない。
ところが信長の死後、形勢は逆転する。
秀吉は明智光秀を破り、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに勝利し、「お市の方」も自害し、残された三姉妹は、「両親の敵」ともいうべき秀吉の配下に送られる。
柴田勝家に勝利した秀吉は、結果的にお市の方をも死に追いやったのだが、連れてきたその娘達には「お市の方」の面影があった。
その面影を見た瞬間に、秀吉はニンマリしたはずである。
長女お茶々は長じて秀吉の側室(淀君)となり、また三女のお江は、二度の離縁をへてニ代将軍・徳川秀忠の側室となっている。
ところで、敵方の妻を迎えるなどというのは戦国時代ではアタリマエのことであり、夫人による夫の暗殺がないのというのは、キセキに近い。
日本の「戦国女性」の特性であったともいってよい。
そして秀吉の死後、大阪の陣で徳川方は豊臣方を攻め、大阪城で淀君(茶々)はその息子・秀頼とともに自害するという運命を辿るのである。
こういう経緯を見ると、「戦国」の世にヒメギミ達は一体何を拠り所に生きていたのだろうか、という気がする。
ただ、この三姉妹の共通の願いは「浅井の血を絶やさない」ということで、たとえ次の「保護者」が両親を滅ぼした「敵方」であったとしても、その側室として生きることをさえ受け入れたということである。
三姉妹の観点からみると、徳川方にいる「お江」と豊臣方にいる「淀君」は、複雑な感情もあったろうが、どっちかが勝てば、勝った方が「家門の血」を残すという思いもあったのではないかと思う。
ただ徳川への降伏をヨシとせず、結果的に豊臣家を滅亡においやった淀君の行為は、今でも色々と批判されているようだが、よ~く考えれば、織田の家来であった豊臣家は、自分が生まれた「浅井家」からすれば、敵方であり、しかもその出自は下賎でさえあるのだ。
だからといって息子・秀頼の存在ゆえに、豊臣家が滅びてヨシとまでは思わなかったにせよ、少なくとも敵対する徳川方には「お江」がいる。
それで「浅井の血」は保たれるという思いぐらいはあった、と思う。
実は戦国の世に、家門の血をを残すというのは最重要テーマで、人間的な感情を超えるほどの「至高性」をもっていたといってもよい。
その最も典型的なケースが「真田十勇士」で有名な真田家である。
真田家は親子・兄弟は、関が原の戦いでは東軍と西軍とに分かれて戦った。
勝者についた側が一族の血を残し、運がよければ敗者のついた側を救い出だすことができないともかぎらないのである。
続き、中国の「三姉妹」にいこう。

「宋家の三姉妹」にも、身内を敵と味方に「分かつ」ような出来事が上海でおきている。
三姉妹の実家は、中国近代に「浙江財閥」の代表といわれるようになる「宋家」であった。
浙江財閥とは1920年代末から30年代後半にかけて「上海を本拠」に中国経済界を支配した浙江・江蘇出身者を中心とする資本家の一団である。
1927年の蒋介石による「上海クーデター」以後、「国民党政権」と密接に結びついて大成長したのだが、この上海クーデターこそが、三姉妹に「亀裂」をもたらした出来事ともなったのである。
三姉妹の父・宋耀如は海南島の商人の家に生まれた。
叔父に連れられてアメリカで茶や絹の商いを学んだが、13歳の頃、実質「養父」ともなったその叔父の家を飛び出した。
養父が学問をしようという本人の気持ちを、全く受け入れそうもなかったからである。
密航を企て乗り込んだ船長の好意で、敬虔なキリスト教メソジスト教会の信者に預けられ、バンダービルト大学神学部に学び、今度は逆に中国へと開拓伝道へと派遣されることになった。
1886年、宋耀如は14年間のアメリカ生活を終えて帰国し、上海に落ち着いた、
同じくメソジスト教会の女性と結婚して生まれたのが靄齢・慶齢・美麗の三姉妹および三兄弟(子文・子良・子安)である。
帰国した宋耀如は、伝道よりもしだいに企業経営に気持ちが傾いていったようだ。
製粉業や製麺業などに投資したりする一方、聖書の出版・印刷で成功していった。
ここまで書くと、日本の「ある人物」を思い出起こす。
幕末において、日米和親条約などの「通訳」として欠かさざる「役割」を果たすことになるジョン万次郎である。
ジョン万次郎は土佐出身であるが、漂流しアメリカの漁船に救われ船長の養子となり、アメリカの大学をでて、日本に帰国している。
そして「通訳」として外国の要人との交渉の場に立つことになった。
ところで宋家の運命は、その家柄や血統によってではなく、財をなしつつあった宋耀如の元を孫文が訪れることによって大きく旋回していく。
孫文は医者を目指して、兄を頼ってハワイにいきキリスト教の洗礼を受けている。年齢においても「受洗」した点でも、宋耀如と共通したものがあった。
そして宋耀如は、孫文の気宇壮大な革命のビジョンに共鳴し、「伝道」よりも「革命」に命を注ぐべきことを決意し、事業の合間をぬって孫文を助けた。
孫文の秘書をしつつ、その資力を生かして辛亥革命のスポンサーともなったのである。
その意味するところは、宋家は完全に「革命」の渦中に巻き込まれていったということである。
一方、中国は清王朝の末期で日清戦争で負けるなどして、予想外の「弱さ」が海外にも露呈されてしまった。このままでは中国は列強の「餌食」になると、清王朝を倒して近代的な国家をつくろうという革命を志す者達が各地に現われていた。
そんな中に孫文という人物が登場するが、革命に必要な軍資金を集める必要があった。
その資金援助をしたのが、中国では浙江財閥として成長しつつあった宋家と、日本では炭鉱財閥と繋がる福岡県の玄洋社関連の人々であった。
孫文の国民党がそうした援助をうけて次第に大きな力を得て、清朝を倒して「辛亥革命」を成功させてついには中華民国を成立させたのである。
国民党は「三民主義」に基づいて資本主義を目指すという方向性をもっていたが、その一方で資本主義の路線とは違う「社会主義」路線を目指す「共産党」も勢力を伸ばしていた。
また日本の勢力の伸長や、外国と結んで勢力を伸ばしつつある「北方軍閥」の存在もあった。
そこで、孫文は共産党とも組んで(人民戦線)、中国が「一つ」にナルことを目指そうとした。
しかし1925年孫文は病に倒れ、59歳でこの世を去る。
ところで孫文夫人が三姉妹の次女の宋慶齢である。
孫文の後継者となって国民党を率いたのは蒋介石であるが、彼の夫人は三姉妹・三女の宋美齢である。
理想家であるとともに現実主義者という面をもつ孫文は、様々な形で国民党のパートナーを求めていた。
コミンテルン(ソ連の共産党の国際組織)はその指導のもとに中国共産党を成立させていたが、国民党にも積極的にはたらきかけていた。
何しろ封建主義→資本主義→社会主義という発展段階をへて社会主義は実現するという考えから、中国においてまず、封建制的な部分を倒す必要があり、その点では国民党にも期待していたのだ。
孫文はこれに応えてコミンテルンの援助を受け入れ、国民党にソ連式の「民主集中制」をとりいれるなどした。
また、共産党員が党籍を維持したまま国民党に入党することを認めた。
こうして最初の「国共合作」が成立したのである。
1925年に孫文はなくなったものの、1926年 国民党は中国の「軍事的統一」を目指して、革命軍を広州から「北上」させた。
北には国民党に服さない「軍閥」が割拠していたからである。
この時、「北伐軍」の総司令官に任じられたのが蒋介石である。
蒋介石は、孫文の遺志を受け継ぎつつ「北伐」を続けるヤに見えたが、上海に至るや突然にその矛先を共産党に向けたのである。
上海では、共産党に影響された労働者の騒動が絶え間なく起こっていたのは確かであったが、ここに至って蒋介石は、孫文とは明らかに違った路線を歩むことを内外に示すことになった。
これは同時に、故・孫文夫人の宋慶齢と蒋介石夫人となった宋美齢との間と大きな「亀裂」を生む結果にもなったのである。
上海で、蒋介石は「反共クーデター」にウッテでて700人もの血を流したのだ。
武漢にあった国民党政府(汪兆銘中心)にいた宋慶齢ら国民党・中央執行部は、蒋介石の国民党から「追放」を宣言したが、実質的な武力を掌握していたのは蒋介石である。
何しろ蒋介石はそうした将校達が学んだ黄埔軍官学校のかつての校長先生なのだ。ダレも逆らえない。
そして、蒋介石は実質的な力を失った武漢政府にかわり、南京に新たに「国民党政府」を作りあげるのである。
蒋介石は故・孫文夫人の宋慶齢に南京政府への参加をウナガシたが、宋慶齢は「三民主義」を否定して「軍事独裁政権」を作ろうとした蒋介石とクミすることは断固拒否した。
つまり宋慶齢はこの段階で、蒋介石と結んだ「宋一族」とは一線を画して歩むことになったのである。
宋慶齢は、もともと何人もの女がいるような、また夫の死後に自分にも結婚を申し込むような蒋介石と、妹・美齢との結婚には反対だった。
しかし今や、妹の美齢こそが中国のファースト・レディーになったのである。
その亀裂はあまりピッタリではないが、豊臣家に嫁いだ長女・茶々と徳川家に嫁いだ次女・お江との関係にも対比されるかもしれない。
ところで1931年満州事変がおこり、日本が満州を支配する勢いを見せたが、共産党勢力の拡大に脅威を感じた蒋介石は、相変わらず「反共」に徹し、日本との武力対決を避ける方針をとった。
蒋介石は、中国が明治維新に成功した日本に学ぼうとした時代に日本に留学し、新潟の高田の軍隊で「日本式」を学んだことがある。
そうした軍組織のあり方は、蒋介石が校長の黄埔軍官学校の教育の中に生かされていった。
蒋介石なりに日本に対して「恩義」を感じていたであろうから、日本軍との戦いよりも共産党との戦いを優先したということも、多少アッタかもしれない。(ナカッタかもしれない)
ところで、「抗日」よりも「反共」に走る蒋介石政権に対する抗議運動は、各地で燃え上がっていった。
そんな折、蒋介石が北方の視察のために西安にある楊貴妃の保養地(華青池)を訪問した時、「晴天の霹靂」ともいうべき大事件が起きる。
北方軍閥の雄・張学良によって蒋介石が拘束されてしまったのだ。
しばらくは蒋介石の生死さえ不明であった緊迫の時間が過ぎていった。
ところが、父(張作霖)を日本軍に爆殺された張学良の目的は、かなり「カワッテ」いた。
国民党が共産党と戦うのをヤメテ、マズは日本軍を大陸から除こうという「方向転換」を説得するためのモノであったのだ。
その西安(華青池)には、共産党のNO2・周恩来もやってきたし、蒋介石の夫人・宋美齢もイソギかけつけた。
監禁状態の中、突然現われた妻を見て、蒋介石がどんなにか驚いたかは、想像に難くはない。
この時に蒋介石に対してどのような説得が為されたのか、今から30年程前に張学良に対するNHKの単独インタビューがあったが、そこでもツイニ明らかにされることはなかった。
「立て板に水」の張学良が、その「核心」に来ると急に「押し黙った」のが何とも印象的だった。
ともあれ、拘束から約10日後に解放された時、蒋介石はドラスチックに「攻撃の方向」を転換したのである。
孫文がかつてそうした様に共産党と手を組み、日本軍と対決する(抗日)に方向転換したのである。
張学良は、ちょうど坂本竜馬が行ったように敵対する勢力をまとめ、第二次の「国共合作」が行われたのである。
ただ「第一次」と違うところは、張学良らの北方軍閥も「国民党」へと旗幟を変え「国民党」の旗(青天白日旗)を翻したという点である。
つまり、あの広大な中国で「抗日統一戦線」が実現したために、北方軍閥を利用して中国東北部への勢力を伸ばそうとした日本軍の目論見はハズレルことになる。
ちなみに、孫文も蒋介石と同様に日本と縁が深い。
福岡県大牟田の三井グリーランドの近く(荒尾市)に「宮崎四兄弟」の生家があるが、孫文はそこを頻繁に訪れ革命の援助を頼んでいる。
宮崎家の家屋の中に孫文と宮崎滔天の「実物大」の人形で対談の様子まで「再現」していて、少しドキットする。
家屋の中に設けられた展示館で、孫文が三民主義に取り入れた「民族・民権・民生」の一つである「民生主義」は、この宮崎四兄弟の次男の宮崎民蔵の「地権平等」の考えに基づいていたことが明記されていた。

ところで日中別々の三姉妹のことを書いたが、現代において日中関係を繋いだ「三姉妹」について書きたい。
1972年は日中国交回復の年であるが、ファッション・デザイナーの「コシノ三姉妹」が果たした役割は大きい。
コシノ三姉妹(ヒロコ・ジュンコ・ミチコ)は、大阪府岸和田市に生まれたバイタリティーあふれる姉妹である。
長女のコシノヒロコさんは1984年、上海で日本人初となるショーを開催した。
また比較的最近では、2010年10月22日、北京市郊外の「798芸術区」でファッションショーを開いている。
折りしも、反日デモの発生などで日中間の交流事業に影響が出ている時期であった。
しかし、コシノヒロコさんは「きれいなものをきれいと感動する心に政治や国は関係ないとして、文化を通じて日中交流を深めることが大切」と語った。
さらに、三姉妹のうちの次女コシノジュンコさんは、1985年北京で当時北京で「中国最大のファッションショー」をひらいた。
20年以上も前にあったNHKテレビの特集で、コシノ・ヒロコさんの「家族への思い」を聞くと、ファッションという同じ仕事が「姉妹の仲を」切り裂いたことが、大きな「痛み」だったようである。
しかし、母親の故・小篠綾子さんを含めて、家族を一つに「回復」したのが、姉妹が出会ったキリスト教だったそうです。