不安のスパイラル

日本の景気停滞は先進国でもまれにみるほど長期化している。一応「平成不況」は2002年に「区切り」がついているが、相変わらず「不景気」傾向は続き「デフレーション」へとすすんでいる。
ちなみに、景気の指標というのは「一致関数」というのが使われる。
景気の状況に応じて変化する複数の経済指標のうち何本か以上のものが上昇しているならば「好景気」、何本か以上が「下落」しているならば不景気と判断されるわけだ。
大学で「景気循環論」を学んだが、経済理論でいうように、どうして下がったものは上がらないのか。
長引く不景気は、経済理論が想定していないようなことが起きているのか、と思わざるをえない。
「景気循環論」は諸説あるもの、近代経済学のそれは物理学で見るような「波動」を数学的に描きだすために最も興味深いものの一つだった。
乏しい知識ながら、それらの理論的前提と現実に起きていることを対比してみることで、この20年以上も続く「不景気」で起きていることの、「いくつかの特徴」を見出せるように思える。
まず思いつくことの一つは人間の経済行動は、経済的(絶対)水準ではなく「変化率」が重要であること、もう一つは「景気循環論」の考え方の根本に「ストック調整」があるが、それは企業活動ばかりではなく消費行動にも見られることであり、不景気の時にはその傾向が著しく増すということである。
つまり、消費は所得に反応しなくなり、不景気の時代は「フロー」(=新しい価値)よりも「ストック」(資産価値)の維持に重点が置かれるのだ。
また通常経済変数に入れることはない「政治不信」や「制度不信」が「不景気要因」になっている部分も、かなり大きいと思われる。
例えば、ゼネコン汚職で政治家含め逮捕者がたくさん出れば建設業界への発注が減り投資水準に大きな影響が出るが、こうした問題はここではフレないいことにしよう。
第一の、人間の行動にとって重要なのは、「絶対水準」ではなく「変化率」であるということは、景気循環を考える上では非常に重要である。
しかし近経「景気循環モデル」では、マクロの需給ギャップはすべて所得変動に吸収され、物価水準の「変化」は取り込まれていないという限界がある。
例えば消費行動を見ても、ものの値段が安いからモノを買うのではなく、さらに下がって行く気配があるなら どんなに値段が安くてもモノを買わないのである。
ものの値段がドンドン上がって行く時は、どんなに値段が高くてハヤメハヤメにものを買おうとする。
とするならば、消費意欲(内需)を喚起するには、モノの値段を下げるよりも、ジョーズに「上げた」ほうがウマクいくのである。
その辺を見損なうと、政策当局の経済情勢判断は見間違うことがある。
特に人々の「期待」や「予測」を無視した政策は誤りを生みやすい。
金利がとても低い水準にあるので、政府当局がこれ以上の金融緩和策は必要なしと判断し、「量的」金融緩和をとりヤメてしまい、せっかく回復しかけた景気に水をかけたりすることになる。
どんなに利子率が下がっていようと、その時点での人々の「物価予測」がなお下落するというものならば、利子率を予想物価水準で割った「実質(期待)利子率」はむしろ上がっているのである。
物価が下がればオカネを借りて利子で返す側にとって「実質的な負担」はむしろ大きくなっているのだ。
つまり人々にとって重要なのは現時点での名目利子率ではなく、物価「予測」を取り込んだ「実質期待利子率」だからである。
コウイウのを見損なうと、政策の「ズレ」どころか「正反対」のカジトリをやってしまうということだ。

人間の一般的な生活において所得のすべてを消費にまわしていたら、同じ水準の生活レベルが毎年続くばかりで、「定常社会」が永遠に再現されるだけである。しかし、社会の発展は望めないものの、好景気も不景気もないという安定した社会というヨサもある。
生活の資の一部を貯蓄に回すことにより、それが「金融」を通じて設備投資に向けられるために、より高い水準の「生産性」、言い換えるとより短い労働時間で多くの富を得ることができる、つまり給料が上がるということなのだ。
こう考えると、貯蓄という需要の「漏れ」を補う役割が「投資」という「注入」需要になる。
投資が意外にもなぜ需要項目かというと、それによって機械、設備、内装など様々な「需要」を引きおこすからである。
この投資は初期には需要であるが、いつしか「供給能力」に転じるわけである。
これが資本主義経済の不安定性をもたらす「本質的」な問題であるといえるかもしれない。
なぜなら資本主義経済に特有な「景気変動」はこれによって引きおこされるからである。
ところで、景気循環は諸説があるが、もっとも説得力があるのはこの「ストック調整」から見た景気変動プロセスである(と思う)。
ところで近代経済学で定式化している景気循環論は数学的には「微分方程式」で表現されるが、文章で表現するために比較的に説明がしやすい「在庫投資」が生み出す短期的景気変動から見てみよう。
企業は一定比率で必ず「在庫投資」を行う。
それをしておかないと予想以上に商品が売れた時にビジネス・チャンスを失うし、欠陥商品が多くみつかったりした場合に製品の取替えに対応する必要もおこるからである。
在庫品はもちろんすでに世に送り出している商品と全く同一の消費向けの商品であるが、在庫品はとりあえず当期の商品として作られたものではなく将来にむけての商品なので「投資」扱いをし、経済学では「在庫投資」とよんでいる。
今例えば、なんらかのショックでモノが売れなくなると、在庫がどんどんたまっていく。その在庫を見て生産者は、つくりすぎたと感じて、生産量を落とす。
そのとき生産を落とすスピードは、ショックで減った需要に対応するだけでなく、積み上がった在庫を減らすために一層加速する。
そうやって生産調整が急速なスピードで行われると、そのうちに消費される量よりも生産される量のほうが少なくなっていく。
すると、在庫の山がどんどんハケていくが、これ以上在庫がなくなるとマズイところまで在庫が減れば、また生産をもどしていく。
これが在庫調整に基ずく景気循環だが1年~3年程度で繰り返すといわれている。
国内需要はさまざまな理由で変動するのだが、在庫を一定に保とうとする「ストック」調整が、短期の景気の変動を引き起こす要因になっているということである。
ところで約10年周期程度の景気変動は「主変動」とよばれるが、企業の「設備投資」活動によるものである。
この大きな波のラインが上述の「在庫投資」によって微妙に揺らされながら、景気変動全体を構成しているのである。
さて「設備投資」がどうして景気変動を起こすのかに注目すると、毎年10パーセントの「貯蓄」が行われるとするとその「漏れ」の分、毎年10パーセントの設備投資という「注入」でカバーできてようやく経済全体の完全雇用水準が維持される。
ということは、毎年供給能力が10パーセントずつ(設備投資の量的拡大率がそのまま生産性の上昇率を表すと仮定して)向上することになる。
ということは、上昇した供給能力に見合うだけの消費需要もそれに応じた分だけ上昇していかなければマクロで見た需給バランスがとれない、つまり完全雇用が維持できないことになる。
これは恐ろしいような話であるが、それが社会が「豊か」になるということなのだ。
そして日本社会はそれを実現してきたのだが、それは所得水準の上昇に対して消費が十分に反応したことがあげられる。
ただし、もしも供給能力のアップに見合うだけの消費需要を期待できそうもない場合には、それに見合うように「設備投資の縮小」または「ゼロにする」他はなくなる。
しかし「設備投資」を減らすまでならいいが、一度装備したものをマイナスにもって行くのは容易ではない。 そこが「在庫調整」と違うところなのだ。
雇用調整を行い、生産ラインに一つ二つを止めるかもしれないし、機械をスクラップするかもしれないし、工場を撤退するさせるかもしれない。
こうした設備投資を一気にゼロ(またはマイナス)にするのだから、そこから波及する全体の需要の減少は広く関連にまで及び、設備投資需要「それ自体」の減少ではすまなくなる。
つまり個々の企業が利潤行動として削減した設備投資需要は、全体として何倍もの内需の減少を引きおこすのだ(=乗数効果)。
設備投資の減少は、時間がたつにれて生産能力の低下として表れ、今度は逆に供給の伸びの方が需要の伸びがおいつかなくなる。
そして初めに戻って、再び設備投資の増加をはかって需要の伸びを追いかけることになるのである。
要するに資本主義経済は、マクロで見ると需要と供給のイタチゴッコであり、その原因は設備投資の調整(増減)がタイムラグ(時間の遅れ)をともなって、それ自体の増減よりも大きなハバで内需の変動を引き起こすからである。
この理論の前提には、経済にはどうあれ「均衡」に向かおうという作用があること、つまり設備投資がどのくらい供給能力を増すか(加速度因子)と、どれくらい需要を増すか(乗数理論)が相俟って、所得変動が時間を通して需要と供給の「均衡値」への収斂しようとした結果生じるとしていることである。
「加速度因子」と「乗数」の数値の組み合わせによっては異常な景気ラインを描くこともある。
例えば所得水準が無限に拡散していくとか、あるいは景気変動がすべてなくなり直線化するなどであるが、それはあまりに現実味がない。
反面この景気変動論では、大恐慌やバブルなどの「異常な景気変動」を十分に説明できないということである。
そしてその理由として、この理論では経済をマクロの需要と供給の時間的ズレをともなう相互作用と見るものであり、その背後にある「貨幣的因子」およびそれにまつわる心理を取り込んでいないからである。

「貨幣的因子」をあげれば、この景気変動論では、貯蓄から投資への金融的「不具合」は想定されてはいない。
最近よく話題になる銀行の「貸しシブリ」「貸しハガシ」などがある。
これは「貯蓄」を「投資」にまわす「金融」の「機能不全」が起きているということである。
金融緩和政策で金利をさげても銀行はそれに応じて「貸出金利」下げない。そこでの「利ざや」は、不良債権の処理などにあてられるわけである。
つまり設備投資を活発にする方向にあるオカネがまわらないため、景気浮揚というかたちで金融緩和の効果が表れないということである。
この不良債権の消化は企業における金融資産の「ストックの調整」と見ることができる。
いずれにせよ、上述の景気変動論は在庫調整といい設備投資といい実物の「ストック調整」によっておこる景気変動であるが、その調整が企業という供給サイドのものとして想定されている。
この理論が想定していないのが、消費における「ストック調整」であり、これこそが不景気を長引かせる原因ともなっているのではないだろうか。
「消費は所得に依存する」、これはとても常識的で一般的な考え方である。消費行動に対する「第一次接近」としても適切な考え方であろう。
しかし、デフレ期の消費行動は、所得ではなく貯蓄に依存するというのが実際なのではなかろうか。
1980年代の日本政府のバブル経済への対応の過ちは、物価それ自体が安定しているのに、土地や株の資産(ストック)の価値が異常に高騰したということである。
だから当初、所得水準に大幅な上昇は見えないのに消費向上が見られたのだ。
この事実の教訓は、消費は所得ではなく資産すなわち消費者保有の土地や株といった「ストック価値」の上昇によって引き起こされたということである。
そしてデフレ時にはそれと全く逆のことがおきる。
株や不動産といった手持ちの資産の価値が大幅に減価していることを思うと、人々は所得水準が変わらないのに、(仮に下がったとしてもそれ以上に生活用品が値下がりしているのに)、消費を控えて貯蓄にまわそうとするのである。
つまり貯蓄という「ストック調整」の残余として「消費」があるのである。
つまり日本人は、資産価値の低下を補うために将来にむけて「一定」のストック水準を維持しようとしているため、消費需要という形で内需がなかなか喚起できないのである。
これがアメリカだと、あるだけ使ってしまおうということになるのだが。
近代経済学の景気変動論は消費は「所得」の絶対水準に依存することを前提としているものであり、そのあたりも(デフレ期の)現実との相違がみられる。

ところで1990年代のバブル崩壊とその後の流れは、第一次世界大戦後の1920年のバブル崩壊とその後を思わせる。
第一次世界大戦で、日本は戦争ほとんど戦争に参加することなく戦勝国となった。
日本企業は大戦中に、交戦国へ大量の物資を売って莫大な利潤をあげだ。そのカネあまりで重工業や軍需産業に関連する投資が流行しバブル経済がおきた。
そのバブルが崩壊したのが1920年だが、90年代と同じように「一時的なもの」と思われ、政府や日銀による救済融資や銀行による追い貸しがおこなわれ、問題企業や問題銀行の処理は「先送り」された。
さらに1929年に関東大震災が発生し、被災企業を救済するという名目で、多くの企業に対して日銀が特別な融資を行ったのであるが、これは世間一般には「震災手形の割引」として知られている。
しかしこれは震災とはなんの関係もない、単にバブル崩壊で経営不振に陥った企業にも適用され、結局「震災手形」は不良債権の代名詞になったのである。
1920年を通じて不良債権は増え続け、経済は不況に陥りデフレ基調が続いていった。
ここまでは1990年代とよく似ている。
問題先送りの結果は、1927年国会で議員の失言によってハレツし昭和金融恐慌が起きるのである。
その後、日本で小泉の「構造改革」が行われたのと同じように、浜口雄幸・井上準之助コンビの「大改革」がおこなわれる。
当時は、デフレの原因が「円相場」の不安定といわれていたから、円を安定化させるためにも第一次世界大戦時に離脱していた「金本位制」に復帰しようとして緊縮政策を行った。
離脱前の「旧平価」で復帰しようとしたのだが、これは実勢よりも円高で復帰することになるために、かなり国内の物価水準などを落とさないと国際競争力がつかないことになるのだ。
「現相場」で復帰帰するのであればそれほどの緊縮をする必要も無かったのだが、金との関係で「円の価値」を落とすなどということは、「大日本帝国」のプライドが許さなかったのかもしれない。
そして折悪くアメリカ発の大恐慌が日本を襲うのである。
しかしその後の回復は目を見張るものがあった。金本位から再び「離脱」し、円の価値が大幅に下がり輸出が急伸したことと、32年以降の軍事関連を含む大幅な「拡張財政」により急回復していったのである。
日本の現況は、1920年代と似通った部分もあり教訓としなければならない。
たとえば不良債権の処理がスムーズにいくように超低金利政策をつづけたが、それが問題企業を温存し問題を「先送り」する結果になっていることなどである。
反面、産業構造も大きく違い「軍事的拡張」ができるわけでもないため、そのまま「デフレ脱出」のガイドとするわけにもいかない。
そして、日本の経済社会の現代的特徴は、企業も家計も新しい価値を生み出すことよりも「ストック調整」に軸足を置いているということである。
その根本に在るものといえば、やはり日本国民が抱く「漠然とした不安」ということであろう。
不安心理が「今のうちに使っちゃえ」にならず、景気をさらに悪化させるという「不安」のスパイラルがおきているのが、 日本的現状といえるかもしれない。