特別養子制度

あるアメリカの家族の一枚の写真を見せられた。裕福そうな白人四人と幼い二人の黒人の子供がおさまっていた。
この写真から何が読み取れますかと聞かれ、答えに窮してしまった。
ただ一昨日(6月19日)の国連難民高等弁務官事務所の発表で、「難民数」が史上最高の数に達したということを聞いた直後ならば、アノ写真の意味を読み取ることができたかもしれない。
後に、写真に写ったソマリア内戦で両親を失った黒人の子供で、あの写真のアメリカ人家族は、その黒人の子を「養子」として育てることになったのだという。
外国では、「戦争」を背景にしながらも、こんな「人道的な」家族の姿が普通にあるのだろうか?
戦争や災害は、家族を失った者達や避難民をたくさん生み出す。また数え切れない「別離」をもたらす。
そうした一例として、作家・水上勉氏と長男との「別離」と「再会」のことなどを思い起こす。
1941年に水上氏は同棲していた女性との間に長男が生れるが、結核にかかり血をハキながらも酒ばかり飲み、自身の生活さえ維持するのがやっとという状態であった。
アパ-トの隣に住む学生が水上氏に同情し、また結核が子供に感染することを心配し、一時長男を預かり「養子先」を探したのであった。
そんな折、水上勉は子供の「養子先」さえ知らぬまま、東京大空襲で辺り一面焼け野原となり、長男は死んだものとばかり思っていた。
しかし長男はそのとき「養父母」に連れられ宮城県石巻市に疎開しており、空襲を無事に逃れていたのである。
戦後、長男は養父母のかつての住所・明大前に戻って靴修理屋を再開するが、自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が「実の親」ではないことは早くから認識していたという。
そして生活が安定し余裕も出来た長男は、自分の過去を溯りに人々を訪ね歩き、ついに自分の本当の父を探し出した。それが作家の水上勉氏だったというわけである。
水上父子は互いにその生死さえも知らず長く別離していたが、水上勉氏の自宅は長男の家と目と鼻の先にあり、また長男の夫人は水上氏の代表作「飢餓海峡」の舞台・北海道積丹半島出身の女性でもあった。
「運命の糸」のようなものを感じるが、何よりも長男が水上作品の「愛読者」でもあったということは、「血」がなせるワザいう他はない。
戦争中、水上父子がたどったような「別離」は、各地で多かれ少なかれ見られたことであろうが、こういうカタチでの「再会」はザラにはないことと思われる。
ところで、日本は海洋国家であるせいか、歴史的に「難民」との関わりが浅い。
とはいっても、東北震災と原発の事故によってたくさんの長期が予想される「国内」避難民を抱えることになった。
昨日のニュースで政府が設定した避難区域外で放射能の高いホット・スポットでは、幼い子供を持つ家族が「自主避難」を始めたというニュースもでていた。
幼い子供への影響を考えるならば、何を犠牲にしてもというのが親の気持ちであろう。
また東北の震災などで親を無くした子供達と、そうした子供を一時的に預かって面倒を見てあげたいという家族もいる。
両者を結び付けるという「里親」に関わる「NPOの活動」なども行われていると聞く。

最近、今から40年ほど前に世間の注目を浴びた菊田昇という医師のことを突然に思い浮かべた。
その時代はちょうど、村上龍がシンボリックに「コインロッカーベイビーズ」と題して描いた少年達が、現実に駅前のコインロッカーにデパートの「紙袋」に入れられて捨てられていた時代とも重なっていた。
さて菊田昇氏は、宮城県「石巻」で開業していたごくアリフレタ産婦人科だった。
しかしながら、この医師の「驚くべき」証言は、当時賛否両論をまきおこしたものの、今日の「特別養子制度」を生んだといわれている。
菊田氏は、1949年に東北大学医学部卒業し精神科を志望していたが、ベビーブーム好景気だった産婦人科を選んだ。
秋田市立病院参婦人科院長を経て1958年から宮城県の石巻で開業した。
菊田昇氏は産婦人科の医師として、「医療」そのものとは性質の異なる「現実」に心を痛めるようになる。
菊田産婦人科を訪れる女性たち、夫に愛されない妻、強姦による子の母、不貞の子の母、未亡人の子などなど様々な女性の現実であった。
彼女たちは病院に訪れた時に、異口同音に「オロシテ」くれとたのんだ。つまり「胎児」と縁を切りたがっていた。
そして菊田医師は、7ヶ月の胎児の中絶をきっかけに自身の行為に葛藤を持ち始める。
厚生省の調査で7ヶ月の胎児は体外で生きることが可能だと発表されたからだ。
産婦人科医の収入源は、人工妊娠中絶という現実があった。
菊田氏は医学生時代には聖書を読んでいたが、自分の仕事のことなどを考えると聖書を読めなくなったという。
そして、様々な事情から人工妊娠中絶を求める女性を説得して出産させる一方で、地元紙に「赤ちゃん斡旋」の広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に「無報酬」で斡旋したのである。
その際には「偽の出生証明書」を作成して引き取り手の実子としたが、それは産むわけにはいかない実親の戸籍に出生の記載が残らないよう、また養子であるとの記載が戸籍に残らないよう配慮したためであった。
それは明らかに「違法行為」であったが、いつしかその数は約100人にも達した。
しかし菊田医師はこの違法行為を「内々」にしようとはしなかったこことが、他の医師と違うところであった。
ことの発端は、1973年4月17日、「石巻日々新聞」「石巻新聞」に「生まれたばかりの赤ちゃんを我が子として育てる方を求む」と小さな記事を掲載したことによる。
この新聞を見て「奇異」に思った新聞記者が、菊田病院を訪れた。
そして菊田医師は自分はすでに100件を超える「違法行為」を行ったのだと語った。
さらに、日本から子捨てや子殺しをなくすためには、母親が子と縁をきることを求めている場合には母の戸籍に入籍することなく、養親の戸籍に入籍して縁組できるような養子法を「特例」として認めなければならないと語った。
菊田医師がこうしたコトを世に訴える機会を「待って」いたことは、次の発言でもわかる。
菊田医師は記者達に、もしも新聞社が一面トップ記事として全国に報道してくれたら、この事実を「赤裸々」に公開するとまで語ったのである。
菊田医師のそうした「突飛」とも思える行動の背景にはソレナリの経緯があった。
菊田氏はかつて産婦人科の専門医会で「日本母性保護医協会」の石巻支部で、「養子法改正」の考えを「訴えた」ことがある。
しかし「法の改正」は政治家の話だと相手にしてもらえずにいた。その間にも赤ちゃん達は全国で「密殺」され続けていた。
菊田医師はマスコミに訴える他はないという気持ちを告げると、周囲は「そんなことをしたら処罰された上、物笑いになるだけ」とマトモに取りあおうとはしなかった。
そして菊田医師は実際に、その「赤ちゃん斡旋」によって世間の注目を集めながらも、1973年ツイニ告発される。
出生証明書偽造で罰金20万円の略式命令を受け、厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。
所属関係学会を除名され、優生保護法指定医を剥奪された。
国会にも「参考人」として招致されることにもなったのはヨシとしても、その行為は最高裁でもちあがり敗訴してしまった。
しかしこの事件を契機に、人工妊娠中絶の可能期間が短縮され、1987年には養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した「特別養子制度」が新設されたのである。
つまり菊田医師の戦いは、報われたのである。
その後菊田医師はマザー・テレサとの出会いを通して回心し、クリスチャンとなり、「小さないのちを守る会」で活動していった。
1991年4月の第2回国際生命尊重会議・東京大会で「世界生命賞」を受賞した。
実は、第1回のオスロ大会で受賞したのがマザー・テレサその人であったのだ。
以上の菊田氏の経歴から、思わぬ人物との「連想」が働いた。
戦争中にリトアニアで「出国ビザ」を書いて、6千人ものユダヤ人の命を救った日本の外交官・杉原千畝である。
杉原は日本政府の命令に違反したために、帰国後外交官の資格を奪われ貿易会社に勤めることになる。
それからおよそ40年後に「名誉回復」が行われ、イスラエルより「人道に貢献した」という趣旨の「賞」を受けている。
それにしても処分覚悟で、不幸な星の下に生まれた100人の赤ん坊を子の欲しい家族に実子として結びつけたと堂々と告白させた、その「気骨」はナンに由来するものだろうか。
少なくとも菊田氏は、世界の国々でたくさんの家族が、難民や障害児を「わが子」同様に育てていることを知っていたということがある。
菊田医師は、1960年代病気がちの女性レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いて化学肥料の害を糾弾して、大企業や政府を敵にまわしてもナオゆるがず、「生命の尊厳」を訴え続けたことと通じるものがあるように思う。
ところで、菊田氏の「赤ちゃんあっせん事件」を契機にできた「特別養子制度」は、必ずしもすべてが菊田医師の思いにソッタものではなかった。
養子が、戸籍上も実親との関係を断ち切り、実子と同じ扱いにした縁組を指している。
貧困や捨て子など、実親による養育が困難・期待できないなど子の利益とならない場合に、養親が「実の親として」養子を養育するための制度として、1987年に新設された制度である。
このため、戸籍上は養親との関係は「長男」などの実子と「同じ」記載がされ、養子であることが分かりにくくなっている。
もっとも、「裁判確定」に基づく入籍である旨は記載され、戸籍をサカノボルことにより、実父母が誰であったか知ることができるようになっている。
ところで「特別」養子制度は、菊田医師の「赤ちゃんあっせん事件」が契機となったが、「養子制度」「里親・里子」というものならば、日本に昔からあったものである。
その歴史は平安時代中期まで遡る。当時、貴族が村里に子女を預ける風習に由来するもので、里子は「村里に預けた子」を意味する言葉であった。
やがて、他人に預けて養育を託した子供のことを「里子」、里子を預かる者を「里親」と呼ぶようになり、武家や商家、農村など、社会のあらゆる階層に広まった。
一方、「養子縁組」は、血縁関係とは無関係に親子関係を発生させる制度で、奈良時代に法制化されて以降、現代まで途絶えることなく「明文化」された法制度として存在する。
氏姓制度や家父長制度の確立に伴い、養子縁組は家制度を維持するため、あるいは政治的意図の下に行われる性質のものであるため、「強制力」のある法として明文化する必要があったのだ。
それに対し、里親を定義づける法律は制定されておらず、里親は社会通念上の概念、もしくは社会慣習の一形態に過ぎない。
里親慣習は、里親と里子の間に親子関係が発生しないこと、里子は家督や財産などの相続権を有さないことから、養子縁組のような明文化された法制度に比べて、より緩やかな社会慣習として市井の中で発展した制度といえる。

現代において、難民の「養子縁組」に積極的な活動をしているのが、アメリカのトップ女優であるアンジェリーナ・ジョリーである。
ところがアンジエリーナ・ジョリー自身が、そういう活動を促す「心理的な背景」をもった人であることは、あまり知られていない。
いまや当代NO1の女優で輝く女優となった感のあるアンジェリーナ・ジョリーであるが、父親はジョン・ボイトで映画「真夜中のカウボーイ」で、ニューヨークの片隅で、ダスティン・ホフマン演じる「ねずみ」と共にどん底の生活を送る田舎出の若者の「役柄」を演じていたのが懐かしい。
ハリウッド俳優の家に生まれた彼女であるから、さぞや恵まれた環境で育ったのかと思って調べてみたら、実際は全く違っていた。
女優のスタートは、両親の離婚後11歳の頃にロサンゼルスに戻るとアクターズ・スタジオで演技を学び舞台に立つようになったことである。
その後ビバリーヒルズにある高等学校の演劇クラスに進学するも病弱な母の収入は決して多いとは言えず、ジョリーも度々古着を着用するなど家庭環境が恵まれていなかったため裕福な家庭が多いビバリーヒルズにおいて徐々に孤立していったという。
さらに、ジョリーが極端に痩せていたことや、サングラス、歯列矯正の器具などを着用していたことが他の生徒からのイジメをまねく結果となった。
さらにモデルとしての活動が不成功に終わったことで、ジョリーの自尊心もズタズタで、自傷行為を始めた。
自傷行為の時だけが生きているという実感が沸き、開放感に満たされ癒しを感じたという。
ついにジョリーは14歳で演劇クラスを離れ、激しい自己嫌悪からナント将来の希望を「葬儀の現場監督」とし、実際に彼女は葬儀会社へアルバイトとして遺体の「死化粧」を施す担当をするなど「死」というものに身近に接していたという。
なんと、アンジェリーナ・ジョリーは「おくりびと」の一員だったのである。
また、常に黒の衣装を身に纏い髪を紫に染めたりして、異様としかいいようもない生活を送ったが、母が住む家から僅か数ブロックだけ離れたガレージの上にあるアパートメントを借り、再び演劇を学んで高等学校を卒業したという。
アンジェリーナ・ジョリーの出演作「17歳のカルテ」も、彼女自身の人生とが重なるものが多いのではないだろうか(見ていません)。
ところで今、アンジェリーナ・ジョリーは、約10年前に国連難民高等弁務官事務所の「親善大使」に任命されたアンジェリーナは、「祖国を追われた人々の窮状を知ってもらいたい」として、これまでにアフガニスタンやパキスタン、スーダンなど20か国以上を訪問していいる。
グテーレス高等弁務官は、「ヨーロッパ境界で紛争が多発する際、一国ができる最も重要なことは、門戸を閉ざさないことだ」と強調し、アフリカ、とりわけリビアでの衝突から逃れた人を受け入れるようヨーロッパ諸国に要請した。
アンジェリーナ・ジョリー親善大使はグテーレス高等弁務官とラペンドゥーサ島で合流する前に、北アフリカからの船が辿り着くもう一つの場所、マルタ島を訪れ、リビアを始めソマリア、エチオピアや西サハラの暴動から逃れてきた多くの人たちがいる収容施設を訪問した。
そして「特に子どもたちの支援に関して、どのような形でこの状況をより人道的に改善できるかについて、今後も政府との話し合いにもっと時間を費やしていく」と語った。
「逃れてきた人たちが刑務所のような環境でただ待つのではなく、一刻も早く庇護申請が認められることも考慮しなければと話し合った」と加えた。
最後にアンジェリーナ・ジョリー夫妻の養子三人について紹介したい。
マッドックス・チヴァン・ジョリー=ピットはカンボジア生まれ。2002年にアンジェリーナの養子となる。2006年にはブラッド・ピットも里親となり、姓名がジョリーからジョリー=ピットとなる。
ザハラ・マーレー・ジョリー=ピットはエチオピア生まれのエイズ孤児である。2005年にアンジェリーナの養子となる。2006年にはブラッド・ピットも里親となり、姓名がジョリーからジョリー=ピットとなる。
パックス・ティエン・ジョリー=ピットは、2003年月生まれのベトナム人。2007年3月、3歳のときにアンジェリーナの養子となる。ベトナムでは結婚していないカップルの養子縁組は認められないため、当初はアンジェリーナ1人が里親として手続きをする。3ヵ月後にブラッド・ピットも里親となり、名字をジョリー=ピットと改名する。