森戸辰男と糸島

福岡市の西部に突き出る糸島半島に、福岡県立糸島高等学校がある。
この高校の校長室には、学校の校訓を示す額縁入りの「自主積極」の揮毫が掲げてあるのだが、 この文字を書いたのは戦後初の文部大臣・森戸辰男である。
さらに1930年代終わり頃、糸島高等女学校(糸島高校への統合前)に伊藤エマとルイズという姉妹が通っていた。
文部大臣・森戸辰男と無政府主義者・大杉榮と伊藤野枝夫妻との間に生まれた子供達(エマとルイズ)との、曰く言い難き「めぐり合わせ」、それは「何か」に引き寄せられたものだったろうか。

ところで、日本国憲法はそのほとんどが「マッカーサー草案」の日本語訳であり、言葉の「不自然さ」からもそれが読み取れる。
「憲法前文」には、いかにも「翻訳」といった不自然さの一例として、英語ならではの「対」の言葉がいくつも登場する。
例えば、「公正と信義」「安全と生存」「専制と隷従」「圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」などなどである。
日本国憲法は、「マッカーサー主導」の憲法制定であったことに違いはないが、日本サイドは「押し付けられた」といわれるほどに、主体性もなく憲法制定に関わったわけではない。
特に民間の「憲法研究会」が作った憲法試案は政府に提出され、急ぎ作成された「マッカーサー草案」の重要な「資料」となったことは、アメリカ側のスタッフが認めているところである。
その「憲法研究会」に所属していたのが森戸辰男で、今日の時代、その仕事はさらに「輝き」を増しているように思える。
アメリカは当初「ポツダム宣言」に則って、日本の自発的意思による「新憲法制定」を期待し、指導者層にそれを促していた。
政府内部にはに松本烝治を委員長とする「松本委員会」が作られ「憲法改正要綱」が作られ、マッカーサーに提出された。
ところが「天皇制」をそのまま残した感じの「要綱」は、マッカーサーによって拒否され、「真に民主的憲法を作成する能力がない」日本政府に変わって、マッカーサー自らが「草案作り」に乗り出したことは、あまりにも有名な話である。
アメリカは、連合軍で構成される「極東委員会」(11カ国)が口を出す前に、日本政府の「自発的意思」による(と思われるような)憲法制定という「既成事実」を作っておきたかったのである。
しかしアメリカが占領以前にどんなに日本研究を行っていたにせよ、法律専門のスタッフもおらず「徒手空拳」のママ10日間程度で「憲法草案」を作成することは至難の業であった。
そこで注目したのが、すでに政府に提出されていた森戸らの「憲法研究会」の試案であったのだ。
森戸が「憲法研究会」属することになったのは、この会の座長的存在であった高野岩三郎が東大時代の自分の教え子である森戸を呼び寄せたためである。
高野は日本の労働運動黎明期の活動家・高野房太郎の弟で、長崎県生まれで社会政策学を設立し、ドイツ留学後は東大で統計学を講じた。
東京月島における社会調査は有名で、その後大原社会問題研究所の所長となっている。
森戸も師・高野に倣ってドイツ留学の経験があり、研究会の憲法試案においてドイツの「ワイマール憲法」に学んで「生存権」の提起をし、「労働権」の導入をさえ主張したのであった。
ただ森戸は急進的な改革を避けあくまでも「漸進的」な道を選ぼうとした。ただしこの段階での「試案」では真に民主的たりえないので、10年後に「国民投票」を行うべきだと主張していた。
森戸はドイツ留学において、第一次世界大戦に敗戦したドイツの混乱を目の当たりにした。
ドイツは「ワイマール憲法」という最も民主的な憲法を持ちながら、この混乱の後に共産党とナチスが台頭し、ヒットラーによる「一党独裁」を招いてしまう。
こうしたドイツの状況と敗戦後の日本を重ねて、森戸はドイツの徹を踏んではならないと考えたのである。
そして天皇制を否定し「共和制」までを主張した師・高野岩三郎の考えにはクミしなかった。
森戸は広島の旧士族の生まれであるが、戦時中も栃木県の真岡への疎開経験があり、天皇への信仰が地方でいかに根強いかということをよく知っていたのである。
そしてイギリスの「立憲君主制」などに倣って、天皇を「道徳的シンボル」とするといった斬新な考えを提起するのである。
そして、こうした考えがマッカーサー草案の「天皇=象徴」に影響を与えたのはホボ間違いない。
さらに森戸は、終戦後社会党の代議士となり、「マッカーサー草案」にはなかった「生存権」をネバリ盛り込んだ。
森戸の「生存権」の提案は、憲法25条第一項「日本人は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に生かされることになるのである。
これによっても、森戸辰男の存在の大きさが知れよう。
森戸は戦後初の文部大臣に就任するが、1950年強く嘆願されて初代広島大学学長に就任し、原爆の跡が生々しく残る同大学の再建・充実に尽力した。
また当時の広大千田町キャンパスで正門から理学部一号館(旧・広島文理大本館)に至るメインの大通りを設置し、この通りは彼の名にちなんで「森戸道路」と呼ばれた。

ところで日本国憲法の「生存権」規定が盛り込まれたにせよ、戦後の荒廃の中にあって「健康で文化的」という言葉が虚しく聞こえるほどに、多くの人々の「生存権」はないに等しいものであった。
学校では「欠食児童」があふれていたし、闇市の米を拒否して餓死する裁判官までもがいた。
しかし朝鮮戦争の「特需」によって日本経済は復興軌道に乗りはじめたものの、労働問題や公害問題などもおき始めていた。
1956年に石原慎太郎が「太陽の季節」を書き「経済白書」には「戦後は終わった」と書かれた。
翌年、森戸が盛り込んだ「生存権」規定の「実質的な意義」を問う重大な裁判が起きた。
「朝日訴訟」は1957年、結核患者である朝日茂氏が、当時の「生活保護基準」が憲法25条に反すると訴えた日本裁判史に残る注目の裁判であった。
まずは、国を相手に裁判をおこすという「発想」自体が珍しいことであった。
そして、ほとんど身寄りもない病床にある老人が、国を相手に裁判をおこしたこと自体一つの事件でもある。
訴訟内容は、当時の月々の生活保護支給額では憲法25条の「健康で文化的な生活を営む」ことができないというものであった。
「月額600円」の支給額は、肌着2年に一着、パンツ1年に1枚、足袋は1年に一足、ちり紙は1日に1枚半といった生活を想定して、計算・支給された金額なのである。
そしてそれ以外の「余裕」は一切なかったのである。
その朝日茂氏のギリギリの病院生活の中にあって、光明が射す出来事が起こった。
行方不明になっていた兄の所在が明らかなり、その兄から「仕送り」を受けることができるようになったのである。
しかし法にのっとって、その「余裕分」はすべて病院代にまわすよう命じられ、「相変わらず」月額600円で暮らせと判定されたことに、怒りを憶えたのである。
よく考えてみれば結核病が劣悪な条件であったにせよ、その頃「健康で文化的な生活」をしていた日本人が、一体どれほどいたであろうか。
そう考えると、朝日茂氏の訴えは、日本国民全体の「問いかけ」であったともいえる。
この裁判に日本全国の注目が集まらないハズがない。ら裁判に勝てば多くの人々の生活実態が改善の方向に向かう可能性があるからだ。
つまり朝日氏の訴えは、憲法25条の条文はどんな意義があるのか、ただの「絵に描いた餅」にすぎないのかと、という問いかけでもあった。
実はこの裁判、病身の患者が「一人で」起こした裁判というわけではなかった。
そこには患者組合の「連帯」というものが背景にあった。
朝日茂氏は一人立ち上がり孤軍奮闘したのではなく、実は患者組合の連帯さらには共産党の細胞(支部)の「支え」が背景としてあったのである。
朝日茂氏が入院していた「国立岡山療養所」では、反戦主義者の名の下に警察に検挙された経歴の持ち主を中心として患者組合がつくられていたのである。
病人はいずれ退院するものだし、患者組合の組織化ということを意外に思ったが、考えてみれば結核は当時としては不治の病であり、病院サイドにいいように扱われる可能性がある「弱者」なのだ。
病院内で患者による組合の組織化はむしろ必然というべきものであろう。
最高裁の判決たる「プログラム規定説」についてはココでは触れないが、朝日茂氏の死亡後に裁判が「途絶」しないように、支援者の一人が朝日氏茂氏の「養子」となって、最高裁へと続く訴訟が継続されたという事実も忘れてはならない事実である。
国立岡山療養所(現・南岡山病院)の傍らには朝日茂氏の戦いを記念して「人間裁判」の石碑が立っている。
朝日訴訟で「生存権」の実質的な意義が問われた時代にあって、森戸辰男自身も「生存権」の実質的保障に向かう仕事を行っていた。
1958年、森戸は戦前に勤め再建された大原社会問題研究所・労働科学研究所理事長に就任した。
そして、労働関係や公的関係者を多数受け入れ「研究部」を充実させ、職場の災害(労働災害)など産業公害などの「実証的調査」で、様々な提案をし世論を喚起したのである。

前述のとおり森戸辰男は戦後、戦後初の文部大臣に就任し、その後広島大学学長として、大原社問題研究所所長として、教育問題・労働問題・産業問題など「生存権」に関わる多くの提言をしてきた人物である。
ではなぜ森戸氏の「揮毫」が福岡西部の糸島高校にあるのかというと、広島大学学長であった当時の森戸氏が、広島大学(高等師範学校)の卒業生である糸島高校のU校長に送られたということである。
それまでといえばソレマデの話だが、森戸氏はただそれでけの理由で糸島高校の校訓を書いた「揮毫」を弟子(?)である校長に送られたのだろうか。「糸島」の地とはもっと深い「因縁」を感じられたのではないだろうか。
ところで森戸辰男は戦後初の文部大臣だから保守的な人物かと思われがちだが、戦前は「森戸事件」という「筆禍事件」を起こした経歴をもっている。
戦前の森戸の思想は、ドイツ歴史学派のクロポトキンの研究にもとづいて、資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な「政策」を志向するものであった。
ある学術雑誌の創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿したところ、同論文が社会主義より危険な「無政府主義」を鼓吹するものとして批判され、東京大学を休職処分となった。
この問題は、新聞等により流布したため非常に大きな反響を生み、本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴された。
結局、森戸は裁判で禁固三カ月の判決をうけ、巣鴨監獄に入り東京大学を去ったのである。
それが1920年のことで、世に言う「森戸事件」である。さらにこの3年後、「甘粕事件」がおきる。
1923年、無政府主義者・大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。
この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦の名前からとって「甘粕事件」という。
この事件は無政府主義者クロポトキンの「紹介者」を槍玉にあげた「森戸事件」のアオリという側面もあるだろう。
ちなみに、映画「ラストエンペラー」の中で坂本龍一が演じた満州国の黒幕がこの甘粕正彦である。
また、瀬戸内寂聴は、大杉の妻・伊藤野枝を主人公に「美は乱調にあり」を書いている。
この小説でもわかるが、現在今宿バスセンターに隣接する「派出所」があるが、この場所に警官詰所が作られたのも、すぐ裏手にあった伊藤野枝の実家で大杉・伊藤の動静を監視するためであったという。
そして大杉夫妻の死により、4人の幼子、魔子・エマ・ルイズ・ネストルが残された。
そのうちルイズとエマとが今宿の野枝の実家で祖父母に育てられたのである。
事件後、今宿海岸には、大杉栄・伊藤野江の墓もたてられた。(現在は移転している)
そしてルイズとエマは今宿から4キロほど西にある現在の糸島高等学校(当時は女学校)に通ったのである。
彼女達の両親が関東大震災のドサクサで殺害されたのも、森戸辰男が戦前に翻訳し紹介したクロポトキンの思想に強く影響され「無政府主義」を鼓吹したからである。
そして虐殺された大杉夫妻の子供達が通っていた高校の校長室に、森戸辰男の「揮毫」が飾られているというとなると、曰く言い難き「めぐり合わせ」のようなものを感じるのである。
では実際に、森戸辰男と大杉栄に「面識」はなかったのだろうか。
森戸と大杉に「無政府主義」という「共通項」があったにせよ、学窓に生きる森戸と野に生きる大杉とは、あまりにも世界が隔たっており、面識はないと思うのが自然かもしれない。
ところで大杉栄は軍人の家系に生まれた。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科に入学、幸徳秋水らが非戦論を喧伝するために興した新聞社「平民社」に出入りするようになる。
卒業後は社会主義運動の闘士として大会を開き演説を行い、そのたびに警官と衝突しては逮捕され、23歳のときには収監、服役する(赤旗事件)。
この大杉と親交を結んできたのが小説家の有島武郎で、映画「華の乱」には、黒マントの大杉が有島の邸宅を頻繁に出入りしていたシ-ンが描かれている。
1920年代、大杉は有島武郎から旅費を借金し、海外の社会主義者やアナキストの会合に参加した。
厳重な監視をかいくぐり渡仏しパリ郊外のサン・ドニの労働会館で行われた集会で演説を行い、逮捕されて強制送還されている。
その帰国した2カ月後の関東大震災のドサクサの中、大杉はパートナーの伊藤野枝、甥の橘宗一と共に憲兵によって連れ去られ虐殺されたのである。
実は有島は森戸辰男とも親交があった。渡米よりの帰国後に社会主義に傾倒していた有島武郎は、森戸事件のあと「森戸慰労」の手紙を送ったことにより、森戸との交友が始まったのだ。
とすると、「有島を介して」森戸と大杉が「面識」があったのではないかと推測できるが、その「確証」は見出せなかった。
しかしさらに調べてみると、その「確証」に近い事実があった。
中華革命を支援していた宮崎滔天を頼って日本で亡命生活を送っていた黄興が死去し、息子である宮崎龍介がその旧宅(東京府北豊島郡高田村)の管理を父の代理で引き受けることとなった。
龍介は黄興旧宅を(東大)新人会の合宿所として提供し、黄興旧宅には顧問の吉野作造のみならず、賀川豊彦・大杉栄・森戸辰男ら多くの知識人が出入りしていたというのである。
この事実からすれば、大杉栄と森戸辰男は出版物を通じての「知人」だけではなく、直接の面識があったというのが自然である。
というよりも「親交」があったといった方がよいのかもしれない。
戦後、広島大学長となった森戸氏が、広島大学卒業の糸島高校校長にこの「揮毫」を送った際に、かつて大正期の世情をにぎわせた甘粕事件で糸島郡の今宿村に葬られた大杉栄やその妻・伊藤野枝のこと、そして糸島高校で学んだ夫妻の「遺児達」のことが、キット心の中を駆け巡ったと思うのである。
翻ってみれば、森戸辰男が自らが招いた「森戸事件」による収監、関東大震災での虐殺、ドイツで迎えた第一次世界大戦後の混沌、さらには故郷広島の被爆、第二次世界大戦の混乱期など、森戸辰男はなんと数多くの「世界崩落」を、目の当たりにしたことだろう。
森戸氏にとって「生存権」の提起は、自身の「生存」問題と切っても切れないれ問題として提起されたのだろう。
またそれは、関東大震災のドサクサで殺害され、糸島のはずれ今宿海岸の「戒名なき墓」に葬られた大杉夫妻の死とも、無関係ではなかったハズである。