「財界」発

原子力発電所は、なぜか地方の辺鄙なところにある。原発を誘致し地元の経済と雇用を活発化し、多額の補助金を得るのがネライである。
東北の磐城地方(浜通り)は、福井県の若狭湾沿岸と並んで「原発銀座」といわれるところである。
また佐賀県にある九州電力玄海原子力発電所も、風光明媚な風景との対照が今更ながら異様にも映ってくる。
2010年6月23日、菅政権発足の2週間後にでた朝日新聞の社説に次のようなものがあった。
「原発輸出を成長戦略のひとつにあげている菅直人政権が、インドへの原子力協力を検討している。原発1基で数千億円のビジネスである。関連企業にとって大きな商機と映り、政府内には景気・雇用対策としての期待もある」と。
この社説では、NPT(核不拡散条約)に加盟していないインドに、おいそれと核関連技術や部材を輸出することは危険であり、成長戦略ならすでに「原子力協定」を結んでいる中国を重視すべきだとしている。
さらに、中国の原発は沿岸部に立地しているものが多いために、耐震性・信頼性の高い日本の関連部材の「有用性」は高いとしている。
だが、この記事には津波に関わる「耐水性」への言及はなく、今回の地震で日本の技術の「有用性」が反証されたカタチとなった。
ただこの時点で、民主党政府と財界とが歩み寄っての「原発輸出推進」であったことは読み取れる。
しかし、市民運動からスタートとして菅直人氏が、たとえ「雇用対策」ではあってもインドへの「原発輸出」を「後押し」するのには違和感があるが、与党党首・内閣府首長にでもなるとは、ある種「囚われ人」になるということなのだろう。
それにしても一番重大なことは、イマダに「震災関連法案」が一つもきまらないということだ。
菅政権の「求心力の低下」もさることながら、背景には財界との「折り合い」がツカナイ、ツケラレナイ、ということだろうか。
ちなみに日本の財界における重鎮(第7代経団連会長)である平岩外四氏は、東京電力会長だったし、少し意外なことをいえば、白洲次郎は、東北電力の会長をつとめたこともある。
スケールこそ異なるものの1995年の阪神神戸の大震災では、震災発生1カ月の時点で「震災復興基本方針法案」「被災者等国税関係臨時特例法案」「災害被害者租税減免徴収猶予法一部改正案」の3本が可決されているのである。
さらに、発生40日の時点では「被災市街地復興特別措置法案」「許可等有効期間延長緊急措置法案」「被災失業者就労促進特別措置法案」「特別財政援助法案」「平成六年度公債発行特例法案」の5本が可決されている。
菅政権の下で一本の「震災法案」が陽の目をあびないのも、「財界」の信認がいまひとつ欠けている、というか露骨に批判されているからのようだ。
しかしこれまで、日本社会が「分水嶺」にあり、なおかつ「政界」や「官界」が閉塞状況がある時に、良くも悪くも「財界」が力を発揮して「大転換」をもたらしたとを改めて思い起こす。
そのイクツカの場面を今日の参考としたい。

今日の「大震災」、「不良債権」、「政権の求心力の低下」という点で、1930年代に起きたことを想起せずにはいられない。
ただ1930年代当時と現代との大きな違いは、「国内の矛盾」を即「対外侵略(戦争)」で解決することは出来ないということだ。
しかし、それでも今日の「原発輸出」推進論などを見ると、厳密な意味での「非核三原則」に抵触することはないのか、と思わざるをえない。
さて、1936年に若槻内閣が出した「震災手形法案」の枢密院による否決は現代史のハイライトのひとつだが、それはどのような経過を辿ったのだろうか。
1920年代アメリカやイギリスが金輸出を解禁して「国際金本位制」に復帰するなか、経済面での国際協調を実現させるためには、日本も「金解禁」すなわち金本位制復帰をおこなう必要があった。
しかし、国際金本位制のもとでの自由貿易システムに復帰するためには、まずは不良債権化した「震災手形」の整理が先決だった。
そんな時、1927年3月議会で関連法案を審議中,片岡直温蔵相の失言によって一部の銀行の不良な経営実態が明らかになると、「取付け騒ぎ」がおこった。すなわち人びとが「列をなし」預金の引き戻しに殺到したのだ。
さらに、台湾銀行が鈴木商店(当時一位二位を争う商社)に対して巨額の不良債権を抱えていることが明らかになった。
台湾銀行は日本の植民地政策の中で肝要な銀行であっったが、鈴木商店が倒産し、台湾銀行もまた「破産の危機」に直面したのである。
その結果、「取付け」騒ぎが全国に拡大し、華族の出資による十五銀行など、休業する銀行があいついだ。
そこで若槻内閣は、台湾銀行の破産を回避するため、「緊急勅令」(=天皇の命令)によって日本銀行に「特別貸出し」を行わせようとしたが、天皇の諮問機関である「枢密院」はそれに反対したため、危機回避に失敗し、同年4月総辞職したのである。
若槻内閣は総辞職し、立憲政友会の田中義一内閣に変わるが、高橋蔵相はモラトリアムを実施するとともに、日本銀行の特別融資により金融恐慌をしずめた。
結局枢密院は、憲政会・若槻内閣の「特別貸出し」にはNOをだしたが、立憲政友会・田中内閣の下での「特別融資」には即YESをだしたわけである。
枢密院は憲政会内閣の「幣原外交」(=国際協調外交)に不満で、憲政会内閣にかえて政友会内閣を登場させ、そのもとで中国に対する外交政策を「強硬外交」へと転換させることをネラッていたのだ。
この時、中国進出の名目は、中国に進出した日本企業で働く「在外居留邦人」の保護ということであった。 すなわち財閥の強い要望が背後にあり、軍部もそれを強く押した。
さらに、「金融恐慌」の深刻化により、中小銀行の多くは経営破綻に追い込まれ、さらに1927年制定の「銀行法」によって整理されていった。
その結果,普通銀行の数は1926年の1420行から1929年の881行へと減少し、さらに預金は財閥系の三井・三菱・住友・安田・第一銀行(5大銀行)に集中した。
こうして財閥は金融面からの産業支配力を強めていったのである。
つまり、枢密院による「震災手形法案」拒否は、財閥の意向を汲んだものであり、日本の「戦時体制」への分岐点になったといえる出来事であったといえよう。

「戦時体制」というのは、企業や個人の「利潤追求社会」とは一線を画した体制であり、市場を経由せずに「直接的統制」により、それを制限する体制といってもいい。
戦時体制の只中で起きた「企画院事件」は、先の「震災手形否決」ほどは目立たないものの、時代の分岐点にあって財界が大きな役割を果たしたという意味で共通する部分がある。
ところで企画院とは、戦時経済の企画と推進に当たった「内閣直属」の政府機関である。
1937年に設置され、日中戦争の拡大に伴い、戦時統制経済を推進する「革新官僚」の拠点となり、「国家総動員体制」の計画実施に当たったものである。
一般的に軍人は「戦う」ことに長けても事務能力は欠いており、戦うに際して必要な物資を「調達」し適正に「配分」する人材が必要となる。
そしてそうした能力に長けた官僚群は「革新官僚」とよばれ、戦時体制のヘゲモニーの一部はこうした官僚群にあったとされる。
特に逓信省出身の官僚の一人が「電力国家管理案」を実現してから注目されるようになった。
日本が今尚「官僚主導」といわれるのは、こういう「戦時体制」からヌケきれていないという部分があるのかもしれない。
さて当時の財閥を代表する人物に阪急や宝塚歌劇団を創設した小林一三がいた。そしてこの小林と革新官僚の対立が「企画院事件」を生むのである。
小林は第二次近衛内閣で商工大臣となったが、資本主義的(自由主義的)財界人である小林は「統制経済」もしくは「計画経済論者」の革新官僚の代表格である商工次官・岸信介と強く対立し、小林は岸をアカであると批判した。
もっとも岸の方も、軍部と結託して小林が「軍事機密」を漏らしたと反撃したのだが、小林により岸が更迭される事態となり、さらに1939年から41年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された。
これが世に言う「企画院事件」である。
ところで「革新官僚」の性格を形成する上で、官僚を育てる東京大学の経済学部で、当時「マルクス経済学」が主流を占めていたということを忘れてはならない。
東大経済学部で大内兵衛教授の下でマルクス経済学を学んだ彼らが、「市場主義」自由経済よりも、はるかに「国家統制的」な「計画経済」に傾いていったのは、必然すぎる「必然」であったといえる。
実際の革新官僚の「モデル」はソ連の計画経済であり、相あわらず「秘密裏」にマルクス主義を研究していた。
結局、「企画院事件」とは、革新官僚があまりにも革新的すなわち「社会主義的」な立案を行ったため、それらが「赤化思想の産物」(アカ)として小林一三らの財界人や平沼騏一郎ら右翼勢力から強い反発を受けたということである。
とはいっても近衛首相自身、京都大学の経済学部でマルクス経済学者の河合肇の薫陶を受けた経歴があり、社会主義への理解をしめし、首相が主催する「昭和史研究会」には「左翼的傾向」の者もいたのである。
そして、日本の最高軍事機密が近衛のブレーンからゾルゲを通じてロシア側に流出する「ゾルゲ事件」に繋がることになる。
ただ国内で必ずしも陽の目を浴びなかった革新官僚達は、その夢と野望を「満州」の地で実現し、国家統制経済を生み出してみせた。その中心にいたのが星野直樹であり、岸信介であった。
さらに戦後、国会議員として名を馳せた者は以下のとうり、キラ星のごとく居並んでいる。
稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作、帆足計、和田博雄、原口武夫、高村坂彦、牛場信彦、佐藤忠雄などである。

1955年社会党の左派右派が合同した為に、財界は自由党と民主党が合同しなければ安定した「保守政権」すなわち「自由主義経済」の維持は望めないと要望し、「保守合同」が行われた。
つまり「55年体制」の発端は、「財界発」であった。
ところで、最近の政財界の力関係で動きで注目すべきことは、1987年のリクルート事件以降の「政界再編」の中で「財界」が枢要な力を発揮したことである。
また、最近実現した保守政党による「二大政党制」も一見、小沢一郎氏らがデザインしたように見られがちだが、実際には「財界発」なのである。
1989年の総選挙で自民党が惨敗し、与野党の勢力が逆転した。
自民党の惨敗の理由は、リクルート事件の広がり、コメ自由化、消費税導入問題などで国民は、NOを突きつけたのである。
加えて、社会党のマドンナ候補の勢いに押された面も大きい。
何しろ財界の中心人物である自動車総漣会長の石原俊らは、このままの自民党では参議院選で戦え得ないと、リクルートで名前が上がった議員は全員バッジをはずすべきだと発言し、選挙前から野党とも接触を始めたのである。
参議院選後、自民党はその敗因の一部をそうした「財界の不協力」とナスリつけたが、そのことがかえって長年のパートナーである財界との「隙間」を大きくしていった。
経団連副会長の永山時雄は明確に「保守合同の歴史使命は終わった。中道までを含めた二党で政策を争うべきではないか。議会制民主主義の本来の”二党制”に戻るのがいいと思う」と発言した。
そればかりか、財界は土井たか子を党首とする社会党へ「接近」を始めたのである。
そして、もしも日本社会党が「西欧型の社会民主主義」を目指すのであれば、財界としても社会党をことさら「敵視」する必要はないという機運が高まっていたのである。
何しろ、OECD加盟の先進24カ国のうちすでに10カ国で「社会党」を名乗る政党が政権に参加しているのである。
ここで「西欧型の社会民主主義」に共通する原則は、まず第一にマルクス・レーニン主義と決別すること、第ニに階級政党から国民政党へ移行すること、第三に「西側」の一員としての立場を明確化すること、第四に自由主義体制の維持、だった。
ただ問題は、社会党が「社会民主主義」を標榜した時に、労働組合がどのように動くかが焦点とおなった。
ただ財界内部には「社会党左派」への警戒感が消えすにいたが、財界との表裏の関係にある「連合」は穏健な労使協調路線をとり、社会党を中心とする野党の現実路線の推進役となるとみられた。
そして1989年官民合同による「新連合」が誕生した。
そして、財界はこれによって西欧型社会党への脱皮を期待し、保守による「二大政党制」をデザインした。一方、自民党としては、実際に選挙で大敗し、さらに財界と社会党との「接近」を知り、気分が良かろうはずはない。
ところが1990年、小沢一郎氏、当時自民党幹事長(海部政権)が、「体制選択選挙」と銘打って自由主義体制への危機感をあおり、「経団連」ルートではなく「直接」業界へ働きかけて人的協力および献金を呼びかけた。
それはある意味、自民党と財界のミゾの広がりを物語るのでもあったが、その危機意識は確かに伝わり、1990年衆議院選で、自民党は「巻き返し」に成功したのである。
以上のように保守政党による「二大政党制」も一見、小沢一郎氏らがデザインしたように見られがちだが、実際には長く「水面下」で、社会党との「折衝」を続けた財界が大きな役割を果たしたのである。
そうした働きを通じて、官民一体の「新連合」が民主党の支持母体となるにおよび、民主党がもう一つの保守政党としての役割を担うことになったのである。

最近、菅首相によって静岡県の「浜岡原発稼動停止」要請があり、中部電力はそれを受け入れた。
長く言われてきた「危険な断層」だけに、とりあえず「防波堤」が出来るまでは停止しようというのは、モットモなことだと思われる。
ただ菅首相が周囲への様々な意見を聞いたという形跡はなく、「場当たり的」とも批判されているが、一番大きな要因は、アメリカからの「圧力」(要望)があるのだと思われる。
東海プレート上には横須賀基地があるし、アメリカは国益にソッテ要望を出したということである。
それよりも浜岡原発の停止要請によって、30年以内に東海大地震がおきることが、90パーセントも確率があることを改めて知らされた。
東海大地震では、日本の大動脈を寸断されることでもあり、そうなれば個々の企業や個人が「利益・利潤第一主義」でやっていく社会体制というのは、もはやありえないように思える。
そこで思い浮かべたのが「戦時経済」で、さらにはそこで起きた政・財・官の確執などのことを知った。
「国家統制経済」などというのは、本来望まれる社会体制であるハズもないが、何らかの形で政治と経済が深く結びつかないと、ライフラインそのものさえ保障されないことも、アリウル。
そこで、「政」「官」の動きが鈍いのなら、「財界発」の動きが注目されるところである。