戦争と夢の超特急

7月、中国の高速鉄道列車事故で死者が多数が出た。技術供与されて開発した列車がどんなに優れていようと、システム全体を完全に動かすには、まだまだ「未熟」な部分がたくさんあったのだと思う。
日本人からすると、外国の技術の「寄せ集め」にすぎないものを、独自開発したごとく宣伝して走る「新幹線」モドキに反感を抱いてしまう。
と同時に、その事故後の処理に対しても、中国には新幹線レベルのハイテクノロジーを動かす為の根本的な意識が欠如していると思わざるをえない。
それは日本の原発にもあてはまることかもしれないと思いつつ、日本の高速鉄道開発をめぐっては、日本が中国に「負う」部分があったことも思い至った。

ところで技術者が「技術開発」にかける思い入れは、様々であると思うが、日本の技術者が「新幹線」の技術にかける思いはヒトカタならぬものがあった。
その「思いの芯」の強さこそが、新幹線が今日まで50年以上事故による死者もなく運行している最大の原因なのではないかと思う。
だから外国人が、「新幹線」モドキをどんなに作ったところで、その「芯力」にいたるものまでをコピーすることはできないのだ。
実は、新幹線の技術のルーツは、太平洋戦争末期の特攻機「桜花」(おうか)にまで溯る。
かつて、阿川弘之が「雲の墓標」に描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿であった。
桜花は、機首部に大型の甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に「体当たり」させるものだった。
母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速し、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に「体当たり」するよう設計されていた。
しかし航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならない欠点があった。
そこで、新型機ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。
この特攻機こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、 「人間爆弾」と呼べるものである「凶器」とも「狂器」ともいえる「人間爆弾」をさしていた。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BONB、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていたという。
「桜花」の発案者は当時日本海軍の航空偵察員であったO少尉であったといわれいるが確証はない。ただ少なくとも、O少尉が「開発の端緒」をつけたことは確かである。
「人間爆弾」の構想に対して、O少尉と同席していた飛行部設計課の三木忠直技術少佐は「技術者としてこんなものは承服できない、恥だ」と強硬に反対したという。
そして、三木が「誰がこれに乗っていくんだ」と質したところO少尉が「自分が乗っていきます」と言いきったという。
これを受けた航空本部は「軍令部」(=海軍本部)に意見を求めたところ、ちょうど軍令部では「特攻兵器研究」の真っ最中であったため、この提案に飛びついた。
結局、この新兵器は機密保持のために発案者の名前から「マル大(ダイ)」という名称で呼ばれることとなり、正式な「試作命令」が空技廠に下ったのである。
空技廠はY技術中佐を主務者に任命し、実際の設計は当初反対していた前述の三木忠直技術少佐が担当することになった。
特攻兵器であることから、ジュラルミンや銅等の戦略物資に該当する各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用した。
風洞実験結果やら、空力計算書やら、基礎設計書など「基礎資料」を基にわずか一週間で基礎図面を書き上げ、さらにその一週間後には「一号機」を完成させたのだから、人命さえ考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれるものだ。
しかし、この新兵器に対しては、実戦のパイロットからは「日本一の俺が最精鋭を連れて行っても桜花作戦は成功しない、必ず全滅する」と、現実を直視していない上層部に対して血を吐くような批判もでていた。
「特攻専用機」であるという性質上、着陸進入を考慮した翼型ではなく、ただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
また、母機が敵艦隊に接近するための「制空権」の確保が可能であれば、母機の通常攻撃で充分に戦果が期待できる。 つまり、「桜花」はロジック面からも破綻した兵器だったのだ。
桜花は、最初フィリピン決戦で投入される予定であったといわれているが、使う機会を得ぬまま「沖縄戦」に突入していく。

それから20年後、「新幹線」プロジェクトは、この「桜花」開発の中心であった三木忠直によって進められた。
「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
しかし時は「平時」ではなく、それを作らせることを強いるだけの「切迫感」が漲っていたのである。
その結果、多くの兵士達を死なせてしまったことに対して、三木は激しく自分を責めるところがあり、キリスト教の洗礼をうけた。
三木は、戦争が終わった時まだ働き盛りの30代だったが、戦争責任問題でなかなか就職はできず、ようやくて国鉄の外郭団体である「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
列車の開発にたずさわることになった三木は、次のようにその当時の気持ちを語っている。
「とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」と。
そして、今度こそは、本当に日本人の役に立つような「技術開発」に携わる決意で仕事を探したのである。
そして就職できた国鉄鉄道技術研究所であったが、当時の国鉄には、内部に正式の技術開発部門があり、国鉄鉄道技術研究所という機関は、当時の国鉄では「外様」のような存在でしかなかったのだ。
つまり研究所とは名ばかりで、不況で食えない技術者達を吸収する組織だったようである。
当時の国鉄は、発展する「航空旅客産業」の発展に対しても危機感を募らせていた。
確かに東京ー大阪間の7時間と1時間30分では、勝負は目に見えているように思われた。
そして三木は逆にソコに「活路」を見出そうとしていた。三木らは「東京―大阪3時間への可能性」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月、遂に国鉄総裁の前で、その実現可能性を力説することにした。
そして国鉄総裁は三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなったのである。
結局、新幹線開発には、三木らが生み出した「航空機」開発の技術が余すところ無く注入されることになった。
まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。
この開発に当たって、三木の脳裏には自分が作った急降下爆撃機「銀河」の「流線型ボディ」が常にあったという。
また、世界最高水準の250キロを超える超高速での走行には、車体の「揺れ」を防ぐ技術開発が必要であった。
その当時多かった車両の脱線事故は台車の「蛇行」動(揺れの共振動)であるというのが持論であった。
ある速度を超えれば、振動と振動が「共鳴」運動をおこし「制御不能」となってしまう。
そのため戦時中史上最強の運動性能を持つと言われたゼロ戦の機体の揺れを制御技術を確立した松平精というひとりの技術者がまねかれた。
この技術者は、画期的な油圧式バネを考案し、「蛇行」道を吸収する車輪の台車を完成することができた。
また、安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて、新幹線が「自動で停止する」ような仕組みが必要とされた。
それが「自動列車制御装置」(ATC)であるが、やはり軍で「信号技術」を研究していた河邊一という技術者がこの実験に取り掛かり、この問題も解決していった。
その定義は、「先行列車との間隔及び進路の条件に応じて、車内に列車の許容運転速度を示す信号を現示し、その信号の現示に従って、列車の速度を自動作用により低下する機能を持った装置をいう」となっている。
三木はこのプロジェクトの完成によって、「私の持っている技術のすべては出し尽くした」 と国鉄への辞表の提出し、周囲をアぜンとさせた。
それから1年後の1964年10月、東京オリンピックの開催に合わせる形で、東海道新幹線は開通の運びとなり、東京~大阪間を当初の目論見通り「3時間半」で走破する「夢の超特急」は最高速度210キロの営業を開始したのであった。
この技術は、オリンピックで世界中から集まった人々の賞賛を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示すと共に、日本経済の飛躍的な発展の原動力ともなっていったのである。

鉄道が全国の津々浦々を走り、高速列車の時代となると、ますます「鉄の質」が問われることになる。
だから、製鉄の充実なくしては「新幹線」の成功もありえなかった。
また自動車の時代も目の前に迫っていた。
ところで、日本の占領政策は、いわゆる「ニューディール派」によって行われたことは周知の事実である。
社会主義的な傾向をもった政策であるが、彼等はアメリカで実現できなかった政策を日本の地で、いわば「実験」として行ったのである。
もっとも、彼らが日本の為にどれほどの理想と信念をもって占領にあたったかはハナハダ疑問である。
もっと真相に近いことをいえば、彼らの真のネライは日本を「あらゆる意味」で弱体化することといってよいかもしれない。
憲法で武器の保持を禁止し、近代戦を遂行するだけの工業力をもたないするようにすることである。
財閥解体や「経済力の集中」の排除などがソレであるが、スト承認やスト黙認もその「ライン上」で考えた方が理解しやすいところである。
占領軍にとっては日本の軍国主義が再び「復活」にならないようにするというのが「第一の目的」であり、その目的の 上に様々な「理想」がで糊塗されたということではないだろうか。
そういう占領軍の「ホンネ」は、1950年の朝鮮戦争の勃発による「占領政策」の頓挫と転換によって、結果的に「読み取る」ことができたわけだ。
占領軍は、日本の経済力を町工場の集積ぐらいのレベルに抑えておこうとしたかもしれないが、日本人の本来もつエネルギーが「清く貧しく」で収まりがツクというわけにはいかなかった。
そして、こうした日本弱体化プランに最初に抵抗しえた人物というのが、川崎製鉄社長の西山弥太郎氏である。
当時の製鉄業界の勢力図は、高炉をもつ八幡、富士、日本鋼管、平炉をもつ川崎製鉄、神戸製鋼、住友金属があった。
このうち平炉による企業は製鋼メーカーとはいっても、原料として一貫メーカーから「銑鉄」を買わなければならない「情けない」存在で、高炉の企業とは大きな格差があった。
その原鉱石もほとんど中国から輸入をあおぎ、品質も種類も雑多な原料から製造しなければならなかった。
かつて、八幡の新日本製鉄で見た、真っ赤に溶けた鉄が勢いよく帯状に流れていく姿は今でも目に焼き付いているが、ここでは1950年代でさえも、下駄を履いた工員が働いていたという。
靴ではなく下駄を履いたのは、溶鉄が飛び散ったのを瞬時に飛び退くことができるからだ。
さらに人間の五感にたよって鉄の「出来具合」を判断するといいったまるで江戸末期の「反射炉」ソノママのことがおこなわれており、実際に生産された「鉄の質」自体もマバラであった。
西山は、アメリカのような「銑鋼一貫」の大工場を作らなければ、今製鉄の状況が続く限りは日本は貧相な町工場だけの国になってしまうと考えた。
西山のビジョンは、熔高炉(高炉)、平炉(転炉)、圧延設備を一貫して連動させる設備で、そこまで原料を運び貯蔵し製品を送り出す船、貨車、トラックなどの「輸送設備」がワンセットとなった「一貫大工場」の実現であった。
日本は資源を欠くとはいえ、その供給先は太平洋にむかって無限に開いている。
そして銑鋼一貫の大工場の立地条件を検討した上で、最終的に千葉に決め、1950年ごろから各界の協力やら資金集めに奔走した。
そして様々な困難を乗り越え、1955年に千葉製鉄所第一期工事が完成し、川鉄は高炉二基をもつ本式の製鉄所になったのである。
豪放磊落な西山であったが、全身全霊をあげて事業に取り組み、1966年水島製鉄所の完成を目前にして亡くなった。
しかし千葉製鉄所の完成、そして川崎製鉄の躍進が経済界に与えた影響は計り知れないものがあった。
占領政策で押さえ込まれオズオズとしていた経営者達は、これ以後世界が驚くほど借金をして、大胆に設備するように変貌したのである。
住友金属、神戸製鋼も川鉄に続き、「地鳴り」がするかのごとき日本製鉄業の前進があった。
戦後の経済界の本当ののキーパーソンは、この西山弥太郎といっても過言ではないのだが、この川崎重工の車輌部こそが新幹線の車体の製造にあたったのである。
そして事故を起こした中国の高速鉄道に技術供与したのが、外ならぬこの川崎重工業であった。

中国鉄道部の報道官は「中国の高速鉄道は日本の新幹線の海賊版」という言い方に反発するかように、さまざまなデータを挙げながら、自国技術の優越性と信頼性を力説してきたが、7月23日の大事故で、それは打ち砕かれると結果となった。
中国のインターネットメディア「新財網」が伝えたところによると、川崎重工業社長の大橋忠晴氏(当時)が中国側技術者に「高速鉄道技術の掌握で、急いではいけない」と忠告していたと報じた。
また技術供与時の「合意事項」も、日本側と中国側では説明が異なると紹介した。
中国の他媒体も同記事を転載したが、それによると「中国が高速鉄道技術の導入を決めた2004年、国内における営業運転の最高時速は160キロメートルだった」と指摘した。
川崎重工業の大橋社長は、「急ぎすぎてはいけない」と忠告し、「まず8年間をかけて、時速200キロメートルの技術を掌握すべきだ。最高時速380キロメートルの技術を掌握するためには、さらに8年は必要だ」と述べたという。
しかし、中国政府・鉄道部の部長(当時)は「最高時速は、大幅な引き上げ(自足380キロ)が必要として、強引に開発を進めさせた。

ところで、日本の新幹線開業を遡ること30年前の1934年に、日本は中国満州で「夢の超特急」を完成させ営業運転を開始していたことは、あまり知られていない。
満鉄(=南満州鉄道株式会社)がその技術の粋を集め、日満両国がその威信を賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車は、大陸縦貫特別急行「あじあ号」であった。
初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンなフォルムと、スカイブルーに塗装された蒸気機関車に牽引された「あじあ号」は、当時の世界各国の主要鉄道を凌ぐ、平均時速82.5Km・最高時速120Kmで運行したのである。
それまで二日かかっていた大連─新京間701.4Kmを、8時間30分で接続した。
ちなみに、当時日本国内で最も速かった営業車輌は、特急「[つばめ」の平均時速60.2Km・最高時速95Kmで、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しなかったのだ。
ところで、超特急「あじあ号」が誇ったのは「速さ」だけではなかった。
全車輌が、寒暖の差が激しく厳しい満州の気候に対応する為に密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置を完備していた。
「あじあ号」は、その優雅さで知られるオリエント急行、あるいは現在の新幹線にも匹敵する、正に「夢の超特急」だっ た。
振り返ってみれば、中国満州は戦後日本のいわば「実験場」であったのである。