災害と時代

ここしばらく東日本の巨大地震を見ている。というよりテレビから目がはなせなくなっている。
イツカくると予想もしていたが、 津波で家や車が玩具のように流される風景は、あまり予想できるものではなかった。
最近の情勢は1930年代に似ているといわれるが、当時東北を襲った「極限的な」飢饉とも重なる。
「飢饉」は主として火山灰が空を覆っておこるものだから、地下奥深い地殻活動が起こす地震と共通するものがある。
ただ「飢饉」は極度な食糧難をまねくために地震同様に悲惨ではあるが、破壊や崩壊といった自然の「猛威」を感じさせるものではない。
6年前の福岡地震の体験から「地面が動く」というのは、台風とか雷とかいうものと根本的に違うと思った。
何が違うのかというと、人間の「無力」を知らしめる度合いにおいて、ということだ。
日本人は伝統的に自然と調和し、生活の中に「自然」を取りこむ、逆に「自然」に抱かれんとする文化的態様をもつ国民である。
「地震」は人間がイササカでも抱いている自然への信頼感への否定であり、その信頼を根底から打ち砕いてしまうかのようだ。
それは一夜にして築きあげたものを喪失する点で、経済的「恐慌」と合い通じる部分がある。
そして「太平の驕り」と大災害とのツナガリを「深い」ところで感じ取っていた人々がいた。
それは、日本の資本主義の立役者である渋沢栄一と小説家の芥川龍之介である。
それは「天譴」(天の人間に対する譴責)という認識において共通している。

関東大震災は死者・行方不明者あわせて14万人という史上最も大きな被害を出し、歴史的な画期となった。
1923年9月1日にマグニチュ-ド7.9の規模で首都圏を襲った大震災前夜、人々はどのような生活をしていたのか。
関東大震災前夜、首都圏で都市生活者が増え、東京にはサラリ-マンがふえ、カフェなどが多く作られ新しい都市のライフ・スタイルが人々に普及し始めようとしていた。
他方、成金根性と救うべからざるウワベだけの文化と一方で蔓延しつつあるデカダンの風潮が蔓延しつつあった。
関東大震災前夜は、人々の「欲望」が解き放たれた時代であったということができる。
ヨ-ロッパを主戦場とした第一次世界大戦後の大戦景気で、アメリカにむけての輸出急増むけ生糸が急増し、世界的な船舶不足で日本に空前の景気をもたらし、多くの「船成金」が誕生した。
私の地元福岡でも、炭鉱が活況を呈し、炭鉱成金が多く現われた。札(紙幣)を燃やして暗がりの中の明かりにしたというエピソードまでもあった。
ただし大戦景気の底は浅く、ヨ-ロッパ復興とともに、1920年前後を境にはやくも「戦後恐慌」の時代をむかえ、多くの「成金」は没落する傾向にあった。
普選運動、教育の普及、大衆社会の進展のにより、いわゆる「大正デモクラシー」を謳歌する一方で、労働運動、小作争議、などが頻発していた。
いわゆるバブル崩壊後に貧富の差は広がり、社会改革への要求が社会各層から「噴出」した時代とみることができる。
そうして突然起きたのが、関東大震災である。
こうした未曾有のデザスターを当時の人々がどうに受け止めたか興味深いところだが、当時の論評は意外なことにこの人間存在の根本を揺るすこの出来事を、それほど異常なコトとしては受け止めてはいないという。
大地震というものが一定の周期で起こるものだからかもしれないが、新聞社などは「Xデイ」の記事を用意していたフシさえある。
ソノウチクル、イツカクル、という予感をもってこの出来事を迎えたということである。
自然との調和意識の一方で、日本人のの意識裡に、人間と自然の関係の「破綻」は、イツシカ刷り込まれてきたのかもしれない。
それは日本の国土が火山列島であり、江戸時代以来の浅間山大爆発の灰による飢饉の記憶によるものと思われる。
ところで、この時代を代表する文化人に芥川龍之介がいる。
芥川龍之介はこの頃鎌倉を訪れ、藤、山吹、菖蒲の咲き具合から「発狂」の気味を感じ、「天変地異」が起こりそうだと言って回っていたところ、その一週間後に本当に大地震が起こったという。
さすが神経がピーンと張り詰めていた芥川であったればこそ、自然の中に地震の「予兆」を読み取ったのだろう。
ところで芥川の自殺は大震災の4年後の1927年、「ただぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺した。
当時の世相の中にも「物書き」の仕事の中にも、何らか「崩落」の予兆を感じとったのか。
または関東大震災後に続いた凄惨な事件(社会主義者虐殺・朝鮮人虐殺など)が暗い影をなげかけたのか。
ただ芥川の自殺が何かを暗示したかのように、また芥川の「ぼんやりした不安」を裏書きするかのように、死後2年目1929年世界恐慌がおこり、最も暗い時代に突入する。
日本は大恐慌から、軍国主義の台頭、226事件、太平洋戦争へと向かっていった。
その過程で、言論や出版も厳しい規制の中におかれていく。
そして当時、恐慌の被害を最もうけた地域が東北・中部地方であったのだ。
ところで、芥川龍之介の小説の中で最も「暗示的」に思えるのが、「羅生門」である。
中学校ではじめて読んだ時、この小説のコワサはあまりわからなかったが、次第に芥川が「時代を嗅ぎ取る」能力が、この小説の中に「凝縮」しているように思うようになった。
驚くべきことに、この小説は日本が上り坂にある時に書かれたからである。
小説の概要は次ぎのとうりである。
都の門は荒れ果て、狐狸や盗人が棲むようになり、引き取り手のない死体までもが棄てられている。
一人の下人が門の下に佇んでいる。平安京は衰微しておりその余波からか、下人は主人から暇をだされて、格別何もすることはない。つまり失業中でホームレス状態である。
下人は何とかせねばと思うがどうにもならない。結局、餓死するか盗人になるか、と途方に暮れている。
この小説の下人は絶対に悪人ではない。惻隠の情をもったごく普通の人間である。
なぜなら下人は、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆をみて、ひとかたならず嫌悪と憎悪を抱くからである。
下人は老婆の襟首を掴み問いただすが、老婆は鬘にして売るのだという。
下人はそれを聞き、あらゆる悪に対する反感が湧き上がり、この時点では饑死するか盗人になるかと云う問題でいえば、明らかに「餓死」を選んでいた。
そんな下人に、「魔」が入り込む瞬間こそがこの物語のハイライトである。
老婆は言う。「この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女だ。この女のした事が悪いとは思わない、饑死をするのじゃて、この女わしのする事も大方大目に見てくれるであろう」と。
皮肉なことにこの言葉は、下人の心に今まで全くなかった勇気を与えた。
下人は「きっと、そうか」と確認した上でこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」
下人は、すばやく老婆の着物を剥ぎとりしがみつこうとする老婆を振り払い、夜の闇へと消えた。
「羅生門」は欧州で第一次世界大戦が始まった頃に書かれたものだから、この小説はいわば「浮かれた」時代にかかれたものである。
このバブルがはじけた後に、労働争議や小作争議が頻発し、政府は国民に「食」と「職」を保障することが大きな課題になっていく。
芥川は、どんな善良な人間でさえ「餓死するか盗人になる」という時代が来ることを「予見」していたのだ。
この小説が書かれた頃、シベリアに兵隊が出兵するので米需給が逼迫して米の値段が二倍に跳ね上がった。
米の値上が騒動となり全国に波及し内閣がつぶれた。
いわゆる1917年の米騒動であるが、国民は餓死どころが「一割」の生活水準の切り下げにも我慢できなかったわけだ。
1930年代の日本軍の満州への進出も、国が恐慌による農村の疲弊で苦境に追い込まれた人々に「食」を保障してやれなかったことによる。
国家は富裕層が階級欲を満たす道具という見方があるが、むしろ国家は人間の欲望をくみ上げるマッチポンプのような役割をして暴走する。
そして国がマルゴト「盗人」になった感がある。

大正デモクラシーの時代は、人間の欲望がそれまでになく解き放たれていた。世の中には船成金や石炭成金があふれた。
そうした「浮かれた」時代に鉄拳をくらわすような出来事を「期待する」文化人や経済人もいた。
当時の論評には、大震災の意味を「天譴」や「天誅」として捉えた識者も多かったからである。
ただ、関東大震災がそういう意味での「天譴」ならば下町より、お金持ちの多い山の手の方が甚大な被害があってもよいように思わぬでもないが。
「天譴」の是非はどうあれ、少なくとも大震災を偶発的な自然災害ではなく、人間にとって何らかの「メッセージ」と感じたものは少なからずいた。
こうした「天譴論」の筆頭に立つ経済人こそが、日本資本主義の立役者である渋沢栄一であった。
同時に渋沢栄一は、関東大震災後の「復興」にもっとも大きな貢献をした。
つまり、渋沢は大震災を「資本主義」の正しい姿にもどす「機会」ととらえていたのだ。
それは渋沢の「我が国民は大戦以来いわゆるお調子に乗って太平をむさぼってはきはしなかったか。今回の大震災は何か、何か神業のようにも考えてならない」という談話でもわかる。
それだけ氏にとって、経済界や社会風潮に目に余るものがあったのだろう。
一方で渋沢は、関東大震災が「弱者」をさらに苦しい立場に追い込んだ事実も充分すぎるほど認識していた。
渋沢は、大震災善後会創立、副会長になり、民間の経済人として救護・救援活動に力を尽くした。
そして災害を受けた都市の復興のみならず人々の「心の復興」をも目指したのである。
渋沢栄一の「言葉」は当時の時代雰囲気を伝えると同時に、今の時代にこそ「輝き」をはなつように思う。
①大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは決して進むべきではない。空論に走り、うわべだけを飾る国民は決して真理の発達をなすものではない。
②有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だが、これは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら資金ができぬはずがない。
③すべて物を励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。いやしくも正しい道を、あくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。
④老人が懸念する程に元気を持って居らねばならぬ筈であるのに今の青年は却て余等老人から「もっと元気を持て」と反対な警告を与へねばならぬ様になって居る。危険と思はれる位と謂うても、余は敢えて乱暴なる行為や、投機的事業をやれと進めるものではない。堅実なる事業に就て何処までも大胆に、剛健にやれといふのである。
⑤入るを計りて、出(いず)るを節す。

渋沢栄一は日本財界の生みの親というより、日本資本主義の設計者といってよい人物でもある。
渋沢が亡くなったのは1931年だが、警醒の言葉を発しつつ生きた時代は、不況、政治不信、大地震、東北の被害といい、今日という時代と似通っている。
最近、渋沢に「雨夜譚」(あまよがたり)という自伝があるのを知った。
自伝ならば「福翁自伝」や「高橋是清自伝」など日本資本主義と関わりの深いものの方がはるかに有名なのだが、「雨夜譚」なんていう源氏物語を思わせるタイトルにひかれてつい読んでしまった。
ただ渋沢栄一は、福沢と違い洋学の影響のすくない「血洗島」(現埼玉県深谷市)という不気味な地名のついた地を出身地として、その精神のアリヨウはある意味で「奇跡」のようでもある。
その渋沢氏は、国内では前例のない「資本主義の道」をつくり続けた人物である。一体その精神たるや如何なるものかと思わざるをえない。
そして「雨月譚」とは、「雨夜」のごとく先行き不明な道を渋沢自身が、自他と問答をくりかえしてきて歩んできたという内容であった。
しかし「師匠」とよばれる人が全くいなかったわけではない。
私が大学時代に学んだ教授の一人に産業社会学の尾高邦雄教授がいて、当時テレビにしばしば登場していたN響指揮者・尾高忠明氏がその甥であることを聞いていた。
「雨夜譚」を読んで、あの素晴らしい尾高一族のご先祖・尾高惇忠こそが渋沢栄一の「師匠」にあたる人物であることを知った。
「雨夜譚」には、渋沢栄一が7歳の時には従兄である漢学者の尾高惇忠のもとに通い四書五経や「日本外史」を学んだとある。
つまり渋沢家と尾高家は親族であり、様々な行動をさえ供にしてきたのである。
渋沢が若き日に、血気にはやる者たちと謀った「高崎城乗っ取り」計画は、尾高惇忠の弟・長七郎の説得により制止されている。
経済界における渋沢の「豊かな実り」を尾高という学者一族の巨木が支えていたのだ。
渋沢の「豊かな実り」といっても、他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、いわゆる「渋沢財閥」を作らなかったことにある。
私利を追わず公益を図るとの考えを生涯に亘って貫き通したことである。
多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
今、ハゲタカファンドが「この企業をのっとてやろう」と思えば、その会社の株式を他の金融機関から借りていて、片っ端からマーケットで売りを浴びせる。
こうして株価を急落させ、経営を窮地に追い込んで、子会社を切り売りさせたり、共同で不良債権の処理をする会社をつくったり、あるいは企業自体をつぶして会社をのっとり、新しい経営陣を送ったりもする。
外資ばかりでなく、ホリエモンや村上ファンドの経済観を思い起こす。
渋沢栄一が仮にこのような「マネーゲーム」の実態を知り、政治における虚しい足のひっぱり合いを見たら、「大災難」でもおきなければ、軌道修正がキカナイ、人の心を目覚めさせることはできない、と感じるかもしれない。
ところで、市場機構を「神の見えざる手」よび予定調和的世界観を唱えたアダムスミスには道徳哲学からスタートし、人間の「利己心」説きながらもどこか「性善説」があった。
最近有名になったハーバード大学のサンデル教授の「正義について語ろう」も市場経済に「公正」の観点を持ち込もうとする。
渋沢栄一には、尾高惇忠から学んだ「儒教倫理」があった。
グローバル化に符牒を合わせるかにように、こういう経済社会の「精神的要素」が剥落し、「性悪」資本主義に移行した感じがする。
石油をめぐる争奪戦から、今後は「食糧」や「水」をめぐる争いが激化することが予想されるが、こんな分野までも「性悪」に犯されたら、世界は「羅生門」へと突入してしまう。