失踪から回生へ

ワイドショーの事件リポーターを務めてきたた奥山英志さんが、今年の春から行方不明になっている。
何かの事情で身を隠しているのか、核心に踏み込んだ取材で何かに巻き込まれたのか、ワカラナイ。
ある関係者によれば、リポーターという仕事は不安定な職業らしく、奥山氏のようなケースは珍しくはないらしい。
また、リポーター予備軍もいて、いったん地方局に就職したアナウンサーが、東京に出てみたいと退社して芸能プロに所属して、キャスターやリポーターに転身するケースも多く競争も激しいという。
奥山さんの場合は東日本大震災があった3月11日を最後に音信が途絶え、自宅には洗濯物が干され風呂の浴槽にも水が張られたままだから、なんとも不可思議である。
最近、大阪西成区のいわゆる「飯場」でのインタビューを聞いていると「失踪事情」は多種多様で、故郷にはもう戻れないと語った人々もいた。
中には、自分の「身分証明書」を売ったりして「間接的」になんらかの犯罪とも関わっているケースもあるという。
最近、日本社会で進行する「無縁社会」を思わせられるが、「ホームレス」という言葉の意味も少し変わってきているカンジがする。
というのは、一人孤独死した女優の飯島愛さんや「なが~く」愛しての大原麗子さんにせよ「身内」といえる人はいたし、またレポーターの奥山さんの場合は、家族から神奈川県警に「捜索願」が出ている。
つまり、普通に家族はイルのに「ホームレスな」人々が増えているということである。
浮かび上がってくるのは、「家族の壁」といった言葉である。
若くしてホームレスというのは、50代、60代のホームレスとは違って、まだ家族というものがある世代である。
しかし、家族に「助け」を求めることもでききず、派遣の仕事を転々とするうちに、実際に「失踪」扱いになったりもするケースもある。
家族の反対を押し切って都会に出てきて、親でさえスデニ生活に困っているのだから、これ以上迷惑はかけられないし、今更こんなカッコじゃ帰れない。
家族にはナントカヤッテるぐらいは伝えておいて、せめてチャントした仕事にありつくか、ある程度お金が貯まったら「帰ろう」という気持ちはある。
そのうち病気になったり事故にまきこまれたり、記憶を失ったりするケースもあるのだろう。
ホームや故郷というのは、たとえ失敗したり落ちぶれたとしても、温かく迎えて入れてくれるものと思いたいが、「現実」としても「心象」としても、ソウイウものは消滅しつつあるのだろうか。
リポーターの奥山さんがどんなカタチで発見サレルかまたサレナイカわからないが、失踪や行方不明から「回生」する人生も、あるにはアルようだ。

数年前に「エリザベスタウン」というアメリカ映画をみたが「すべてを失った僕を、待っている場所があった」というサブ・タイトルであった。
ある売れっ子のシュ-ズ・デザイナ-が、会社で大きな損失を出す失敗をして会社を首になり、つきあっていた恋人にも「露骨に」別れを告げられる。
死を考えていたところ、「父の訃報」が届いた。
生まれ育ったケンタッキ-の山懐にあるエリザベスタウンという名の町に帰郷したところ、思わぬ人々の暖かさにふれる。
親族の子供達はドンチャン騒々しいが、いろんな失敗があっても皆で「笑い」にかえてしまう。
親戚の還暦パーティなんかに出ると、抱腹絶倒のトンデモスピーチが登場し、その中にも少々涙サソウものがあり、ジーンとくる。
青年は帰省の途中の飛行機の中で、フライトアテンダントの女性と出会っていて、彼女はオリジナルのCDを送って青年の心を回生させてくれる。
この新恋人との出会いはかなりムリがあったが、失意の青年がホームタウンで心癒されていく「6日間の奇跡」のストーリーは、案外とリアリティがありグッドな映画であった。
日本の明治期、地方からでて大志を抱いて東京に出た者の多くは夢破れたり、煩悶の中で過ごしていくものも多くいた。
立身出世を夢見て東京に出て行った青年達は、故郷に帰ることを夢見る一方で、それは自分の「敗北」を受け入れることを意味し、オメオメと帰れるものではなかった。
明治時代に、福岡県(現)朝倉市出身で「帰省」という本を書いた人がいる。
詩人として知られている宮崎湖処子で、その名前は甘木の古処山からきている。
そして「帰省」は当時の大学生で読まぬ者はないくらいのベストセラ-となり、「帰省」の前に「帰省」なく、「帰省」の後に「帰省」なし、といわれたほどに賞賛された。
つまり、この作品が当時の上京して挫折した若者の気持ちを「代弁」していたからだ。
宮崎は、朝倉三奈木の富農に生まれで、東京専門学校(早稲田)の政治学科に入学する。
しかし東京は同じように野心をもつ地方青年らであふれ、宮崎の政治家になる「青雲の志」は早くも危殆に瀕し、精神的にも経済的にも追い詰められていく。
救いを求めてしばらくの間、千葉県流山市の豪農宅に英語教師兼家庭教師というかたちで身を寄せた。
田舎の自然に慰められたり、住み込んだ家族の暖かい人情に接し、都会生活に疲れた心から一時的に解放される体験をする。
そんな折、宮崎は「エリザベスタウン」の青年のように「父の訃報」を受けとるが、コノママでは帰れないという思いから関東にとどまる。
しかし、兄の強い督促で父の「一周忌」にようやく帰省することになった。
帰省にあたって「今の自分」を故郷の人々、特に親戚知人がどのように迎えてくれるか、不安でイッパイの気持ちであった。
ところが、そうした不安とはウラハラに、故郷は人情と平和のすめる田園があった。
かつて知りたる故郷とはいえ、病んでいた宮崎にとっては、故郷が「桃源郷的」存在にも思えたのである。
都会とは別世界の風景の広がりの中、幼馴染の女性に出会い温かいモテナシをうけたりもする。
実際に、その女性コソが後の「宮崎夫人」ともなる人であった。
宮崎にとっては、コノ6年ぶりの帰郷を描いた「帰省」を書くきっかけを得たことこそが、ソノ最大の収穫だったかもしれない。
1890年6月「帰省」が刊行されるや、故郷を賛美する田園文学の「最高峰」として絶賛を浴びたのである。
宮崎の故郷に近い甘木公園内には宮崎湖処子の記念碑がある。それは故良子・皇大后が湖処子の詩「おもひ子」に曲をつけられた「子守り歌」の碑である。

宮崎湖処子とほぼ同じ時期に、東京専門学校(早稲田)の政治科に学んだのが北村透谷である。
北村は小田原出身であるが大学在学中(1886年まで在籍)から、自由民権運動が最も盛んであった秩父山中にはいって活動をしていた。
ただ、運動は次第に閉塞してゆく時期であり、大阪事件の際同志から活動資金を得るために「強盗」をするという計画を打ち明けられ、運動に絶望して離脱していった。
しかし終生この「離脱」は北村の心を苦しめることになる。
1888年、数寄屋橋教会で洗礼を受け、同年、自由民権運動の中心人物石坂公歴の娘・石坂ミナと結婚している。
ところで、東京経済大学の色川大吉教授らの五日市周辺の土蔵調査による「民衆史」の発見はきわめて感動的である。
色川教授らの「発掘」によって、北村の友人である石坂公歴や五日市憲法の草案をつくた千葉卓三郎などの行跡が明らかになっている。
石坂は、困民党が弾圧されたあとサンフランシスコにわたり、最後は太平洋戦争中に日本人強制収容所に入れられ、失明のうえ落命している。
また千葉は戊辰戦争の敗者・仙台藩の出身のいわゆる「落人」で、東京にでてギリシア正教でニコライ(神田のニコライ堂建設者)により洗礼をうけ、今の東京・五日市に流れてきた。
この地で、西洋の啓蒙書を多く所有する深沢権八という豪農と出会い、「五日市憲法」という当時最も民主的であった「憲法草案」をつくった。
ところで、色川教授らが発掘した人物の中には、石坂公歴や千葉卓三郎よりも、サラニ波乱の人生を歩んだ人物がいた。
それは秩父困民党の大隊長の飯塚森蔵と会計係の井上伝蔵である。
彼らは東京から派遣された警察部隊と激戦を交えている間に、山間を抜け出して消息不明になる。
色川教授の調査によれば、飯森の方は欠席裁判で重罪となるが、北海道にわたりアイヌの人々に匿われながら釧路あたりでなくなっているという。
また井上の方は、口の中に綿を含んで顔を変え、覆面をして山から山へと奥羽山脈を伝わって北海道に渡り、苫小牧から札幌の方に逃げたといわれている。
井上は「死刑」判決をうけたものの、北海道で伊藤房次郎という「偽名」を使って代書屋を開業している。
そして、新しい妻をむかえソコデ4人の子供をもうけ、それを立派に育てあげたという。
豪放磊落である反面、温厚で教養もあり人の面倒もよくみる人物で、当時接した人々によれば「一点の暗さ」も感じさせない人物だったという。
井上の俳句をみて色川教授は、「どこか空の一部を突き抜けたような精神を持った人、なにか過去をのりこえて明朗な境地に到達した人でないと歌えない歌である」と書いている。
自分が逃亡者であり、死刑囚でありながら、そういうことができるのでは、井上伝蔵の中には大きな「回生」が起こったからに違いないといっている。
井上伝蔵は失踪後に「回生」しえた稀有の人であったが、それができたのも北海道の地で得た「新しい家族」であったのかもしれない。
他方、秩父困民党の動きから離脱した北村透谷がしばらくして「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」と恋愛至上主義を唱えて「回生」したかに思えたが、1894年25歳の若さで芝公園で自殺している。
井上の方は、その後35年もの間潜伏し1918年65歳で亡くなっている。
最後の床で、自分は秩父の「井上伝蔵」だと正体を明かし、自分がやったことは「天下一新」、新たな世を作るという気持ちでやった。殺人・強盗・放火による破廉恥罪で処断されたことが「無念」であることを語ったという。

「失踪から回生へ」というテーマで世界史に残る人物を探すと、二人ほど思い当たる人物がいる。
アンリ=デュナンとサン=テグジュペリである。
スイス人のアンリ=デュナンは、「赤十字」創設に没頭のあまり本業である製粉会社の経営に失敗し、1867年、39歳の時、破産宣告を受けた。
以後放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまった。
デュナンは人生の後半生をほとんど「放浪者」としてヨーロッパ各地をメグッタようである。
1895年、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院でデュナンを見つけたと報道した。
デュナンはこの時すでに70歳にもなっていたのだが、1901年に赤十字誕生の功績が認められ、最初のノーベル平和賞をおくられた。
その後デュナンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月、ハイデンの養老院で82年の生涯を閉じたのである。
ソルフェノールの戦いで、敵味方に関係なく負傷兵を救った事がモノをいったのだ。
アンリの場合、長い失踪にもかかわらず「発見」されて本当によかったケースである。
そしてもう1人の人物は「星の王子様」の作家であるフランス人のサン=テグジュペリである。
学校の勉強は大嫌い、特に算数が苦手だったため、海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたにもかかわらず、結果は不合格だった。
その後、モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、婚約者の家族が飛行士という仕事を良い目で見ていなかったため、パイロットではなくて他の仕事を探した。
サンは、瓦製造会社やトラック製造販売会社のセ-ルスマンとなったが、しかし仕事の単調さにウンザリして、夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
婚約も破棄され、職もなく、何の目標もなく失意の中で考えることは、「大空」のことばかりであったという。
そして郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。それから輸送パイロットの資格をとり、ついに「自分の道」を見つけた。
この仕事は、危険な夜間にも飛行することが強制され、最大の効率をもって操縦することが求められるため、「不可能を可能にする」技術が求められた。
サンのような本来エリ-ト階層に属するものでこうした仕事に従事する者は当時ほとんどいなかったが、サンはこういう仕事に「天職」をみつけたといえる。
サンは1927年モロッコにある飛行場の主任に任命された。
当時、飛行機はたびたび燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかったので、当時飛行機が「不時着」したりすると現地のム-ア人(北西アフリカのイスラム教教)達は飛行機の乗組員を捕虜にして、スペイン政府に武器や金品を要求するなどということが頻発していた。
ところが、サンは航路の中継点でム-ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりした。
そして星の降る村の風景、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民、壮大な自然などがサンの心の養分となり、文学的イマジネーションの源泉ともなっていったのである。
サンは、「飛行」に没頭する中、虚飾にみちた地上での生活にますますイヤケがさしていったようだ。
帰国後、「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会うものの、孤独な心は癒されることもなく、彼の心を慰めたものは結局飛行機だけしかなかったらしい。
サンは作家になった後、降る星を見上げて暮らした1年あまりの年月は、孤独だが人生で一番幸せな日々だったと回想している。
1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したが、消息を絶った。
ところで、サン=テグジュペリの消息不明(または失踪)と、日本の冒険家である植村直己氏の消息不明を「重ね」あわせたりするのはヘンでしょうか。
植村氏は1970年には世界初の「五大陸最高峰登頂者」として世界に名を馳せた。
植村氏の業績を祝うパーティがテレビで放映されていたが、自身が「主賓」でありながら場違いなところに紛れ込んだ「子牛」のようにドギマギするばかりで、こういう場が一番苦手であるのがよく見てとれた。
1984年2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、「消息不明」となった。
生存の可能性はゼロに近く、最後に植村氏の消息が確認された2月13日が植村の「命日」とされた。
植村氏の遺体は、現在に至るまで「遺体」は発見されていない。
その約二ヵ月後の1984年4月19日、「国民栄誉賞」がおくられた。(ノーベル賞と違って、死後の受賞もあるようです)
サン=テグジュペリも植村直己も、空をカケ巡ったり、山々をワタリ歩くことを夢見る「ミスタ-・チルドレン」であった点で、共通しているように思う。
どこか別人として「回生」しているカモ、などという想像をめぐらすが、「地上」にはイソウもない。