メメント・モリ

「メメント・モリ」という言葉がある。
「死を思え」というラテン語だがアップルの創業者のスティーブ・ジョブは、それを日々頃実践していた人であった。
癌に侵されてからではなく、若い頃から実践していた人だった。
「メメント・モリ」は古代ローマでは、将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われたと伝えられる。
将軍の後ろに使用人が立ち、この使用人は、将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない、ということを思い起こさせる役目をになっていた。
そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせるのである。
また、「メメント・モリ」は、芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
写真家の藤原信也氏はそれを世界に取材し、カメラに収めている。
1983年、藤原新也の出発点ともいえる「メメント・モリ」が発表された。
藤原新也は、高校生のときに福岡県の門司出身で家業の旅館が倒産し、すべてを失い家族とともに見知らぬ土地へと移り住んだ。
故郷をなくした少年の自分探しの旅はこの時から始まっていたのであろう。
ゆえに、約30年に渡るインド、チベット、イスタンブール、中国、朝鮮半島を含む全東洋から、アメリカ、ヨーロッパへの旅は、生まれ育った門司へと帰っていく。
「おくり人」主演の本木雅弘が20歳代後半に藤原氏の「メメントモリ」を読み、インドを旅して、いつか死をテーマにしたいと考えていたという。
本木氏はある納棺する人の本をよみ、この映画を構想したという。
「メメントモリ」はご存知、ミスターチルドレンの桜井和寿も影響を受け、「花」の副題になっており、 藤原新也と対談も随分しているようだ。
藤原氏の写真には、いつ、いずれの場所であれ、生や死を思い描く彼の、現代人への厳しい批判が込められている。
情報化社会が世界を席巻し、仮想の現実がすべてを覆い尽くしていくなかで、わずかに垣間見える本物の生と死をすくい取ろうとした作品集となっている。
ところで、「メメント・モリ」は、古代ではソレホド広くは使われなかった言葉だが、むしろ17世紀ごろヨーロッパでこの言葉はさかんに使われた。
それは本来のものと異なり、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」という「今こそ楽しめ」の意味であったらしい。
起源は聖書にあり、イザヤ書22章には「食べ、飲め。我々は明日死ぬのだから」である。つまり今は「笑っている場合ですよ」ということだ。
「笑って」いられるのはソウいうまでも続くわけでないので、今のうちにシッカリと笑っておこうという態度でいきることである。
しかしキリスト教の文脈では、「メメント・モリ」はかなり「特化」された意味合いで使われるようになった。
キリスト教徒にとっては、「死への思い」は現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でムナシイであることを強調するものであり、「来世」に思いをはせる誘引となったのである。
つまり聖書にあるとうり、「地上に宝を積むな、天に宝を積め」ということで、この言葉はキリスト教に基づいた社会福祉的慈善活動にも、大きな影響を与えた言葉でもある。
個人的なことでいえば、スティーブ・ジョブの生み出した製品の愛用者ではないが、アイフォンやマッキントシュの素晴らしさはテレビのコマーシャルを見るだけでも充分伝わってきた。
画面上の「指の動き」で操作されるのは、コンピュータに馴染んでいるものから見ても「魔法」のように見えた。
ジョブは間違いなく職場を変え、街角を変え、人々を変え、世界を変えた人といってもいいだろう。
コンピュータの世界とは人間の生活に直結してはいないが、同じく「天才」の死としての惜しまれ方の「度合い」でいうならば、「スピードの貴公子」とよばれた世界最高の天才レーサーのアイルトン・セナの事故死の時を思い出す。
スティーブ・ジョブの死を知って、その死のアッケナサに驚いたが、「予想外」というわけではなかった。 このセナの場合は、死がまったく予想されない時におこっただけにその「衝撃」は大きかった。
突出たスピード感とメカに対する感性は、日本人レーサーで一時同じテームであった中島悟氏が夕刊に載せていた記事がまだ記憶にある。
アイルトン・セナはブラジル人であったが、ホンダのエンジンを積んだ車で世界一になったレーサーであった。
中嶋氏は「分子の世界」を感じながら走っていたが、セナは分子よりもさらに極限的な「原子の世界」を生きていたという。
それでいくと、スティーブ・ジョブは何といえるだろう。我々はせいぜい10年後の未来を「想像」しながら生きるけれども、ジョブは100年後の未来を「創造」しながら生きたとでもいえようか。
世界トップのレーサー・アイルトンセナにとっての「メメント・モリ」はどうであったろうか。
次第に「失うもの」が大きくなるだけ、「死への思いも」強くなっていったのではないかと想像するが、スティーブ・ジョブは、失うものが大きくなるにつれて増す「思考のワナ」に対しては、極力自分を律していたようだ。
スティーブ・ジョブにとっての「メメント・モリ」は、スタンフォード大学の次のメッセージによく表れている。
「過去33年間、私は毎朝鏡の中の自分に向かって『もし今日が自分の人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか』と問い掛ける。
そして答えが「ノー」の日が続いたら、何かを変えなければいけないと思う。自分はいつか死ぬと思い続けることは、私が知る限り、何かを失うかもしれないという思考のわなに陥るのを防ぐ最善の方法だ」。
そして続けた語った「Stay Hungry Stay Foolish」という言葉は今でも「語り草」となっている。
何しろ、「Be Gentleman」(ウイリアム・クラーク)「Be Honest」(安部能成)でもなく、「愚か者でいろ」なのだから。
しかし、この言葉スティーブ・ジョブの言葉は完全に氏のオリジナルかというと、そうとばかりはいえない。聖書の第一コリント3章にパウロが語った「知者であるために、愚か者たれ」という言葉がある。
ただし、ジョブ氏は「愚か者たれ」ノ言葉どうりに生きたといってもよい。
お利口さんではできない、「型破り」なことを実戦してきたからだが、この「型破り」は小賢しくあるより「自分のハートと直感に従う勇気をもて」という言葉にも通じるものであった。
だから顧客の現状の心理を読むマーケティングなんかに頼らずに、顧客の方から引き寄せられるほどの創造したといえるかもしれない。
では、ジョブ氏のそうした精神性がどこに由来するものか、というと先ほどの「メメント・モリ」であるが、氏の場合ソレを必ずしも「キリスト教的」文脈では受け取っていなかったようだ。
このことを知る上で、巷間に知られているものがほとんどだが、あらためてソノ生涯を振り返ってみよう。
そこには、ジャパーズ・マインドに深く耽溺していた姿があった。
となると、ジョブ氏の創造力の方向性と今世界が注目する「ジャパン・クール」には重なりあうものが大きいかもしれない。
スティ-ブ・ジョブは、サンフランシスコに大学院に通う女子学生とシリア系ボーイフレンドの間に男の子が生まれた。
彼女は赤ん坊を養子に出すことにした。赤ん坊はポール・ジョブズとクララ・ジョブズ夫妻に引き取られた。
ポールはサンタクララ生まれの機械工だった。赤ん坊はサンタクララで育った。
そこは平屋の家が延々と立ち並ぶ真平らな土地である。
一部の地区を除いて住民はだいたいにおいて中流か中流の上の階層の人々だ。
品のよい地区もあれば、そうでない地区もある。彼は裕福な子供時代を送ったわけではなかった。しかし彼の生みの母は養父母に「子供を大学に通わせること」と約束させていた。
養父母は乏しい家計をやりくりして彼をリード大学に上げた。
しかし彼はすぐに大学をドロップアウトした。しかしその後も自分が興味を持った授業であるカリグラフィー(西洋書道)には出席した。当時彼は空き瓶を拾って金を稼ぎ、時折ハレ・クリシュナ教団で無料の食事にありついていた。
クリシュナ寺院とは、ビートルズのジョージハリスンが帰依したことで知られるハレ・クリシュナ教の教団の教会である。
これはヒンドゥー教の枝分かれの教団で、ウッドストック時代のヒッピーたちから絶大な支持を受けていた教団であった。
スティ-ブ・ジョブも当時のヒッピー文化に惑溺しており、ボブ・ディランとビートルズ、そして音楽全体をこよなく愛している。
大学中退後の1976年、自宅のガレージで友人のスティーブ・ウォズニアックとアップルコンピュータ(現アップル)を創設した。
マウスを使った家庭用パソコン「マッキントッシュ」がヒットし一躍、若手起業家の仲間入りを果たすも、経営対立から1985年に会社を追われた。
ジョブズ氏自身が「ひどく苦い薬だった」と振り返る経験を経て、映画会社「ピクサー・アニメーション・スタジオ」を設立した。
CGを使った「トイ・ストーリー」(95年)がヒットする。そして97年、12年ぶりに古巣のトップに復帰した。
アメリカのコンピュ-タ・グラフィックを駆使した傑作映画「トイ・スト-リ-」は、大切に扱われないおもちゃたちが企図した悪ガキ達に対する反抗の話であった。
おもちゃたちが目的を達し終えた時に、静かな「抽象的なモノ」本来の姿に回帰する演出もなかなかよかったと思う。
少し遅れてでた映画「マスク」同様、打ち捨てられた「古代のお面」が、人間を道ずれにしてあばれだす話だった。
要するにモノも人間と同じく正しい評価をうけず、見過ごされたり捨てられたりしている、ということだが、モノに命が吹き込まれて動き出すと、モノはまったく別の光を帯びるもので、ジョブ氏のソノ後の仕事を予感させられるものがあった。
ジョブ氏はアップル社に復帰後、デザインと機能性にこだわった一連の商品を発売し、iPodは音楽業界の形態に革命を起こした。
iPhoneも世界的な社会現象となり、iPadと合わせ「10年間で3度の革命を起こした」とと評された。
20004年にすい臓がんを治療し、09年に肝臓移植のため半年間休職した。
11年1月に再び体調を崩し休職し、08年にCEOを辞任していた。
最近では今年3月に療養中ながら新製品発表会に登場していた。
「技術が教養や人間性と結び付いてこそ、人の心を動かすことができる」と持論をアピールしていた。
ところでジョブ氏が己の「感性」に忠実であったこと、「禅」との関係が大きいだろう。
ジョブズ氏のこうした革新的なデザインには、禅の影響があるのではないかといわれている。
ジョブズ氏は若いころインドに旅して仏教に触れ、1970年代にカリフォルニア州の「禅センター」に通って、日本出身の禅僧、故・乙川弘文氏と交流を深めたといわれる。
乙川氏はジョブズ氏の結婚式を司り、86年にジョブズ氏がアップルのCEOを解任されて設立した「ネクスト」の宗教指導者にも任命されるなど、二人人の交流は長年にわたって続いてた。
乙川弘文氏は福井県の永平寺で3年に及ぶ修行を積み、1967年、僧侶・鈴木俊隆の招きでアメリカ合衆国に渡った。
タサハラ禅マウンテンセンターにて、1970年まで補佐を務め、71年に鈴木が死去した後には、ロスアルトスの禅センターにて、1978年まで活動した人物である。
その後も各地にて活動していたが、2002年、スイスにおいて、5歳の孫娘を助けようとして溺死している。
ところで乙川氏の師匠である鈴木俊隆氏は、奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺の生まれで、1930年駒澤大学卒業。永平寺、總持寺で修行した。1936年静岡県焼津市林叟院住職になっている。
1959年、55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの曹洞宗寺院「桑港寺」の住職となる。
桑港寺は日系人向けの宗教活動を主にやっていたが、鈴木氏は日系人に限らず全てのアメリカ人対象に禅を広めようとし、1961年に「サンフランシスコ禅センター」を設立している。
1967年カルメル渓谷近くの山中のタサハラに禅マウンテンセンター「禅心寺」を設立した。
1969年禅センターは桑港寺より独立し、公案を用いない只管打坐の曹洞禅のアメリカへの普及に貢献したが、1971年12月癌にて死去している。
鈴木氏がアメリカ仏教界へ与えた影響は大きく、1998年5月にはスタンフォード大学で、「鈴木俊隆学会」も開かれているという。
スタンフォード大学といえば、スティーブジョブが伝説の講演を行ったところであるが、鈴木氏の"Zen Mind, Beginner' s Mind "は45ヶ国語に翻訳されて、日本語訳では「禅へのいざない」として出版されている。
禅僧、鈴木俊隆師は「何であれ美しく見えるものはバランスを欠いている。しかしその背景は完全な調和を保っている」と書いた。
前景にはさまざまな出来事が起きるが、背景には静けさと秩序があるという意味で、この考え方はスティーブ・ジョブの考え方にも大きな影響を与えている。
ところで、「瞑想」にはいろいろな種類がある。ヨーガから始まった東洋的な瞑想やキリスト教による西洋的な瞑想など、多種多様であるが、特に禅において非常に高度に発達している。
禅の瞑想中は、脳や身体の機能をできるだけ使わないようにする。知覚や記憶、感情、自然科学を理解する悟性や理性、そうゆう能力のすべてをある程度静める。止めてしまうのではなく静めていく。
落ち着いて物事に対処すると、自然に身体の中から湧き起こってくるものがある。それが生受ということである。
何もせず閑居しているという状況は、まだ修行が足らない状況で、禅の本当の姿ではないらしい。
瞑想によって三昧(禅の非常に深くなった状態)になると、瞑想によって知覚や感情、判断などが静められているにもかかわらず、脳幹網様体が活性化されるとき、体のリズムは整えられ、身体と心は一つになって活性化され、より高い能力である智慧を生むそうだ。
しかも、このような心身状態から働く想像力には、邪心から逃れ、我欲を絶った大きな力があるという。
最後に、スティーブ・ジョブにとっての「メメント・モリ」が「創造への情熱」とどのように結びつくかだが、個人的には湯川秀樹が「旅人」の中で書いた言葉が思い浮かんだ。
湯川氏は、死という巨大な虚無と引き換えになるくらいに「大きな」ことを考えなければ「学問の情熱」は失せそうになるという趣旨のことを書いている。
この「大きな」を「面白い」に、「学問の情熱」を「創造の情熱」に置き換えれば、スティーブ・ジョブの生き方になるのかもしれない。
またあのシーパン姿には、もともとハダカで生まれたんだから、全てを失ってもかまわないといった「ヒッピー精神」の残滓も感じ取れる。
ともあれ、スティーブ・ジョブは、「iPhone4」という新製品の「登場」の日に、この世の舞台から「退場」した。
この「死」と「創造」の絶妙な符合こそが、スティーブ・ジョブの生涯を最も雄弁に語っているように思える。