日本人への手紙

最近テレビで「動物番組」見たら、長年の疑問が氷解した。
その疑問とは、草食動物は草ばっかり食べてナゼあのように大きな体になり、サバンナの中で生きていけるのか、ということであった。
ところで、旧約聖書の中に「聖い動物」つまり、人の「食べ物」や神への「捧げもの」に適う動物として、「ヒズメの分かれた動物」とか「にれはむ動物」という条件がある。
ちなみに、「食べ物」の規制は、新約の時代にキリスト教の「救い」が異邦人に伝えられるに応じて廃棄されたが、ユダヤ教の中ではイマダに生きている。
ところで、見た目には美しいとはいえない「にれはむ」という行為、いいかえると「反芻」という行為は、食ベたものを一度吐きだしてマタ食べることであるが、その「生物学的」な意味は何なのだろう。
実は、牛や馬は「草の栄養」で成長しているわけではない。
草食動物は胃の中にバクテリアを飼っており、草は体内に生息しているバクテリアを繁殖させるための「媒体」に過ぎない。
発酵が進んだ草を「反芻」するうちに、草を養分にバクテリアが動物の体内で「爆発的」に増殖するのだという。
牛や馬などの草食動物は、実はバクテリアつまり「動物性タンパク質」を消化吸収することで、大量の栄養を得ているのである。
ところが、今アメリカの「食糧メジャー」とよばれる大企業がやっているように、その草にカエテ経済的に安価な飼料であるトウモロコシが与えられ続けると、どうなるか。
バクテリアは突然変異を起こして、「O157」などのウイルスに変っていくという。
この話、聖書にある「パンを求めるのに石を与える」とか、「魚を求めるのにへびを与える」とかいう譬えを想起させる話である。
したがって、こうした新型の「ウイルス」は、人間が自然界の掟をフミニジッテ「経済的な富」を追いかけた結果、飼育場で発生させたものである。
「にれはむ」ことの生物学的意味を知るうちに、聖書の最も有名な言葉の一つである 「人はパンのみに生きるにあらず、神から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉を思い起こした。
「反芻」がキヨイいきものの条件ならば、人は神の言葉を「反芻」ことにより、内に宿る「聖霊」を活発化して生きていく。
聖霊をバクテリアにナゾラエルのは神様に対して申し訳ないが、「聖霊の使徒」パウロはナザレのイエスの教えを広める「疫病のような輩」とまで評されているぐらいだし、また、ノーベル賞の発端となった「ダイナマイト」という言葉は、「聖霊」と関係の深い言葉である。
ギリシア語で「デュナミス」は「力」を意味する言葉だが、新約聖書には「聖霊の力」として、「デュナミス」という言葉が溢れている。
例えば、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒行伝1:8)とあるが、 この「力」こそが、ギリシャ語の「デュナミス」で、この言葉の派生語が「ダイナマイト」なのである。

ところで、新約聖書はすべてギリシア語で書かれているが、「パウロ書簡」(コリント人への手紙・テサロニケ人への手紙・ピリピ人への手紙・エペソ人への手紙など)はマトメていえば、「ギリシア人への手紙」なのである。
というか新約聖書全体が、少なくとも当時の「ギリシア人の精神世界」を意識して書かれた内容のものが多い。
例えば、新約聖書「ヨハネ福音書」の冒頭の「始めにロゴスありき」という言葉は、そのもっとも判り易い例である。
そしてサラニ興味深いのは、パウロが「異邦人」伝道の柱に据えたギリシア人的「多神教世界」が、パウロの目にドノヨウに映っていたかという点である。
同じく「多神教的世界」に住む我々日本人としても興味深いところである。
パウロがギリシアを伝道旅行した最初の印象は、「使徒行伝」17章に記されている。
//さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。
そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。
また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。
パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。
そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。
いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。
そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。
そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。
神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。
事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。
すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである。
死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
こうして、パウロは彼らの中から出て行った。//
さて当時のギリシア人は、「いまだ自分達が知られない神々」にまで想像をめぐらせて祭壇を築くぐらいの念の入れようだから、「宗教心に富む」ということは間違いない。
以上のギリシアの多神教的世界を、神社仏閣がイタルトコロにある日本に置き換えれば、「日本人への手紙」として読み直すことも可能かもしれない。
そしてギリシア人のいう「知られない神」に応えるような言葉が、旧約聖書「イザヤ書」45章にある。
//わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもいない。
あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。
これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。
わたしは主である、わたしのほかに神はない。
わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である。//

ところでパウロやペテロの「異邦人伝道」のもうひとつの柱が「ローマ世界」への伝道である。
そしてパウロは、「ローマ人への手紙」8章に、「希望を持ちにくい」現代の日本人へのメッセージとしても聞こえる、次のような言葉を残している。
//わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊(みたま)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。
なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。
なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。//
以上のパウロの言葉にあるとうり、人間が「虚無に服す」、すなわち「この世」に対して「望み」を持ちえなくなるいうことは、むしろ神が人間を「本来」の望み(「神の国」の出現)にナビゲートしているということである。

さて、ギリシアやイタリア発の「ユーロ危機」で世界の先行きが「不透明度」を増しているが、ソノ危機の影響は日本の「歴史的円高」という形で現われている。
さらに、円高はイツマデ続くのか、日本の財政難を乗り越えられるのか、不安は枚挙にイトマがない。
こうしてギリシア・ローマ世界と日本とが「不安な」カタチで関わりあっているのだが、パウロがギリシア人やローマ人へ書いた手紙コソは、今日の日本人にとっての最良の「ナビゲーター」であるように思える。
そこに書いてある主題は、人が「御霊」に導かれることこそが、最大の「安全保障」であるということである。
もっとも旧約の時代より、イスラエルの「神」こそが「至高」の導き手であることを示す幾多の出来事が示されている。
ぞの「神の導き」をモットモ劇的に表すのが指導者モーセによるイスラエル人の「出エジプト」という出来事である。
イエスの弟子が教えを広めた「使徒の時代」には、神は救いに与った人々に宿る御霊(聖霊)をもって人々をナビゲートしたが、旧約聖書の時代には神の霊に感応した「特別な預言者」によって「神の意思」が民に伝えられたのである。
その代表的な預言者がモーセであるが、モーセは映画「十戒」に描かれたとうり、ユダヤ人でありながらエジプトの王子として育った。
ところが、成人して自分の出生の秘密を知ったモーせは、「はかない罪の悦びにふけるよりも、神の選民として奴隷の苦しみにあった方がよい」と、当時エジプトで「奴隷の民」として酷使されていた同胞であるユダヤ人の下に降るのである。
しかし、同胞のケンカの仲裁にはいろうとして誤って人を殺してしまい、「誰がお前を裁き司に立てたのか」と責められ、荒野に逃げ出した。
その後土地の娘と結婚し、死にいたるまで平穏に過ごすことになる、ハズだった。
ところが、神は一度は同胞に拒絶されたモーセを、最晩年に達した時に「出エジプト」の指導者として立てたのである。
そしてエジプトのパロに元に遣わされ、様々な不思議と奇跡をもってエジプトから脱出することに成功した。
そして、神は砂漠の只中にあって行く道筋サエわからないイスラエルの民に対して、諸々の徴(シルシ)をもって導いたのである。
イスラエルの民は、昼は「雲の柱」が離れず、夜は「火の柱」が離れずして照らし、行くべき途を示されたのである。
また神はマナとよばれる特別な食べ物を降らせ、イスラエルの民は神に養われながら40年の間荒野の旅を続ける。
その際、その衣服も古びず、その足も腫れなかったという。
荒野の彷徨の中で最大のハイライトは、モーセを通じてイスラエル人に「十戒」が与えれたことである。
しかし途中で不信仰に陥って「金の子牛」像を造ってそれを拝した者達は、地にノミこまれるなどして滅びてしまった。
神がアエテ40年という長い歳月をかけサセたのも、偶像に仕えなった「新しい世代」を「乳と蜜の流れる地」カナーンに導くという「御意思」によるものであった。
ところで、現代日本はスッカリ「拝金主義」に染まり、古代イスラエル人とは別の形で「金の子牛像」に仕えているようにも思えるのだが、パウロの「ローマ人への手紙」1章の言葉は、そうした日本人へ向けた手紙にも思えてくる。
//わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這(は)うものの像に似せたのである。//
新型ウイルスから放射能まで、世のほとんどの災いは、「拝金」というカタチで「金の子牛」に仕えたことによって生み出されたものである。