信仰か行いか

キリスト教において、救いは「行い」によるのか、「信仰」によのるかというのは大テーマであり、それが教派をわかつ原因となっているようである。
カトリックが「行い」を重視してきたために、マルチン・ルタ-が「信仰」を重視し宗教改革を起こしたのはあまりも有名な話である。
まずは「救い」自体をどうとらえるかであるが、キリスト教の救いとは「罪の許し」のことである。
そしてその「罪の許し」が満足や平安などといった心理面で終わるのではなく、死後に「復活」にあずかり「神の国」に入るということである。
近年、教会では復活を語らない、語れないところも多いらしいが、それでは最も根本的な「信仰」を失ったのと同義であり、本質的にキリスト教とはいえない。
そこは良い「行い」を勧めるだけの「訓育の場」にすぎなくなる。
ところで人間の「罪の許し」はイエスの十字架の贖罪をもって完成したのだが、教会に行き始めた頃、その「事実」をさえ信じれば「罪が許されます」と言われてフに落ちなかった。
しかし随分後にある導きをうけて、洗礼において霊的に「水が血に変わる」と聞いて、目からウロコがおちたように思った。
洗礼とはイエスの贖罪の血によって肉体が洗われるということであり、それであるが故に「罪」が許されるということである。
そういえば聖書には、ナイル川が血に変わる、水が葡萄酒(血)に変わる、死後イエスの体から水が流れ出すなど、それを思わせる出来事が数多くあり、それらが暗に「洗礼」をさし示すことも知った。
ところで「罪」といっても若い頃はそんな悪いことをしたおぼえはナイと思っていたが、年をとればとるほどやっぱり「罪人」であることは、ソコソコまたはツーレツに感じたりるもので、これは案外人間一般にあてはまる気持ちではないかと思う。
だからといって「生き直す」ことはもはやできない。そこで「人間の原罪」なるものをジワ~と思ったりするものだ。
人間が背負う「罪の原点」はアダムとイブがエデンの園で「善悪を知る木」の実を食べてしまったことだという。
およそ現在の個人がどうしようもないことだが、逆に「罪の許し」の方も「イエスの十字架」という人間の側にいかなる代価を払うこともなく無条件で行われたのである。
そしてアダムとイブの行為によって人類に「死」が入り込んだように、イエス・キリストの「復活」により、救われた者には「永遠の命」が与えられるという道が開かれたのである。
まだ若かりし頃は、「永遠に生きる」などツカレルと思っていたが、それは聖霊の喜びや平安をまったく知らないからこその思いであった。
聖書では、「罪の許し」または「永遠の命」はスのままの人間には与えられないので、人は神の国に入るために「洗礼」と「聖霊」をウケヨとしている(ヨハネ3章3節)。
キリスト教において、この世は「過ぎ去るもの」あるいは「一時的なもの」という位置づけであり、「神の国」が信じられないというのであれば「この世がすべて」と言うに等しく、イエスの十字架をまったく「無」にすることである。
繰り返すが、イエスの勝利とは十字架の死後に「復活」し、人間に「永遠の命」に至る道を用意したことである。
現代人には「死後の復活」などということは、荒唐無稽にも思えるものだろうが、人間を「考える葦」に喩えたパスカルが次のような見事なレトリックで「復活」を語っている。
(以前に書いたことがあるがもう一度紹介しよう)
「いかなる理由で、彼らは復活をありえないことだと言うのか?生まれることと、蘇ることと、どちらがいっそう困難であるか?かつて無かったものが存在するようになることと、かつて存在したものがふたたび存在することと、どちらがいっそう困難であるか?存在に到達することのほうが、存在に復帰することよりも、いっそう困難ではあるまいか。
習慣はわれわれに一方を容易だと思わせ、習慣の欠如は他方を不可能だと思わせる。なんと卑属な判断の仕方よ!」

さて信仰における根本問題は、「救い」云々ではなく「神の存在」の方だという人の方が多いかもしれない。
西洋の思想は長く「神の存在」は当然の前提としてうけいられれてきたが、現代人は「それをどう証明するんだ」と言いたかろう。
しかし、西洋の歴史的背景からすれば、(あるいはアラブ世界を含めて)「神が存在しないことをどう証明するんだ」ということの方がサキなのかもしれない。
「理性」をもって物事を突き詰める以前は、人間の根源的な「本性」からして、それを「疑う」ことよりも「信じる」ことのほうがむしろ自然であったということである。
ココらが今の日本人とずいぶん違うみたいである。
最近、今西錦司という著名な生物学者が次のように書いたものを見つけた。
「人間もまたこの世界を成り立たせている他のいろいろなものと同じように、もとは一つのものから生成発展したということは、人間がいくら偉くなたって消し去ることはできない。だからこれに対する主体的反応として、宗教家や詩人がわれわれ人間以外のいろいろなもの、たとえば木や石を話しをし、その声を聞いたからといって、われわれはちっともおどろかない」。
こうした文脈にそっていうならば、人間が神と話をし、その声を聞いたからといって、ちっとも驚くようなことではないということである。
人間がただ宇宙に散らされたゴミのような存在だったとしたら、そのゴミ的存在が、「創造主」なる神を想起するなどということがありうるだろうか。
おそらくは「被造物」であるからこそ、根源的に「創造者」を探したり求めたりするのではないだろうか。
ところでユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神「ヤハウェの神」を信じる宗教である。
これらの宗教は根源的に同じところから出ており信者達は「啓典の民」といわれている。
それぞれの違いは「イエス・キリスト」の位置づけだけである。
そして世界の人口のカナリの人々が「ヤハウェの神」(別名:アラーの神)に礼拝を捧げているのである。
最近テレビに出てくるアラブ世界の「金曜日の礼拝」の人々の一斉に床にヒレフス姿をみて、果たして人間が想像の中で創り出したものに向かってあれほど熱心に祈ることが出来うるだろうか、と思う。
絶対者と何らかのコミュニケートしようというのが「信仰」であり「礼拝」であり、そこに目に見えぬコミュニケーションが存在したとしてもちっとも驚くにあたらない。
人間が根源的に「出たもの」に対して、何らかのコミュニケーションが成り立つのはむしろ自然なことである。
もしもマルクスが言ったように「人間が神を造った」のならば、少なくとも神は「他者」とはいえない存在となり、信仰や礼拝とは人間の虚しい「つぶやき」に等しい。こういう虚しい「つぶやき」で、あのような厚い「礼拝」が生まれるものだろうか。
信仰が生まれたとしても、長くつづくハズもないのである。
というわけで、イスラムの礼拝の姿をテレビで見るにつけ、人間が「被造物」であることをつくづく思わせられるのである。
ところで、ヨーロッパの歴史の中でも「万能人」とよばれたレオナルド・ダビンチは、「自分の学問」の意義についてふれて、「科学の研究を通じて神の存在を証明する」と明言しているくらいである。
「万能人」といわれる人であっても、あくまでも自然界の脅威に対しては、ヒレフスほかはなかったからであろう。

ところでユダヤ教とキリスト教とイスラム教が共有するのが「旧約聖書」であり、人間と神とのコミュニケーションの歴史的な記録である。
人類には聖書を通じて「神」とはどのような存在であるかを知る宝のような「手がかり」が残されているということである。
そしてこの「聖書」が今をもってもスタレルことなく、生き残っている事実こそが、人間がある根源的な「唯一のもの」と結びついた存在であることを何よりも物語っているのではなかろうか。
理性を頼りにする人々は、「絶対的他者」は不要である、というよりもジャマにも思えるかもしれない。
善悪の木を食べてしまった人間は、「理性を神」として、それぞれの「正義」を支えとして生きるようになった。
そして「正義」どうしの戦いも、キリスト教の内部の教派の戦いを含め、人類を不幸につきおとしてきたのである。
もしもそうした暗いヨーロッパ・キリスト教の姿を一言でいえば、「キリスト教の装いをしたギリシア哲学」といった存在ではないだろうか。
そこにはケルト文化との融合も強くなされたということを付言しておこう。

さて、救われるために「行い」が重要か「信仰」か重要かに戻るが、聖書を読むかぎり、この両者を切り離す必要もない。
「信仰」と「行い」を切り離して考えようとする傾向があるのは、神が求める「行い」の意味が誤解されているからである。
日本人が「行い」という場合にイメージすることは、「良い行い」の人つまり人に親切にする、困っている人を助けてあげる、 家族を大切にし、お酒もたしなまずよく働く、倫理的・道徳的に「落ち度」のない人と結びつける。
しかし、こういう「善良さ」や「責任感」の強さを意味するところの「行い」は、そうすれば確実に社会的信用や賞賛を得られるのであり、 特段「信仰」を要求されない、何より本人でさえ(犠牲になりつつも)悪い気持ちがしないタグイの行いである。
しかしそういうリッパな行いをする人はキリスト教の信者でなくとも世の中にゴマンといるのである。
それにしても日本人はキリスト教をいつから「道徳的教え」をさすものと思いこむようになったのだろう。
日本のキリスト教は明治以降プロテスタントの影響が非常に強くなったが、個人的にはアメリカ建国の士ベンジャミン・フランクリンあたりの影響が強いのではないかと思う。
アメリカ経由のキリスト教の最大の特徴は、「救済」の宗教から「道徳」の宗教になったという点で、善行こそが「救い」という意味での「行い」の宗教に転じたということである。
そしてこの「道徳的キリスト教」は、アメリカ独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンという人物に最もよく体現されている。
フランクリンは、目ざす目標はこの世における「幸福」で、「幸福」の構成要素は、健康・富、知恵であり、その目標に達成するためには「実用性の原理」をあらゆる生活場面に適用した。
ある信念や行動が幸福を獲得するために役立つならば善で、役にたたないならば、悪なのである。
つまりキリスト教への「信仰」をさえ人々を幸福に導くかぎり「是」とする考え方である。そして幸福を約束す ると思われる「道徳的」な要素のみをキリスト教から切り取り自身の生活の原理とした。
いいいかえると彼にとって、信仰の究極的目的は神を礼拝することでも、人間を救済することでもなく、この 世で幸福に繋がる成功をすることである。
こうしたアメリカ経由の「功利主義的」キリスト教により、道徳的な行いがキリスト教であるかのごとき誤解を日本人に与え続けているように思う。
ところが聖書では、神が人々の要求する「行い」というのは、「道徳」とは本質的に異なるものである。
必ずや「信仰」を伴なわずしてなしえないタグイの「行い」なのである。
パウロは、「ヘブル人への手紙11章」に、我らは雲のように「信仰の証人」に囲まれているとし、次のような信仰の人々を紹介している。
信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
この子については"イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう"と言われていたのであった。 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」。
これ以下に続く「信仰の証人」達は省略するが、この讃えらるべき「信仰」のオンパレードは、いずれも「果敢」な行動が伴なっていることがわかる。
そしてこうした「行い」は「神に従う」ということとほぼ同義であり、信仰なくしては「神に従えない」ということである。
そして、神が求める「行い」とは「信仰」を前提としなければなしえない「行い」なのであって、信仰とは「独立」していても行ないうる「道徳的行為」とはまったく別物であることがわかる。
判り易くいうと、ココで神に聞けば自分はオロカと思われるとか、出世が妨げるではないかとか、そういうこの世の利害や計算、打算、おもんぱかりを超えてなす「行い」でのことである。
こういう行いは、「神の国」というものを確信(=信仰)していないかぎりできるものではないし、そういう「行い」こそ神に義とされうけいれらているのである。
この世でいう「善良さ」は、むしろこうした意味での「行い」とは最も遠いものカモしれないのだ。そして神から最も遠い「善良」な人はたくさんいる。
また新約聖書に「ヤコブの手紙」というものがあるが、ルターはこの書簡を最初「藁(わら)の書」と呼び価値の低いモノとみなしていた。
「行いのない信仰も死んだものなのである」という言葉があり、当時の「行いによる救い」を尊ぶカトリック教会に対し「信仰による救い」を強調するルターからすれば、それが自然であったのかもれない。
しかし「ヤコブの手紙」をよく読むと、それが賞賛する「行い」とは倫理・道徳などという類ではなく、信仰を伴なう果敢な「行い」であることがよくわかる。
「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、その行いによって義とされたのではなかったか。
あなたがたの知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、”アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた”という聖書の言葉が成就し、そして、彼は”神の友”と唱えられたのである。
これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるものであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙2章24節)といっている。

ところで、ヤコブが「行い」を重視したかに見えたのに対して、パウロは「律法の義」に対して「信仰の義」を前面に出している。
当時、イスラエルの民は律法を守ることにおいて神に義とされるという信仰をもっていた。律法を毎日の生活に適応させるための手引書まで作り、律法に従って生活するよう努力し、救いの達成に努めていた。
ところが、パウロは「今や」律法を守ることによるのではなく、神の義が示された、と宣言した。
「今や」とはイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事、それ以後の出来事を指している。
イエスの「汝の敵」を愛せよなどという「高き」にまでに普通の人間は達せられるものではない。
パウロは「律法に立つならば、人間はどんな善良な人間でも絶望する他はないことを強調し、人間が神に義と認められるには、 律法を守ることによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰においてであることを語っている。
しかし、「信仰による義」をとくパウロが大変な「行い」の人であることは「使徒行伝」を読めばよくわかる。
ギリシアやローマにも伝道にでかけ、変わった教えを広げている「疫病」のような奴という噂がたってしまい、ついにローマの兵卒に付き添われてローマに出向き皇帝の前で、自らの体験と信仰を証しているのである。
ところでそんな「信仰」がどこから来るんだという疑問があるかもれないが、パウロがそうであったように「洗礼」と「受霊」という「救い」の体験である。
もっともパウロの場合は強制的「打霊」といったほうが適切かもしれない。
パウロは「ローマ人への手紙」の中で、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」という。
そしてパウロは、「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白できない」(コリント12章)といっている。
つまり信仰(それに基づく行い)とは、洗礼と受霊という「救い」からしか始まらないということである。