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行列ができる政府

テレビ番組の「行列ができる○○」というのは、ハヤッテイルというイイ意味だが、「行列」というのは苦情や陳情や支援要請のためにも、できる。
今、先進国はどこも厳しい財政難に苦しんでいることに、経済システム全体の「終焉」または「大転換」を予測せざるをえない。
もちろん、財政難から脱しようと「自由化」と「規制緩和」による「市場機能の復活」がハカラレテきた。
そこで生じた「負け組み」が、その「支援」と「再生」を国(政府)にたよれば、それで「行列」ができる。
それを放置できなければ、行列に応じるのは、結局「国民の税金」でしかなく、「行列」は減るどころかムシロ増えている。
日本人の「増税」への不満は、そもそも「税金」が国民の利益になるようにその「支出」を決定すべきなのに、特定の業界(および関連)を潤す方向に偏ってきたことがあげられる。
原子力発電も電力を少しでも安く供給しようという財界の要望にそって国が推進してきたものだが、その推進のために、どれだけ税金が使われたことだろう。
また「原発推進」は、日本の国際競争力を保持するという「市場の論理」にそったものだが、大企業が一旦放射能をマキチラス事故を起こすと、市場の論理である「汚染者自己負担」は後退し、その「社会的費用」を国が面倒をみる。
つまりは国民は、それを放置することもできず税金で「一企業」を救うことになる。
我々の生活は今のところ、大規模発電に頼る他はないので、一企業のテクノロジー管理ミスによって生じた「賠償金」を税金で肩代わりすることになる。
こうして、「市場万能社会」はイに反して「行列ができる国」となっていくのである。
今の世界中の先進国は多かれ少なかれこういう情況にあり、オカネは「量的」にアリアマる状態にあるのに、どこかの国の「デフォルト」から世界経済の「大きな破綻」にツナガリかねないところにきている。
欧州連合の中で比較的経済がよい状況にあるドイツは、ギリシアなど「財政破綻危機」の支援の為に、自国の税金を使わねばならない。
これがスペイン・ポルトガルの支援にまで波及していけば、ドイツはマサニ「行列ができる国家」になってしまうわけだ。
ピーター・ドラッカーが「企業とは何か」という本を書いて「巨大組織」の社会的使命を解明しようとしたのは、戦後まもなくの1946年であった。
そのドラッカーがモデルとして頭に描いたのは、世界最大の企業であったアメリカの大企業ジェネラル・モータース(GM)であった。
ドラッカーは、このあまりにも巨大な組織こそが20世紀の「社会原理」たらんとしていたことを予見したのだが、実際にアメリカのジェネラル・モータースの生産額は、小国または中進国のGNPさえしのぐほどのスケールのものとなった。
そして21世紀、その巨大企業はその社会的使命を終えるかのように赤字経営に陥った。
それがモロ倒れてしまえば、その影響ははかりしれないため「国家管理」に入り、「再生」がはかられているが、人間ドックならぬ「大企業ドック」に入ってしまった感じさえする。
日本でもある特定の金融機関が倒れそうな時に、政府が「公的資金」をつぎ込んできた。かつて、なぜ「一企業」を救う為に税金を使わなければならないかという批判があった。
しかし、金融機関はその機能において「連鎖的」性格が強く、一企業に公的資金をつぎ込むというより、「金融システム」全体を「綻び」から守るということなのだ。
しかし、電力会社や金融機関のようにどんなに放射能を撒き散らそうと、ツブスにツブセナイ会社というのがあって、結局その会社の「経営の失敗」を国が面倒を見ることになる。
つまり「市場の論理」はそういうマイナスの方向にまでは貫徹することはできず、結局は国に「行列」が絶えないわけである。
そして、その行列に対しては、国民の「税負担」で応じていく他はないということだ。
ところで、菅首相が最後までこだわった「自然エネルギー買取法案」がようやく成立し、「退陣」の条件がクリアされ、野田新内閣発足のはこびとなった。
この法案は、自然エネルギーで発電された電力を一定期間、国が定めた価格で電力会社が買い取ることを義務づける。
太陽光や風力発電などの普及促進を目的とするもので、既に欧州を中心に広く普及しているものである。
ドイツでは2000年に導入し、電力会社の買取価格を通常の電気料金の2倍以上としたことから、一気に日本をヌイテ世界最大の太陽光発電設置国となった。
ところで、問題はその「先」にある。
電力会社が通常よりも高い価格で買い取る差額分は電力料金に「上乗せ」され、全国民で「一律」に負担することになる。
また「天候」によって発電量が左右される「自然エネルギー」は、電力網の不安定化に繋がるために、「蓄電池」設置などの対応も必要となる。
つまり「自然エネルギー買取法案」なるものが本当に「国民の利益」となるものかは、キメコマカイ料金や供給安定化などの課題をクリアしていく必要がある。
太陽光発電を設置した家庭、企業は余剰分を電力会社に高い価格で「買い取って」もらえるので初期投資分を償却(回収)した後は利益が生じるが、そのほかの電力利用者は、単に電気料金がアップするのみという不公平が生じる。
また電力料金のアップは、電力を大量に消費する産業の「海外移転」を促進する可能性が高く、雇用を縮小させた上に、税負担はさらに重くなることになる。
この法律は、「国の行列」がもうひとつ増やす可能性さえあるのである。

朝日新聞(8月16日版)に、「生きるための新政府」というタイトルが目についた。
個人的に「新政府樹立宣言」というのは、オダヤカナラヌことだが、その気持ちワカラヌではない。
原発事故を契機にした迷走やまぬ政府に愛想をつかして、熊本 市中心部の夏目漱石旧居近くに、「新政府」を樹立したアーティストがいる。
「ゼロセンター」と呼ばれる200坪の日本家屋で、福島県の子供達にサマースクールを用意し、半年以内には格安の「団地」も実現しようと意気軒昂である。
この「新政府樹立」の中心人物つまり「首相」こそ、「ゼロから始める都市型狩猟生活」などで注目された気鋭の若手建築家である坂口恭平という人物である。
また友人の宗教学者・中沢新一氏には突然「文部大臣」就任依頼があったという。
中沢氏によると、突然坂口氏から電話があり「文科相に任命する」と言われ、その話を聞くに及んで「謹んでお受けします」と答えたという。
中沢氏も「国家」や「貨幣」を本気で変えないといけないと思っていて、坂口氏の問題意識に共感したそうだ。
ゼロセンターでは、7月末から福島県の子供約50人を熊本に招待してサマースクールを開催した。
またあるシンガーソングライターを招いて客から「一円」もとらずに、ギャラを払うことができたのだという。
ライブを「ネット中継」したらカンパが充分来たそうだ。またサマースクールにも寄付が集まった。
ここで坂口氏の名言が生まれた。
「人のために使おうとすると、カネは回りだす」。
そうして、こういう「カネのまわり方」こそが、イマヤ「非市場社会」が広がりつつ証であるようにも思える。
それにしても「新政府宣言」とは坂口氏の「怒り」の一端をのぞかせているが、それは「生きる態度」ソノモノを示す言葉なのだそうだ。
ゼロセンターの敷地の庭には「モバイルハウス」が「駐車」してある。
ホームセンターで売っている二万六千円分の材料を自分で「組み立て」、中にはベットを設置し、二畳半ほどの小さな家屋にしたものである。
屋根にはソーラーパネルをとりつけ、電子機器なら充分に「動く」ようにした。
坂口氏によれば、数千万円の住宅ローンを35年間抱えて生きていく日本の社会モデルは、「あの日」以来崩壊したという。
坂口氏は、「市民農園を借りてモバイルハウスを置けば、借地代は月400円、バイトで一日一時間働き、年間3万円で生きていける世界を創ろう」とアジッテいるのだそうだ。
必ずしも「自給自足」を目指しているわけでもないが、自家製ビールも、塩も、イチジクの葉でタバコも作るのだという。
坂口氏の「新政府」的生き方とは、国に「行列をつくらない」生き方を一つ示している。

市場社会では、それに適応できなかったり、敗れたり、あるいは参加さえもママナラヌ人が当然でてくる。
そういう人々を生活保護や失業保険によって守ることまでは スジの通った話だが、これは20世紀までの話である。
グローバル化した市場社会では、巨大組織や国民の生活に必要不可欠な企業までも、「負け組み」になり得るということだ。
結果的にそうした巨大「負け組み」の面倒まで見て、一国の政府でさえ「閉鎖」したりIMFの管理下に入ったりして、強制的に「公務員」の人件費削減までが行われるようになっている。
こうした情況を「行列のできる国家」という言葉であらわしてみたが、戦後をふりかえって、そのことは「この国のかたち」と無関係ではない。
日本における「この国のかたち」を長年築き上げてきたのは、「公共事業のあり方」といってよいだろう。
そしてその周辺に「巣食う」ように生きている人々が「行列」を増してしまったといえるかもしれない。
自民党政権は、郵便局が国民から預かった郵便貯金や簡易保険を「特殊法人」という政府の子会社に貸してつけて、公共事業を行ってきた。
これが財政投融資だが、これはもともと国の財政が厳しい時に「公共事業」を行うための一時的な措置であった。
また、「特殊法人」という政府の子会社も、一定期間だけ政府が推進する事業については公務員をふやせないので、それに代わる手段として誕生したものだ。
つまり、財投も特殊法人も「永続性」を前提としていないので、中身は「不透明」なままで、それをイイコトにここに巣食う官僚や業者がその利益を充分すぎるほど得てきたということである。
その「甘い蜜」ゆえに、いらなくなった「特殊法人」も、官僚の天下り「席」として廃止とならないまま、ゾンビのごとく生き続けた。
また業績の悪化した建設会社も、この公共事業を「裏の差配」によって回してもらえば、業績を回復できるし、金に丸がついたような「裏の差配主」なる政治家にもたくさんのカネが集まることになる。
そしていつのまにか「第二の国家予算」とまでいわれながら、貸し出しリスクや回収の見通しなどを「度外視」して政府の子会社たる「特殊法人」に貸し付けてきた。
つまり、日本の公共事業は、特殊法人と建設業者の「延命措置」に力を貸し続けてきたために、高い公共事業費が借金を生み続けて生きたということだ。
政府の財政赤字は、今後は「増税」によってまかなわれるが、とりあえずの「10パーセント」ダケではまかないきれない。
ヨーロッパでは、20パーセント30パーセントの消費税の国があると聞いて驚くが、これは日本とヨーロッパとの間の「直間比率」の議論がヌケた上での「驚き」である。
日本は戦後の「シャウプ勧告」以来、所得税などの直接税を中心とした税体系であり、竹下内閣での消費税導入後も国際比較で見ると、間接税(消費税)の比率は相対的に高くはない。
所得税やら直接税でたくさんとられて、そのうえ欧州並みの「消費税」の上乗せが高まると、むしろ「景気悪化」→「所得減少」→「雇用縮小」→「企業倒産」→「行列ができる」という悪循環をまねきやすい。
野田新首相は、民主党代表選前から「増税」を明確に打ち出した手堅い人として評価されている。それはそうかもしれない。
しかし経済は政策意図に反して動くものである。
人々は「将来増税」をオリコンデで動くものであるから、人々はますますモッテ「財布の引き締め」をはかり、景気にイイ影響はでそうもない。
結局、増税による景気悪化は「政府減収」つまり「財政悪化」にツナガルということだ。
増税がいいか悪いか、何パーセントぐらいが一番いいのかは、「直間比率」を含めドンナ「経済モデル」が、政策当事者の頭の中に入っているかだが、こういうモデルが一度として明示的に示されたことはない。
高校生でも理解できる簡単な経済学モデルで充分だと思うが、モデル予測がハズレた時の責任をおそれるのか。
こういうモデルが示されないから「増税」に説得力なく、政治家にとって「増税」はあいかわらず「禁句」となっている。
それと、公共事業などのことを含めて考えれば、政治家も自分達がこの国の「無駄遣い」の一角をしめているという自覚でもあって、その後ろめたさから「増税」を言い出せないのでは、とスゴク「好意的」に解釈したくもなる。
また一方で、政治家にはソンナ良心的「自覚」はなく、単純に「選挙」に負けるから、が「正解」ということでしょうか。

「行列ができる法律相談」で高い視聴率をとった島田紳助氏が芸能界を引退することになった。
自分なりの「美学」を通したいと饒舌に語った島田氏だが、「美学」でもなんでもないくらい「闇社会」とのコンタクトは頻繁だったようである。
しかし、島田紳助氏が残してくれた「教訓」は、「問題解決」を依頼する相手を間違えると一生「首根っこ」を掴まえられるということである。
これは「人生の鉄則」であるが、「国の鉄則」でもある。
ある国でゴタゴタがおきて、文人(シビリアン)がその解決を軍人に頼めば、結局軍人に支配される国になる。
その軍人が外国の軍隊ともなれば、その国は外国に支配されることになる。
日本で政治改革が進まないのは、マスコミもあんまり報道しないが、終戦直後からの「闇社会」との繋がりが深いからである。
戦後すぐに起きた「三鷹事件」「松川事件」「下山事件」など国鉄列車の暴走事件などがおき、イマダに不可解で謎に満ちた事件である。
結果からいえることは、過熱しすぎた左翼運動を沈静化させる結果になったのだから、その力学から「闇」の力を推測するほかはない。
戦後の保守政党の結成資金にせよ「闇世界」との関係が云々されている。
つまり、島田紳助氏は芸能界における「闇」をオモテに出した格好になったが、日本の政治はそのスジを抜きには理解できない要素が多分に横たわっていて、大改革を行えば「死人が出る」という構図は変わらない。
その意味では、日本は「民主国家」でもなんでもない。
日本は今、明治以来はじめてとなる「平時」における(税と社会保障の一体改革)などの「大改革」に取り組むことになるのだが、政治家が「改革」に命をかけるだけの覚悟がなければ、できるものではない。
さまなくば、行列が増え続ける。
あるいは、マッタク逆に、誰も行列をつくろうとサエしなくなるかもしれない。