けものみち

先日、演出家の和田勉氏が亡くなった。
あまりにしょうもナイ駄洒落をいう人だったので、どんなにスゴイ人なのかは さっぱり判らなかったが、NHKドラマ「けものみち」(1982年版)は見事な演出ではなかっただろうか。
名取裕子という女優の出世作となったが、そういえば夏目雅子が体当たりで「ひと皮むけた」といわれたのが「ザ・商社」であった。
この「ザ・商社」のプロデユースも和田勉氏であった。
「けものみち」の演出が素晴らしかったことは否定しないが、どういう演出であれ「原作」の素晴らしさこそがドラマの根本であることに違いない。
「けものもち」は松本清張原作で、ドラマで語られたとうり、「けものもち」とは山野において獣が通る決まった道、転じて通常の人間なら通らない道の事である。
そう。政治の世界とは人間でありながらも「獣のみち」をとおらなければならない世界なのだ。
そのことをダレよりもナニよりも我々に教えてくれたのが、竹下登氏の「第74代内閣総理大臣就任」の顛末ではなかっただろうか。

民主党・小沢氏の関係する政治団体への政治献金をめぐって「政治とカネ」があいかわらず問題となっている。
しかし日本の政治の世界の「仕様」では、大金が動かずしていかなる「突破口」も開けないような状況がいくらでもあるように思えて仕方がない。
しばしば「百鬼夜行」という言葉がつかわれるが、いかなる時の「次期首相選任」の過程においてもそれがよくあてはまるのではないだろうか。
(総裁公選となってからも、それほど大きくはかわっていないように思う)
特に、1987年10月の竹下首相就任については、その政治仕様の「闇」の部分が、一気に表面に浮かびあがったような気がする。
ところで、1987年10月6日午前8時、マスコミが待ち構えるカメラの放列の中、次期首相候補の一人・竹下登氏は田中角栄氏の目白邸を訪問した。
竹下氏は雨の中に車から降り、事前に打ち合わせたとうり門前で待機していた人物に名刺を渡し、田中家への取次を依頼した。
田中家の方ではその訪問を(予定どうり?)に拒否したために、竹下氏はわずか「30秒」で引き返すという「珍プレー」を演じた。
しかもその「屈辱的」姿はテレビを通じて国民の目に覆われることなく、ハクビの下に晒されることになった。
しかしそれは竹下氏がどうしてもハラワねばならない「代価」だったことが、後に判明した。
それは当初、田中派の「若頭」竹下氏による裏切り行為「創政会」結成について田中氏の理解を改めて求めた行為にしか見えなかった。
しかし、それはあまりにムシがよすぎるようにも思えた。
それが、竹下氏を突然おそった皇民党の「ほめ殺し」と繋がっていることに気づくものなど、誰もいないといってよかった。
たとえこの「門前払い」事件の直後から突然「ホメ殺し」がヤンダにもかかわらずである。
まして竹下氏の「門前払い」を、シテヤッタリとホクソエンダ「黒幕」がいたことなどに、気づくものとていなかった。

この「黒幕」を明らかにする前に、ことの顛末の発端である「創政会」の結成についてふれたい。
田中角栄を被告とするロッキード裁判は1977年に始まり1983年に、「第一審」で有罪判決がでている。
田中氏は議員を辞職せずに控訴したが、田中派は親分に「有罪判決」がでたからには最大派閥でありながら「総理」を出せない状況が長く続くという事態に不満が鬱積していた。
そんな中、竹下登氏は1985年2月に「勉強会」という名目で創政会を結成したのである。
田中氏は当然のごとく、「勉強会」というから許しんだと竹下氏の「裏切り」に激怒した。
激怒というよりも「悲しみ」に近かったかもしれない。
なぜなら創政会の発起人には、小沢、梶山、羽田などいわゆる田中角栄「子飼いの」有力議員が名を連ねていたからである。
以後、田中氏は朝からウイスキーを飲み続け約3週間後に倒れ、半身不随となっている。
さて半身不随で言語に障害を持つに至った田中氏は、それによって完全に「政治生命」を喪失したといってよく、果たして竹下氏がそんな田中氏を訪問するのにどんな意義があったのだろう。
まことに不可解な「門前払い」事件である。

ところで1987年、中曽根首相任期満了により、後継をめぐって3人の首相候補が争った。
安部晋太郎、宮沢喜一、そして竹下登である。
つまり旧派閥でいえば福田派、大平派、田中派の後継者がたったということだ。
そして、竹下氏は1987年1月ごろから、ふってわいたような日本皇民党による執拗な攻撃をうけていた。
いわゆる「ほめ殺し」であるが、竹下氏本人はこれにより「円形脱毛症」ができるほどに追い詰められていった。
ホメ殺しの具合的な中身は、「竹下さんは日本一、金儲けがうまい政治家、竹下さんを総理大臣にしよう」というものであった。
別に相手をケナシ貶めているわけではないので、反撃のしようがないという巧妙さを持っている。
それは、竹下氏が皇民党とが水面下で深い繋がりがあるかのような印象を一般に与えた。
竹下氏は、一般の人々からすれば敬遠したい政治家として分類されて、真綿で首をシメラレるような神経線的な苦しみをうけることになる。
右翼とよばれる集団にしては、なんと柔軟な発想による攻撃方法なのかと感心させられる。
ところで、皇民党がなぜ安部氏や宮沢氏ではなく竹下氏をターゲットにしたのは、安部や宮沢だとスグに降りる可能性があるからヤリガイがないからだという。
最有力候補「竹下登」をターゲットにすることによってこそ「皇民党」の名があがるというものであると彼らは説明したが、言葉どうりに受け止めるわけにはいかない。
ところで当時実質的に「次期首相」を選ぶキーパーソンは5年にもわたり首相を務めた中曽根前総理であった。
その人の口から右翼団体の活動すら止められないようでは、総理の座を(竹下氏に)「禅譲」できないという旨の発言がでた。
この中曽根発言によって竹下氏はますます追い詰められていく。
そこで竹下氏の後見人とでもいうべき金丸信は、事態の収拾を当時の東京佐川急便の渡辺社長に相談したのである。
渡辺氏は芸能界とも親しい派手な人物だが、アンダーグランド(UG)界のNO2稲川会・石井進元会長とのパイプがあり、石井会長を通じて”ホメ殺し”を止めさせようとしたのだ。
つまり竹下氏は、首相になるために「犯罪組織」の力を借りたという意味ではかなり「突出」した首相となってしまった。
そして、皇民党稲本氏と稲川会石井氏との「トップ会談」が行われ、この時皇民党が「ホメ殺し」をヤメル「交換条件」としてに竹下につきつけたコトこそが、「田中角栄・元総理のもとに、総裁選出馬の挨拶に行くこと」というものであった。
それでは、皇民党はそんな「交換条件」をつけるほどに、田中角栄に恩義を感じるようなことでもあったのだろうか。
実は、田中角栄に深く恩義を感じている人物こそが竹下「門前払い事件」の黒幕であり、その「黒幕」が皇 民党を使って「ほめ殺し」をさせたという、そんな「構図」が浮かんでくる。
そして、この構図の中には新潟出身の三人の男達の姿が、雪国の風景をバックに浮かんでくるのである。
三人は「北国」のルサンチマンという点でも共通していたのか、「道路」「運送」というものに非常なコダワリをもている男達でもあった。
その「第一の男」はいうまでもなく、田中角栄自身である。
田中氏は新潟の牛馬商の息子であり学歴といえば高等小学校卒である。上京し夜間学校で建築を学び資格を取り、土木建築会社を設立して成功した。
その後政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になった。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった時の田中氏の挨拶は次のとうりであった。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」であった。
東大卒をはじめとする「高学歴」者を前にして、ケオサレル様子は微塵もみられない挨拶である。
そうして「第二の男」は、金丸氏が稲川会へのパイプ役と期待して相談にいった東京佐川急便社長の渡辺広康氏である。
渡辺氏は、新潟県北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)で生まれ1963年、「渡辺運輸」を設立した。
1980年代に入ると佐川急便の東京進出に伴い、業務提携の後、佐川急便の「系列下」として東京佐川急便を設立し社長となる。
佐川急便の社員に労働基準法を無視した超長時間労働で稼がせ、作った巨額の金を、自民党の有力政治家をはじめ、巨人軍の選手やOB、芸能人、相撲取りに気前良く配るタニマチとして知られた人物である。
そして「第三の男」は、佐川急便を創設した佐川清会長その人である。
佐川氏は現在の上越市板倉区の旧家に生まれた。
旧制中学に学んだのち、家業に従事したが、1948年に建設業「佐川組」を設立した。
建設会社の経営などを経て、1957年に自転車ニ台を使って妻とニ人で運送業を創業した。
佐川氏が運送業を展開する上で、道路行政と深く関わった田中角栄氏と強いコネクションをもったのは当然といえば当然といえるかもしれない。
そして何より、田中氏と佐川氏にはあまりにも「重なり合う」ものが大きかった。
佐川氏が新潟から「裸一貫」で出てきてここまで会社を大きくできたのは、田中角栄の存在なしには考えられないことであった。
つまり、佐川急便は「田中先生」の庇護のもとに育った会社であり、会長の佐川清からすれば、田中氏に足を向けては寝られないという気持ちさえも抱いていた。
そして、田中氏が権力の中枢に昇るに従い、佐川急便という会社も全国的に展開していったのである。
一方、東京佐川急便の渡邊社長は、竹下登氏を「後盾」としており、佐川会長は渡辺社長のあまりにも「自己顕示欲的」な勢力拡大に大きな懸念を抱いており、その「後ろ盾」である竹下氏を田中角栄を裏切った者として許すことができないという感情を抱いていたのである。
そして佐川会長がこの頃しばしばモラシていたのが「裏切り者が天下をとるのは許せない。明智光秀も英雄となり歴史を書き換えなければならない」という言葉であった。
そしてその言葉は全くといっていいほど、竹下「ホメ殺し」大作戦渦中の皇民党の言葉と同じであり、「思考回路」そのものまでも似通っているといってよいのである。
それでは果たして佐川会長と皇民党の「接点」はどこにあったのだろうか。
実は、佐川会長は、京都で起きたある出来事をめぐって京都府警を街宣車で「攻撃した」皇民党とある接点をもったことがあった。
また、この問題を深く追求した新聞記者によると1960年代安保闘争の時代に「反左翼」として結成された「全愛会議」に事件当時のブレーンの一人と、皇民党のリーダーが所属しており、その意味では皇民党は佐川「人脈」の一つであったのだ。

ところで、ホメ殺し中止にあたって稲川会(石井会長)に「借り」ができた東京佐川急便の渡辺社長は、石井会長に求められるまま稲川系企業に対して総額で約400億円にものぼる債務保証や融資を重ねることになり、「特別背任罪」に問われることになる。
実は、この「特別背任事件」を追求する過程で、数年前の「ホメ殺し」事件の「点と線」が明らかになっていったのである。
その後、佐川急便の金丸氏への「届け」のない5億円献金問題がおこり、また創政会そのものが分裂し、小沢氏や羽田氏によって「新生党」が結成されていく。
さらに新生党・小沢氏らに構想された「非自民」細川政権における違法な東京佐川急便からの金の流れが明らかになるにつれて、細川政権は退陣に追い込まれる。
ちなみに、「ホメ殺し」という言葉を作ったのはハマコーこと浜田幸一氏なのだそうだ。
当時、竹下首相候補支持を表明していたハマコーは、わざわざ皇民党の本部にでむいて「8億円だすからホメ殺しをやめよ」と要求したという。
その時出てきた相手がトップでなく二番手、三番手であることに怒りをあらわにしたうえで、「お前たちのやっていることはホメ殺しじゃないか」と叫んだそうだ。
ハマコーの怒りは自分自身が四番手、五番手であることをすっかり忘れての怒りだったが、その勇気ある行動にもかかわらず、この申し出は拒絶されてしまった。
8億円もの大金が拒絶されたことからも、「ホメ殺し」が皇民党の単独ではない、背後関係がある行動であることがわかる。
「ほめ殺し」が、もう少しイイ文脈で使われ、もう少し上品な人が作った言葉であったならば、その年の「流行語大賞」をいただくことができたかもしれない。

ひるがえってみれば、竹下氏は田中角栄氏から「公共事業誘導型」の政治手法を学んだのである。
中央官庁に働きかけ地元のために少しでも多くの公共事業予算を誘導し、その予算を自派系列の県会議員や市会議員に差配させることで、後援団体に名を連ねる建設業者を潤わせるというものである。
要するに税金でもって選挙地盤の整備と強化をはかるという、政治家にとって最も「安上がり」で効率的な手法をである。
そして、いったんこのシステムを作り上げてしまえば、政治家は選挙区において「王国」をさえ築くことがてきるのだ。
ちなみに竹下の島根県は、県の経済力を示す「都道府県別産業の実勢と将来性」では、五段階評価で最も低いEランクに格付けされているのに、一人あたりの公共事業比率は全国1位になるという。
まさに「竹下王国」を築いたといってよい。
政治と金の問題は長く日本の政治にコビリツイテしまった感じがあるが、この問題がすっきりとクリアできない問題であることを知っているのは、アンダーグランドとの繋がりをほとんど断てない「政治家自身」ではないだろうか。
以上が、民主国家の体をなした国の首相の選ばれ方なのだ。
中曽根首相が言った「右翼をとめられないような政治家は、首相の器ではない」という言葉は、暗にアンダーグランウンドへの影響力をもてない、あるいは「裏金」のつくれない政治家は、「首相の器ではない」ということをいっているようにも響く。
政治倫理や道徳の問題ではなくて、日本の政治の世界の「つくり」あるいは「仕様」がそういう「清潔さ」を許さないのではないだろうか。
長年、竹下首相の金庫番だった青木秘書は、自分の「命の代価」をもって裏社会のとのつながりを「闇」に葬った。
竹下氏が後に、国会で証人喚問された際に語った言葉「罪万死に値す」は、そのあまりの「唐突さ」故に出席していた議員達を驚かせたそうだ。
しかしその言葉の裏には、竹下氏が通った「けものみち」の闇の深さを伝えているように思えて仕方がない。