世界の至宝

10年以上も前にはやった朝娘の「ラブマシーン」が聞こえてきた。
その歌詞に「明るい未来に 就職希望だわ /日本の未来は 世界がうらやむ」とあり、ハットした。
この曲がヒットした年1999年は、すでに日本は「就職氷河期」にはいっていた時期だ。
けしてバブル時代の歌ではない。「明るい未来に就職希望だわ」とは、なんと哀切な歌詞なのだろうと、胸をツンクされた。
要するに「ラブマシーン」は、落ち込む日本人への「元気付けソング」だったのだ。
今、快進撃が続くAKB48の「リバー」や「ビギナー」も、最近の若者を励ます「応援ソング」であることがヒットの要因だろう。
好景気の時には意外にも「昭和枯れススキ」「赤色エレジー」などのクラ~イ曲がヒットしたり、「一杯のかけそば」なんという物語がウケたりするものなのだ。
つまり、歌の内容と「世相」は「背反する」ものだといことに気がついた。
だからナンナノサといわれたら、ソウナノサという他はない。
ところで「ラブマシーン」の歌詞には意味不明のフレーズが挿入されていている。「日本の未来は、ウオゥヲ~ウオゥヲ~ウオゥヲ~」なのだそうだ。
このフレーズの中に、展望のない「動物的期待」が見事に表現されている。
あの時代も未来像が何一つ描けそうもなかったという点では、今の時代と変わらない。
AKB48の最新ヒット曲の「リバー」という曲も「前へ 前へ」とあるけれど、どこの「前」なのか方向性がつかめない。
トニカク「元気にいこう」という歌なのだ。

最近元気が出る話はあまり聞かないがちょっとリポビタンな話が、日本のスポーツ界に石川遼君をはじめ「期待の新星」が育ちつつあることである。
また卓球の世界では全日本選手権大会で二人が小学四年生の高校生や大学生を破るニュースが、このスポーツにしてはめずらしく大きくとりあげられた。
卓球は技術ばかりではなくパワーも大きな要素だが、もしも高いブロック技術とスピードで相手のパワーを利用することができれば、非力でも充分戦うことができる競技ある。
パワーで劣る小学生が大人の強い選手を負かすことができるのも、そういう卓球の特性によるものだ。
ところで今年の全日本選手権では21歳の大学生・水谷選手(世界7位)が前人未到の5連覇を達成し、女子も高校3年生の石川佳純選手(世界11位)が制した。
スポーツ界でハイランクの選手がこれほど若年層にシフトしている競技は他にはみあたらない。
ヒット曲の歌詞と景気の「背反する」関係にあると言ったが、景気不景気とスポーツ界の「新星」誕生率はなんの関係もない。
しかしながら、不景気になればなるほどスポーツの「新星」への注目度や「扱い」は大きくなるのではないだろうか、という気がする。
なぜなら彼らの活躍は、人々の気持ちを「前向き」にしてくれる効果があるからだ。
「前へ 前へ」その機運が「景気浮揚効果」をもったとしても決して不思議ではないのだ。

ふりかえれば、日本の卓球の歴史はかなりの振幅をもってきたように思う。
我幼かりし頃、男子はや荻村や田中、女子では江口・松崎などの世界大会での活躍で、すでに卓球は日本の「お家芸」となっていた。
我中学校時代には、男子では長谷川・伊藤・河野などの日本人世界チャンピオンが次々に誕生した。
それに影響されて卓球を始めたが、高校時代になると日本のペンホールダーのドライブ攻撃はスウエーデンのシェークハンドのパワードライブに破れはじめ、さらに中国の前陣速攻のスピードに対応できず、大学時代には世界レベルから完全に遅れをとり、最有力選手がカットマン中心という不振が続いた。
何度も日本チャンピオンになった斎藤清選手でさえも、世界ではベスト32がせいぜいだった。
日本の卓球が世界で通用しなくなると、都会風でリゾートで人気が高まるテニスやゴルフ人気に完全におされ、卓球人気の凋落は誰の目にも明白だった。
卓球人気の低落に拍車をかけたのが、フジテレビ系のお昼の番組「笑っていいとも」であった。
そこで卓球はネクラのスポーツとコキ下ろされていた。
卓球の試合は、白い玉がよく見えるためにユニフォームや会場の色調は暗めにする必要があったのだ。
実際、暗幕を引いて試合をするなどに至っては、さすがにヤリスギだッたと思う。
それ故か、卓球は文化部とかネクラとか健康に悪いスポーツとなり、それが、卓球のイメージとしてすっかり定着していったのである。
この番組を見ていたのが国際卓球連盟会長をつとめたこともある荻村伊智朗氏で、このままでは卓球人気は凋落すると危機感を抱いた。
そして卓球のイメージを明るくする「イメージ戦略」に乗り出す。
ユニフォ-ム、卓球台、ピンポンの色すべてを明るく斬新なものにかえていった。
そして実際に卓球の試合会場の雰囲気はかわっていった。
誰にもすぐにわかったことは、選手のユニフォームが明るく派手になっていたことだ。(最近の四元奈生美選手ほどのコスチュームほどではないが)
荻村氏は番組の司会者・タモリに対しては、卓球の現状のイメ-ジを率直に指摘してくれたという点で感謝しているという。

1950年代後半に、荻村伊智朗氏は選手として卓球を日本の「お家芸」にまでに高めた。
荻村伊智朗は中学時代より外交官をめざしていたが、都立西高で卓球を始めその魔力に取りつかれる。
その後、都立大学にすすむが練習環境にはまったく恵まれず、弱い相手とする時でも、自分の打ったタマが必ず返ってくると想定して次の動作を行ったという。
その後、有望選手のいた日本大学に転学する。
荻村氏のスゴサは高校で卓球をはじめ、貧弱な練習環境の下で自身の工夫と努力でわずか10年足らずの間で世界を制した点である。
荻村氏は1954年初出場で世界チャンピオンに輝き、1956年の東京大会で二度目のチャンピオンになった。
その後国際卓球連盟会長をつとめ、「ミスター卓球」とよばれた。
その荻村氏には忘れられない出来事がある。
荻村氏が初出場した1954年当時は、日本は国連にも加盟できず戦争中の悪いイメージがつきまとい、国際大会においても日本選手に対する観客の視線には厳しいものがあった。
ところが、ある試合の中で対戦相手の外国人選手がピンポン玉を拾いにフェンスを越えようとした瞬間、バランスをこわし転倒しそうになった。
その時、身を翻した荻村氏が床に飛び込んでその選手を転倒の怪我から救ったのだという。
その姿を見た時から観客の日本選手に対するブーイングはすっかり消えたという。
そしてその大会で、荻村氏は初出場で世界チャンピオンに輝いた。
元祖「世界のイチロー」の誕生である。

荻村伊智朗の活躍は、選手としての活躍にとどまることなく大きく広がった。
それは中国の周恩来首相との出会いが大きかった。
現在世界の「卓球王国」中国の猛進撃は、1961年~65年の三大会連続の世界チャンピオン荘則棟にはじまる。
荘則棟は、中国の「英雄の中の英雄」であり、スポ-ツ大臣にまでなった人物であるが、文化大革命の折には毛沢東夫人の江青に近かったという理由で追放され、地方の(草の根)卓球チ-ムのコーチになって細々と生活をしていたのだという。
私が中学校時代に、荘則棟が処刑されたという噂さえあった。
しかしこの時、その30年後にこの「卓球の神様」と福岡で出会うことになろうとは夢にも思わなかった。
県立高校の顧問としてして大会に生徒を引率したところ、この荘則棟が突然、試合会場の福岡市民体育館を訪問するハプニングがあったのだ。
この荘則棟が若き日に、映画「日本の卓球」を繰り返し見て「師」とあおいだのが、荻村伊智朗氏であった。
もともと外交官をめざしていた荻村氏と中国の英雄・荘則棟は、冷戦の時代に「ピンポン外交」を通じて東西交流に「風穴」を空けるという役割を共に果たすことになる。
1970年代の「米中接近」は、中ソ間の「覇権争い」による関係悪化をアメリカが利用して「ソ連封じ込め」を行ったものと一般にみられていた。
ところが真相はちがっていた。
ニクソン訪中の前年に行われた周恩来とキッシンジャ-国務長官の会談では、長引くベトナム戦争に手を焼くアメリカが中国に対して「北ベトナム支援」を手控える代わりに、中国側が主張する「一つの中国」をほぼ支持することを表明したというものだった。
(ただし、この「キッシンジャ-の呪縛」が、中国・台湾問題に長く影を落とすことになる)
1972年2月23日にニクソン大統領が訪中が実現し、米中の国交が正常化した。
アメリカと中国は、1950年朝鮮戦争の時には互いに介入し矛先交えた仇敵であり、そう簡単に歩み寄れる関係ではなかったのだが、この強張った米中関係に小さな「風穴」をあけたのが卓球であった。
1971年世界卓球選手権名古屋大会で、中国選手団のバスにアメリカ選手が間違って乗り込んできた。
当時、中国には「アメリカ人とは話しをするな」という不文律があったのだが、世界チャンピオン荘則棟氏は、チームメートの制止をよそに、アメリカ選手に気軽に話しかけたのだ。
これがきっかけとなり、翌年それまで国交のなかったアメリカに中国卓球選手団が招かれたのである。
また、荻村氏伊智朗氏が若き日に描いた夢、すなわち外交官になる夢は意外や「ピンポン外交」という形で生かされていった。
1991年の世界卓球選手権千葉大会における北朝鮮・韓国の南北統一チ-ムの結成は、荻村伊知朗の存在ヌキでは実現しなかったといわれている。
また、荻村氏が日本チ-ム団を率いて中国を訪問した際に、荻村氏は周恩来に中国がこれから卓球に力をいれていくために力を貸して欲しい旨を告げられた。
その際に、周恩来はリ-ダ-荻村氏に驚くような内容のことを語り明かしている。
中国には早くから国家的にスポ-ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足」という習慣であったこと。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足がが美しい(可愛い)とされたからであった。
しかし纏足は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできたとんでもない悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことはこの纏足をやめさせることに繋がるというものであること。
また、中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていること。
日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をはねかかえしたのにならい、中国も卓球というスポ-ツで自信を回復したいということ。
さらに、中国は貧しい国なのでお金のかかるスポ-ツを採用する余裕はないが、卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので卓球をスポ-ツ振興のために採用するということなどであった。
ちなみに中国でアミ出された<「前陣速攻型」は、一人あたりに使える空間が狭いために生み出されたものであった。
当時20代だった荻村氏は、自分の胸の内を明かすように語った周恩来の言葉をしっかりと受け止めた。
以後、荻村伊智朗氏は選手引退後国際卓球連盟会長として、日中国交や朝鮮半島の南北交流に繋がって行く「ピンポン外交」に大きく貢献していくのである。

ネットで検索すると、スポーツ界の「至宝」といえば石川遼、浅田真央、錦織圭などの名前があがってくる。
一方、卓球の水谷選手は、「日本の至宝」どころか「世界の至宝」とさえいわれている。
水谷選手よりも強い選手がいるにもかかわらずである。
水谷選手は静岡の磐田市出身で、サッカーやソフトボール、バスケットボールなど、球技ならなんでも得意だったという。
土地柄Jリーガーを目指していても不思議ではなかったが、卓球をやったのは両親の影響、そして小学生の全国大会に出てバンビ(低学年)の部で準優勝したことである。
ところで、日本の卓球はいまや「低迷の時代」から「復活の時代」へと転換しつつあり、若手の成長を見れば、さらに「黄金時代」へという期待さえ抱かせる。
なぜ若手が育ったのか?福原愛(現在、世界8位)の幼少からの活躍が、大きな刺激となったことは間違いない。
しかし日本卓球協会の「英才教育プロジェクト」によってその成果が現れ始めたというのが大きいだろう。 水谷選手の場合、静岡の中学から青森山田中に転校し、中学2年(14歳)の時にドイツに渡り、名コーチのマリオ・アミズィッチの指導を受けた。
ドイツ・デュッセルドルフでは、他の若い日本人選手と共同生活とはなったものの、中学2年で異国の生活は、孤独とむきあいつつ、精神面でも強いものが要求される。
水谷の「原石」の輝きをはやくも見抜いた海外のコーチの中には、はやくから「ワルドナー以来の逸材」と絶賛する者さえもいた。
サウスポーのシェイクハンドからのやわらかいラケットさばきは自由自在なドライブコースを可能とする。
しなやかなボールタッチと、どんなに厳しいラリーが続いても崩れることのない身体バランスは、滅多に見れないラリーを見せることができる。
スペイン・ジュニアオープンで国際舞台に登場すると、強豪国のコーチたちから「水谷をバッグにいれて持ち帰りたい」と絶賛された逸話もある。
2005年の世界ジュニア選手権で岸川選手らとともに団体優勝し、シングルスでも準優勝を果たした。
卓球は「100メートル走をしながらチェスをするような世界」と評されるが、卓球専門誌は水谷について「わずかな時間を長く使うことを許された数少ない人間」とも書いた。
17歳7ヶ月での全日本チャンピオンになって以来、前人未踏の5連覇を圧倒的な強さで達成した。
水谷選手の実力は、今や中国のトップ選手を倒すところに近づきつつある。
実は強い中国選手でさえ、「世界の至宝」などというような呼ばれ方をしない。
それは水谷選手のプレーに他の選手にはない「何か」があるからだ。
そして試合を見ながら感じる水谷選手の傑出したもの。
それは「強さ」というよりも、むしろ「感性」の部分のような気がする。
ボールタッチは微妙な空気の変化をよみとる芸人、ドライブは高速の日本舞踊をする若旦那、ミドルのブロックは相手のパンチをすれすれでよけるボクサー、20種類ものレパートリーを誇るサービスは細かい作業を行う町工場の職人、後ろにさがってのロビングは遠くにエサを正確に投げる釣り師。
つまり色んな芸能・技能のセンスが水谷選手の中に「統合」されているのだ。
多彩なテクニックと流れるような動きは、「ファンタジスタ」と称されるにふさわしい。
こんな選手見たことない。