アリの記憶

福岡県・筑豊炭田の労働実態を描いた画家、山本作兵衛(1892~1984年)の記録画などが国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録されることになった。日本初の「快挙」である。
世界記憶遺産とは、人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる楽譜、書物などの記録物(動産)をユネスコの委員会がそれぞれの申請に基ずいて審査・決定し、1997年から2年ごとに「登録」事業を行っているという。
今回登録されるのは、山本作兵衛が自らの炭坑労働体験に基づき描いた記録画の原画や日記など計697点である。
世界記憶遺産への登録には大概が、政府レベルで「国宝クラス」を申請するパターンが多く、今回のように地方自治体による申請は珍しく、福岡県田川市はシテヤッタリの感がある。
実際、政府(文科省)が申請したり、これらら申請予定のものには「鳥獣戯画」「源氏物語絵巻」「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」など、いずれも「国宝クラス」をユネスコに提出することにしていたのだ。
「地方自治体」による「非国宝」クラスの申請が「日本初」の登録というのも痛快な話ではある。
なぜなら国を通してたら、とてもウテアッテもらえなかったでろうから。
また山本作兵衛の絵の中には、「炭鉱労働」という当時の「国策」への「一刺」または「一矢」をも秘めたものだったからだ。
その「世界記憶」が炭鉱労働者という「名もなき人々」の実録絵巻であったという点のもイケている。
その意味で、このたびの登録は今日の「国策事故」で世界の注視を浴びていることと、全く無関係とは思えない。
現在「世界記憶遺産」に登録されているものの例をあげると、アンネの日記、アンデルセンの原稿、ベートーヴェンの直筆楽譜、グーテンベルク印刷の聖書、ゲーテの直筆文学作品、フランス革命の「人権宣言」、キルケゴールの手稿、イプセンの「人形の家」筆写本、ニーベルンゲンの歌、マグナ・カルタなどであるから、山本作兵衛は「とてつもない殿堂」に仲間入りすることになる。
「殿堂」といえば30年ほど前、筑豊のビートルズなりきりバンドの「フライング・エレファント」(=「飛ぶゾウ」)が、世界音楽の「殿堂」・カーネギーホールで、ビートルズナンバーを演奏するという「快挙」を思い出したが、今回の「世界記憶」登録はそれに優る「重み」があることはいうまでもない。
ユネスコによれば、「筑豊の炭鉱が産業革命に直面していた時代についての個人的な証言集」と山本作兵衛作品を紹介した。
さらに、選定理由として「当時は政府・企業による公式記録は多くあるが、労働者による私的記録は極めてまれ、公式記録とは正反対の荒々しさと臨場感を持ちあわせており、世界史にとって重要な時代の、正真正銘の個人的記録」という、とても的確な「評価」をしているように思った。

「福岡県の記憶」として蘇るのは、1950年代後半の大牟田・三池炭鉱の争議や、炭鉱閉山で斜陽化しつつあった地域から出場した三池工業高校が1965年夏の甲子園で優勝し「ヒトハナ」咲かせた記憶である。
その時の監督が現在の読売巨人軍監督の原辰則の父親・原貢氏であった。
原貢氏は鳥栖工業出身で無名高校を「日本一」に導き、三池工業高校フィーバーを巻き起こした。ちなみに阪神の現監督の真弓監督も優勝パレードをマジカで見て「熱い」気持ちを抱いたという。
個人的には、山本作兵衛の「絵」と出会ったのは、ヒョンなことからであった。
「個人的な記憶」を辿ると、福岡県八女市出身の五木寛之が「戒厳令の夜」を読んだことがキッカケとなった。
この小説は福岡市の繁華街・中洲のバーで一人の老人が「一枚」の絵画と出会ったところから始まる。
老人は、この絵がスペインの大画家パブロ・ロペスのものであることを見抜く。
ナチスは占領下のパリで 主人公が謎をおっていくうちにヒットラーがその収集していた絵画を、当時ドイツと同盟していた日本の筑豊炭鉱に隠したということが判明したのである。
ナチスは各地で美術品を略奪し、行方の知れなくなったコレクションが数多くあるという。
そういえばヒットラーは若き日に「絵描き」を目指していたことを思い出した。
個人的には、この小説が「事実」に基づいたか、事実ではないにせよ何らかの「噂」みたいなものがあって、このようなストーリーが設定されたのかと思い、筑豊の炭鉱にまつわる「美術品」について調べてみたことがある。
そしてわかったことは、ヒトラ-が各地に名画を隠したのは事実ではあるが、五木氏のこの小説はあくまで「フィクション」であるということであった。
結局、「パブロ・ロペス」の絵画には出会うことはなかったが、市民図書館の特設コ-ナ-で炭鉱の生活を丹念に描いた「明治大正炭鉱絵巻」に出合うことができた。
その絵集こそが山本作兵衛の炭鉱で生きた人々を生々しく伝えた「実録絵巻」であり、正真正銘の「ノンフィクション」であった。
そして何より、炭鉱の失われた風景や人間の姿を描きつづけたこの作者に興味を抱き、以来炭鉱の町を訪れたいと思うようになった。
そして田川にある炭鉱資料館で、この絵集の作者・山本作兵衛について知ることになった。
作者・山本作兵衛は1892年、福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)に6人兄弟の次男として生まれたが、父・福太郎は遠賀川の船頭であった。
遠賀川で石炭輸送に従事した父は、筑豊興業の開通により船頭に見切りをつけ炭鉱に移って採炭夫となった。
作兵衛は、父の仕事の手伝いと子守りに追われ学校にもほとんど通えず、唯一の「楽しみ」は絵を描くことであった。
小学校卒業後、14歳から採炭夫として「後山」の仕事をした。後山(あとやま)とは、先山(さきやま)である採炭夫を助けて、掘り出した石炭を運搬する仕事である。
山本作兵衛の絵には、上半身も露な女性が「後山」となっている姿がいくつも描かれている。
健康な山本にとっても坑内労働は過酷であり、別の仕事につこうと福岡に出てペンキ屋に弟子入りしたこともあった。
そして二十歳の頃鍛冶工となり「絵筆」からは遠ざかったが、紙の余白などに絶えず「文字以外のもの」を描いていたという。
1916年に結婚し、鍛冶工の仕事では家族を養うこことが出来ず、坑夫に戻った。
そして一家8人の口を糊するために死に物狂いで働いた。
しかし1945年、長男の「戦死」が山本の転機となった。長く尾をひく「哀しみ」が絵筆を取らせた。
気持ちを紛らわす為に、ヤマの有様を描きつづけた。
ただソレダケのことだったが、それは「失われたもの」の記憶を辿り「ポッカリ空いた孔」をヒタスラ埋めようとした試みだったのかもしれない。
それが約65年後に「世界の記憶」になるとは、御本人も想像することさえできなかったであろう。
1955年ごろより筑豊の山はつぎつぎに廃坑となり、山本も炭鉱を解雇され60歳をこえて警備の仕事などについた。
山本がはじめて「画用紙」と名の付くものを買ったのが、ナント68歳の時であるという。
かくして昭和40年の初頭までに一千枚を超える絵が描かれた。
山本の絵が伝える坑夫の姿は、けして「筋骨隆々」の男達ではない。むしろやせ細った「貧弱な」とさえいえる男達の姿もあるのだが、これこそが「実相」をつたえているのだろうと思った。
炭鉱のなかでは落盤事故、水、爆発など小さな事故が頻発したし、山本が炭鉱にはいって200人近い人々が亡くなる大事故がおきたこともあった。
事故があっても操業を続ける意志が経営者側にあれば、人命救助は必ずしも先行されず、坑内火災がおきれば、その坑道を締め切るか、あるいは水を導き入れて消す他はない。
坑内に取り残された犠牲者の搬出は、「絶望」の言葉によってアトマワシにされる。というわけで、炭鉱で生きる人々は常に死に直面していた。
さらに斜陽を迎えた時代の炭鉱では事故は、閉山の格好の口実にさえなっていた。
坑内で拍手をするな、頬かむりをするな、ご飯に味噌をつけるなどの「迷信」がいくつもあった。
それゆえに「死ぬ時は一緒」という意識が絶えず坑内にあり、「相互扶助」の意識はきわめて高かった。
山本の絵は1963年に「明治大正炭鉱絵巻」として自費出版され世に知られることになった。それから十数年後の1977年、山本が85歳の時に西日本文化賞が与えられた。
「明治大正炭鉱絵巻」に収められた約10年間の「奇跡的な燃焼」をもって描かれた絵は、今もナオ新鮮な驚きを与え続けている。
また山本は、絵ばかりではなくノートに炭鉱の記録を詳細にのこした。そこには炭鉱で生きる人々の息づかいまでが伝わり、上野英信や土門拳はじめ山本作兵衛の絵画に感銘をうけた人は数多い。

まとまった「文書記録」が保存されていればの話であるが、「世界の記憶」として残してしてはと思うものに、ある「学習会」の記録がある。
世の中には「学習会」(または勉強会)なるがいくつも生まれ、しばらく活動が行われ、泡沫のごとくに消えていく。
しかし、予期せずにオモイ歴史的役割を担ってしまったがゆえに、「政治的」に利用され本来の姿を見失った学習会が東京・杉並に存在した。
ところで日本人は、行政(またはオカミ)に依存せず自分達の生活を相互連帯をもって守っていこうという気骨、根性つまり「草魂」はそれほどヒヨワなわけではない。
そこで「学習会」つまり同じテ-マをもって学ぼうとするヨコの関係の「集まり」をみて、室町時代の頃よりムラ社会に現れた「講」組織や、江戸時代の「若者組」などを思いおこす。
江戸時代には幕府から領主からムラにいたるまで年貢納入システムが確立され、農民の代表が「村方三役」として年貢納入や、非キリスト教であることを証明をする「宗門改め」などの責任を担っていた。
こういうタテの力学が働いているなか、村人達もヨコの組織をつくり、タテの締め付けの「息苦しさ」をある程度分散または溶解していた。
そのヨコの組織が「講」であり「若者組」であったのだ。そしてこうした組織には、信仰を学んだり、大人になるための準備としての様々な知識を学ぶという「学習会」的要素が多分に含まれていた。
またユイやモヤイといった、労働交換や相互扶助もヨコの繋がりを示すものであった。
ところで、「寺小屋」という庶民教育機関が江戸時代に数多くつくられたが、幕府によって奨励されたわけでもなく、税金によって運営されているのではなく、教師は誰かに任命されたものでもなく、いわば自発的・自主的なものであり、「学習会」と共通する要素が多い。
とすると、「寺小屋」の広がりこそは、日本の草の根の強さを最もよく示すもので、「寺小屋」こそは日本人の「草魂」の証(あかし)ではないかと思う。
寺小屋の名称は、「お寺」に檀家の子供達が集まって「読み書き」を習っていたことに由来する。
江戸時代中期以降で商人文化が花開きはじめると、読み書き、ソロバンが不可欠となり、これが飛躍的に発展したのである。
教師はお師匠さんとよばれ、町年寄り、庄屋、武士、医者、僧侶、神官などがなり、寺小屋とよばれながらも自宅を教室として使い、男女共学であったことは特筆に価する。
そして寺小屋学習こそが、近代日本の飛躍を可能にした「大いなる助走」とみてよい。
実際に、1872年の学制により全国に3万近くの小学校が創られたが、これらの多くは寺小屋を「衣替え」した小学校であったのだ。
ところで、日本の原水爆禁止運動の「起点」となったのは、「杉の子会」という一つの学習会であった。
杉の子会は、当時、杉並区の公民館館長であった安井郁(元・東大教授)をリーダーに、社会科学書をテキストとした、地域の主婦中心の読書会としてスタートした。ところが1954年に「運命的」なことがおきた。
アメリカのビキニ水爆実験により被爆した「第五福竜丸」のマグロが築地市場にあがった。
「マグロの放射能汚染」という出来事は、主婦達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活ソノモノの問題であった。
毎日の買い物通いの中で、主婦達は何となくウスヨゴレたものを感じるようになったのである。
この出来事に対する「杉の子会」の反応のスバヤサは、読書会で社会科学書を読み進めていたことも一因であったであろう。
そして、わずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めるのである。
日本の市民による最初の公害反対運動であったとみることもできるが、同時にこうした運動を革新政党が目をつけ、運動の「主導権」を握ろうとしたことが、この会を「分裂」に追い込んでいく。
やがて「原水協」理事長として原水禁運動の「顔」となった安井氏は、1963年の第9回原水禁大会で、「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現をめぐってアラワになった安保議論や、運動の「党派的対立」のなかに巻き込まれていく。
何しろ、米ソ冷戦の只中で、「社会主義圏」の核実験はヨシという意見まで出ていたのである。
しだいに「杉の子会」メンバ-にも動揺と混乱おこり、ついに1964年4月の機関誌の発行をもって事実上終止符が打たれた。
ともあれ「原水爆禁止運動」の発祥は、東京の杉並区の「主婦達」であったということは、「世界の記憶」に値する。
原水禁運動の発祥の地である「荻窪公民館」は現在は存在せず、同じ場所に荻窪体育館が建っている。
そして体育館の傍らに、原水禁運動の記念碑「オ-ロラ」が立っている。
ところで、筑豊の炭鉱にも「学習会」に近いものが生まれていた。それは山本作兵衛の絵によって触発された人物によって始められたものであり、山本とも親交が深かった。
京都生まれの上野英信は、父の転職により北九州の黒崎に移転した。
戦時中「民族協和」(五族協和)の理念に憧れ満州に向かい、旧制八幡中学から日本が作り出した満州国の大学に学んだ。
しかし現地で目の当たりにしたのは、厳然と存在した「民族差別」であった。
さらに上野は1944年8月6日見習士官として船舶砲兵隊付の時に広島県・宇品において被爆した。
以後、京都大学に編入したものの、身に帯びた様々の体験は「学業」をこれ以上続けることを拒ませた。
そして上野は引き寄せられるように、朝鮮・中国人・沖縄終身者が流れ込んだ「炭鉱」に向かった。
1964年、上野英信が家族とともに、筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手に移り住み、崩壊寸前の鉱夫長屋を補修して、集会所と図書室をつくり、事務室、居間を備えた「筑豊文庫」を設立した。
その宣言文で「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人々によって創立された」としている。
上野はその宣言文どうり、炭住でのトラブルの仲裁から悩み相談まで引き受けて鉱夫として生き、あるときは筑豊を訪れる人びとの案内者として奔走した。
そして、国内の中小炭鉱の実態だけでなく、高度成長期の繁栄の陰で中南米にまで追いやられていった炭鉱離職者を追い、その記録を綴った「追いやられた鉱夫たち」として結実し、大反響をよんだ。
こうした上野英信の「砦」でもあった「筑豊文庫」は、地域の人達が集まる公民館であり、スラ、テポなどの採掘具から炭券一枚までを大切に保存する資料館でもあった。
そして人々の学習会の場であり、合宿所としても利用されていったのでる。
山本作兵衛の「絵」に啓発された上野英信は「文筆」をもって炭鉱を記録に残し、土門拳は「写真」でもって残していった。
ところで彼らは、炭鉱を搾取と貧困の「負の遺産」としてばかりでは描いてはいないように思う。
炭鉱の長屋に生きる人々の姿を懐かしみ「日本人の原風景」として描いていた感じさえある。
10年ほど前に福岡市市民図書館で、山本作兵衛の原画をもとにして作られた萩原吉弘監督のドキュメンタリー映画「炭鉱(ヤマ)に生きる」をみた。
この映画の中で一人の古老がいった言葉が印象に残った。
「アリのように小さな生涯だったかもしれない。しかし、人生に一点の曇りもなく生きてきた」。