折りたたみ傘

フランスのフランス北西部、ノルマンディー地方にシェルブールの町がある。
シェルブールは、歴史的にはヴァイキングにより侵略され、イギリス海峡に突き出コタンタン半島の港町として発展した。
海軍力の整備に力を入れた国王ルイ16世によって軍港建設が進められ、ナポレオン1世によってさらなる要塞化が行われた。
1940年6月ドイツ軍機甲師団によって占領されたが、1944年の連合国によるヨーロッパ侵攻にあたってシェルブール港は兵站上の重要な攻略目標となり、ノルマンディー上陸作戦に引き続いて激しい攻防戦の舞台となった。
同年シェルブールは解放されたが、ドイツ軍は降伏前に港湾施設を破壊し、その復旧には数ヶ月を要したという。
戦後は原子力関連施設が近隣に進出し経済に大きな割合を占めており、シェルブールは核燃料の搬出・搬入港としても機能している。
そしてシェルブールは、日本の青森県の六ヶ所村の核再処理施設と結んでいる。
六ヶ所村では原発から出る使用済み核燃料から、プルトニウムやウランを抽出するもので、全国の原発から出た使用済み核燃料が集中している。
実は日本は核燃料の「再処理」をフランスに頼っている。日本の原発で使われた「核廃棄物」は日本の港からフランスのシェルブール港に輸送されている。
それらは仏アレヴァ社の再処理施設にて高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)へと姿を変え、今度は逆にシェルブール港から輸送船に積み込まれて青森県の六ヶ所村に向かうのである。
約40年前に、そんなシェルブールが舞台とした「ロマンスの名作」があったといことを今の人々は知っているであろうか。
そう、50代ならば誰もが知っている「シェルブールの雨傘」である。
高校時代、カトリーヌドヌーブ主演の「シェルブールの雨傘」を見て、男女の「別離」の哀しみが、音楽がよくマッチしてとてもセツナイ感じがしたのを記憶している。
福岡市天神、今のソラリアにあったセンターシネマでこの映画を見て外に出ると、夕時の驟雨に傘の花が開いていた。(ツクリすぎました)。
この映画の「哀しみ」の要素はたくさんあるが、まず登場人物がごくアリフレた人々であること、そして大きな歴史の奔流に流されてしまうことである。
さらには、市井の多くの人々はこうした哀しみを胸にシマイコンで生きているのだと思わせるところである。
シェルブール雨傘店の娘ジュヌヴィエーヴと自動車整備工のギィとの恋はついには結ばれず、「別々の人生」を歩んでいくことになるのだが、この男女をヒキサイタもの、それは「戦争」であった。
それとこの映画、セリフが全部歌になっている「ミュージカル仕立」てであったののが、印象的であった。
それも、普通歌にはしないような、アリフレタ話言葉で歌っているとことある。
そのせいか、普通の言葉に感情のヒダヒダがあらわれ、ミュージカルにありがちな、綺麗事やファンアジーではなく、「市井感」に溢れた物語になっているということである。
ジュヌヴィエーブが母親に妊娠を告白する場面では、「妊娠」という言葉が、こともなげに歌われたりする。
この映画はもともと舞台で上演されたせいか、映画も大きく「三つ」のパートに別れている。
第一部「出発」では、シェルブールの町に住む恋人同士、ギイとジュヌヴィエーブの人となりや人間関係、そしてその別離までが描れる。
別離の原因は、ギイの元に届いたアルジェリア戦争の「召集令状」である。
第二部「不在」では、シェルブールに残された女性ジュヌヴィエーブの姿が描かれるが、それは恋人ギルの戦いを同時進行させることもなく、完全なる「ギル不在」のジュヌヴィエーブの姿を描いているところが巧いところである。
何気ない日常に、ジュヌヴィエーブの孤独感や寂寥感が伝わってくるようである。
そしてついに、恋人がイツ帰還するともしれないジュヌヴィエーブは、親のすすめる許婚と結婚し、シェルブールの町を去ることになる。
第三部の「帰還」では、ジュヌヴィエーブのいないシェルブールに戻ってきたギイの姿が描かれる。
除隊したギィは、負傷した足を引きずり帰郷したのだが、店は所有者が変わっており、ジュヌヴィエーヴが他の男と結婚したと聞かされる。
残酷な事実に打ちのめされ、一時は自暴自棄になる。
10年ばかりの時が流れたある雪の夜、妻と息子がクリスマスの買い物に出ていった後、ギィの経営するガソリンスタンドに一台のベンツが入ってきた。
運転席にはジュヌヴィエーヴが、助手席には娘のフランソワーズがいた。
給油に出てきたギィは運転席の人物に気づき、事務室に招き入れる。
そして二人は「元気にしてる?」、「ああ元気だよ」と短く言葉を交わして互いの無事を確かめ、給油の終わったベンツはスタンドを何もナカッタように出ていった。
ジュヌヴィエーブがシェルブールに立ち寄ったのは、わざわざギイに会おうとしたわけでもなく、だからといって「偶然」でもなかった。
二人の気持ちをヒキツケル何かが働いたのかももしれない。
二人は、すでにそれぞれ家庭を持ち、別々の人生を歩んでしまっている。
素っ気無い言葉を交わして別れる二人だが、この「ソッケナサ」こそが、二人の気持ちが冷めてはいないことをも物語っているのだ。
何か大切なことを言わなければならないような、何も言わない方がイイような。
二人には既に守るべき家庭があり、守るべき幸せがある。二人共、相手には自分の気持ちを悟られまいとして、努めて素っ気無く振舞っているにすぎないことは、自然に伝わってくる。
それは、二人が子供につけようとした約束した名前である「フランソワーズ」にもアラワレテいた。
ギイもジュヌヴィエーブもけして不幸になったわけではないが、それぞれが「別の幸せ」に生きているという、決して消えることのない哀しみを抱えている。
しかし、その思いは映画の音楽が代弁しているといえる。
さて、戦争がもたらした「別離」の話は、現実の中に枚挙にいとまがない。
2年ほど前に、NHKテレビで福岡県小倉出身の俳優・草刈正雄が「故郷」を歩く番組があっていた。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死した。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごしたのだが、それは決して楽しい思い出というわけではなかった。
小倉は戦時中に軍港があったところであり、広島に続いて原爆投下のターゲットとなった町である。
たまたま天候が悪く、原爆投下は長崎に変更された。
そういう意味でも、アメリカ人の血をひく草刈には、複雑な気持ちを巻き起こす町であったし、何よりも亡くなった「父親」の俤が残る町であった。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈氏は、故郷のことを忘れようと、上京後は小倉との繋がりを失っていたが、近年は「自分の土台はふるさと小倉にある」ことに気付き、地元で行われる祗園太鼓の舞台などにも積極的に参加するようになったっという。
そして「朝鮮戦争で戦没した国連軍兵士を祀るメモリアルクロス」のある足立山から小倉の眺めを楽しむのだという。

さて、「シェルブールの雨傘」はありそうな「フィクション」であるが、最近それ以上に胸ハリサケそうな別離のノンフィクションを知った。
数日前に、NHKのドキュメンタリー番組で俳優の浅野忠信さんの家族の歴史を追ったものがあった。
浅野忠信さんは、太宰治の生涯を描いた「ヴィヨンの妻」などに出演され、永作博美との共演で「酔いがさめたら、うちに帰ろう」で一躍注目された。
最近浅野さんは、この夏封切りのハリウッド映画「マイティ・ソー」に抜擢されたのだが、浅野さんにとってハリウッド進出には、ある「特別な思い」が秘められていた。
それは、一度もあったことのない祖父の俤を追うためだったかもしれない。
日本は敗戦後にアメリカによって占領されたが、アメリカは日本と戦ったことのない、つまり憎しみを持たない若い初任兵を日本に送った。
多分、浅井さんの祖父もそういて日本に送られたアメリカ兵だったのだろう。
浅野さんが調べた限りでは、祖父が日本人女性との間に生んだ自分の母を日本に残し、朝鮮戦争後にアメリカに帰り、既になくなったことを知り得たのみであった。
しかし、アメリカの映画出演がきっかけで、いまだ会ったことのない祖父への思いがつのった。
占領期におけるアメリカ兵と日本女性との間に出来た子供が父を探すというのはヨクアル話だが、この番組はそうしたヨクアル話よりも「家族の絆」を強くカンジさせる素晴らしい内容であった。
この番組「ファミリーストーリー」は、浅野さんのお母親である順子さん(60歳)とともに祖父(順子さんの父)の「その後」を探していくという企画だった。
それは浅野さんの自らのルーツを突き止めたいという強い思いからだったが、母・順子さんにとっても、4歳の時に別れた父の「素顔」を知ることにつながるのである。
番組スタッフは、浅野母子に代わって、日本国内のみならず、アメリカ、中国に飛んで取材を重ねた。
そして浮かび上がったのは、海を越えた一組の男女のめぐり合わせであり、それは、戦争が引き寄せた「出会い」だった。
そして、浅野さんの祖父に関する事実が、次々に明らかになっていった。
1947年、アメリカ進駐軍の兵士で日本にきていたウィラード・オバリング氏は浅野イチ子という女性と結婚した。
その時ウイラード氏は23歳で、イチ子さんは再婚で38歳だった。
二人の娘である順子さんは、4歳の時一人アメリカへ帰った父とはその後全く音信が絶えて消息がわからない。手元にあるのは父の名前と両親が結婚した時の写真だけである。
アメリカは移民の国であるから、家族や先祖の消息やルーツを探す「支援センター」が各地にあり、番組スタッフがそこで探すと「ウィラード・オバリング」の名前を見つかった。
住所は、ミネソタ州ウィノナで、現在そこにはウィラードさんの一番下の弟ゴードンさんが住んでいた。
この故郷の地名「ウィノナ」も先住民(インディアン)の言葉で、先住民との関りの大きい土地だった。
しかし、弟曰く「兄ウィラードには日本に娘がいたことを全く知りませんでした」と。
ゴートンさんの証言で、オランダらのアメリカへの移民であったオバリング家の開拓の歴史が初めて明かされた。
浅野忠信さんは、よくインタビューなどでアメリカン・インディアンの血が入っていると語っているが、ゴートンさんによればそういう事実はなく、両親はオランダからの移民だということが判明した。
片言英語のイチ子さんが「先住民」土地に住んでいたことと、先住民の血がはいったこととを聞き間違えたと推測される。
オバリング家の生活は厳しくウィラード氏は高校にも進学出来ずアルバイトをして、やがて16歳で軍隊に入隊したという。
そして、ケンタッキー州フォートノックス基地で「調理兵」として働いた。
ところで、ウィラード氏と結婚した順子さんの母つまり浅野忠信さんの祖母であるイチ子さんの生涯もウイラード氏に負けず劣らず波乱に満ちたものであった。
戦前両親と満州の大連に渡り、そこで最初の結婚するが、子どもができなかったこともあり数年で離婚している。
その後日本に帰り、芸者の置屋をしていた父親の仕事の関係で芸子になるが、終戦となり親も他界、一人故郷の広島へ引き上げて来るが、そこは原子爆弾が投下されたバカリの荒れ野でしかなかった。
そこで横浜に出て行き、友人からウィラード・オバリングを紹介され恋愛し二人は結婚した。
二人は横浜に家を買い、優しいウィラード氏との幸せな結婚生活が続くはずだった。
しかしここで二人を引き裂いたのも「戦争」だった。
ウイラード氏が朝鮮戦争に出兵していた時に順子さんが生まれたのである。
しかし、朝鮮戦争終結後に駐留軍の撤退が始まり、ウィラードさんもアメリカに帰ることとなり、妻子も一緒に連れて行こうとした。
しかし、英語もわからず、15歳も年下の夫との「先行き」に自信が持てなかったイチ子さんはアメリカへ同行する道を選ばなかった。
ウィラード氏は単身帰国し、イチ子さんも彼への思いを断ちきるかのように、結婚写真を真二つに切った。
一方、アメリカへ帰国して4年後にウィラード氏が再婚したことを知った。
その再婚相手の女性は、連れ子の二人の男の子を持つ女性で、ウィラード氏は、この家族を支えるために生涯必死に働いたという。
戦争中、調理兵として各地を転戦した経験を生かし、アメリカ帰国後にはレストランなどでコックとして働いていた。
ウィラードは非常に真面目に誠実に職務に励み給仕長として賞をもらったことでもわかる。
番組では、その再婚した妻の連れ子である義理の息子ジェームズがインタビューに次のように語った。
「当時、決して生活は楽ではありませんでした。それでも父は、家族を支えるため一生懸命働き続けました。人生とはこう生きるんだと行動で示してくれました」と。
年月が過ぎ、ウィラード氏が日本に残した娘(当時4歳)の順子さんも結婚し二人の男の子が生まれた。
その次男が浅野忠信である。
1992年、今から約20年前、ウィラード氏は67歳の生涯を閉じた。そして、イチ子さんも数年前に92歳の生涯を終えた。
そして、義理の父ウィラード氏が亡くなり、義理の息子が遺品を整理していると、父のぼろぼろになった財布から出てきたのは、日本に遺してきた娘順子さんの「写真」だった。
この事実に落を流す順子さんと、浅野さんも胸が張り裂けるとしか言いようがない思いが伝わった。
それでも二人にとって「嬉しい事実」は、父であり祖父であるウィラード氏が、大変誠実な愛情深い人であったことである。
ウイラード氏は、日本に残した妻子をケシテ忘れることがなかった。
またウィラード氏は、再婚した義理の息子たちをも父親として一生懸命育てた。
そして、自分の職業にも全力を尽くして「賞」をもらたりする人だった。
そんな素晴らしい父であり、祖父であったということが、今回の番組スタッフの努力を通じて明らかになり、ウィラード氏の心が残した子や孫に伝わることになった。
そのウィラード氏の義理の息子たちが、ウィラード氏にとって血を分けたただ一人の「娘」や「孫」と対面する場面が、番組の最後を飾った。
この番組をみて、市井の人々の胸の内には「折りたたみ傘」のようにシマワレテいるのかもしれないと思った。
戦争末期、佐賀県の鳥栖市の小学校に、出撃前にピアノを弾きに来た特高兵の思い出を、50年もたって語った女性教師のことも思い出される。
彼女の語った思い出は、やがて「月光の夏」として映画化されたのだが、多くの市井の人々の「傘」は開かれることなくオリタタマレたままだ。