大刀洗の人々

福岡県大刀洗町は文字通り「いくさ」と関わりの深い町である。
大刀洗町の町名は、南北朝の戦いで南朝の菊池武光が川で血刀を洗ったことからつけられた。
太平洋戦争の末期には神風特攻隊の基地として知られるようになった。
母はこの大刀洗近くに育ち、1989年に応募したあるコンクールで、特攻隊員との出会いと別れを描いたエッセイが入賞して新聞に掲載されるや、一二週間ほど戦時中大刀洗で過ごした人々からから、ヒッキリナシにお祝いやら激励やらの多くの電話をいただいたことがあった。
私も、いつしかこの大刀洗の街を訪れ、戦争中大刀洗ですごした人々の「生の声」が聞けたらと思っていたところ、仕事が大刀洗に近いところ転勤になったために、しばしばこの町を訪れることになった。
甘木線のJR大刀洗駅を降りるとすぐ駅舎の屋根上に戦闘機が置かれており、それが噂に聞いた駅に隣接して造られた「平和記念館」であることが、すぐにわかった。
早速、この記念館に入ってみると特攻隊員の遺書や戦争中に使用された日用品の数々が展示してあった。
旧駅舎につながる地下道も展示用に利用されており、戦争時の人々の生活を物語る日常品が並んでいる。
1944年製飛2号無線機、手回しサイレン、大正昭和初期頃の日本製ラジオ、シュロ製の帽子、陶器から木製にかわった軍の食器、陶器製ポン、衣類の配布券などである。
今でも、大刀洗平和記念館には遺族らからの寄贈が後を絶たないという。
実は冒頭にあげたわが母の「エッセイ」もこの平和記念館に展示してあった時期があった。
その展示品の中でキワダッテいたのは、博多湾から引き揚げられ復元された世界に一機しか現存していないといわれる「97式戦闘機」である。
この戦闘機から見つかった弁当箱に記されていた名前から、操縦していたパイロットの名前も判明している。
また展示館入り口には零式艦上観測機のフロート(縦長の浮器)も展示されている。
この零式艦上観測機のフロートは、1987年からの福岡市による大濠公園の工事中に発見されたものである。
一時爆弾ではないかと騒がれたが、旧海軍機の「フロート」と判明し、当記念館に移され原型に修復したものである。
因みにこの「フロート」は旧糸島水上飛行場にあったものを、米軍兵士が大濠公園に運びボート代わりにして遊んでいたものと推測されている。
この平和記念館を建てられた建設業者の渕上宗重氏は、神風特攻隊の出撃基地であった鹿児島県・知覧に行ったときに、そこに「太刀洗基地分校」という名前が書いてあるのに気づいた。
分校である知覧にこれだけの平和記念館があるのに、本元の福岡県大刀洗町には記念館もないとことを遺憾に思い、自費でこの記念館をJR大刀洗駅に隣接して建設したのである。
この記念館で私は、漫画家の松本零士氏から寄贈された戦闘機の「車輪のホイール」が展示してあったのを見つけた。
松本氏の父親は、太刀洗飛行場のパイロット育成のための教官だったそうで、氏の作品「宇宙戦艦大和」などの中には、そうした父親像がきっと反映されているのだと思った。
松本氏が生まれた頃には、松本氏の父は大刀洗の飛行第四戦隊に所属、97式戦闘機に乗っていたそうである。
さてこの平和記念館をでて、旧太刀洗飛行場の旧営門にむかった。
旧営門には慰霊塔と「西日本航空発祥の地」の碑がたっていた。
しかし飛行場跡にはビール工場がたっており、ほとんど旧飛行場の面影はなかった。
その後行く当てもなくなり、道を尋ねようと営門前にある美容室に立ち寄った。
そこで出会った人が佐藤月路(仮名)さんである。
佐藤さんは、お客がいなく手が空いていたせいもあり、私を近くにあるいくつかの飛行場遺跡に連れていってくださった。
旧飛行場で使っていた井戸、飛行機の射撃訓練を監督する「監的壕跡」、そしてクズレかかったレンガが残る「憲兵隊跡」などであった。
佐藤さんの両親は、戦争時よりこの場所で理髪店を開いておられ、佐藤さんの母親は故里をはなれた特攻隊員に「お母さん」と慕われていたそうである。
そして出撃間近い特攻隊員に料理をしたりお菓子を出したりしてツカノマの交歓の時をすごしたそうである。
そういえば、知覧を訪れた時に、基地の近くで富屋食堂を営み「特攻の母」と呼ばれた鳥浜トメのことを思い出した。
軍の機密として特攻隊員であることさえも家族に連絡できず、若い隊員が訓練の合間に立ち寄ったのが鳥浜トメが経営する富屋食堂であった。
鳥浜トメは、野花をもってきて僕の代わりに植えてくれといった隊員や、「蛍になってくる」と言い残した隊員など、最後の生きる証を求めた隊員に対し自ら「母親役」となって隊員達の話を聞いてあげたのである。
私が大刀洗で最初に出合った証言者・佐藤月路さんの母親も同じように、鳥浜トメと同じように隊員達の母として隊員達に接しておられたのではないかと思う。
佐藤さんの話の中で印象的だったのは、今なお旧飛行場関係の方がこの地を訪れ、営門にスガリツクようにして「泣きくずれる人々」の姿を時折見かけるそうである。
この場所には自分が知らないアマリニ重い思いが詰まったところなのだと思う。
最初の訪問から数カ月後、佐藤さんにに再び会いに美容室を訪れた。その時、NHKでJR甘木線が紹介された際に、佐藤さんが出演された時のビデオを拝見させていただいた。
特攻隊員自身の「生の声」が聞きたいと、またある夏の日、三度目に大刀洗を訪れた。
しかし「生の証言者」と出会いたいという願いもカナワズ、JR大刀洗駅のホームの待合室に佇んでいた時、コンビニエンスストアの袋をもって1人の老人が真向かいに座った。
この老人が私に思わぬ道を開いてくれた。
誰か特攻隊員の知り合いはいないかと尋ねたところ、自分は太刀洗飛行場で特攻機の整備をしていた「軍属」であったといわれた。
私が名刺を渡すと、御自分の名前を森下(仮名)と名乗られ、ご長男が当時私が勤務している学校の卒業生であることを告げられた。
仕事上、森下氏は特攻兵とのツナガリが深く森下氏の「印」がなければ、最終的に特攻機は飛び立つことができなかったそうである。
そうした立場で一番つらかったことは、まだ少年のアドケナサが残る航空兵を送り出すときだったそうである。
隊員達がどんなに手をフッテ出撃しても、森下氏は下をむいて何もいわずに手をあげて送り出すことしかできなかったと言われた。
大刀洗飛行場周辺では、いまだに航空機を整備した際のボルトやナットが埋まっているそうである。
森下氏はそうした物を見つけると宝物のように袋にいれて持ち歩いているのだと、拾ったものをポケットから出してみせてくださった。
ホームページで森下さんを紹介したいので写真をとらせてくだいというと、「私の人生は終わりました。どうぞご遠慮なく」といわれた。
そして写真をとる時に、温和な表情が見事に「軍人の顔」になった瞬間、ハットした。
お別れの時、森下氏が懇意にしていると私に紹介してくださった人物が、元陸軍パイロット平石氏(仮名)であった。
そして、ある老人ホームの広場で元陸軍パイロット平石氏と出会った。
平石氏は甘木市出身で、東京帝国大学卒業後、陸軍中野学校に入校した。
ご本人の表現では、中野学校では「口にはだせないような個室教育」を受けたと言われた。
陸軍中野学校を出た後、平石氏は陸軍参謀本部に入る。
参謀本部では、小間使いや使い走りのような仕事が多かったそうであるが、「通常では知りえない情報」に接することが多かったそうである。
平石氏は以前に私費で航空術を学んだ経験があったそうで、突然特攻隊隊長に任命された。
この頃は、自分の能力とエネルギーのすべてを空中の戦いに注ぎ、特攻隊長として名を馳せたそうである。
一番悲しかったことは、敗戦ではなく済州島上空での空中戦で多くの部下を失ったことだと言われた。
かつての参謀本部のメンバーであった平石氏は、終戦後、戦犯の指定をうけ、一人の証言者として東京裁判の席にたった。
戦後しばらくの間、中央官庁の仕事につくが「公職追放」処分をうけ、その後今日に至るまで甘木山中で山林の仕事をして生きてこられた。
年老いてもなお精悍な姿が、「精神の強靭さ」をソノママ物語っているようであった。
ところで私は、平石氏の話を聞いた後に、参謀本部に勤めていたようなエリートがなぜ特攻隊長になったかにつき意外の感をもったが、後にいろいろと資料を調べるうちに、日本の敗戦がほぼ確実になった戦争末期にこうした事例がたくさんあることを知った。
平石氏自身の言葉によれば「自分は知りすぎた人間だった」という言い方をされた。
ところで大刀洗飛行場周辺には、飛行機工場・航空廠などもあり多くの人々が働いていた。
現在は利用客も少ない甘木線西大刀洗駅のプラットホームが「異常に長い」のは、かつての軍都の名残である。
大刀の町は、少々眠たげにも見えるカンジの町だが、細部を探せばいくらでも「戦争の跡」を残している町だった。
交通量のワリには異常に幅広く長く伸びる道路は、滑走路の跡であることを聞いた。
敵の飛行機からの攻撃を防ぐために飛行機を隠す掩体(エンタイ)壕は、ある小さな会社の作業場となっていた。
また、銃だけを石壁から出して敵を攻撃する「銃眼」が残っているという場所は、様々な事情で親と暮らせない子供達の保護施設の敷地内の防空壕の中にあった。
またJR甘木線を東に列車で数駅走ると、軍都とよばれた大刀洗すぐ近くの甘木市には、軍需工場での勤労奉仕のために「女子挺身隊」が結成され、多くの「女子寮」がもうけられていた。
甘木に行って初めて知ったのは、甘木市内にあるほとんどの寺がそうした「女子挺身隊の寮」になっていたことである。
そうした寮のひとつにあてられていたと聞いた甘木商店街すぐ近くの「法泉寺」を訪れた。
法泉寺住職は戦争中の話しを色々としてくれたが、一枚の額縁に入った飛行機の写真を持ち出してきて私に見せてくださった。
住職が示した写真は、法泉寺の信徒がドイツのメッサーシュミットから購入したという飛行機で、その飛行機は寺から軍に献納されたものであった。
そして寺のお堂には、額にはいった飛行機の命名書がいまだにかかげられていた。
命名書によるとその飛行機は「浄土真宗板部」と名づけられ、当時の陸軍大臣・「杉山元」の名前が明記してあった。
戦争末期、物資に欠乏していた軍に対して献金・献品運動がおこなわれていたことは知っていたが、まさか寺が戦闘機を軍に献上するとは驚いた。
住職自身、「全国で唯一うちの寺だけでしょう」と豪語(?)されていたが、寺が航空機を検品するといったことは結構あったらしいことを後に知った。

田園広がる大刀洗町近くを通ると巨大な建造物が飛び込んでくる。「今村カトリック教会」である。
大刀洗には人々を緘黙させる特攻隊の歴史以外にもうひとつの「悲しい歴史」があった。
私は、そのことを調べるうちに「鉄川与助」とういう人物と出会った。
鉄川与助は、日本における教会堂建築のパイオニアで長崎の浦上天主堂なとの建造物をつくった人物ある。
鉄川が手がけた教会堂は長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など数しれない。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。
この鉄川家に生まれた与助が福岡に残した教会堂建築こそ大刀洗にある今村カトリック教会である。
江戸時代にキリスト教は禁制になり、ここ大刀洗にも「キリシタン弾圧」の嵐がふき荒れた。
今村カトリック教会自体が殉教者の墓の上にたてられたものであり、近くの「ジョアン殉教碑」なども弾圧の歴史を物語っている。
幕末、日本が開国すると、鎖国の間幕府により弾圧されたキリシタンが今なお日本に存続しているかはローマカトリック教会の関心事であった。
そこで、調査のために幕末から明治の初期に宣教師をおくりこんだ。
明治の新政府になっても依然として「キリシタン弾圧」は続き、そのキリシタンの多くが津和野の「乙女峠」にある寺に送られた。
ここで多くの信者が殉教したことが伝えられている。
しかし大刀洗のキリシタンにとっての「本当の悲劇」は、江戸時代のキリシタン迫害のために殉教者をだしたということではなかった。
それ以上に悲劇的だったことは、この地を訪れた外国人の宣教師により大刀洗の信者達が「キリシタンに非ず」と宣言されたことであった。
この辺の経緯は「汝等きりしたんに非ず」(三原誠著・勁草出版)という本に詳しく書いてある。
大刀洗の信者達は、宣教師も来ずに他の地域の信者との連絡もない「陸の孤島」のような場所で信仰を守り続けた。
その信仰が土着化し本来のキリスト教信仰とは「相容れない」ようなものに変容したと考えられる。
ここで明治時代にキリスト教が「解禁」になると、信仰の建て直しと誇れる教会堂をという人々の願いからドイツ人宣教師らのハカリシレナイ努力によって1913年に建造された教会が「今村カトリック教会」であった。
その設計にあたったのが長崎で数々の教会堂建設を行った鉄川与助だったのである。
ところで私が当時勤務していた高校で担当する「掃除区域」に「鉄川」という名前の女子生徒が来ていた。
モシヤと思い、ご両親の実家は長崎ではないかと尋ねると、その生徒の「祖父の弟」にあたる人物が鉄川与助ということが判明した。
私の驚きの声に、生徒の方がタマゲタようだった。
鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
やがて鉄川は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加し、これをきっかけに神父から西洋建築の手ほどきを受けて、田平教会の「リブヴォルト天井」の建築方法を学んだという。
初期のうちは、寺院建築の様式とキリスト教建築の様式を習合させたようなスタイルの建物であったが、しだいに本格的な西洋建築に移行していった。
10年ほど前、愛知県の明治村を訪れた際、寺院建築と教会堂建築が習合した建造物である「大明寺聖パウロ教会」と出会うことができた。
おそらく鉄川与助も初期の段階において、こういう形式の教会堂を次々につくっていったのだと思う。
与助の孫にあたる鉄川進氏は今、祖父与助が興した「鉄川工務店」の社長である。
鉄川進氏は長崎大学で建築構造学を学んだエンジニアで長崎市内の数多くの近代建築や景観つくりに携わっておられる。