最小不幸社会

テレビで連続的にやっていたハーバード大学の人気講座のサンデル教授の話を聞いていて、いっそ世の中に「才能税」みたいなものを導入してみたらと思った箇所があった。
一般に「差別」が問題になる時、本人ではどうにもならない事柄に対してそれを不利に扱ってはならないという原則がある。
つまり本人がどんなに努力しても選ベナイことを、アツカイの根拠とシナイのが「平等」への第一条件である。
この場合、本人にとってどうにもナラナイこととは「家柄」とか「人種」とか「性別」とかを考える。
しかしサンデル教授は、その中に「才能」もハイリウルことを教えてくれた。
「才能」は、言葉本来の意味からして生まれながらのもので、才能が「ない」人間からすれば、「ある」人間はなんの苦労も無く富と栄光をつかんでいるように見える。
それでは、本人が努力したのはない才能に対して、本人の努力でない富に対して「相続税」をかけるのと同様に、「才能税」をかけても「理屈上」はおかしくはない。
ただそうすると、有り余る才能を隠して「脱税」をはかる人間がいたりして、社会的にみたら「才能税」はプラスには働かない可能性がある。
あるいは、「税引き後の収入」が最大化するように才能を「小出し」にするかもしれない。
才能を社会的に発露させるのは、課税よりむしろ「奨励金」だろう。
しかし、これではますます「格差」が大きくなる。
また大きな問題点は、どうやって「才能」を測るか、またどこまでが「才能」でどこまでが「努力」の賜物か、判別し難いところにある。
つまり税における「捕捉率」の不公平がおきる可能性があるということだ。
野球のイチロー選手は、「動体視力」つまり動くものを正確に捉える能力において、他の野球選手と比べ格段に能力が高いという話を聞いた。
しかし、その能力はもって生まれた才能かもしれないし、幼きよりチチローに連れられてバッテイング・センターで鍛えられた能力かもしれない。
同じく動体視力に優れた世界の王選手だって、中学で最初に入った卓球部で、ソノ能力を身につけたのかもしれない。
お笑い芸人の能力だって努力で得たものではなく、「テンネンボケ」なのかもしれないのだ。
さらには、「努力する才能」という言葉もあるくらいだから、話はますますヤヤコシクなる。
またこういう理屈を極限化すると、公平化の為に美人には課税、不美人には補助金といったところまでイキツイテしまう。(美人は変顔で脱税をはやかるカモ)
結局、「才能税」なるものを現実に導入するのはムリなのである。
とはいっても、たまたま才能ある人間が同じ人間なのに、あまりにも多く受け取るというのも気になる事実である。
平均の倍程度の才能の人が、100倍や1000倍もの報酬を得ることは、イタダケナイ。つまり「不公正」を感ぜざるをえない。
例えば、有る画家の「ナグリ書き」が数千万円で売れるとか、ある音楽家が子供の頃使ったボロ楽譜が何億円で売れるとかいう話を聞くと、やはり何か「不公正」なカンジもする。
金を出す者がいる以上はそれでイイと言われればソレマデだが、市場は「何が公正か」までは判断しないのである。
そこで、ある種の「公正」の観点を導入しモライスギを政策的に「抑止」しても悪くはナイように思う。

ところで、人間は生まれた時点ですでに大きな差がある。才能もそうだが経済的な環境差も大きい。
豊かな環境は一人の人間の可能性のハバを大きくしてくれる。
もちろん経済的豊かさは、ワルサに手を染める機会も増やすが、これはむしろ人間の性分に関わる要素が大きいので立ち入らないことにする。
経済的富裕さは、一般に能力を発見しそれを伸ばす機会や、様々な情報にアクセスでき機会にも恵まれていることを意味する。
人間が「選ぶことのできない」環境により大きな差が出るとするならば、天賦の才能に対して言及したと同じく、環境要素も加味して加重な課税をしても悪くはない。(新型「環境税」である)
わかりやすくいうと、本人の努力とは別の要素で恵まれ過ぎた人々に課税するなどして、そこまで恵まれた立場にない人に対して「所得の移転」をはかり「公平化」をはかるのは、「公正」であるということである。
いずれにせよ厳密さが欠けた議論だが、同じ人間の純粋な「努力」だけの要素で、そこまで大きな所得格差を出るのは、ヤハリ何かがおかしい、つまり「公正でない」と見做せるということだ。
現実の世の中を見ると、所得に関しては加重な税、それも「比例税」よりも適度な「累進」の課税の方が、シカルベキ課税法ではないかと思わざるをえないほどの経済的格差が存在する。
こういうと、才能や恵まれた環境に対する嫉妬の表れみたいに聞こえるが、要するに「才能の出現」というものを「個人的の富」と考えるよりも「社会的な富」とみなせば、そこから多く税をとっても「不公正」ではないということだ。
では才能の出現はどうして「社会的な富」と見做しうるかが問題である。
そこで、ナチスがユダヤ人の子供達に行った恐ろしい一つの実験を思い浮かべた。
ユダヤ人の子供達から徹底的に「社会性」を奪い取ることによって、命令通りに殺人を犯す「殺人マシーン」を育てようとした実験である。
その子供達には普通の子供達以上の栄養を与えながらも、母親には「お面」などをかぶせて生活させ、一切の人間的コミュニケーションを排除して食事だけを与えて生活させた。
こうした子育てを行わせた結果、多くの子供は生存することなく死んでいったという。
人間は、母親が目を合わせる、名前をよぶ、赤ん坊に微笑んだり頬ずりをしたりする、などして広い意 味でのコミュニケーションをはかることによってその生命力が維持されているのである。
このエピソードから得られる逆教訓は、「人間生命の社会性」ということである。
つまり人間の生命力は内側に単独に存在し得るという考え方の否定であり、生命力という能力ですら、個人 の自然性(素質)だけでは育たないということである。
そしてこれは幼児期だけではなく大人になる過程で、個人の自然性に対する周囲の様々な働きかけや物的な 刺激によってようやく発達するという側面を見落とすことはできないのである。
才能はムシロ「社会性」に恵まれない家族の方に現れるという反論もありうるが、それが狂気ではなく才能として認められるのは、何より「社会的な評価」であることを忘れてはならない。
テレビで、沖縄出身のある女性ゴルファーが優勝した時に、次のような声があった。
地元のオバサンの応援の弁に、どんどん優勝してわれわれの地元を潤して下さいというものであった。
優勝賞金が果たしてどのくらい地元に還元されるのかは別として、そのおばさんの弁はゴルファーの「能力」は地元が育んだものであり、それをしっかり故郷に還元してくださいといわんばかりのチャッカリした言葉であった。
日本では戦前、財閥や地主が存在し今と比べても「経済的格差」が大きな社会であった。
その一方で、才能があるとか向学心が有るものを資産家が面倒を見てやったりしていた。
北杜夫の小説「楡家の人々」にみるごとく、裕福な病院が将来のある書生を多くかかえこんでいたようなケースは全国各地に見られたのである。
これも「才能」をある程度「社会的な富」と考えていた表れであると思う。

何が正義であり、何が公正であるのかは、アメリカを席捲した「市場万能主義」に対する批判でもある。
市場の行き過ぎに対して、市場の判断と別に何らかの「公正」の基準を導入しようというのが、サンデル教授らの学問なのだと思う。
サンデル教授自身が「公正」や「正義」をどう考えているのかはよく知らないのだが、少なくともサンデル教授の講義がジョン・ロールズという社会哲学者に多くを依拠しているのは聞き取ることができた。
講義で語られることはなかったが、ジョン・ロールズは米軍の若き兵士として敗戦後の日本にやってきた。
アメリカ政府は賢明にも、日本軍と前線で戦い憎しみのカタマリとなった兵士を占領軍として日本には送らなかった。
まだ若い戦争体験の浅い兵士を日本に送り込んだのである。彼らの渡すチューインガムやチョコレートに日本の子供達が群がったのは、残された映像や写真を見ればわかる。
そうした若き米軍兵士の中に、将来のサンデル教授の学問的「キーパーソン」となるジョン・ロールズがいたのだ。
そして、ジョン・ロールズの内面で「正義の思想」を喚起したのは、焼け跡に見た勝者と敗者の圧倒的な「差」ということだったのかもしれない。
ところで、ジョン・ロールズは「無知のベール」という思想で知られている。
「無知のベール」思想は、経済的な「勝者」(=富者)に加重な負担を強いることが仮に「公正」であるにせよ、それを「勝者」が果たして受け入れるだろうか、また、そうした負担はどこまで認められるかという問題意識から生まれたものである。
そこでロールズは政治哲学の世界でホッブズがやったっように「自然状態」、つまり政府ができる以前の社会を想定する。
そこで人々は「無知のべール」でおおわれており、自分が何らかの才能をもっているにせよ、これから出来て行く社会の中でどのように評価され、自分がどのような社会的な地位をしめるか、完全に「無知」である状態を想定するのである。
その時に、人々は「社会の最低」に位置した場合のことを念頭におき(つまり最悪を想定し)、最低であったとしてもできるだけ「有利」な「最低」であることを願うのである。
こういう条件では、仮に自分が「富者」になる可能性があったとしても「富者」に大きなハンディを課していくことに、同意するだろうということである。
いま、ロールズの考え方を「累進課税制度」にあてはめて考えてみよう。
まず第一に、所得には天与の才能や環境の報酬要素を多く含むため、累進課税制度は容認されうる制度である。
そして累進課税制度は、少なくとも理念的には所得が増えるほど貧者に多くの割合を「所得移転」していくという制度である。
ところで、人はがんばったらそれなりの報酬があることを望む。逆にいうとがんばっても報いられないならばがんばらない。
つまり頑張ったり才能を発揮したりしたことに対して何らかの「差」が生じなければ、社会全体のパイは大きくならないということである。
だから、あまりにも過度な「累進度」つまり所得があがるほど「税率」自体が大きく増していく課税制度がもたらす「結果の平等」は、人々のヤル気を摘み社会全体のパイを減らすことになりかねない。
だから才能の違いも含む頑張りによる「差」コソが社会全体のパイを大きくし、それが「所得移転」を通じて貧者の絶対的な給付水準を上げうるのならば、その「差」は許容される。
反対に、過度の累進税率による平等化が富者のやる気をソギ、結果として社会全体のパイを縮小させ、「所得移転後」の貧者の絶対的な給付水準を低下させるならば、その平等化(課税の累進度)はカエッテ許容されないということである。
結局、ロールズの主張は最低水準にある人をもっとも有利に導くような社会制度のあり様を追求せんとしたのである。
つまり「無知のベール」のために誰が陥るかわからない最低水準を最大化するというのが、ロールズの基本的な考え方で、これを「マキシミン原則」とよぶ。
そして「無知のベール」が想定された社会では、この原理が受け入れいられヤスイということである。

それでは今、日本は格差社会といわれるようになっているが、ロールズの「マキシミン原則」からみてどうであろうか。
かつて小泉内閣がとった「構造改革」路線の基本は、規制緩和と自由化により社会を活性化するというものであり、その結果「格差社会」というものが生まれた。
その路線は、民主党政権になって大きく転換したとまではいいきれない。
その典型が、所得税の最高税率を下げ、相続税や贈与税の税率を下げようとする一方で、課税最低限を引き下げようとする 税制改革の議論である。
医療費の本人負担を増やし、専業主婦からも年金保険料をとるといった具合に一般市民の負担をどんどん増やし、金持ちの負担を軽くしていく方向である。
しかもサラリーマンの雇用形態を能力主義、成果主義にして、所得自体を二極分化させていく「階層化」を後押ししているように見える。
教育も「ゆとり教育」で、一般の子供は教育の内容は落とし、上層の子供達は中高一貫教育の私立学校で高い内容の教育をうける。
つまり教育改革は、社会を二つの階層にわける元凶にさえなっている。
要するに、強者がより「強さ」を発揮できる社会を目指し、経済を活気づけ全体のパイを大きくしようとしているヤに見えるが、実際のパイは全く大きくならずその方向性ほとんどハズレているようである。
それよりも、社会全体で、「希望」や「夢」のパイが縮んでいるように見える。
となると単純に、強者が弱者を生み出し、弱者をお抱えの運転手やメイドにする社会でも作ろうとしているのかと思えてくる。
さらにワーキンブ・プアや孤独死の広がりからみると、ロールズの「マキシミン原則」からすれば、今の日本社会の方向性は「正反対」と言わざるをえない。

ところでジョン・ロールズの「無知のベール」という言葉から色々なイメージが喚起されるが、それはあくまでも学問的「仮想」である。
それはちょうどホッブズが政府が存在する以前の「自然状態」を想定したのにならったものだ。
ただホッブズの自然状態は、建国前のアメリカ大陸の状態を思えば、まったく「仮想」とばかりはいいきれないものがある。
しかし政府が成立する以前の自然状態でさえ、政府樹立後に自分がシメルであろう位置やチカラ関係が不明であるという「無知のベール」に覆われているとは思いがたい。つまりあまりイイ仮想的「人間像」ではない。
まして現実の生身の人間ではありえない。
アメリカのある大学で、将来平均以上の所得を稼いだ人に「全体」を分担して返済してもらうという奨学金制度をつくったそうだが、この制度を希望したのは成績の悪い生徒ばかりで、本来の趣旨にも反し結局成り立たなかったという。
つまり、学生時代に自分が社会にでて占めるであろう「位置」を結構正しく(?)予測できたりするのである。
ロールズの社会観には、ゲームの理論でいうところの最悪(極刑)をさけようとする二人の「囚人」のジレンマのような観点が導入されている。
ジョン・ロールスが若き日に日本でみた被爆直後の広島の風景は、彼の内面で「正義の思想」や「公正の思想」を喚起するうえで、何よりも大きなインパクトであったにちがいない。
アメリカという勝者がどんな正義をとなえようと、そこにある「最悪」を正当化できるのか。
結局、ジョン・ロールズの考え方は、「最大多数の最大幸福」ではなく、「最低水準の最大化」つまり「ミニ」を「マックス」する考え方である。
それは、フィンランドの「最低を押し上げ」て高い教育水準を実現していることを思い浮かべる。
さらに、菅首相が総理就任当時にカカゲタ「最小不幸社会」とも通じるものがある。
しかしこの言葉、最近ほとんど聞かれなくなりました。