舞台はホテル

ホテル、リゾート地、結婚式場などは、人間活動のいわば「オフ」の時間や場所に関わるものであるから、「歴史の舞台」となることはあまりない。
しかし最近、日本の歴史を「見つめた」といってもいいホテルの存在があることを知った。
今夏、新宿西口にある部屋数1633室の巨大ホテル・ワシントンホテルに宿泊した時、全国にこのホテルチェーンを展開する「藤田観光株式会社」という会社の名前を知った。
そして、藤田観光の本社は現在、東京都文京区関口の「椿山荘」内に存在しているという。
そして、この「結びつき」に政治のニオイがした。
椿山荘といえば、世に知られた「結婚式場」の名門で、大小宴会やガーデン・レストランとしても利用されてきたところである。
広大な日本庭園をもち、総面積は約2万坪におよび、東京ドームの約1.5倍にも相当している。
ある時期、この「椿山荘」のある目白台のフモトの「地蔵通り商店街」あたりに住んだことがあり、高台の鬱蒼とした木立の中に見える「椿山荘」なる場所には、なにか「魔物」が住んでいるように思えた。
実はその感覚、あながちマトハズレではなかったことが後で判った。
この高台には東京カテドラル教会という圧巻の建造物もあり、音羽の鳩山御殿も見えていたし、故田中角栄の鯉が泳ぐ「目白御殿」まではそう遠くはない。
つまり、目白台あたりは「政治」の香り豊かなゾーンだが、この椿山荘がもともと「山縣有朋の邸宅」であったことを知ったのは随分後のことであった。
山縣有朋は長州閥が支配する日本陸軍のドンであり、元祖「目白詣」の主であった。
山縣のイキがかかった人物は数しれず、桂太郎、田中義一などにみるとうり、山縣閥は「自由民権」の流れを押さえ込む側の「閥族支配」の巣窟といってよい存在であった。
実はこの「椿山荘」の住所は関口町だが、その町名からも推測できるとうり、近くに水系があり江戸時代初期には、この神田上水の「水役」として出府した松尾芭蕉が住んでいた。
ここは関口竜隠庵(のちに関口芭蕉庵)とよばれ、現在小さな公園となっている。
このあたりは低地であり、水害も頻発したであろうことが推測できる。
我が福岡との関連でいえば、幕末に贋札製造が発覚した福岡藩(黒田藩)から東京市への寄贈がなされ、そのお金によって小学校ができ、その校名を「黒田尋常小学校」と称していた。
現在は「文京区立音羽中学校」という名前でこの地に存在しているが、永井荷風や黒澤明もこの小学校の卒業生である。
ところで椿山荘の歴史をもう少し遡ると、椿山荘の周辺は、南北朝のころから椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。
幕末の「切絵図」によると、現在の椿山荘の敷地は、上総久留里藩・黒田豊前守の下屋敷であったことがわかる。
要するに福岡とはとても縁があるところなのだ。
山縣有朋が1878年に私財を投じて「つばきやま」を購入し「椿山荘」と命名した。
山縣は明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を招き、椿山荘は国政を動かす「重要会議」の舞台なってきたのである。
1918年には、当時関西財界で主導的地位を占め長州出身で山縣と繋がりが深かった藤田組の二代目当主・藤田平太郎がこの土地を購入し、「名園」をソノママ残したいという山縣の意志を受け継いだ。
しかし、1945年の空襲で、山縣の記念館や一千坪の大邸宅、さらには樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまった。
ただ、この時幸いにも丘の木立に囲まれた「三重塔」は焼失を免れていて、今も現存している。
藤田組から藤田鉱業、さらには1948年は藤田興業となって、「椿山荘」はソノ所有となった。
藤田興業の創業者となった小川栄一は「戦後の荒廃した東京に緑のオアシスを」の思想の下に、一万有余の樹木を移植し、名園椿山荘の「復興」に着手した。
そして、195211月11日、ようやく「椿山荘」が完成し、盛大な披露パーティが行われた。
かつて近所に住んでいた頃の「椿山荘」のイメージは、「古色蒼然」たるものでしかなかったが、1983年椿山荘新館(現プラザ)がオープンし、さらに1992年ヨーロピアンスタイルのラグジュアリーホテル「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」オープンし、すっかり様変わりしてしまった感じがある。
ところで、このホテルを経営する藤田観光株式会社は、古くは幕末にまで溯ることができる。
藤田観光が経営する施設には、藤田組創始者の藤田伝三郎男爵の大阪本宅であった「太閤園」がある。
もとも藤田の邸宅は「網島御殿」とよばれていたが、1959年に「太閤園」として生まれ変わった。
以来数々の国内外の国賓や文化人が集う社交場として多くの著名人に愛され、またご婚礼の舞台として人々に愛されてきた。

藤田伝三郎は、1841年山口県萩市で生まれている。
家業は醸造業のほか、藩の下級武士に融資をおこなう「掛屋」を兼営していた。
維新の動乱期に、高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと「交遊関係」を結んだ。
、 そしてこの「人脈」がのちに藤田が「政商」として活躍する素因となった。
藤田の発展のキッカケは長州藩が「陸運局」を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを「払い下げ」た時、藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して「巨利」を得たことによる。
藤田は兵部大丞・山田顕義から「軍靴」製造を督促され、大阪・高麗橋に軍靴製造の店舗を設け、大阪を拠点として事業を展開していった。
藤田が「製靴業」に最初従事したのは、当時軍靴は全部輸入に頼り、兵部省の需要に応えきれていないという話を聞き、藤田が大阪で皮革類を取り扱っている業者に「試作」させてみてはどうかと提案したことがキッカケとなったという。
実際に、作らせて見ると輸入品のなんと「3分の2」の低価格で作ることができた。
当時、「皮革」を扱うのは賤業として忌む風潮があったが、藤田は「国益」となるので大川町に一大工場を建てて製造を行うことになった。
この工場にはドイツ人や中国人数名を雇いいれて成功させ、日本における「製靴業」の始りとなった。
藤田伝三郎はその後、軍隊の被服その他の付属品までも調達するようになり、あたかも「兵部省御用達業」に従事しているかのようだった。
1877の西南戦争の際には、征討軍の輜重(しちょう)用達などをしている。
(輜重(しちょう):軍隊で、前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称)。
その後、次兄の藤田鹿太郎、次々兄の久原庄三郎が相次いで大阪にやって来て、「藤田三兄弟」は協力して事業を進めることになった。
また井上馨の斡旋により1876年に、この三兄弟による「協約書」が作成され、「藤田組」の基盤がつくられた。
さらに藤田組は大倉組ともに日本土木会社をつくり、1889には児島湾干拓事業の「起業許可」をうけるが、結局土木業は大倉組に譲渡した。
また一時、生糸販売事業にも手を出すがヤガテ廃業し、1884年には小坂鉱山(秋田県鹿角郡)の「官業払下げ」を受けて1891年より「鉱業」を専業とするようになる。
しかしその後、次兄も次次兄も相次いで病没し、次兄の鹿太郎家は小太郎を、次々兄の庄三郎家は房之助を社員として入社させる。
しかし、やがて両人とも独立退社して藤田伝三郎一家だけの合名組織となった。
ところで、藤田組が力を注いだ小坂鉱山の事務所長であった久原房之助は、1905年に退社し、久原鉱業所(のちの久原鉱業)を経営した。
これがのちに久原の義兄にあたる鮎川義介によって経営されるようになり、それが「日産グループ」の原点となった。
また小坂鉱山から日立鉱山に移った小平浪平は、後年の日立製作所の基礎をつくり、「日立グループ」の原点ともなったのである。
藤田興行は現在、観光事業以外ではトリタテて大きな事業展開はしていないが、その経営地盤から日産や日立の両企業グループが枝分かれしたことを考えれば、近代史に隆々とした山容を築いてきたのである。
藤田観光株式会社は、この藤田興業の「観光部門」が1955年に分離独立して発足したものである。
それまで東京都港区の芝に自社ビルを構えていたが、2006年5月25日に「椿山荘内」の文京区関口に移転し、現在はホテルや結婚式、レジャー事業を行っている。
ワシントンホテル、フォーシーズンズホテル椿山荘東京、椿山荘、小涌園 、箱根小涌園、箱根小涌園ユネッサンなどがある。

藤田観光株式会社が事業を展開する箱根の地には、「舞台はホテル」のタイトルに相応しいホテル(旅館)が二つ存在する。
それは「富士屋」という名前のホテルで、神奈川県箱根町の宮ノ下温泉にある1878年(明治11年)創業の老舗ホテルである。
江戸時代の半ば頃から、宮ノ下には、「奈良屋」という旅館があって、大名が参勤交代の際に宿泊する「旅籠」として使われる大きな旅館だった。
明治維新後、横浜の居留の在住外国人の避暑地として、箱根・宮ノ下は、外国人の間でもよく知られるようになった。
カゴで片道22時間の行程であったが、奈良屋旅館にも外国人は宿泊していたことが推測できる。
後に富士屋を創業する山口仙之助は、横浜の漢方医を家業とする家に生まれた。
遊廓「神風楼」の養子となり、江戸浅草の漢学塾で学んだ後、維新の際に横浜に出て商業を研究した。
1871年に渡米したが、アメリカでは生活難のために皿洗いなどの仕事に従事し、ようやくにして牛を購入して日本に持ち帰り、「牧畜業」を志すようになった。
しかしソノ意志を翻して牛を売り払い、慶應義塾に入り、福沢諭吉により「国際観光」の必要性を諭された。
卒業後の1878年に、外人客専門の保養地宿泊施設が無いことに着目し、箱根宮ノ下の老舗旅館「藤屋旅館」を改築して「富士屋ホテル」を開業した。
名称の由来は富士山を眺望できる場所にあるからだが、日本のシンボルを意識しての名前であっただろう。
しかし、1883年、宮ノ下をおそった大火で、富士屋ホテルも奈良屋旅館も全焼したのである。
翌年、山口仙之助は、養父に援助を請い、一階建ての「アイビー」を建築した。
1887年には、ライバルである奈良屋旅館は富士屋ホテルを意識して洋風ホテルを建築し「奈良屋ホテル」と呼ばれた。
一方富士屋ホテルは、1891年現在の本館を建築した。
山口は1891年には渓谷の水流を利用して自家用電燈を燈火、これは関東における「電燈使用」の嚆矢ともなった。
ところが、横浜の居留地の発展とともに、箱根を訪れる外国人も増え、富士屋と奈良屋の「外国人争奪戦」が行われるようになった。
そして1893年両者が協定を結び、富士屋は「外国人専門ホテル」に、奈良屋は「日本人専門旅館」にスミワケして、営業を開始した。
山口仙之助は当初から「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残し、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」をめざしたという。
古くは宿泊客に外国人が占める割合が高く、外国人専用であった時期も長かったこともあり、日本文化を伝える展示や工夫がされている。
岩崎弥之助や古河市兵衛が宿泊に来ても外貨を稼ぐために創立したホテルゆえ泊まらせなかったという。
富士屋には、ヘレン・ケラーやチャップリンも宿泊しており、別館にはジョン・レノンとオノ・ヨーコが滞留していたこともある。
ところで宮の下では、一般にはほとんど知られていない「リヒャルト・ゾルゲの追跡」が行われていたことを、ユダヤ人ラビであるトケイヤー氏が明らかにしている。
トケイヤー氏は、「日本買いませんか」という本の中で、「本邦初公開」と断りながらゾルゲ逮捕の「迫真」の経過を書いている。
ゾルゲが箱根下の湖に魚釣りに行くとき、日本の警察は密かにその湖の周辺で見張りについていた。
ゾルゲは、ボートに乗って魚釣りの用意をして湖の中央にこぎだす前、手にもった紙片に暗号文を作成していた。
ボートに一緒に乗っていたのは、ドイツ国籍のソ連のスパイであった電気技師だった。
このような状況を一部始終、湖のまわりで観察していた日本の警察当局者は、彼らがボートから上がって自動車に乗り、東京に向かって立ち去ってから、湖の中を徹底的に捜索したのである。
当局はゾルゲがボートの上から細かくチギッて捨てた「紙切れ」を、一片残らず集めてそれをツナギ合わせ、それが「暗号文」である事実をツキトメ、その決定的な証拠に基づいて、ゾルゲを逮捕することになったのである。
ところで、ゾルゲがそれまでに流してきた情報はドレモ「一級品」で、日本軍が華北から「南下」する情報がソ連に入っていた為、ソ連はドイツの同盟国たる日本から後背を攻められる心配することなく、「ヨーロッパ戦線」にすべての兵力を振り向けることができたのである。
ところで、山口仙之助はホテルの経営ばかりではなく、箱根の発展に力を注ぎ、私費で道路を開いたり水力発電の会社も立ち上げた。
また温泉村の村長となり、続いて塔之沢~宮ノ下間の三道を自力で開墾して道路を整備(現在の国道1号)した。
1904年には水力電気事業を開始し、宮ノ下水力電気所を設置した。
また、数々の公共事業に関わる傍ら、大日本ホテル業同盟会を結成した。
しかし1904年(大正4年)に山口仙之助が死去(63歳)し、娘婿の山口正造が専務に就任した。
山口正造は、日光金谷ホテルの創業者・金谷善一郎の次男だったが、富士屋ホテルにホテル経営を学びに来た際、山口仙之助に気に入られ娘婿となったのである。
兄、金谷眞一が金谷ホテルを継ぎ、山口正造が富士屋ホテルを継いだことになる。
金谷兄弟はともに立教大学出身で共にアメリカ留学を経験している。
富士屋ホテルの3代目の社長となった山口正造は「乗合バス」の運行したり、ホテルマンの育成にも力を注ぎ、1930年富士屋ホテルトレーニングスクールを立ち上げている。
このスクールは山口正造の死により途絶えたが、「立教大学・観光学科」が設立され、その意思が引き継がれている。
1945年終戦で、富士屋ホテルはGHQによって接収せられ、富士屋ホテルはGHQの首脳が滞在する一方で、奈良屋旅館には、当時の日本の首脳が滞在し「憲法草案」が考案された。
この「憲法草案」とは終戦時、幻となった「松本案」のことで、実にこの奈良屋の一室で書かれたのである。
奈良屋旅館は、大隈重信、緒方竹虎、岸信介などの政治家たちも静養し、政財界人が多数訪れる格式高い老舗名旅館だったが、2001年(平成13年)その歴史を閉じた。
一方、国道1号に面した富士屋ホテルは年始の「箱根駅伝中継」では選手の位置関係を示す際に使われる「ランドマーク的存在」となっている。
現存する本館は唐破風を取り入れた和洋折衷の木造建築であり、明治の建築様式を現代に伝えている。