「ごっこ」の蔓延

日本人は、改革や変革は苦手だが、ホネヌキ、トリコミ、などは案外「特技」の部類に属するみたいである。
それは九州電力にみるとうり、公正であるべき説明会に、あらかじめ原発賛成派になるように幹部が「例文」まで用意して「ヤラセメール」を参加者に送っていたという。
こういうのは「根回し文化」の悪い側面なのかもしれないが、世にある委員会やら審議会やら公聴会やら説明会やらには何らかの「魔手」、とまではいわなくとも「手垢」がついていると思った方がいいのかもしれない。
特に市民参加の厳正中立であるべき「裁判員制度」にこいうことが起きると、とても怖いことになる。
そして日本における「国策」などというのは、とても「誘導的」で、「民意」に即して行われるものではナイというのがよくわかった。
朝日の「天声人語」には次のようなことが書いてあった。
「佐賀県知事は、九電マンの父君を持ち、同社も応援し当選、九電幹部の個人献金を受けてきた。玄海町長も親族の建設会社が、九電から50億円を超える工事を受注してきた仲という」のだ。
「裏」を知ってしまえば、「国の迷走」を嘆く地元首長という姿にも、「ボカシ」がカカッテしまう。
これがスベテとはいわないが、被災した人をヨソに「○○ごっこ」をやっているように見えなくもない。
それは「八百長なくしましょうゴッコ」「天下りなくしましょうゴッコ」にも見られる。
時間がたってホトボリが冷めれば、「組織の体質」はほとんど変わっていないことを思い知らされる日が来る。
ヤラセメールと聞いて、なんか似たことあったな~と記憶をマサグルと、「やらせタウンミーティング」というのがあった。
2001年~06年小泉内閣時代に、国民との対話をすすめると銘打って、閣僚や有識者と一般市民が対話する「政治集会」を開いた。
小泉当時首相は2001年閣僚との直接対話を通じて、市民が「政策」の形成に「参加」する機運を盛り上げる、といったことをの「所信表明」していたのだ。
しかしこのタウンミーティングには、あらかじめヤラセ・サクラが「仕込まれ」たうえで行われていたことが、後に発覚している。
2006年10月31日、共産党議員の指摘によって発覚したのも今回の九電「やらせメール」と規を一にしている。
例えば、八戸での「教育改革タウンミーティング」での「偽装工作」は 以下のようにして行われた。
開催前に内閣府が青森県教育庁を通じ、教育基本法改正に賛成する趣旨の質問をするよう参加者に依頼し、原稿を作成した上、ヤラセであることを悟られないように質問方法まで詳細に指示を出していたという。
その他、岐阜県岐阜市、愛媛県松山市、和歌山県和歌山市、大分県別府市などの「教育改革タウンミーティング」でも同じような「偽装」が発覚している。
そのうち、別府でのタウンミーティングでは、大分県教育委員会の職員4人が、一般県民になりすまし、賛成の意見を述べていたことが判明している。
また、裁判員制度導入をめぐる「司法制度改革タウンミーティング」などにもヤラセが行われていたという。
全71回のタウンミーテイングで、参加者を確保するため、国や地方自治体などが、職員などを「大量動員」していたということだ。
またタウンミーティングにおける質問者の一部に対し、「謝礼金」として5千円が支払われていた。
また、入場者の中に問題を起こす者(?)がいるとして、この参加者の応募受付番号をあらかじめ落選する番号に設定し、「作為的」に選別していたケースもある。
タウンミーテングには、1回当たり約2200万円という経費がかかるそうだが、そういう税金は、「民意を聞く」という趣旨からすれば、「無駄」に遣い落とされたということだ。

ホネヌキやトリコミによって、組織本来の「趣旨」からはずれるケースは、「枚挙」にいとまがないが、歴史上でハゲシク思い当たる「事例」が一つある。
実は、日本の政党政治に国民がアイソをツカシしていた時代というのは、何も今日に限っていたことではない。
昭和初期、政友会と民政党の二大政党は「党利党略」に明け暮れ、貧富の差の拡大や国際政治の難問に対して適切な対応を欠き、国民はその腐敗と無能ぶりにイタク落胆していた。
このあたりは、今日の「二大政党」に似ているが、当時の政友会と民政党の「ニ大政党」はそれぞれに、三井、三菱という大財閥の資金力で「養われ」ていたという部分が大きく、互いのスキャンダルの暴露合戦に明け暮れていた面もあるのは確かだ。
「軍部台頭」の不安を呼び起こす中で、国民の輿望を担うようなカタチで登場したのが、公家のプリンス・近衛文麿であった。
実際、「近衛人気」を象徴するかのように、総勢130人にも及ばんとする「昭和研究会」というブレーン集団があった。
多くの学者や文化人が「若きプリンス」に吸い寄せられるように集まってきたわけだが、その「昭和研究会」の提案を中心に進められたのが、近衛の「新体制運動」であった。
つまり、「昭和研究会」は、既成政党の腐敗を排撃するために、「新体制運動」を提唱したのである。
それは一言でいえば、政党に代わる「国民組織の結集」をネラッタもので、形骸化した政党や立法府を超えた超国民組織をつくり、「軍部の独走」にも歯止めをかけるネライがあった。
ところが第二次近衛内閣で実現した「新体制準備委員会」には、陸海軍の軍務局長が加わり「一粒のパン種がパン全体をふくらます」の比喩どうり、軍部が政党を抱き込む道具として「新体制運動」を利用するのである。
国民の輿望を担った出来上がったハズの国民組織は、結局は「大政翼賛会」として、むしろ「軍部独走」にハズミをかけ、国民を苦しめる存在へとなっていく。
以後、日本は「太平洋戦争への道」をヒタ走ることになるのである。
226の青年将校たちが、法律に反してクーデターを目指して殺傷行為を行った凶行は批判されるべきだとしても、政党政治の機能不全を憤り、貧しく苦しんでいる人々のことを思いやる気持ちで突っ走った面があったことは否定できない。
当時の政治情勢が「想像を超えたもの」ではなく、今日の情勢からして、妙にその「輪郭」が想像し易い状況にナッテいること自体が、オソルベキことではないか。
当時の「二大政党」をみると、政友会は民政党の足を引っ張ることばかり考え、「統帥権干犯」をアゲツライ、ロンドン軍縮条約の「平和軍縮」への動きに水をさしたのであった。
また民政党は民政党で、無産政党や社会主義と提携できず、結果として日本の「ファッショ化」を阻止できなかったのである。
重要なことは、当時の日本が「政党政治」の健全な機能によっては「国難」を打破することができず、適切な改革も政治的な協調も行うことができずドンツマリまでいってしまったということである。
226事件がその「政党政治」に死をもたらし「軍部」(統制派)の台頭をもたらしたのが事実だとしても、それ以前に政党政治が腐敗と機能不全があったことが何よりの原因なのである。
当時と今とを単純に比較をすることはできないが、今日、中国のやロシアの動きにみる「国境問題」とか「放射能汚染問題」などに、十分に対応できない民主党があり、それを批判攻撃するものの「政権交代」したところで大してカワリバエしないと思わせるにタル自民党の存在、そして「大連立」などの第三の道を組むだけの「リーダーシップ」や「国家的ビジョン」の欠如を考えれば、「ヤラセ○○」などは、そうした土壌に生えたカビのようなものかもしれない。(カビに失礼か?)

ところで、アメリカのタウンミーテイングとかスイスの州民集会は、「直接民主制」の典型例として学校の教科書にも登場するが、こういうものが今の日本という国に置かれてしまうと、それはまったく「別種」のものに変えられてしまうことがわかった。
今、国会で法案成立の「足かせ」になっているのがネジレ国会と言われているものだが、「ネジレ」はソノ時々の民意の反映であるから、それ自体はイタシカタのないものである。
ただ「ネジレ」が生じる場合には、与野党の話し合いや協力がない限りは、一歩も前に進まないことは今度の震災で思い知らされた。
被災地をドウスルカで「建設的」に動かず、政局ばかりに目がいってしまう与野党の状態は、「ネジレ状態」のなかで「立法機能」にも支障をもたらしている。
その結果、衆議院と参議院という「二院制」が最も悪い形で「現象」しているのが、今日の姿である。
そもそも日本で「二院制」が成立したのは以下の事情によるものである。
1946年2月、GHQは日本に「天皇の象徴化」「戦争放棄」などを柱とするマッカーサー草案を示したのだが、日本側は、相変わらず「天皇の大権」を残そうという方向で「検討」していただけに、この草案には大きな衝撃をうけた。
さらに、マッカーサー草案には「一院制」が提示されていたのである。
しかし当時の指導者層には「一院制」になったのでは、戦争中に非合法アツカイされていた「左翼」が一機に解放された時代に、国会は「左翼勢力」に支配されてしまうという危機感を抱かせた。
そこで旧憲法下で「衆議院」と「貴族院」の両方の存在があったように、新憲法においても「二院制」をナントカして貫こうとしたのである。
ところがアメリカやヨーロッパは、州制度や貴族制度があるため「二院制」の「必然性」があるのだが、日本には必要ないとツッパネタのである。
日本は「天皇の象徴化」や「戦争放棄」については受け入れざるをえなかったが、サレバコソ「二院制」の存続だけはと執拗にクイサガリ、そこでGHQ側との「妥協」がはかられたのである。
その結果、参議院の発足は認められたものの、日本側が主張した参議院における天皇の任命制、職能代表制はシリゾケられた。
こうして世界にマタトナイ「等しく国民を代表する」二院制が誕生したのである。
今まで、参議院の存在意義については、「不要論」を含め色々といわれてきた。
任期が衆議院より長いので長期的視野にたてるとか、「全国区」なので国民全体の観点からものが見られるとか、学者や文化人が多いので「良識の府」というような言い方もされてきた。
そして確かに、参議院の「議員立法」で文化財保護法などでその「存在意義」を示したのも事実なのである。
しかしソノ参議院も今や、小沢氏が相当数当選させた「議員」などをみるかぎり、「良識」によって「参議院」独自の機能を果たせるようには思い難いのだ。

ところで、最近の首相はあまりに頻繁に替わるため、外国からも名前を覚える間もないとして、「日本の政治」が信用されていない大きな理由ともなっている。
また外交や防衛について国際社会での「危機意識」をもつ政治家は、その問題意識そのものが「選挙の票」に結びつかないという側面もある。
これは、国民の質が政治家の質の反映である最も典型的な事例であるが、日本の政治に「国家戦略」が育たない原因でもある。
振り返るに、そういう点で比較的支持を集めて長期政権となったのは、中曽根首相ではなかったと思う。
「不沈空母」発言など批判されることも多かったけれども「戦後の総決算」をうたい経団連の土光会長をして「行政改革」を行った実績は、首相のビジョンを強く感じさせるものがあったような気がする。
この中曽根首相の取った方式に「審議会」政治というものがあり、功罪はあったにせよテマヒマかけてもなかなか実を為さない「行政改革」で、国鉄の分割など一定の成果をもたらしたのではないだろうか。
そして、中曽根首相が「審議会」方式をとったのは、やはり「立法府」の機能不全であったように思う。
政治家が相変わらず「集票」とか「利益誘導」にウツツをぬかすようでは、「政策立案能力」において、完全に官僚主導になってしまう他なくなってしまう。
今までは官僚が作った政策にのるボトム・アップ(下から上へ)方式であったが、ブレーンの英知を集め、首相自身が問題を起こして官僚を動かすという「トップダウン方式」がとられることになった。
もちろんここでブレーンが結局「首相好み」になってしまい、「民意」を反映しているかが問題であ、ことになる。
審議会が「諮問」や「打診」の対象ではなく、その「答申」が最大級の権威を持つとなれば、民主主義の「破壊」に繋がりかねない。
審議会はもともと法律(国家行政組織法)によって根拠づけられ、意思決定機関の権限が与えられている。
「人選」についても国会の承認が必要であり、会長、定員数などにおいても国会の承認が必要であった。
ところが、1984年の「国家行政法の改正」は意外にも「大きな」結果をもたらすことになったのである。
この法律の改正のポイントは、従来各省庁の内部部局の新設や廃止は「法律事項」すなわち国会の議決を減る必要があったのに、「政令事項」すなわち内閣が独自に決定できるようになったのである。
したがって、いわゆる「審議会政治」はこの「法改正」を前提にして「実現」したものだった。
「審議会」の人選は内閣が決めるといのであれば、内閣の方針に沿って選考が行われるのだから、「民意」を聞く装いを取りながらも、国民から離れた政治がおこなわれる可能性がある。
「民主主義ごっこ」の場と化してしまう可能性があるということだ。
日本の「立法過程」で、日本では「委員会中心主義」を採っているので、法案や予算の議論は本会議ではなく、国会議員が「分散」して行われる各「委員会」こそが実質的な「戦い」の場となる。
委員会では、まず最初に「議案」の趣旨説明が行われる> その後、いわゆる委員会審議が行われ、討論の後に採決となる。
ここで「議案」「法案」というのが8割以上が「官僚主導」で作成されらものだから、「立法府の形骸化」といわれる所以なのである。
参加議員の質によっては「委員会」といえどもすっかり「ごっこ」の場と化す。
また、委員会審議のなかで、利害関係者や学識経験者などから意見を聴くことが必要とされた場合は「公聴会」を開くことができる。
この「公聴会」は法律では、委員会は、一般的関心及び目的を有する重要な案件について、公聴会を開き、真に利害関係を有する者又は学識経験者等から意見を聴くことができると定めている。
本来、公聴会を開催する際は、公聴会開催の公示を官報に掲載するとともに、議院のホームページ及びNHKラジオやテレビで公述人の公募を行うものなのだそうだ。
ただ、実際の運用としては、各党があらかじめ推薦する公述人が選ばれるのが現状であるかして、委員会における与野党の議員配分によって、「公聴会」開催する時点で結論が出ているともいえる。
とすると、公聴会開催も「法案成立」の要件でしかないという「ごっこ現象」が起きていることになる。
というわけで、説明会、タウンミーティング、審議会、委員会、公聴会に見られる如き「ごっこ」の蔓延こそが、日本人がなかなか幸福になれない理由なのかもしれない。