疑う人々

ロシアの文豪や松本清張が教えてくれたこと、それは人間に善人も悪人もイナイということ。
その意味で、それらは聖書に近い。
人間が勝手に、そして浅薄に、善人とか悪人とかを分け隔てているにすぎない。善悪を知る木の実を食べてしまったゆえか。
神の「高み」からみれば、人間はすべて等しく「罪人」だからである。
人権の根拠に人間の「尊厳」が言われるが、もしも等しく「罪人」であるという観点が加われば、「人権意識」にも微妙な変化が起きるかもしれない。少なくとも「人権」が神に代わることはない。
聖書でいう「罪」とは人間が神からハズレているとうこと、周波数が外れているからナカナカその声が聞き取れないラジオのようなもの。
ハズレているが故に神に対して「信仰」がもてない。
そして聖書は、「不信仰」が罪であることを教えてくれた。
そして神は預言者や使徒を遣わし、「信仰」を呼びかけるが人間はナカナカ心を開くことをしない。
そして、マタイ22章には、現代人的風景が書いてある。
「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
.王はその僕(しもべ)たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちは来ようとはしなかった。
そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
それから僕(しもべ)たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
この「婚宴の招待客」のたとえ話では、客が「善人か悪人か」が問題なのではなく、神の救いたる「礼服」を身につけているか否かが問題となっている。
つまり人間は善人であろうが悪人であろうが、ハダカの状態では「浄く」ないことを示している。
聖書は、その「浄く」はない人間が「礼服」を身にマトウかが核心であり、「礼服」を身にマトウことが、「洗礼」と「聖霊」に基づく「救い」であることを幾多の箇所で示している。(例えば黙示録7章には子羊の血をもって衣を白くした人々が登場する)。
特に「使徒行伝」は、イエスの使徒たちの働きと共に、「何をどうすれば救われるか」が明瞭に書いてある。
ところが、キリスト教は「使徒の教会」以降、道徳や倫理的次元の「善人/悪人」基準で「救い」を考え、「ローマ風太陽崇拝」「ギリシア哲学風神学」や「ゲルマン風女神崇拝」などの「装い」がほどこされガメ煮状態となり、聖書における「礼服」を身につけることの意味、つまり「救い」の本質をボカしてきた。

ところで、聖書には神のワザや神のハタラキを疑う人、復活をウタガウ人やゴカイする人、聞こえた声が神の声なのかアヤシム人など多くの「不信者」が登場する。
しかし、意外にも「神の存在」ソノモノを疑う人というのは登場しない。
意外というのは、神の存在を疑う「不信仰」の極致のような人は、日本人の中にはアタリマエのように存在するからである。
もっとも、どんなに「唯物論的合理主義」を自称する日本人でも大概が、自らが「アニミズム」や「言霊」にドップリ浸かりこんでいることに、気づいていないケースが多い。
日本人の主観的「無神論者」の多さが何に由来するのかあまりよくわからないのであるが、聖書の中の人々の「疑い」の場面を参考にしたい。
まずはイエスの「十字架後の復活」を疑ったトマスの場合(ヨハネ20章)であるが、 十二人の一人でデドモと呼ばれたトマスは、イエスが「復活後」に弟子達の集まりに現われた時、たまたま居合わせなかった。
そこでほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えた。
さてその8日後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」といわれた。
トマスはついに「わたしの主、わたしの神よ」と拝し、復活のイエスを認めた。
そしてイエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と語った。
「見えないものは信じない」という「トマス的不信仰」は、ナンカ現代人風な気がしますが。

ところで聖書の「復活」の場面では、「ラザロ」の復活の場面(ヨハネ11章)が、最もよく知られている。
ただし、ソノ出来事の中の「イエスは涙を流された」場面はしばしば誤解されている。
イエスは、エルサレムの街から離れたベタニアの村でマルタとマリアの兄弟である「ラザロの死」を聞いて、イエスはこの時「わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである」と語っている。
イエスがエルサレム行くと、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。
イエスがマルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語り、マルタは「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と信仰の言葉を語っている。
そしてマルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。
これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。
実はイエスはまだ村にはいっていなかったからであるが、マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。
マリヤは、イエスと出会いその足もとにひれ伏して「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と語った。
イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、<激しく感動し>、また心を騒がせラザロをどこに置いたのかと尋ねた。
彼らはイエスに「主よごらん下さい」と語った。
その時に、「イエスは涙を流された。」
するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
また別の人々は言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
イエスはまた<激しく感動し>て、墓にはいり、「石を取りのけなさい」と語った。死んだラザロの姉妹マルタは「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と応えた。
その時イエスは彼女に「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と語った。 人々は石を取りのけ、イエスはそばに立っている人々に、これは神ががわたしをつかわされたことを、信じさせるためであると言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわった。
すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。そしてイエスは「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と語った。
マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。
しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。
以上が「ラザロ復活」のアウトラインだが、この出来事には「イエスが涙を流した」シーンがあり、それに対して人々は「なんとラザロを愛されたことか」と反応している。
しかしラザロを復活させるイエスならば、何も「ラザロの死」に対して涙を流すなどの「必然性」はマッタクないのである。
実は、この出来事で「浮き彫り」になっていることは、イエスを信じることができない人々の言動であり、イエスの涙とはそうした「不信仰」に対するモノなのである。
ところで上記の<激しく感動し>(ヨハネ11章33)は別訳の聖書では「霊の憤りをおぼえ」になっている。イエスの涙の理由は、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」という言葉でもわかる。
サラニは少し怒りさえも含んでいるように思える次の言葉でわかる。
「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と。
つまりイエスは人々の「波長」の合わないハズレ具合に対して「涙を流された」のである。
またこの場面で注目すべきことは、「復活」というものが、「ラザロよ でてきなさい」というカタチで「名ざし」であることである。

紀元前20世紀ぐらいの人物アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人であるが、アブラハムの息子イサクを神にささげよという信仰の試練は、結果的にアブラハムを「よみがえり」の信仰に導いていたことに注目すべきである。
新約聖書のヘブル人へ11章は「信仰者列伝」であるが、「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 この子については、”イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう”と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。」とある。
さて旧約聖書が伝えるところでは、アブラハムより10世紀下るとユダヤ王国の全盛期であるダビデ王、ソロモン王の時代となる。
そしてソロモン王が神殿を建てたエルサレムのシオン山こそが、アブラハムが息子イサクを捧げようとしたモリヤであるとされている。
今日その場所には「聖岩」といわれているものが存在しており、イスラム教徒もこの聖岩を「アブラハムの場所」と呼んでいる。
そして、このモリヤの山こそシオンの山で、ココがイエスが十字架に向かったカルバリの丘(ゴルゴタの丘)であるところである。
イエスは「人類の贖罪」のために十字架にかかったとされるが、その十字架から溯ること20世紀も前に、アブラハムがイサクをイサクの「復活」の信仰を抱きつつ捧げんとしたのである。
アブラハムの行為が、「イエスの十字架」の型となっている。

今や、人類は罪を贖うためのイケニエを捧げる必要はないが、聖書には「打ち砕かれた魂」(詩篇51篇)が最も優れたササゲモノであると書いてある。
ところでその「打ち砕かれた魂」の姿は、ダビデの「詩篇」の中に数多く登場する。
例えば詩篇39篇では「 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。
わたしをすべてのとがから助け出し、愚かな者にわたしをあざけらせないでください。
わたしは黙して口を開きません。あなたがそれをなされたからです。
あなたが下された災をわたしから取り去ってください。わたしはあなたのみ手に打ち懲らされることにより滅びるばかりです。
あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません。
主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。」とある。
果たして、世間で「善人」といわれる人々は、これほどの「打ち砕かれた魂」を宿しているのだろうか。

ところで人々が最も「疑い」をもつ場面としてペテロが海の上を歩くシーンがある。
実はソノ前にイエスが海の上を歩くシーンがあるが、こういう3DXのような「奇跡」はトウテイ信じられないと現代人は思うかもしれない。
しかし、聖書全般でいえることはイエスは「肉的存在」であると同時に「霊的な存在」でもあり、その間の「変容」がシバシバおきている。
例えばマタイ17章では、「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。」とある。弟子たちは非常に恐れ、顔を地に伏せたが、 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、”起きなさい、恐れることはない”と語り、人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない”と、彼らに命じられた」とある。
実はイエスが海を歩くシーンを見た弟子達の目にはイエスが「霊的存在」に見えたとある。
「ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、”しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない”と言われた。
するとペテロが答えて言った、”主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください”
イエスは、”来なさい”と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、”主よ、お助けください”と言った。 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、"信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか"。
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。」とある。
「霊的存在」というのは、この世の物理的法則から自由になることを意味する。
「この世の終わり」には地震や飢饉が頻発するらしいが、イエスが復活後に天に昇っていった(使徒4章)姿の如く、「救われた者」が一瞬にして「霊化」して地上から引きあげられるという。
パウロに示されたこの「奥義」については、「第一テサロニケ」4章と「コリント第一の手紙」15章にある。
つまり人間が「一瞬にして」霊的存在へと変えられるということである。
こういう話は、荒唐無稽な話に思えるかもしれないが、聖書はこの点について、ジツに「整合的」である。
イエス自身が次のように予言している(マタイ24章)。
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される。
ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」。