奥吉野と奥八女

日本全国で似かよった地域を「一組」あげよと言われたら、迷うことなく奈良県「奥吉野」と福岡県「奥八女」をあげる。
台風12号が奈良県と和歌山県を襲ったが、その被災した村々の名前にずっと注目していた。
十津川村、川上村、天川村といた名前が出てきたが、こうした村々こそが「奥吉野」にあたる地域である。
奥吉野には十津川が流れ、奥八女には矢部川が流れていて 地形的にも似かよった峡谷の地である。
しかも、この二つの地域は歴史的にツナガリが深い。
奈良県・吉野は南北朝動乱期に後醍醐天皇が「行宮」をおいた地として有名である。
この吉野からさらに山奥深く入ると「後南朝」の悲史を今なおとどめる川上村がある。
後醍醐天皇皇子の一人「大塔宮」すなわち護良親王はカラクモ追捕軍の手をのがれ、大峯から吉野へ、天川から高野へと兵の結集をよびかけながらも、潜行しながら戦っていった。
そこで、「大搭町」という地名も残っている。
また、広大な筑後平野と有明海にそそぐ筑後川でよく知られる福岡県・筑後地方の南部の山々は、奈良県吉野と同じく南朝の悲史を多くとどめた場所である。
つまり、南北朝の戦いは、「南朝」が紀伊から九州北部に逃れた為に、処を移して戦われたということでもある。
そういう経過を辿った為に、奈良県の奥吉野は、福岡県の奥八女と同様に、南朝サイドの「哀調」に彩られた歴史を秘めた点でも共通している。
個人的なことをいえば、日本一の桜の名所である吉野までは行ったことがあるが、その奥つまり「奥吉野」までも足を踏み入れたことはない。
そのうち一度行ってみたいと思っていたなか、台風12号よって十津川、天川、川上といった「伝説」あふれる村々も大きな被害をうけた。
村民の一人がテレビで「山が動いた」、ではなく「山が走った」と証言していたのは印象的であった。
おそらく「深層崩壊」が起こってその地形も大きく変貌したに違いない。
ライフラインが寸断され、孤立してしまった村も多くでたようだ。
復興にもかなりの時間を要することだろう。

14世紀後醍醐天皇がたち、「天皇政治」の復興をはかった。(建武の中興)
しかし足利尊氏(北朝)らとの対立が明らかになり、天皇は吉野にのがれ南朝を立て皇位の正統を訴えた。
以後60年余りの全国的な動乱の時代となる。
そして足利義満が三代将軍となると、南北朝の「合一」がなされ、 全国的な争乱にはピリオドがうたれた。
しかし南朝の本当の「哀史」は、1392年の「南北朝合一」以後なのかもしれない。
つまり「奥吉野」にせよ「奥八女」にせよ「追われる者」達の哀感漂う舞台なのだ。
それは「それからの太平記」ともいえるかもしれない。
ところで、2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が、ユネスコの世界遺産委員会により「世界遺産一覧表」(文化遺産)に登録された。
十津川村には、熊野古道小辺路と大峯奥駈道が通り「玉置神社」がある。
かつて太宰府に在住した西村京太郎の推理小説に登場する「十津川省三」警部の名前は「十津川村」に由来する。
西村氏がタマタマ見ていた日本地図でこの地名を見かけてつけたもので、深い意味はないらしい。
ちなみに北海道には「新十津川町」という町がある。
1889年8月に十津川村を襲った「豪雨」を機に村民が北海道に集団移住して開拓した町だそうである。
十津川村と新十津川町は同じ「町章」を用いているという。
十津川村とは、繰り返しソンナ「被災」の歴史をキザンだ場所なのだ。

ところで、血統が何よりも重んじられた日本の中世において、何かの争乱で高貴な血筋の人々つまり「貴種」が逃げ込んでくる場合がある。
これはそこに住む人々にとって有難いような有難くないような、場合によっては「誇らしく」もあり、自分達の存立をさえ危うくする「種」にもなりかねないのである。
草の根を分けても「貴種」を探そうとする追手がそこで大切に「貴種」を匿った人々を滅ぼすかもしれないからだ。
福岡県太宰府は平安時代に菅原道真が流されたところであるが、幕末には公武合体派の巻き返しに三条実美ら七人の公卿が京都から長州に逃れ、さらにウチ五人が太宰府に身を寄せた。
「五卿」は監禁されていたわけではないので、時々太宰府周辺を小旅行して大野城など地元の人々と交流をしている。
こうした人々は、五卿が書いた書や短冊、残していった物品などをイマダニ「家宝」のように大切に保存しているところを見ると、「貴種」との交流をいかに大切にし尊んだかがシノバレルのである。
ところで源頼朝は青年の頃、平氏により伊豆に流されるが、源頼朝という「貴種」の存在が関東武士団の結束に命をフキコンダともいえる。
これは平氏政権に対抗する関東の武士団の利害の一致が背景にある。
一方、奥州平泉に追われた義経は、一旦は奥州の藤原氏に「匿われる」ものの、源頼朝に睨まれては立場を悪くすると恐れた奥州藤原氏によって結局は殺害されてしまう。
しかしもし「貴種」が逃げ込んだ先が小さな村であったなら、武士団でもなんでもないカヨワキ村人(せいぜい郷士)達はどのように行動するだろうか。
「貴種」を売り渡して決着をつけるかもしれないが、忠義をつくして「貴種」を命がけで守りとうそうとするかもしれない。
つまり村の存亡をかけた「究極の選択」がおこなわれたはずである。
そういう運命に巻き込まれた村が、川上村なのだ。
今でも、この吉野の山奥深くの川上村に「筋目」と呼ばれる人々がいる。
1392年足利義満は後亀山天皇に両統迭立(両党交代で皇位につく)を約束し、南北朝が「合一」した。
しかし足利義満はナントその約束を踏みにじり、後亀山上皇は激怒し吉野に脱出し、これ以後の南朝政権を特に「後南朝」という。
南朝合一後の、再びの「後南朝」のその後の命運が語られることはほとんどない。
以降は、日本史の教科書には登場しないし、古典の「太平記」にも登場しない。
後亀山天皇の子・小倉宮、つまり義満が約束を守っていれば天皇にナルハズの人物は空しく「病死」する。
しかしそれがすべての終わりではなかった。
小倉宮の子供である「尊義王」は自分こそは正当な皇位継承者であるとして奥吉野に御所を築いた。
そして尊義王の子にあたる兄・弟の時代に、その配下が京都御所に進入し三種の神器のひとつである「神璽」を奪い、兄の宮は自らを「自天皇」と名乗ったのである。
ところが足利氏は一旦は取り潰した赤松氏を差し向け「自天皇」とその弟・忠義王を殺害した。
ここに南朝の正統は完全に「途絶えた」のだが、 川上村の郷士達は赤松残党を追跡し、自天皇の首と神器を奪還し、自天皇の首を近くの岩に安置し全員でこれを伏し拝んで号泣したという。
ちなみに、戦後の混乱期に「我こそは真の天皇なり」と名乗り出て世間を騒がせた熊沢天皇こと熊沢寛道は実はこの後南朝の子孫と称していたのである。
そして、南朝最後の帝王「自天皇」に最後まで忠節を尽くした川上村の郷士たちとその子孫を「筋目」というのである。
この人々は自分達の利害を超えて「貴種」を守り抜こうとしたマサニ「スジガネ」入りの人々であった。
筋目達は今でも「自天皇」の供養を欠かさず、毎年2月5日に「朝拝式」という儀式を欠かさず行っている。

ところで川上村に隣接する「天川村」はその地名にもソソラレルが、「天河伝説」といわれるものが残っている。
内田康夫の「天河伝説殺人事件」により、一躍有名になったところである。
世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の柱のひとつである修験の山・大峯山があり、そのふもとには「天河大弁財天社」がある。
ちなみに、村の名前は「天川」で、神社の名前は「天河」である。
天川村には「天川大弁財天社」は、音楽や芸能をつかさどる古社がある。
弁財天といえば「弁天様」のことでインド系の女神であるが、この天川村は修験道の霊場・大峯山の入口にあたることもあって、古来から信仰の地として栄えた。
特に芸能人にとっては、今も昔も大切な神様で、ミュージシャンの中にも天河の熱心な信者がいるという。
この古社でかつて世阿弥が「唐船」という能を御前で舞い、合わせて一打の「能面」を奉納している。
その能面の内側には、「心中所願、成就円満也」と書かれている。
署名まであるので間違いのないモノだが、世阿弥は一体どんな願い事をしたのだろうか。
天川村には川上村と同じように南朝への「朝拝式」が今でも行われていてる。
ここでは、南朝初代の後醍醐天皇を拝礼する「位衆傳御組」とよばれる人々がいるのである。
この天川村には、後醍醐天皇の皇子である後村上天皇も滞在したことがあって、それも南朝への思い入れは強さの根拠となっているようだ。
そしてこの後村上天皇の「御子」こそが、福岡県南部の奥八女地方と関連が深い人物なのである。

福岡県南部の筑後地方には「宮の陣」「大刀洗」などの「戦い」を想起させる地名が数多く残っている。
後醍醐天皇と足利尊氏の対立に端を発した南北朝の動乱は日本全国に広まるが、後醍醐天皇は南朝勢力を拡大するため全国に自らの皇子を派遣した。
義良親王を奥州に、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に、恒吉親王を越前に、そして懐良親王を九州に派遣した。
つまり後醍醐天皇は地方の武士を結集するために、皇子(みこ)という「貴種」である親王を派遣した。
この時皇子の中には10歳にも満たないものもあったが、何よりも血統がモノイウ時代であったのだ。
ただ、奥州の義良親王には公家である北畠顕家が軍勢を引きつれていったが、九州の懐良親王には五条頼元を筆頭に十数人の公家が付き従ったにすぎない。
五条家は、南朝の後醍醐天皇の皇子「懐良親王」を守るべく九州まで付き従った公家であるが、 そして今、五条家の子孫が住む「五条邸」は奥八女にある黒木町に今も存在している。
少ない人数を従えた懐良親王だったが、九州の菊池氏を味方につけ一時は九州を制圧するほどの「勢い」をもった。
1359年九州における南北朝の最大の戦いである「筑後川の戦い」(大保原の戦い)で南朝が勝利し一旦は大宰府を制圧したほどの勢いであった。
筑後川の戦いで、懐良親王の陣地があったところが「宮の陣」で西鉄大牟田線の駅名ともなっている。
またこの戦いで菊池武光が血刀を洗った場所が「太刀洗」で大刀洗町の町名のおこりとなっている。
さらに、1361年に「征西府」を熊本の菊池武光の居城・隈府から大宰府に移している。
この時九州は一時的には独立王国のようになり、中国大陸からみて懐良親王は「日本国王」のように見えたという。
しかし今川了俊率いる「北朝勢力」におされ、南朝勢力は筑後の山間に逃げのびたのである。
しかし南朝の懐良親王は高良山を根拠地として抗戦し続けたが劣勢をはねかえすことができぬまま、征西将軍を後村上天皇の皇子「良成親王」に譲る。
良成親王は奥八女の矢部山中の大杣で先述の五条氏に守られ再興をはかろうとしたが、それもカナワズこの地に没するのである。
奥八女の矢部村には、山中奥深くに懐良親王の墓がある。
また、良成親王の御陵はさらに山深い所にあり、その地には「御側(おそば)」という地名がついている。
この御陵の地をすこし登ると大杣公園がある。
ところで五条家は、黒木町のおそらく昔とほとんど変わらぬ佇まいの中にヒッソリとある。
懐良親王のいわば「教育係り」でもあった五条家保存の重要文化財指定の文書の中には、後醍醐天皇最終の綸旨や武家文書など南朝方の動向を物語る369通17巻もの史料群がある。
また後醍醐天皇が、皇子懐良親王を征西将軍に任命した時の「しるし」として節刀と共に授けられたのが、重要文化財指定の「金烏の御旗」(きんうのみはた)である。
毎年、9月23日の五条家における「御旗祭」で一般に公開されている。
そして、五条家の末裔達は、いまもなお懐良親王、良成親王の墓を守っておられるのだ。

最後に、奥吉野と奥八女の「意外な」共通点として、その延長線上に「核廃絶」への願いと結びついたモノがあることである。
奥八女の「最奥」には、高千穂に劣らぬ神秘的な景観をみせている「秘境」ともいうべき日向神峡があり、また日本中で一番星が美しく見えるという星野村の天文台で何万光年か前の星々を眺めることができる。
そして、この星野村には平和記念公園がある。
ここに平和公園が設立されたのは、星野村出身の山本達雄氏が持ち帰った一点の「火」によるものである。
広島に原子爆弾が投下された1ヶ月後、召集で広島県内の駐屯地にいた山本達雄氏が、本通商店街にあった叔父が経営する書店にクスブッテいた火をカイロに移して、福岡県八女郡星野村の自宅に持ち帰り保存していた。
そして23年間山本家で守り続けられた後、1968年、星野村に引き継がれ「平和を祈る火」として、慰霊碑の中で今もなお大切に保存されている。
長崎の「とうろう流し」実行委員会副委員長が毎年、星野村に出向き「採火」しているし、日本ばかりではなく世界でこの火を「分火」する動きがおきている。
一方、奈良県の奥吉野を熊野方面に下った処には、台風12号の被害がもっと大きかった「那智勝浦」がある。
この那智勝浦に面した熊野灘の海底に水爆の放射能をうけた「第五福竜丸」のエンジンが長く沈んでいたといっても、ほとんどの人は信じないかもしれない。
しかし、本当の話である。
1954年アメリカのビキニ環礁における水爆実験で被爆したのが静岡県焼津を母港とする「第五福竜丸」である。
この第五福竜丸は、この後検査と放射能除去が行われた後に三重県伊勢市の造船所で改造され、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」となった。
この「はやぶさ丸」も1967年に老朽化により使用可能な部品が抜き取られた後に「廃船」となった。
その心臓部であるエンジン部分は廃船時に船体から「切り離され」て別の貨物船に搭載されていたが、この貨物船が1968年に航海途上の熊野灘で座礁し沈没したのである。
また第五福竜丸(新生「はやぶさ丸」)の方は、東京都江東区「夢の島」の隣の第十五号埋立地にウチ捨てられていた。
しかしそれが、同年東京都職員らによって「再発見」されると、「保存運動」が起こり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されている。
また、1996年12月、和歌山県・民間有志らによって熊野灘の海底から、沈んだ貨物船エンジンすなわち元第五福竜丸のエンジンが引き揚げられ、「第五福竜丸展示館」の脇の空地に展示されることになったのである。
人生も様々な変転をたどるものだが、こうしたモノにも、有為転変というものがあるものだ。
近畿・奥吉野も九州・奥八女も共に「南朝の哀史」をとどめ、しかもそのドンヅマリに「核廃絶の願い」を秘めた場所へと導かれるとは、よほど厭戦の気性が篭った場所だからなのか。