日米「互いの鏡」

「美しい人はさらに美しく、そうでない人はそれなりに美しく」は、1980年代に一世を風靡したコマーシャル。樹木希林と岸本加世子がかけあう伝説のコピーとなった。
しかし世界には、伝説どころか日常語となったコピーがある。それが「メークアップ」で、アメリカ化粧品会社の創業者の言葉から生まれた。
遡って大正時代、一時期チャップリンと並び称されるほどのスターとなった早川雪洲は、アメリカで川上音二郎の姪で画家の養女となっていた青木鶴子と知り合い結婚することになる。
雪洲の立派な自宅は「宮殿」とよばれ、西海岸の名物となっていた。
そして世界中から弟子入り志願者は数知れず、一切断ったが一人だけ許された人物がいる。
それがハリー牛山という青年で、弟子入りがかない「第二の雪洲」ともちあげ、ロサンゼルスの新聞は彼を応援した。
ところが雪洲夫妻は突然牛山に、俳優を諦めて日本にパーマネントを広め、アメリカの女優のように美しくせよと命ずる。
ハリー牛山がハリウッドで美容を学んでいた頃、ポーランド系移民のマクシミリアン・ファロッツィ(マックス・ファクター)という男がいた。
ロシアのボリショイ・バレエのビューティーアドバイザーであった。
そんな彼が後に起こした会社が「マックス・ファクター」である。
ファクターはアメリカに渡った後、ハリウッド映画の黎明期に美容アドバイザーとして活躍し、生み出した数々のメークアップ製品は映画スターに愛用され、広く知られるようになった。
もともとロシアのボリショイ・バレエのビューティーアドバイザーであったマックスファクターだが、アメリカに渡った後、ハリウッド映画の黎明期に美容アドバイザーとして活躍し、マスカラやリップブラシなど今では馴染み深い化粧品の多くを生み出している。
また、「メークアップ」という言葉は、常に現状に満足できなかった彼の「Make Up(もっと美しい表情を)」の台詞が、後に「化粧する」という意味で使われるようになったものである。
さて、ポーランド系アメリカ人といえば、マテル社の創業者ルース・ハンドラーがいる。
彼が生み出した「バービー人形」は、マックスファクターの化粧品同様に、世界中で人々の美意識に少なからず影響を与えたともいえる。
さて、1937年に日本のセルロイド玩具の生産数は世界1位となり、バービー人形は初期生産において「メイド・イン・カツシカ」。
ルース・ハンドラーが家族で、スイスを旅行中に目に留まった「リリ」を娘のお土産に買ったことがバービー人形の原点である。
ハンドラーは「リリ」を原型として構想を固めると社員を、人件費が安い町工場がたくさんある東京の会社に社員を派遣した。
この会社は「国際貿易」といい、1918年創業で 東京都葛飾区四つ木にあり現存している。
しかし1950・60年代の日本の人件費が安かった時代が終わり、日本においては「リカ」ちゃんに押され、販売不振から撤退を余儀なくされてしまう。
葛飾は、寅さんとバービー人形の産地であったのだ。

葛飾育ちの「バービー人形」については、絶えず「子どもにどんな影響を与えるか」が議論されてきた。
長い足、細いウエスト、大きな胸を強調する姿は、フェミニストや母親たちから批判を浴び、バービーで遊んだ女児は、スリムな容姿への憧れのあまり、「醜形恐怖症」の原因という研究結果も出たこともある。
それに比べ、「それなりに美しく」は、優しくユーモラスに人々の心の琴線にふれたにちがいない。
1980年代の日米経済戦争は、日本の「市場の閉鎖性」が問題となったが、その中には日本のおもちゃから写真フィルムまでが攻撃の対象となった。
実は、「それなりに美しく」のコピーは、富士写真フィルムのコマーシャルであった。
そして1980年代、日米経済摩擦の火種のひとつがコダックと富士フイルムの熾烈な競争であった。
富士写真フィルムは1934年に創業、何十年もの間アメリカのコダックと熾烈な競争を繰り広げ、写真フィルム業界では、事実上その二強を占めていた。
その時代、コダックは、米フォーブズ誌の「世界で最も価値あるブランド」の上位5位にしばしば名をつらねるほどの優良企業であった。
ところが2009年ごろから、業績は急速に悪化して2012年1月の破綻のニュースに、まさかと驚いたほどだ。
コダックは1880年代に創業し、世界で初めてロールフィルムおよびカラーフイルムを開発。1975年、どこよりも早くデジタルカメラを発明したのに、本業のフィルム事業への悪影響が出るのに封印してしまった。
富士フィルムは1988年に本格的なデジタルカメラを発表し、まさにその翌年に売りに出した。
コダック凋落の要因は、2000年初頭の銀塩カメラ(感光フィルムを使用)から、デジタルカメラの移行と、2007年に始まるカメラ機能をもつスマートフォンへの移行が指摘される。
いうまでもなく、フィルム事業がそれほど早く斜陽になるとは、だれも予想しなかった。
コダックは2012年に破産を申し立てたが、富士フイルムのほうは生き残り業績を拡大した。二社の運命をわけたのが、「アスタリフト」という化粧品である。
インスタントカメラの魅力を広めようとして、化粧品事業にまで参入したからである。
富士フイルムは、2006年に化粧品ラインを立ち上げ、一見無関係に見えるが、コラーゲンはあのゼリー状ものだが、写真フィルムのコーティング層の主原料である。
実は、写真フィルムの感光層に塗布される主成分の約50パーセントがタンパク質のコラーゲンで、皮膚の約70%も同じ成分で構成される。
富士フィルムが開発した化合物は、約20万にもおよびそのうち約4000がが酸化防止機能をもつとされる。 このコア・コンピタンスを利用して開発したのが、藻から油出した抗酸化物質「アスタキンサンチン」を含む化粧品シリーズ「アスリフト」である。
富士フイルムは抗酸化剤や色素のノウハウをいかして、あらたなビジネスチャンスを生み出した。
それ以降、富士フイルムの近年の事業展開が目覚ましく、今や「総合ヘルス事業」がコアとなりつつある。
そこには一人の研究員の隠れた研究がものいった。
1997年、富山市の富山化学工業の研究棟にて、古田要がインフルエンザと薬の候補物質を混ぜた液体のなかで実験用の細胞を培養し、薬のネタを探していた。
富山化学には薬の候補物質が約23000種あったが、ひとつずつウイルスと共に培養液にいれて、細胞の変化を観察した。
週に7000物質がせいぜいで、5階建ての研究棟はいつも電灯がつき、地元で「灯台」とよばれていたという。
すると、顕微鏡の中に培養細胞がスッキリとしていた候補物質をみつけた。
境目がスッキリしていたというのは、この物質がインフルエンザウイルスに効き、細胞を守ったことを意味する。
化学構造を改良して翌年、「Tー705」と名づけたこの物質こそ「アビガン」であった。
古田は、その5年も前からヘルペスウイルスに効く薬を探していたが、いずれこの研究はだめになるという直感が働き、経営陣が抗ヘルペスウイルス薬の研究停止を決める前に、なんとかアビガンにつながる物質をみつけた。
アビガン開発の数奇な23年 研究員は内緒で研究テーマをすり替えていたのだ。
ところがマウスを使った実験で胎児に奇形がでるのがわかり開発が中止になった。
しかし、鳥インフルエンザが流行し、米国保健研究所から鳥インフルエンザ対策としてサンプル提供の依頼があった。
その後も、同じタイプのウイルスが原因のエボラ出血熱やマダニが媒介する感染症が流行するたびに関心を呼んだ。
結局、国内で製造販売の承認を受けたのは2014年、国内でインフルに対してだけ、しかも「他の薬が効かなかった場合」という条件つきで、市場に出回わることはなく、世から忘れ去られようとしていた。
アビガンは、2014年に従来の薬が効かない、新型インフルエンザ向けに承認された。
そして今、新型コロナウイルスの感染拡大で再び注目を浴び始めた。
新型コロナウイルスの治療薬として期待される「アビガン」について、開発を進めている富士フイルム富山化学が近く国に製造販売の承認を申請した。
富士フイルムの申請が承認されれば、日本で開発された新型コロナ治療薬の第1号となる。

1980年代の日米経済摩擦のシンボル的出来事といえば、アメリカ玩具メーカーであるトイザらスの日本進出であったかもしれない。
開店日前日の1992年1月7日に当時のアメリカ合衆国大統領、ジョージ・H・W・ブッシュが視察に訪れたことからもわかるように、トイザらスは「非関税障壁打破」の目玉的存在とみなされていた。
1989年に表明されたトイザらスの日本上陸は、「日米構造協議」の具体的成果であり、日本の玩具業界にとっては「黒船」の再来と騒がれたほどだ。
ただ、日本で事業を営む日本トイザらスは、米国本社が85%出資するアジア統括会社の傘下にある。
ところが、その本家であるアメリカ・トイザラスが破綻申請したという。
米国の破綻を受けて、取引先に対し「日本を含むアジア事業は今回の米国事業の清算プロセスに含まれておらず、日本での事業は今後も変わらず継続する」という内容の説明文を送付している。
小売業界では「米国で起きたことは数年後に日本でも起きる」とよくいわれるが、トイザラスに関していえば、結果として日本市場のほうがリストラで先行していた。
アマゾンがあらゆる企業・産業をのみ込むことを意味する「アマゾンエフェクト」への耐性は、米本社より日本トイザらスのほうがあるという。
トイザラスと同様に、セブンイレブンの「日米逆転」が思い浮かぶ。
セブンの前身であるサウスランド社は、冷蔵庫が普及していなかったなかでサウスランド社は氷販売店として始まった。食料品や調理器具などの日用品を扱ってくれると便利だ、という声から「セブンイレブン」が生まれた。
一方、セブンイレブン・ジャパンは創業者、鈴木敏文氏によって生まれた。
当時鈴木氏はイトーヨーカ堂で新事業の責任者としてプランニングのため、アメリカに外食レストラン・デニーズ社との交渉のため訪れていた。
そこでセブンイレブンと出会った鈴木氏は「日本でビジネスになる」と考え、サウス接種事業は新政権発足直後の翌77年3月、正式に中止された。
ランド本社に向かい提携交渉を行い、1974年5月には日本第1号店である豊洲店がオープンしている。
アメリカのセブンイレブンはその70年代から、消費者の購買行動の変化とともに、中心商品であった食料雑貨や乳製品の売上が徐々に低下。さらにファストフードが80年代に伸びたことも影響を及ぼした。
さて、1989年11月、サウスランド社はセブンイレブン・ジャパンにハワイのセブンイレブン事業(直営店58店)の譲渡を行った。
セブンイレブン・ジャパンが譲り受けた理由には、ハワイに来る日本人がハワイのセブンイレブンを見て、日本のセブンイレブン自体のイメージまで悪くなるのを防ぎたいという狙いがあったからだという。
しかしサウスランド社の経営は、これらの手段でも功を奏さず、1989年月、イトーヨーカドーグループに再建の救済を求めたため、1991年、イトーヨーカ堂とセブンイレブン・ジャパンにより、経営破綻したサウスランド社は買収され、再建の途上にある。

アメリカ大統領選挙を翌年にひかえた1976年10月フォード大統領は、全国民に豚インフルエンザワクチンを接種する未曾有の国家事業を開始した。
発症の報告は、第一次世界大戦時のスペイン風邪に似て、米本土の陸軍施設からもたらされた。
感染の拡大と世論の反応を恐れたフォード大統領は、1億3500万ドルの巨額予算をつけて事業を断行、4千万人が接種をうけた。
大統領選はその時も大接戦だった。ウォーターゲート事件でニクソンがやめたのちに、ニクソンの恩赦を与えたことで、世論の反発をうけた。
ピーナツ栽培で成功しジョージア州知事を務めた民主党候補のカーターは知名度にかけていたが、政治経験のなさがかえってクリーンと映り、僅差でカーターの勝利となった。
しかも敗者は追い打ちをかけられた。ワクチンの副作用に、手足のまひなどを伴うギランバレー症候群を発生させる疑いが浮上、フォード大統領はワクチン中止に追い込まれた。
その時点で感染拡大は生じていなかったものの、新たに公衆衛生行政のトップに就いた保健教育福祉省のカリファノ長官には、前政権が残した国家事業をどう評価し、引き継ぐぎべきかという現実的で切実な問題があった。
まずは、接種事業は新政権発足直後の翌77年3月、正式に中止された。
そこで新長官は、政策決定過程を検証するハーバード大学の政治学と医学の教授2人に前政権の決断について検証を頼んだのである。
結論は「貧弱な証拠から組み立てられた理論に対して、専門家らの過信があった」「決定を強いられる状況に至っていないにもかかわらず、決定をはやまった」 「不確実さについて再考を促すに至るような形での指摘が欠如していた」 「科学的論理と計画の実施見通しについての質疑が不十分であった」などである。
今日の「前のめりがちなワクチン承認」などにも有益な言葉だが、学術の役目もさることながら、「行政文書」の保存と情報開示の重要さが実感されよう。
事件を機に、米国では感染拡大に備える「パンデミック・プランニング」が始まり、世界中に波及した。
ある意味、アメリカの偉大さは、接種事業の正式中止をきめたカリファノ長官が報告書をうけて、「わたし自身、あるいはほかの誰がその場にいたとしても、前政権と同じように決断するしかなかったかもしれない」と認めている点である。
日本人が一番苦手なこと。それは「失敗の検証」ではなかろうか。それは、黒塗ばかりの行政文書の公開に典型的にみられる。「失敗のシェアリング」となると、もはや絶望的である。
民間においても、原発事故から、国産ジェット機撤退にしても、しっかり検証すれば学ぶべきことは多かろうが、肝心なことは伏せられる。
ところで菅内閣の目玉政策として、「デジタル庁」の設置が議論されている。
デジタル庁は省庁の垣根を超えたデータのやり取りを強制する強い権限を持つこと、一時的な組織ではなく恒久化すること、などが報じられている。
つまり、情報のプラットホームをもうけ「縦割行政」を打破するということだ。
これで果たして日本社会の縮図たる官僚社会の旧弊を打破できるか。効率化だけでは意味がない。
先日亡くなったエズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を、駐日大使を務めたライシャワーは、日本人に慢心をもたらすので「発売禁止」にしたほうがいいと言った。
その言葉は日本経済のバブル以降をよくを言い当てていたが、その時ボーゲルは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」をアメリカの「鏡」にしたかったと応じた。つまり自国民向けに書いたということだ。
日米が、良くも悪しくも「曇らぬ鏡」であり続けることを、期待したい。

感光層の厚さは皮膚の「角質層」とほぼ同じ20ミクロン。写真プリントの「肌荒れ」つまり色褪せを防ぐには、紫外線などに よる酸化を防ぐ必要がある。