アインシュタインの「等価原理」

20世紀最高の天才科学者といわれるのがアルバート・アインシュタイン。
彼がなした科学的功績の全貌は凡人には理解できないが、その「思考方法」に学ぶところは少なくない。
その中で「等価原理」というものがある。違ってるように見えても、実は同じものを別角度で見ているにすぎないということ。
アインシュタインは様々な科学的現象の事例を挙げている。卑近な例をあげると、自動車走行において、自動車が動くとみても、風景が動ているとみてもよい。
そして二つの見方に価値の差はなく、「等価」であるということだ。
そもそも自転や公転のすごい回転をしている地球の上で走っている時速60キロの自動車に乗っている人のスピードは、測定者の座標軸を宇宙におくか、地球におくか、自動車におくか、対向車におくか、風景におくか、歩行人におくかで測定値が違ってくる。
自動車の運転手からみて風景が60キロで後退しているとみても少しもかまわない。
つまり、どこに座標軸におくかで速度は違って見えるが、実は同じものをみているのに過ぎない。
ここから話は飛躍するが、この世界で起きていることは、偶然なのか必然なのか。
アインシュタインの有名な言葉に「神はサイコロを振らない」という言葉がある。
この言葉は「量子力学」を批判して使った言葉だが、アインシュタインの「等価原理」を当てはめると、人間にとって「偶然」に見えることでも、神の側にたてば「必然」ということにもなりうる。
さて人々は木々の成長や花々の美しさに「造化の神」を感じたり、生き物の営みに「神秘」を感じたり、天体の運行に驚くような「秩序」を見出したりする。
その感動の裏には、こんなことが偶然に生じるものなのかという不思議さがある(必然かもしれない?)。
実は個人的にそのような感覚を一番強く覚えるのは、高校物理で習う「原子の構造」というものなのだ。
偶然にしてこんな構造が出来うるものだろうか。
自然界の神秘を追及せんがために、事物の根源に遡って探求しようという人々は、随分昔からいた。
特に、ギリシアの自然哲学者達は、ものごとの根源(アルケー)に遡った末に、すべてが原子(アトム)で出来ていると考える人さえもいた。
そこから現代に到るまで「原子の構造」の探求がなされたのは、それが物理現象や化学現象を解き明かす秘密が隠されていると推測されたからだ。
さて原子は、陽子、中性子、電子から構成されていて、原子核の周りに電子が飛び交っているような構造をもっている。
原子核は陽子と中性子から成り立っていて、陽子はプラスの電荷を帯びており中性子は電荷を帯びていない。
一方、電子はマイナスの電荷を帯びている。
原子核の大きさは、原子の大きさの10万分の1〜1万分の1しかない。
これは、1円玉(原子核)と甲子園球場(原子)の大きさの関係に相当する。
また、原子にはそれぞれ番号がつけられていて、その番号を「原子番号」という。
それでは原子の化学的な性質を決める要素は何か。
化学では、化学結合や酸化還元などで電子に注目することが多いが、原子の化学的な性質を決めるのはむしろ陽子で、陽子の数をその原子の番号(原子番号)としている。
原子の物理的な性質(運動性など)を決める要素は「重さ」で、「電子」の質量は、陽子・中性子と比較して極めて小さいため、「原子の重さ≒陽子の重さ+中性子の重さ」とみなすことができる。
では「中性子」はなんのために存在しているのか。原子核に陽子しかない場合プラス同士の電気的な反発が起こるため、これを避けるために「中性子」が存在していると考えられている。
興味深いのは、陽子と中性子は「中間子」と呼ばれる素粒子を素早く交換しながら結びついていること。
陽子が「中間子」を放出し、中性子がこれを受け取ると、陽子は中性子に、中性子は陽子に変化する。これを繰り返すことで「中間子」によって陽子の正電荷が絶えず運び続けられる。
その結果、陽子同士の反発を無力化するほどの強い相互作用(=核力)が、陽子と中間子の間に働くため「原子核」は安定して存在できる。
日本で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、この中間子(パイ中間子)の存在を予測したことによるものであった。
だが、原子の構造は解明されたとしても、なぜマイナスの電子がプラスの原子核の周りを飛びかっているのかはわからない。
それは、人間の利用に供するような仕組みとなっている一方、原子核には「これ以上は立入るな」といわんばかりの「核エネルギー」が秘められている。
前述のように、ヘレニズム(ギリシア風)的なアプローチは、イデアにせよロゴスにせよ、ある根源から世界を見よう(説明しよう)という傾向がある。
その一方で、ニュートンやアインシュタインには、中近東(パレスチナ)で生まれたユダヤ教的要素つまり「ヘブライズム」を感じる。
その表れが、宇宙の真理をきわめてシンプルな数式に表さんとする志向である。
具体的にいうと、ニュートンは広大な宇宙空間の力学関係を「F=Gmm‘/r2」 という単純な式で表現し、アインシュタインはすべての物質のエネルギー変換が、「E=mc2」のわずか1行で表わした。
旧約聖書の「伝道の書」や詩篇にみられる「ソロモンの知恵」は、自然界・宇宙への思いと、神からみた人間という視点があるからだ。
ギリシアにも、「神話世界」によって世界を説明しようとするが、日本と等しく多神教の世界では、神々が擬人的で「超越的」思想はうまれにくい。
そこで、ヘレニズム(ギリシア風)がミクロに向かうのに対して、ヘブライズム(パレスチナ風)は地上を「超越」した視点からみる。
さて、物理学の世界で17世紀にペストで帰郷したニュートンが打ち立てた世界観が19世紀までの世界観を支配した。
それは、次の3原則から打ち立てられたものだ。
① 物体は外部から力を受けなければ、その速度は一定である。動いているものは動き続け、止まっているものはいつまでも止まっている。
② 物体の加速度は力に比例し、質量に反比例する。
③ 作用と反作用の大きさは等しく、逆向きである。
これくらいの原則で宇宙を統一的に説明しようというのがヘブライズムで、「ニュートン力学」は息をのむほど美しいといわれる所以である。
こうした原則をもとに、ニュートンが見出したのが「万有引力の法則」で、我々が日常行うボール遊びから宇宙の天体の運行に至る運動を同じ原理で説明したのである。
20世紀に、アインシュタインの「相対性理論」は、ニュートンの世界観を壊して新たな世界観を作りあげるのだが、そこにはある種の「必然性」があったということができる。
つまり、地上のほとんどの現象について今なお有効なニュートンの運動法則は、原子の内部や素粒子の運動に関しては、無力であることが明らかになった。
言い換えると、ニュートン力学は光速に近い世界では無力であるが、光速にはるかに及ばない世界を扱う限り充分に有効であるということだ。
そしてアインシュタインのすごさは、「特殊相対性理論」でニュートン力学の「綻び」を解決したばかりか、「一般相対性理論」では時間や空間の概念を変えてしまったことである。
それは分析に基づくというより、ある種の美学もしくは信仰によって打ち立てられた感じさえする。
まず、アインシュタインが具体的に取り組んだのが、ニュートン力学では説明のつかない「電磁力」についてである。
電気と磁気の関係については、1831年にファラデーが様々な実験により「電磁誘導」という現象を発見したことは、あまりにも有名である。
電線をグルグル巻きにしたコイルのすぐそばに「磁石」を置いて、磁石を動かすと、なんとコイルの両端には電気が発生するのである。
磁石の動きを速くするとそれだけ強い流れができて電気が強くなり、コイル(電線)の巻き数にも関係していることもわかった。
しかし、磁石をすごい速さで何度も動かすのは大変なので、コイルの方を回したら、同じように電気が生まれた。
現代の発電所とはコイルを動かす、つまりタービンを動かすのに「水力」か「火力」が「原子力」かが使われているのである。
さらにマクスウェルは、磁場の変化が電場を生むならば、逆に電場の変化によって磁場が生まれると予想した上で、ファラディーの電磁波の運動を「マクスウェル方程式」と呼ばれる4つの基本方程式にまとめた。
実は、物理学の歴史の中で、光はどうして真空を通り抜けて地球に達するのかというのが大きな疑問であった。
それはちょうど、波が水を伝わっていくように、光もなんらかの目に見えない媒質をとおっているに違いないと、その媒質を「エーテル」と名づけた。
しかし、エーテルは存在しないことが実験で確かめられ、長く、物理学者は頭を悩ませる結果となった。
実は、マクスウェルの「4つの基本方程式」には、「電磁波の伝播速度」が盛り込まれており、マクスウェルがそれを実際に計算してみると、なんとそれは、「光の速度」とピタリと一致したのである。
そこでマクスウェルは光の正体を電磁波であるという結論をだした。
そしてマクスウェルの予想どうり、磁場が電場を生むことが確かめられ、電場と磁場をまとめて「電磁場」とよばれ、同様に電気力と磁力をまとめて「電磁力」と呼ぶ。
結局、光の中でも波長が短いものが「電磁波」なのであり、光が電磁波ならば、光が真空を通り抜けて地球に届く理由がわかった。
光は、電場と磁場を交互に生み出して真空で伝わり、媒質となるエーテルは必要がなかったのである。

冒頭で述べたように、測定者の立ち位置で、速度は変わってしまう。そこで物理学者はものごとを見る立ち位置のことを「座標系」あるいは単に「系」と呼ぶ。
ここでアインシュタインが「特殊相対性理論」で想定したのが、「等速直線運動(加速度ゼロ)」という「慣性系」であることに注目したい。
例えば、30キロのバイクで走る人から見える世界と60キロの自動車で走る人の世界は違ってみえる。そこで、地球上の上に立っている人に基点をおく、両者を共通の「系」に立たせればよい。そのためになされる変換を「ガリレオ変換」という。
これは、中学で習った「ピタゴラスの定理」の知識があれば十分理解できるもので、どの系においても物理法則は変わらずに起こることは明白である。
アインシュタインの「特殊相対性理論」は、加速運動や円運動など「非慣性系」においては成り立たない。
アインシュタインの「美学」は、ここで留まることを許さず、重力の影響をも含んだ「一般相対性理論」に向かう。
アインシュタインは、電磁力の世界においては「ガリレオ変換」をしてみると、物理法則(マクスウエルの方程式)が成り立たないことに気がついた。
すなわち光速で素粒子が動く原子の内部では、「慣性系」どうしの座標変換は適用できないのだ。
そこで、アインシュタインは、光の速度をパラメーターにもつ「ローレンツ変換」なるものを適用することにした。
そして、このローレンツ変換の中にある光の速度Cを、どの系に立とうと不変であるというにわかには信じがたい「光速不変の原則」を導入するのである。
そもそもアインシュタインの相対性理論の出発点は、高校時代に光を光の速度で追いかけたらどのように見えるかという疑問からである。
そして、光が止まって見えるはずは絶対にないという信念を抱いた。
それはほぼ信仰といってよいものなのだが、驚くことに様々な観測から、立ち位置に関係なく、「光速は一定である」ことが裏付けられている。
ニュートンの世界では、「光の速度」はふつうに進んだ距離を所要時間で割ったものであり、光を特別扱いしていない。
その一方、アインシュタインは、絶対時間や絶対空間の概念を捨て、「光速不変の原則」を中心にすえる。
そうすると、「光の速度=距離/時間」として、実験の結果によれば光速が不変なので、時間と空間の比が一定に保たれるためには、時間が縮小(増加)すれば空間も縮小(増加)する必要がある。
時間が縮小するとは、時間間隔が短くなる、つまり時間が早く進むということである。
アインシュタインは、大胆にも「光速不変」を唯一の絶対的基準とし、時間や空間そのものが伸縮や歪曲するという驚くべき世界観をうみだした。
また、光速に近づくと空間は縮小して、光速を超えて存在することはできない。つまり、宇宙の最高速度制限は、"光速"なのだ。
さらにアインシュタインは、重力を考慮しない「特殊相対性理論」から、地球に働く重力(遠心力および引力)をも考慮した「一般相対性理論」に発展する。
そしてニュートンがいうように「引力」で事物が引き合うのではなく、重力の周辺では空間や時間に歪みで引き合っているとした。
ニュートンの世界は、絶対空間と絶対時間のうえに構築されていたが、アインシュタインは、時間と空間がよりフレキシブルであることを導き、ついには時間と空間を「時空間」に統一してしまったのである。
それは、宇宙のはじまりがビッグバンによって「時空」が生じたという説にもよくかみあう。
よくよく考えるとニュートンの「万有引力の法則」ではなぜ2つの物体の間には引力が働くのか、地球がなぜあらゆるものを引き付けるのかについては、ニュートン自身も含めて誰も説明できていない。
実はニュートンが、20年近くも「万有引力のの法則」を公表しなかったのは、この力が遠く離れた物体どうしの間で、「遠隔力」としてどのように作用するのかがわからなかったからだ。
つまりニュートンはそれ以上一歩も前に進むことができなかったのである。
ところが、アインシュタインは「モノが引き合う」のではなくて、物質の存在が時空を変形させ、時空の変形が物質に重力作用を及ぼすとしたのである。
ところで、アインシュタインが最後まで受け入れなかった世界観がある。
それは、アインシュタインの美学なり、信仰が許さない「量子力学」の世界である。
アインシュタインは、そこには必ず物理の法則があり、決定されるべき数式があるとの立場から、「神はサイコロを振らない」という言葉で批判した。
今後アインシュタインの美学に沿うような、新たな発見がなされるかもしれない。
というのも、アインシュタインは宇宙空間には互いを遠ざけようとする力が働くとして、それを「宇宙定数」とよんだ。
しかし後に生涯最大の失敗だったと認めたのだが、最近では宇宙の膨張がわかり、その「宇宙定数」がにわかに注目されている。
そしてアインシュタインの時空の考えは、ある程度「創造説」と「進化論」との折り合いをつけてくれる。
それは時間の流れ方や空間の在り方は、それぞれの立ち位置で変わってくるものであり、まして神と人間なら「千年は1日、1日は千年のごとく」(第二ペテロの手紙3章)ということがあってもおかしくはない。
冒頭で述べたように、アインシュタインの「等価原理」は、違っているようにみえても同じものを別の角度で見たにすぎないということを表す原理である。
人間の目から「進化」と見えることも、神の目からみて「創造」ということにならないだろうか。
もっとも、聖書の「天地創造」においては、「人間は神に似せて造られた」(創世記1章)とか、「神が人間に命の息を吹き込んだ」(創世記2章)とあるように、「等価」という言葉がそのままあてはまらないとしても。