あの時、あの曲が流れた(海外)

1969年 東大安田講堂において高く放物線を描く放水と、火炎瓶の煙。
その激しい攻防の末に安田講堂は落城へと至るが、バックにこの年にヒットした曲「夜明けのスキャット」が流れていた。
由紀さおりの「ルールルルー」の透き通った声が静かに語りかける。
後に海外でも高く評価された歌声だが、合いそうもない映像と音楽(BGM)とのこの不思議な「調和」は何なのだろう。
「言葉がすくない」歌詞というのは、それぞれの時代のへ思いが聞き手にすべて委ねられるということも、その理由のひとつであろう。
だがもっと重要なことは、言葉なきメロディの中に、はからずも世代間の「断裂」が表現されていたからではなかろうか。
そう思うようになったのは、「もうひとつの場面」と出会って以来のことだ。
2001年の911テロで世界貿易センターの崩落が起きた。その衝撃の場面をみながら、不謹慎ながら、サイモンとガーファンクルの「サウンド オブ サイレンス」の歌詞が、脳裏に浮かんだ。
旧約聖書の「創世記」に、天にまで届く塔をたてようとした人間に対して、神は「人が思いはかることはよろしくない」と、人々の言葉を乱したとある。
言葉を乱すということは、その思考回路までも乱したということだろうが、「バベルの塔」という言葉は、人間の不遜ばかりではなく、人間のコミュニケーションの「断絶」を意味する言葉なのだ。
そして、「サウンド オブ サイレンス」は直訳すれば「沈黙の音」で、こんな一節がある。
「その光の中で僕が見たのは1万人 たぶんそれ以上の人々/みんな しゃべってはいるけど会話はしていない/みんな 聴いてはいるけど聞いてはいない/みんな 誰に聴かせるでもない歌を書いている/そして 誰もこの"静寂"を妨げない 」。
さらに「静寂は癌のように広がっていく」。
さて、911テロの10年後の2011年の9月11日、追悼式のニュースを聞いて驚いた。
式典でポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を歌ったというのだ。
しかも、ポール・サイモンは当初、「明日にかける橋」を歌う予定だったが、急遽「サウンド オブ サイレンス」に変えたのだという。
推測だが、ポール・サイモンが世界貿易センターの「グラウンドゼロ」に立った時、「明日にかける橋」の融和観よりも、「サウンド オブ サイレンス」の断裂感の方がこの場にはよく似合うと、咄嗟の判断をしたのではなかろうか。
実際に、ポール・サイモンがギター一本で静かに歌い終えると、少なからぬ遺族たちが「あの曲こそがベストだった」と語ったという。
ちなみに「明日にかける橋」は、「渦巻く荒波に橋のように身を横たえよう」という、分断を乗り越えようとする未来を暗示している。
一方、「サウンド オブ サイレンス」は、さらに10年を経た2021年、「オルタナティブ・ファクト」(もうひとつの真実)によるアメリカの分断を「預言者の言葉」(words of prophet)のように言い当てている。

我が大学入学の頃、連合赤軍事件や丸の内三菱重工爆破事件で、世の中や大学のキャンパスには、荒んだ空気が漂っていた。
若者も大人も、政治に厭(あ)いていたさ中、ABBAの「Dancing Queen」(1976年)の浮揚感は、我々を別世界に連れて行った。
歌詞の中身といえば、ディスコのフロアで周囲の視線をひとり占めする17歳女子の「輝き」を歌ったもの。
それでも、”See that girl Watch that scene、Dig in the Dancinng Queen!”のサウンドに、心が躍った。
「ABBA」の名は、4人の名前アグネッタ、ビヨルン、アンニ、ベニーの頭文字でてつくられた名前で、二組の夫婦で結成されたいわば「ファミリー・バンド」であった、
しかも、その楽曲の全てをメンバー、主に男性二人ビヨルンとベニーの作曲・プロデュースしていた。
ABBAの結成は、誰かの「発案」(プロデュース)よったものではなく、自然な成り行きだった。
四人は、音楽を愛する二人の親友と、それぞれの恋人が意気投合して結成した。
しかも、その全員がスウエーデンの音楽界でキャリアのあるスターだったというのだから、彼らの出会いそのものが伝説といってよい。
とはいえ、そんな幸せなファミリー・グループなんていう存在は、パンク・ロック全盛期の70年代当時には格好の「非難」の対象となった面がある。
ゴミだとかカスとも酷評されたABBA。SNSの時代ではなかったのが幸いだったと思えるくらいの「酷評」を浴びた。
1970年代、ヨーロッパでは、ブラック・パンサーにIRA、日本の連合赤軍、イタリアの「赤い旅団」などの左翼ゲリラが跋扈する時代。グラム・ロックのようなムーブメントが生まれ、その代表がTレックスやスレイドだった。
ところでABBAは、オリビア・ニュートン・ジョンも参加した英国のコンテストで、「恋のウォータールー」という曲で優勝して、一躍世界に知られた。
従来の価値観を真っ向から否定して破壊する事を目的としていたパンク世代にとって、ABBAはまさに「天敵」。しかしABBAは、その非難を乗り越えるほどの魅力あるサウンドを放った。
その運命を決定的に変えたのが、「ダンシング・クイーン」。しかも、この曲が最初に披露されたのは、国民的な前夜祭であった。
2012年にスウエーデンに新王妃が誕生した。しかしシルヴィィア王妃はロイヤルウエディングを終えてからも、国民からなかなか受け入れられないという状況ぬあった。
なぜかといえば、シルヴィア王妃がスウェーデンではない異国の一般市民だったこと、王子よりも2歳年上だったこと、さらには父親が戦時中にナチス党員であったことなどが理由であった。
民間出身の美智子妃人気、ミッチーブームを巻き起こした日本とは、対照的ではあった。
シルヴィア王妃は、1943年にドイツ人の父、ブラジル人の母との間に、第4子として生まれ、4歳の頃から家族とともに10年間サンパウロで過ごした。
その後、ドイツ・デュッセルドルフの高校を卒業し、その後スペイン語通訳の仕事について学んだ。
スペイン語だけでなく、ドイツ語、ポルトガル語、英語、フランス語、スウェーデン語も流暢に話せるため、それを活かして通訳や国際的なイベントでコンパニオンとして活躍していた。
1972年に開催されたミュンヘン・オリンピックではグスタフ国王の担当コンパニオンに任命され、ここでスウェーデン王子として開会式に参席していたカール16世グスタフと知り合い、恋に落ちた。
カール16世グスタフがシルヴィア王妃に一目惚れしたともいわれており、生れながらの美貌ばかりではなかった。
というのは、シルビア王妃は、グスタフを一国の王としてではなく、ひとりの男性として接した点が、皇子の心をつかんだといわれている。
数々の困難を乗り越え、やっとの想いで結婚まで辿り着いた2人。出会ってから4年後にストックホルムの大聖堂で結婚式が執り行われた。
しかし、TV中継のインタビューでシルビア王妃が充分にスウェーデン語が話せないことが発覚し、王妃の資格がないという意見が澎湃と起こっていった。
ロイヤルウエディングの前夜祭、王妃はこわばった表情で国民の前に現れた。
だが、新クインーンの結婚を祝うために、思わぬ演出が待っていた。
スウェーデンで人気が上昇中のABBAが「ダンシング・クイーン」を世界で初めて披露したのだった。
アグネッタは、「ダンシングクイーン」との出会いは、伴奏をきいただけで、鳥肌が立つような「何か」を感じたと語っている。
そしてそこには、「スウェーデン国民はあなたを歓迎しますよ」というメッセージが込められていた。
曲が演奏される中、王妃の顔がらみるみるうちに緊張が解け、ほほえみさえ浮かべることになる。
ロイヤルウエデイング当日、クリスチャン・ディオールの真っ白なウエディング・ドレスをまとったシルヴィア王妃。
ティアラは、ベルギー国王であるレオパルド3世が娘のシャルロットにプレゼントしたもので、シンプルな中にエレガントさも兼ね備えた「さすが王室の結婚式」と感じられる式となった。
当初、周囲からの猛反対、国民からの受け入れがたい状況を乗り越え、シルヴィア王妃の明るい人柄、何事にも屈しない素質は徐々に受け入れられ、現在では高い人気を誇る王妃となっていった。
そしてABBAは、「ダンシングクイーン」以後、「テイク・ア・チャンス」、「チキチータ」、「ギミー!ギミー!ギミー!」などのヒットを連発。
ABBAは、全米1位の「ダンシングクイーン」を契機に、世代を超え国境を超えて受け入れられていく。

ベルリンの壁は長く東西冷戦の象徴となっていたが、我々の目には、その崩壊はあっけなく映った。
しかし、それは突然起きたことではなく、そこに至る小さな奇跡の集積の上で起きたことだった。
その中には、日本の花火も一役かっていた。その花火師の言葉「花火は西からも東からも美しく見えます」が人々の心を揺さぶった。
1970年代、デビット・ボウイは、化粧を施し斬新なコスチュームで歌う前衛的なロックで、世界的スターとなっていた。
しかし高まる人気と裏腹にのしかかる重圧で、心と体はボロボロ、ドラッグにも手を出していた。
そんなボウイが奇抜な衣装を脱ぎ捨て西ベルリンを訪れたのは、芸術家を目指す若者たちが多く暮らす庶民的な街で音楽作りに専念するためだった。
その頃、ボウイが音楽作りをしていたスタジオからベルリンの壁は真正面に見え、壁までおよそ200メートルに位置していた。
壁の後ろには 大きな建物があり、屋上には監視塔があって東ベルリンから逃亡する人がいないかを常に監視していた。
壁を見つめる中で、ボウイにある曲想が浮かぶ~東西に引き裂かれ自由に会うことができない恋人たち。
そんなイメージから生まれた曲が「ヒーローズ」。
この曲でドン底から抜け出したボウイは、ニューヨークに向かい、80年代もメガヒットを連発する。
その一方、80年代半ばになると、ソビエトが社会主義体制の大改革に乗り出し、東ドイツでも変革を求める声が高まっていく。
1987年、ボウイは世界中を巡るツアーを行い、8年前「ヒーローズ」を作った西ベルリンを訪れた。
そしベルリンの壁からわずか20メートルの処に野外ステージを設け、壁の向こうにもよく聞こえるように、スピーカーの4分の1を東ベルリン側に向けた。
それはいうまでもなくプロデユーサーとともに壁の向こうの東側の市民にも曲を聴かせる魂胆であった。
そして本番当日、西ベルリンの会場に大勢の人が集まるばかりではなく、東側でも 多くの人が壁の近くに集まってきていた。
東ドイツでは、許可なく自由に集まることは中止されていたが、その数はどんどん膨れ上がり、最終的には6000人から1万人にもなった。
誰もがこのイベントがどんな結果をもたらすも知らず、嵐の前の静けさという感じであった。
実際に、騒動は激しくなって逮捕者も出るなか、若者たちはかまうことなく声を上げた。
そしてボウイがベルリンの壁を見ながら得た曲想から生まれたあの曲「ヒーローズ」が、大きな時代のうねりを作り出していった。
東ドイツの若者たちの心に音楽で火をともしたデヴィッド・ボウイなら、その導火線を用意したもう一人の若者がいた。
その若者とは、後に音楽プロデユーサーとなるマーク・リーダーという男だった。
イギリス生まれのマークはデビット・ボウイの音楽に憧れ、20歳の時にボウイの後を追うようにベルリンを訪れる。
それはボウイがアメリカに去った頃のことだったが、彼が住んでいたアパートはそのまま残されていた。
人づてに中を見せてもらったマークによれば、これがボウイの部屋かとは信じられないほど、質素な暮らしぶりがうかがえた。
そしてマークは、当時あった24時間ビザを利用して東ベルリンを訪ねる
そこは不気味な緊張感に満ちた場所で、多くの人は監視の恐怖で萎縮していた反面、彼らが求めているのは西側の最先端の音楽だと知る。
そしてマークは西側の音楽を一人で東側へと密輸しようとはかる。当然、見つかった場合には、没収、逮捕される可能性すらあった。
マークは カセットを自分の体にテープで貼り付けて検問所を通りぬけた。幸いなことにボディーチェックはなく、テープの密輸を100回以上繰り返し、それは東ベルリンで瞬く間にコピーされ広がっていった。
彼らはカセットを台所やトイレでこっそりと見つからないように渡していた。
1983年、マークは東ベルリンの若者たちの思いを知り、西側のバンドに、東側で演奏させようと考え始めた。
声をかけたバンドが「クラフトワーク」で、世界的には無名だったが確かな実力派。そして、マークがライブ会場として選んだのは、なんと教会であった。
国民の多くがキリスト教徒だったため、社会主義体制下でも教会への露骨な弾圧はできなかったからだ。
わずか30名の極秘ライブだったが、マークは万が一のために入り口で見張り役をした。
ライブは邪魔されることなく成功したばかりか、客の中には監視するはずのシュタージの関係者もいたことを知り、改めて音楽のちからを再認識した。
そして東側では西側の音楽を聴く若者が増え、彼らの自由を求める声も大きくなる中、東ドイツ政府は若者たちの不満を抑えるため、政府が認めたコンサートを東ドイツで行うという決断を下す。
そして 壁崩壊1年前の1988年、当時人気絶頂だったアメリカのロックスターであるブルース・スプリングスティーンが東ベルリンでコンサートを行うことになる。
実は、これはFDJ(自由ドイツ青年団)のリーダーが提案したもので、かつてデビット・ボウイがべルリンの壁の近くで行ったような挑発的なコンサートをさせないための苦肉の策だった。
その時、FDJの中で名前が挙がったアーティストがブルース・スプリングスティーンだった。
当時、ブルース・スプリングスティーンは貧しい労働者たちの夢や苦悩を歌っていたため、労働者階級に寄り添うもので、東ドイツの思想にも合致するとみられていたからだ。
そして「ボーン・イン・ザ・U.S.A」が始まった。
その時、 会場にいた誰もが盛り上がっていいものか悩んでいたという。
それが「自由の国に生まれた」という意味だということは、そこにいた全員が分かっていたからだ。
しかしもう誰も止めることはできなかった。
「ボーン・イン・ザ・U.S.A」は数十万人による大合唱になっていった。
コンサートであれだけの思いをしたら、もっと自由になりたいという思いが出てくるのが自然なこと。
実際、このコンサートは、東ドイツ市民に自由というものを植え付けた。
「自由」を求める声は、もう抑えきれないほどに膨らんでいた。
すべての始まりは、デビットボウイが西側の壁近くで行ったあのコンサート。そこで演奏されたのはデビット・ボウイが自らを蘇らえさせた「ヒーローズ」。
それは、東側の自由を求める若者の祈りに応えたばかりか、1983年のベルリンの壁崩壊へと導く響きとなっていった。