数年前のTV番組で、いわゆる"飯場(はんば)"といわれる地区で働く人々が、故郷への思いを口にしていた。
彼は、家族を支えるために出稼ぎに出る。東京オリンピックなどの末端労働力として、彼らは高度成長という時代を文字通り、その腕一本で築き上げていく夢を抱いた。
しかし想像するに、仕事を失ったか、体を壊したか、はたまた遊びすぎたかで、仕送りも滞りがちとなった。
故郷に帰ることができぬまま時間が過ぎ、はたからみると故郷を捨てたように見える。
ある労働者は、少年の頃、山や川で遊んだ日々が一番幸せな時だったと振り返る一方で、もう自分はそこには絶対に帰れないと語る。
故郷に帰ることは、自分の故郷がもはや存在しないことを確認に行くようなものだからかもしれない。
それでも、飯場にやってくる人々の中に、自分の故郷の子守歌を歌うものがいると、懐かしさがこみあげてくる。
人間にとって「故郷」はほぼ失われるものだともいえる。実際に生まれた土地、生活していた土地であっても、年月が経てば、親は死に、係累は消え、家はなくなり、地縁も消える。
しかし、故郷がかならずしも地理的に特定されるものではないにちがいない。
その意味で、故郷を思う気持ちは、”母親”を思う気持ちと似ていて、つまり”帰るべき場所”であるかのように、いつまでも心の風景に収めているものだろう。
日本の子守唄には、その土地の人間の言葉や風習が息づいていて、子守りのために雇われた奉公人をうたったものも多数ある。
例えば、熊本県の民謡としても知られる「五木の子守唄」や長崎県の「島原の子守唄」などである。
飯場の人々の話を聞きながら思い浮かべたのは、溝口健二監督の名作映画「雨月物語」や「山椒大夫」。
そこには、母親(or妻)への思いが故郷への思いと重なって描かれていた。
しかし、それは帰郷してはじめて知る”運命の酷薄”を知ることでもあった。
「山椒大夫」では人さらいの罠にかかり豪族山椒大夫の許に売られて、母親と離れ離れとなった厨子王と安寿の兄妹を描く。
奴隷となった二人は過酷な労働を課せられながらも、母親との再会を望む日々を送る。
それから十年、大きくなった二人は依然として奴隷の境遇のままであったが、ある日、新しく荘園にやってきた奴隷が口ずさむ歌を耳にして驚く。
「安寿や~、厨子王や~」。なんとそれは自分たちが子供の頃、子守歌のように聞いた母親の歌であったからだ。
兄妹はその由来を奴隷に聞き母親の生存場所を確認するや、二人は遂に脱走を決意する。
妹は途中で領主につかまり命を失うが、兄は長い旅の末に浜辺の廃屋に横たわる自分の母親をみつける。
そして、母親に近づくが母親は息子だと気がつかない。母親は、視力を失っていたからだ。
そして、弟は「あの歌」を口づさむ。
木村利人は、早稲田大学在学中にキリスト教学生ボランティア運動に没頭していた。
ある時、日本のYMCAを代表して、フィリピン農村でのワークキャンプに参加する機会があり、バスケットボールを通じて交流を深めた。
フィリピンは16世紀にスペインの植民地になった歴史があり、木村が宿泊していた合宿所の小学校の校庭では、子どもたちが古いスペイン民謡を歌っているのを耳にした。
ワークキャンプを終え、日本への帰途へ着くフランス貨物船の中で、木村はそのスペイン民謡のメロディーに詩をつけた。歌詞を作ぶにあたっては、木村らしく、旧約聖書の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」(詩編47)に着想を得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは”偶然”以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
そして坂本の楽屋を訪れた木村は、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを語り合い、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの”顔””としてメガヒット「上を向いて歩こう」などをとともに「幸せなら手をたたこう」を披露した。
その東京オリンピックの翌年1965年に「帰って来たヨッパライ」がミリオンヒットとなって一躍脚光をあびていた「ザ・フォーク・クルセイダーズ」。
メンバーは、はしだのりひこ(故人)、故加藤和彦(故人)、北山修、松山猛の4人のメンバーで構成されていた。
、松山は京都に育ち、鴨川のほとりに 在日コリアンの集落が出来たのは1950年代。祖国が南北に分断される一方日本では戦後復興が加速する。
立ち退きなどで行き場を失った人が集まって、不法占拠だとして水道や電話などの整備はされず周囲からはゼロ番地と呼ばれ蔑まれていた。
当時は朝鮮学校の子と日本の学校の生徒達が いがみ合っていて、けんか沙汰も絶え間なかった。
当時中学2年生だった松山はそのミゾを埋めようと、先生にサッカーで交流をしたらどうか、試合申し込んでくれないかとたのんだ。
すると先生が行くより、子供が行った方が向こうも柔らかい受け取り方するだろうという。
松山が恐る恐る訪ねると、学校側は快く試合の申し出を引き受けてくれた。
そして帰ろうとした時、聞こえてきた曲の旋律に、思わず松山の足が止まった。
さらに外に出ようと廊下を歩み始めると、今度はコーラスが聞こえてきた。
意味がわからなくても、その美しい旋律は頭に残り、松山はその後、朝鮮学校の生徒から手書きの譜面をもらった。
松山は早速 辞典を頼りに翻訳してみると、分断された半島で”北に暮らす人々”が 南の祖国を思い鳥のように自由に行き来したいと願う”望郷の歌”であることがわかった。
実際、松山の周りにも 祖国が分断されて帰る場所を失った人たちがいて、その思いがよく理解できた。
松山とフォークルのメンバーはこの歌をライブで歌おうと決めた。
ところが問題があった。もらった「イムジン河」の歌詞には1番しかなく ライブで歌うには短かすぎた。
そこで松山が歌詞を書き足すことにし分断の悲しみをすくい取るように詞にしたためた。
「イムジン河 水清く とうとうと流る」「水鳥自由に むらがり飛びかうよ」。
この分断の状況が いつかなくなり一つの大河になれば、みんなが自由に人が行き来でるようになればという思いをこめたのだった。
「イムジン河」はラジオでも数回流され、瞬く間に若者の注目を集めた。
日本社会は当時、保守と革新の政治闘争が続いており、学生運動が盛んだった時代、若者たちは政治や世界の情勢に髙い関心を抱いていた。
「帰ってきたヨッパライ」で人気となったフォークルが歌うこの曲を、音楽業界が放っておくはずがなかった。
ところが松山は 京都の実家で発売予定の前日に 発売中止となったというニュースに耳を疑った。
北朝鮮を支持する朝鮮総連からレコード会社に、北朝鮮の原曲の作曲者の名前がないという抗議があった。
クルセイダースは、民謡として誰でも歌ってるというぐらいの認識だった。
ただ、原曲には2番も存在したことがこの時判明する。そこには 南の農地よりも北の方が豊かであるという政治的なメッセージが含まれていた。
朝鮮総連は松山の歌詞の修正も求めたこともあり、政治問題にまで発展しかねない事態となった。
そこへ突如、レコード会社が発売中止を発表、さらに放送に”自粛”ムードが広がった。
何かあれば また抗議されるかもしれないそんな”自粛”が行われたのである。
松山からすれば、盗作みたいな扱いをされたのは心外だった。
誰も傷つけるうたでもなく、なぜ横合いからケチつけられるのかと、グリープの思いは皆同じだった。
すぐに自分たちの思いを込め代わりの歌を作った。メロディーは 加藤和彦がわずか3時間で書き上げたその曲が25万枚の大ヒットとなる、「悲しくてやりきれない」であった。
作詞はサトウハチローだが、「イムジン河」の発売中止の口惜しさをそのまま表現した歌だった。
しかし、朝鮮分断の分断の深さを際立たせるかのように、その後も「イムジン河」は長く”封印”されることになる。
ところが、松山猛が「イムジン河」を初めて聴いた朝鮮学校に勤めていた在日2世のカン・イルスンであった。
自分と同じように 日本で生まれ祖国の風景を知らない若い世代にこの歌を伝え続けたいという思いからだった。
カン・イルスンの少年時代、在日朝鮮人の間で北朝鮮へ渡る いわゆる「帰国事業」が盛んに行われていた。
そして1987年 カンが教師を辞め京都で音楽家として活動していたところ、予想外の依頼が舞い込んできた。
当時、京都市は北朝鮮と文化的な交流があったため、その一環として ピョンヤンと沿いの町 ウォンサンで京都市交響楽団の演奏会を行うことになり、その引率をカンが任されたのだった。
南への望郷を歌った歌詞がある限り、それを普及させるのは立場上難しいことであった。そこでメロディーだけの”オーケストラ版”がつくられた。
このバージョンだったら絶対いける、ぜひ聴いてほしいと思った。
そんな北朝鮮で 「イムジン河」は受け入れられるのか、期待と不安が入り交じる中カンは北朝鮮に渡ったピョンヤンに入ったオーケストラ隊は、総勢105名を連れた大所帯だった。
8月3日 ピョンヤンでのコンサート本番。1800人の市民が駆けつけた。そして アンコール、人々の反応は薄く会場は静まり返ったままだった。
独裁体制のもと 人々を鼓舞するような力強い曲が好まれ、哀愁を誘う「イムジン河」が公に流れることはなかったという。
北朝鮮で知られていないことは分かっていたものの、カンは拍子抜けしたような心情だったという。
ところがその3日後、日本海側の港町ウォンサンでの演奏会でカンは驚くべき光景を目にする。
ピョンヤンと同じように「イムジン河」を演奏するや、はじめのメロディーのフレーズが流れた時に涙を流している人がいっぱい いた。
「地上の楽園」といわれた北朝鮮に帰国事業で渡った彼らの多くが船が発着するウォンサンに住んでいたのだ。
その中には日本から来たことを特別視され北朝鮮社会になじめない人や日本に戻りたいと願ってもかなわない人もいた。
「イムジン河」は、そんな人々の抱く心にも 響いたのだった。
2000年初めて 南北首脳会談が行われ、シドニーオリンピックでは韓国と北朝鮮が統一旗を掲げた。
翌年 キム・ヨンジャは北朝鮮で行われる音楽祭に韓国人の歌手として招待された。
実は、キムヨンジャもまた 「イムジン河」を自分の歌のように 大切にしていた。というのもキム・ヨンジャも親族に分断に苦しむ者がいて、統一を願ってライブを中心に「イムジン河」を歌うようになる。
2001年紅白歌合戦でキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌った。「イムジン河」がたどった運命を知るものには感無量のことであったであろう。
世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めたインパール作戦。慰問や戦意高揚のための「うたう部隊」と呼ばれた部隊が実際にあったのだ。
したがって、異様に歌がうまいことは自然なこと。
インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になった。
兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
映画では、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
水島はその道中、高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人であるビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれたほどだった。
そうした中、僧になりすました水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという目撃情報が寄せられる。
そして皆は、あのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、同じくイギリス起源の「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の「葛藤」を次のように綴っている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。
いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。
死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか?
おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。