あの時、あの曲が流れた(日本)

数年前のTV番組で、いわゆる"飯場(はんば)"といわれる地区で働く人々が、故郷への思いを口にしていた。
彼は、家族を支えるために出稼ぎに出る。東京オリンピックなどの末端労働力として、彼らは高度成長という時代を文字通り、その腕一本で築き上げていく夢を抱いた。
しかし想像するに、仕事を失ったか、体を壊したか、はたまた遊びすぎたかで、仕送りも滞りがちとなった。
故郷に帰ることができぬまま時間が過ぎ、はたからみると故郷を捨てたように見える。
ある労働者は、少年の頃、山や川で遊んだ日々が一番幸せな時だったと振り返る一方で、もう自分はそこには絶対に帰れないと語る。
故郷に帰ることは、自分の故郷がもはや存在しないことを確認に行くようなものだからかもしれない。
それでも、飯場にやってくる人々の中に、自分の故郷の子守歌を歌うものがいると、懐かしさがこみあげてくる。
人間にとって「故郷」はほぼ失われるものだともいえる。実際に生まれた土地、生活していた土地であっても、年月が経てば、親は死に、係累は消え、家はなくなり、地縁も消える。
しかし、故郷がかならずしも地理的に特定されるものではないにちがいない。
その意味で、故郷を思う気持ちは、”母親”を思う気持ちと似ていて、つまり”帰るべき場所”であるかのように、いつまでも心の風景に収めているものだろう。
日本の子守唄には、その土地の人間の言葉や風習が息づいていて、子守りのために雇われた奉公人をうたったものも多数ある。
例えば、熊本県の民謡としても知られる「五木の子守唄」や長崎県の「島原の子守唄」などである。
飯場の人々の話を聞きながら思い浮かべたのは、溝口健二監督の名作映画「雨月物語」や「山椒大夫」。
そこには、母親(or妻)への思いが故郷への思いと重なって描かれていた。
しかし、それは帰郷してはじめて知る”運命の酷薄”を知ることでもあった。
「山椒大夫」では人さらいの罠にかかり豪族山椒大夫の許に売られて、母親と離れ離れとなった厨子王と安寿の兄妹を描く。
奴隷となった二人は過酷な労働を課せられながらも、母親との再会を望む日々を送る。
それから十年、大きくなった二人は依然として奴隷の境遇のままであったが、ある日、新しく荘園にやってきた奴隷が口ずさむ歌を耳にして驚く。
「安寿や~、厨子王や~」。なんとそれは自分たちが子供の頃、子守歌のように聞いた母親の歌であったからだ。
兄妹はその由来を奴隷に聞き母親の生存場所を確認するや、二人は遂に脱走を決意する。
妹は途中で領主につかまり命を失うが、兄は長い旅の末に浜辺の廃屋に横たわる自分の母親をみつける。
そして、母親に近づくが母親は息子だと気がつかない。母親は、視力を失っていたからだ。
そして、弟は「あの歌」を口づさむ。

木村利人は、早稲田大学在学中にキリスト教学生ボランティア運動に没頭していた。
ある時、日本のYMCAを代表して、フィリピン農村でのワークキャンプに参加する機会があり、バスケットボールを通じて交流を深めた。
フィリピンは16世紀にスペインの植民地になった歴史があり、木村が宿泊していた合宿所の小学校の校庭では、子どもたちが古いスペイン民謡を歌っているのを耳にした。
ワークキャンプを終え、日本への帰途へ着くフランス貨物船の中で、木村はそのスペイン民謡のメロディーに詩をつけた。歌詞を作ぶにあたっては、木村らしく、旧約聖書の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」(詩編47)に着想を得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは”偶然”以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
そして坂本の楽屋を訪れた木村は、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを語り合い、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの”顔””としてメガヒット「上を向いて歩こう」などをとともに「幸せなら手をたたこう」を披露した。
その東京オリンピックの翌年1965年に「帰って来たヨッパライ」がミリオンヒットとなって一躍脚光をあびていた「ザ・フォーク・クルセイダーズ」。
メンバーは、はしだのりひこ(故人)、故加藤和彦(故人)、北山修、松山猛の4人のメンバーで構成されていた。
、松山は京都に育ち、鴨川のほとりに 在日コリアンの集落が出来たのは1950年代。祖国が南北に分断される一方日本では戦後復興が加速する。
立ち退きなどで行き場を失った人が集まって、不法占拠だとして水道や電話などの整備はされず周囲からはゼロ番地と呼ばれ蔑まれていた。
当時は朝鮮学校の子と日本の学校の生徒達が いがみ合っていて、けんか沙汰も絶え間なかった。
当時中学2年生だった松山はそのミゾを埋めようと、先生にサッカーで交流をしたらどうか、試合申し込んでくれないかとたのんだ。
すると先生が行くより、子供が行った方が向こうも柔らかい受け取り方するだろうという。
松山が恐る恐る訪ねると、学校側は快く試合の申し出を引き受けてくれた。
そして帰ろうとした時、聞こえてきた曲の旋律に、思わず松山の足が止まった。
さらに外に出ようと廊下を歩み始めると、今度はコーラスが聞こえてきた。
意味がわからなくても、その美しい旋律は頭に残り、松山はその後、朝鮮学校の生徒から手書きの譜面をもらった。
松山は早速 辞典を頼りに翻訳してみると、分断された半島で”北に暮らす人々”が 南の祖国を思い鳥のように自由に行き来したいと願う”望郷の歌”であることがわかった。
実際、松山の周りにも 祖国が分断されて帰る場所を失った人たちがいて、その思いがよく理解できた。
松山とフォークルのメンバーはこの歌をライブで歌おうと決めた。
ところが問題があった。もらった「イムジン河」の歌詞には1番しかなく ライブで歌うには短かすぎた。
そこで松山が歌詞を書き足すことにし分断の悲しみをすくい取るように詞にしたためた。
「イムジン河 水清く とうとうと流る」「水鳥自由に むらがり飛びかうよ」。
この分断の状況が いつかなくなり一つの大河になれば、みんなが自由に人が行き来でるようになればという思いをこめたのだった。
「イムジン河」はラジオでも数回流され、瞬く間に若者の注目を集めた。
日本社会は当時、保守と革新の政治闘争が続いており、学生運動が盛んだった時代、若者たちは政治や世界の情勢に髙い関心を抱いていた。
「帰ってきたヨッパライ」で人気となったフォークルが歌うこの曲を、音楽業界が放っておくはずがなかった。
ところが松山は 京都の実家で発売予定の前日に 発売中止となったというニュースに耳を疑った。
北朝鮮を支持する朝鮮総連からレコード会社に、北朝鮮の原曲の作曲者の名前がないという抗議があった。
クルセイダースは、民謡として誰でも歌ってるというぐらいの認識だった。
ただ、原曲には2番も存在したことがこの時判明する。そこには 南の農地よりも北の方が豊かであるという政治的なメッセージが含まれていた。
朝鮮総連は松山の歌詞の修正も求めたこともあり、政治問題にまで発展しかねない事態となった。
そこへ突如、レコード会社が発売中止を発表、さらに放送に”自粛”ムードが広がった。
何かあれば また抗議されるかもしれないそんな”自粛”が行われたのである。
松山からすれば、盗作みたいな扱いをされたのは心外だった。
誰も傷つけるうたでもなく、なぜ横合いからケチつけられるのかと、グリープの思いは皆同じだった。
すぐに自分たちの思いを込め代わりの歌を作った。メロディーは 加藤和彦がわずか3時間で書き上げたその曲が25万枚の大ヒットとなる、「悲しくてやりきれない」であった。
作詞はサトウハチローだが、「イムジン河」の発売中止の口惜しさをそのまま表現した歌だった。
しかし、朝鮮分断の分断の深さを際立たせるかのように、その後も「イムジン河」は長く”封印”されることになる。
ところが、松山猛が「イムジン河」を初めて聴いた朝鮮学校に勤めていた在日2世のカン・イルスンであった。
自分と同じように 日本で生まれ祖国の風景を知らない若い世代にこの歌を伝え続けたいという思いからだった。
カン・イルスンの少年時代、在日朝鮮人の間で北朝鮮へ渡る いわゆる「帰国事業」が盛んに行われていた。
そして1987年 カンが教師を辞め京都で音楽家として活動していたところ、予想外の依頼が舞い込んできた。
当時、京都市は北朝鮮と文化的な交流があったため、その一環として ピョンヤンと沿いの町 ウォンサンで京都市交響楽団の演奏会を行うことになり、その引率をカンが任されたのだった。
南への望郷を歌った歌詞がある限り、それを普及させるのは立場上難しいことであった。そこでメロディーだけの”オーケストラ版”がつくられた。
このバージョンだったら絶対いける、ぜひ聴いてほしいと思った。
そんな北朝鮮で 「イムジン河」は受け入れられるのか、期待と不安が入り交じる中カンは北朝鮮に渡ったピョンヤンに入ったオーケストラ隊は、総勢105名を連れた大所帯だった。
8月3日 ピョンヤンでのコンサート本番。1800人の市民が駆けつけた。そして アンコール、人々の反応は薄く会場は静まり返ったままだった。
独裁体制のもと 人々を鼓舞するような力強い曲が好まれ、哀愁を誘う「イムジン河」が公に流れることはなかったという。
北朝鮮で知られていないことは分かっていたものの、カンは拍子抜けしたような心情だったという。
ところがその3日後、日本海側の港町ウォンサンでの演奏会でカンは驚くべき光景を目にする。
ピョンヤンと同じように「イムジン河」を演奏するや、はじめのメロディーのフレーズが流れた時に涙を流している人がいっぱい いた。 「地上の楽園」といわれた北朝鮮に帰国事業で渡った彼らの多くが船が発着するウォンサンに住んでいたのだ。
その中には日本から来たことを特別視され北朝鮮社会になじめない人や日本に戻りたいと願ってもかなわない人もいた。
「イムジン河」は、そんな人々の抱く心にも 響いたのだった。
2000年初めて 南北首脳会談が行われ、シドニーオリンピックでは韓国と北朝鮮が統一旗を掲げた。
翌年 キム・ヨンジャは北朝鮮で行われる音楽祭に韓国人の歌手として招待された。
実は、キムヨンジャもまた 「イムジン河」を自分の歌のように 大切にしていた。というのもキム・ヨンジャも親族に分断に苦しむ者がいて、統一を願ってライブを中心に「イムジン河」を歌うようになる。
2001年紅白歌合戦でキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌った。「イムジン河」がたどった運命を知るものには感無量のことであったであろう。

世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めたインパール作戦。慰問や戦意高揚のための「うたう部隊」と呼ばれた部隊が実際にあったのだ。
したがって、異様に歌がうまいことは自然なこと。
インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になった。
兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
映画では、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
水島はその道中、高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人であるビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれたほどだった。
そうした中、僧になりすました水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという目撃情報が寄せられる。
そして皆は、あのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、同じくイギリス起源の「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の「葛藤」を次のように綴っている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。 いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。 死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか? おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。

これらは民謡に近いものだが、実際に子供を寝かす「子守唄」には「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな」の、最も耳に馴染んだ「江戸の子守歌」などがある。
世界的に知られているのは、なんといっても「ねむれ ねむれ 母のむねに」で始まる、「シューベルトの子守唄」であろう。
その点で、作詞家・大石良蔵さんの体験談は興味深い。
赤穂浪士の討入りのようなイサマシイ名前に相応しく、波乱万丈の人生を送った人だ。
若い頃から放蕩三昧で、五人の愛人を世話するアソビ人だった。
そのヘビーローテーションがタタったのか、30歳を過ぎた頃から原因不明の痛みで歩けなくなった。
4年間の入院生活を送り、下肢麻痺で車椅子生活となった。その間に、経営していた建築会社も閉じた。
、 どん底の中、病院の窓から雲ばかりを見てすごした。
そんなある日、雑誌の歌詞募集を知り、体は歩けなくなったけど心は青空を飛ぶんだと、書いたのが「雲にのりたい」であった。
歌詞は、「雲にのりたい やわらかな雲に 希みが風のように 消えたから」で始まる。
1968年、黛じゅんの歌で大ヒットした。
終戦の混乱期、日本の子供達がアメリカに好意をもったのは、米兵が配ったガムやチョコレートの味が忘れられぬ程にうまかったというのが大きい。
もっともアメリカが送ったのは、日本人との戦闘に参加したことのない米兵、つまり日本人にいかなる”敵意”も持たない若き米兵(GI)だった。
1964年坂本九の大ヒット曲「幸せなら手をたたこう」の誕生は、そうした少年と米兵との出会いかはじまる。
焼野となった東京で、少年はたまたま米兵に出会い、二人だけのバスケットボールを楽しむ。
米兵は二人の思い出にと「バスケットシューズ」を少年にプレゼントした。少年がそのシューズを履くには大きすぎで、そのまま大事に保管していた。
その少年・木村利一は早稲田大学に進学し、アジア比較法を研究する大学院生となった。クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、現地の若者と共に街の復興のために働くことになった。
1954年、当時25歳の木村は、YMCAのキャンプに滞在したが、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!!」と厳しい言葉をなげかけた。
そして、木村は自分があまりにも無知のまま、この地に足を踏み入れたことに気がついた。
現地の人々の脳裏には、日本兵に村を焼かれ、家族や友人知人、あまたの人が虐殺された第二次世界大戦の傷が生々しく残っていた。
南太平洋に進出した日本軍は、現地のゲリラ活動を警戒するあまり、一部の兵隊が暴徒化したものだった。
木村はかえって、そう簡単には帰れないという思いにかられ、現地の青年たちとトイレ作りなどを行っていくうち、敵意でピリピリしていた現地の若者達とも打ち解け合うようになった。
そのうち、戦後初めて日本にやってきた日本人ボランティアということで、ラジオ出演の依頼があり、木村はラジオで日本が「平和憲法」の下、戦争を放棄したことを訴えた。
そして小学校にバスケットボール・コートを作る許可を得て一人黙々と草取りを始めた。そうした木村の働く姿を見て、現地の人たちも次第に心を開き、コート作りに協力していった。
実は、また木村は、幼き日にバスケットボールを教えてくれたバスケットシューズを持参してきていた。
木村には、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につくが、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
現地の人々が、木村への感情を「態度に示した」ことや、聖書で見つけた「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(旧約聖書・詩編47編)という言葉にインスピレーションを得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは”偶然”以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
そして坂本の楽屋を訪れた木村は、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを語り合い、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの”顔””としてメガヒット「上を向いて歩こう」などをとともに「幸せなら手をたたこう」を披露した。
ところで、木村利人の「利人」はドイツ語の「リヒト(光)」。人々の「光」となってとの願いを込めて父が命名したという。
後にスイスのジュネーブの大学教授で、 エキュメニカル研究所副所長になった木村によってヨーロッパにも、この歌は知られた。
木村は、命と人間の尊厳の究明へと研究の道を広げ、日本の「生命倫理」の草分けとしての大きな業績を残している。 木村は2013年、かつて奉仕活動を行ったフィリピンのダグパン市のロカオ小学校を訪問した。
木村は、かつて友情を温めたランディを探したが、彼の消息は不明であったものの、500人を超す児童が校庭に座り79歳の木村が立った。
「ここを離れて54年。いつか帰りたいとの思いが実現した。今日は人生で最良の日です」。
そして「この歌は戦争の苦しみから生まれました。私たちは武器で戦うのでなく平和をつくるため、未来に向けていっしょに働こうではありませんか」と締めくくった。そして全員が立ち上がった。
児童はフィリピン語、木村は日本語。二カ国語で歌う「幸せなら手をたたこう」が響き合った。

2001年紅白歌合戦でキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌った。「イムジン河」がたどった運命を知るものには感無量のことであったであろう。
北朝鮮と韓国の軍事境界線をまたいで流れる実在の川を題材にとったこの歌は、南北に分断された人たちの悲しみを描いた。
ところが、レコード発売が予定の”前日”に中止に追い込まれた。
しかし この歌のもつ”魂”は消されることなく、何度も生き返った。
帰国しようにも困難な在日コリアン、北朝鮮に拉致された日本人など、ふるさとから引き離され人々の心にも届いていたのだ。
この歌は、北朝鮮の"国歌"を書いた朴世永が作詞し、高宗漢が作曲した歌であったが、 この歌を”発見”し日本語訳したのは、人気の「ザ・フォーク・クルセダーズ」の松山猛であった。
クルセーダーズは「十字軍」を意味し、”天国”も登場する「帰って来たヨッパライ」がミリオンヒットとなって一躍脚光をあびていた。
そのクルセイダーズが、満を持して発売する予定の「イムジン河」が、なぜ発売中止に追い込まれたのか。
鴨川のほとりに 在日コリアンの集落が出来たのは1950年代。祖国が南北に分断される一方日本では戦後復興が加速する。
立ち退きなどで行き場を失った人が集まって、不法占拠だとして水道や電話などの整備はされず周囲からはゼロ番地と呼ばれ蔑まれていた。
京都に育ってた松山は彼らと交流をもち、身近な存在でありながら分かち合えないミゾのあることも感じていた。
当時は朝鮮学校の子と日本の学校の生徒達が いがみ合っていて、けんか沙汰も絶え間なかった。
当時中学2年生だった松山はそのミゾを埋めようと、先生にサッカーで交流をしたらどうか、試合申し込んでくれないかとたのんだ。
すると先生が行くより、子供が行った方が向こうも柔らかい受け取り方するだろうという。
松山が恐る恐る訪ねると、学校側は快く試合の申し出を引き受けてくれた。
そして帰ろうとした時、聞こえてきた曲の旋律に、思わず松山の足が止まった。
さらに外に出ようと廊下を歩み始めると、今度はコーラスが聞こえてきた。
意味がわからなくても、その美しい旋律は頭に残り、松山はその後、朝鮮学校の生徒から手書きの譜面をもらった。
松山は早速 辞典を頼りに翻訳してみると、分断された半島で”北に暮らす人々”が 南の祖国を思い鳥のように自由に行き来したいと願う”望郷の歌”であることがわかった。
実際、松山の周りにも 祖国が分断されて帰る場所を失った人たちがいて、その思いがよく理解できた。
松山とフォークルのメンバーはこの歌をライブで歌おうと決めた。
ところが問題があった。もらった「イムジン河」の歌詞には1番しかなく ライブで歌うには短かすぎた。
そこで松山が歌詞を書き足すことにし分断の悲しみをすくい取るように詞にしたためた。
「イムジン河 水清く とうとうと流る」「水鳥自由に むらがり飛びかうよ」。
この分断の状況が いつかなくなり一つの大河になれば、みんなが自由に人が行き来でるようになればという思いをこめたのだった。
「イムジン河」はラジオでも数回流され、瞬く間に若者の注目を集めた。
日本社会は当時、保守と革新の政治闘争が続いており、学生運動が盛んだった時代、若者たちは政治や世界の情勢に髙い関心を抱いていた。
「帰ってきたヨッパライ」で疑った人気となったフォークルが歌うこの曲を、音楽業界が放っておくはずがなかった。
ところが松山は 京都の実家で発売予定の前日に 発売中止となったというニュースに耳を疑った。
北朝鮮を支持する朝鮮総連からレコード会社に、北朝鮮の原曲の作曲者の名前がないという抗議があった。
クルセイダースは、民謡として誰でも歌ってるというぐらいの認識だった。
ただ、原曲には2番も存在したことがこの時判明する。そこには 南の農地よりも北の方が豊かであるという政治的なメッセージが含まれていた。
朝鮮総連は松山の歌詞の修正も求めたこともあり、政治問題にまで発展しかねない事態となった。
そこへ突如、レコード会社が発売中止を発表、さらに放送に”自粛”ムードが広がった。
何かあれば また抗議されるかもしれないそんな”自粛”が行われたのである。
松山からすれば、盗作みたいな扱いをされたのは心外だった。誰も傷つけるうたでもなく、なぜ横合いからケチつけられるのかと、グリープの思いは皆同じだった。
すぐに自分たちの思いを込め代わりの歌を作った。メロディーは 加藤和彦がわずか3時間で書き上げたその曲が25万枚の大ヒットとなる、「悲しくてやりきれない」であった。
「イムジン河」の発売中止の口惜しさをそのまま表現した歌だった。
しかし、朝鮮分断の分断の深さを際立たせるかのように、その後も「イムジン河」は長く”封印”されることになる。

あったであろう。

先日亡くなった、なかにしれいの一家は満州で酒造業を営む家の子として生まれた。
日本の敗戦で満州から引き上げる一家の姿は小説「赤い月」でよく知ることができる。
終戦後は、母親の実家があった小樽で過ごすが、一攫千金を夢見る兄に導かれて「ニシン漁」に乗り出す。
そのニシン漁の風景を見事に歌詞に取り込んだのが、最高傑作といわれる「石狩挽歌」といわれる。
なかにしれいは、東京のシャンソン喫茶で学費を稼ぎながら、立教大学に通う。
シャンソンのフランス語を日本語に訳したりしていたところ、そこでひとりのシャンソン歌手に認められ、「作詞家」として仕事をうることになる。
「憧れた日本に帰ったが、日本に愛されなかった。その思いが恋の歌を書かせた」―。作詞家で作家のなかにし礼さんの旺盛な創作意欲を支えたのは、中国東北部(旧満州)から引き揚げてきた際の壮絶な体験と、引き揚げ者として受けた周囲からのいじめだった。 1938年に旧満州牡丹江(ぼたんこう)で生まれた。家は酒造業で成功、裕福に暮らしていたが、45年8月にソ連軍が満州に侵攻し、母と妹との3人で脱出した。
 逃げ込んだハルビン市は地獄絵図だった。「チフスや栄養失調で人が次々死に、土を掘って遺体を埋めた。父にも再会できたが冬に亡くなり、埋葬した」
これらの体験は黛ジュンさんが歌った「恋のハレルヤ」、弘田三枝子さんの「人形の家」として結実。自らの引き揚げを基にした小説「赤い月」やロシアの日本人残留孤児の物語「戦場のニーナ」も書かせた。
この番組で紹介されていた黛ジュンの「恋のハレルヤ」と弘田三枝子の「人形の家」は、なるほど日本と満州にあてはめて聞くと、納得が行く。
「恋のハレルヤ」   作詞:なかにし礼   作曲:鈴木邦彦 ハレルヤ 花が散っても ハレルヤ 風のせいじゃない ハレルヤ 沈む夕陽は ハレルヤ 止められない 愛されたくて 愛したんじゃない 燃える思いを あなたに ぶっつけた だけなの 帰らぬ あなたの夢が 今夜も 私を泣かす 愛されたくて 愛したんじゃない 燃える思いを あなたに ぶっつけた だけなの 夜空に 祈りをこめて あなたの 名前を呼ぶの
「人形の家」 顔もみたくない程 あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えたいまも ほこりにまみれた人形みたい 愛されて 捨てられて 忘れられた 部屋のかたすみ 私はあなたに 命をあずけた あれはかりそめの恋 心のたわむれだなんて なぜか思いたくない 胸がいたみすぎて ほこりにまみれた人形みたい 待ちわびて 待ちわびて 泣きぬれる 部屋のかたすみ 私はあなたに 命をあずけた 私はあなたに 命をあずけた
そして数多くのヒット曲を手掛けるが、実は男女の恋愛を歌った曲の多くが、戦争体験で引き裂かれた体験にもとづくものだったという。
例えば、弘田三枝子の「人形の家」、「などである」。それらは国家に見捨てられ置き去りにされた、なかにしれいの心情を恋愛に託したものであったという。
ただ戦争は、多くの人々の運命を切り裂いたのであるが、それだけに「歌」によって思わぬ出会いを描いたのが「ビルマの竪琴」である。
何か自分の心に通じるものとの出会いは格別なものにしたであろう。
ただ、個人的には、とてもいい映画であったが、一度きりでそれ以上見る気が起きなかった。理由は、兵士達の合唱がうますぎて、リアリティに欠けるとおもったからだ。
ところが、後にそれはとんでもない勘違いであることを知った。