聖書の言葉から(顔と顔を合わせて見る)

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカの福音書9章)。
また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイの福音書11章)ともある。
今日、何かと生きにくく、以上のイエスの言葉に慰めを見出す人も少なくないであろう。
しかし、「生きにくさ」という点では、当時のイスラエルの比ではなかった。貧しい者は神殿への献金などおさめられず、神殿で遊女となって生活するものさえいた。病になれば罪人とみなされ、特にらい病となれば隔離生活が待っている。
律法は人々に祝福を与えるどころか重みとなっていて、それに加えてローマによる圧政下に苦しんでいた。
当時の希望なき状況が、これまでの預言者達が予言してきた「メシア」への待望の思いが募っていた。
そんな時、自らを「救世主」名乗るイエスが人々に語った言葉は、生きにくさの極限にある人々の心をとらえた。
イスラエルが預言者の言葉から想像したよりもはるかに民衆に寄り添ったものであった。
最近、日本では「コンビニ人間」というタイトルの小説が話題となった。
生きにくさに悩んだ若い女性がコンビニの従業員となって、いわばマニュアルと同化することに居場所を見つけるという話である。
したがって「コンビニ」とは客にとってばかりはなく、その女性にとってもあてはまる。
当時のイスラエルの律法学者も、ある意味マニュアルと一体化した「コンビニ人間」であった。
律法の世界に安住し、律法を道具にして世の中を貪っていたともいえる。
そんな彼らにイエスが、律法学者より、らい病人、遊女のほうが先に神の国にはいると語ったのであるから、当時の価値観を体化したようなパリサイ人・律法学者の足場をひっくり返す危険なものであった。
さて、冒頭の言葉にあるとうり、イエスは早くも「三日目に復活することになっている」と語っている。
それは旧約聖書「イザヤ書53章」に預言されているものだが、イエスは、復活について「この神殿を3日目に建て直す」(マタイ3章)という譬えを使って予言しており、律法学者の目には「神を冒涜している」としか映らなかったのである。

聖書の中で、「イエスの復活」に匹敵するほどの奇跡といえば、「処女(おとめ)マリアが身ごもった」という出来事であろう。
いずれも「イザヤ7章/53章」に預言されているが、「神が人となって世に現われたこと」の意味は、旧約聖書の「出エジプト記35章」を下敷きにすると、際立ってくるように思える。
「出エジプト」後モーセに率いられたイスラエルの宿営が進む時にある特別な出来事が起きた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱を持って導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト記13章)。
神は、荒野をさすらうイスラエルを、前を進むだけではなく、時に後ろへまわり、追撃するエジプトの陣の間へ入り込んで守って、故郷カナーンの地に導く。
しかし或る時、神はモーセに次のように語る。
「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから」(出エジプト)。
神はイスラエルを目的地であるカナンの地まで導くが、自分は一緒にのぼってはいかないという。
神が語った理由は恐るべき内容だった。
彼らの「うなじのこわさ」(心の頑なさ)ゆえに、共にいけば断ち滅ぼしてしまうからというのである。
それが神の「聖さ」なのかはしらないが、「イエス降誕」とは、そのような神が、地上で人と共に生きるということなのだ。
それも支配階級でも律法学者でもなく、民衆(大工)の一人として。
翻ってみると、旧約聖書における神は、人間とは「隔てられた」存在であった。
それは幕屋(もしくは神殿)の構造に表れている。
それは「会見の幕屋」という一般の民衆が集まるところ、祭司のみが立ち入る「聖所」、大祭司のみが月に一度立ち入ることができる「至聖所」がある。
ちなみに、神殿の構造は「天の構造」を模したものであり、イエスは大祭司に譬えられている。
パウロが手紙の中で語っているように、第一の天、第二の天、第三の天の三層構造になっている。
実は、旧約の世界と新約の世界の大きな違いは、この「隔たり」なのだ。
同時にそれは、神の戒律を戴くイスラエルと、そうではない異邦人の「隔て」としても現われる。
さて旧約聖書は、イスラエルの神殿が「幕」で隔てられるように、人間と神との間には比喩的に「顔覆い」が掛けられているとしている。
この「顔覆い」は、モーセの「十戒」の出来事から生まれたものである。
モーセがシナイ山で神より「十戒」を頂き、下山したところモーセの顔があまりに神々しく光り輝いていたために、 民衆はそのモーセを直視できなかったために、モーセの顔に「顔覆い」が掛けられたとある(出エジプト34章)。
モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げたのである。
つまり、幕屋が多くの覆いによって、神の栄光と人との間に隔てを作ったのと同じように、モーセの顔にある神の栄光にも隔てを造らねばならなかったということである。
大ヒットした「進撃の巨人」は囲まれた世界を描いたが、古代イスラエルもまた精神的にも物理的にも幾重にもある囲いの中に生きていた。
さて、話を今日の時代に移すと、新型コロナウイルスに対する外国の強硬措置と日本との違いは、歴史の中に求められる。
都市へのロックダウンや違反者への制裁なども含む強力な措置をとった欧米に対して、日本はほぼ強制力を伴わない自粛に終始した。
西洋では外敵から、共同体として身を守るために、城壁の門を閉じて防御することが普通に行われていたことがあげられる。
それは命は何ものとも代えがたいものだからだ。
感染症とは、自分たちの生命や財産を脅かす悪であり、コロナ対策とは「悪」との戦争であった。
それは戦争であり、「コロナ対策」といった生易しいものではない。都市封鎖など政府による強力な私的制限を受け入れる素地があるのだ。
そして疫病に関して、聖書にはイスラエルの最も有名な祭り「過越し祭り」の由来がでてくる。それは疫病が過ぎ去ったことを記念する「祭り」であった。
飢饉でエジプトに寄留していたイスラエルをさらせよと、モーセがエジプト王に伝えるが、エジプトのファラオはそれを受け入れない。
そのために、神はエジプトに様々な災いを下すのだが、最後にはエジプトを疫病が襲い、エジプトの長男が命を失われる。
その際、神はイスラエルの民だけに、家の鴨居に羊の血を塗れば、疫病のは襲わないと約束する。
イスラエルの民がそのようにすると、イスラエルでは一人の命も失われることはなかった。
この疫病が「過ぎ越す」出来事と相似をなすように、聖書の中には、ひとりの女性の家を「戦禍」が過ぎ越す出来事がある。
その女性の名は、「イエス・キリストの系図」の中にある。
マタイによる福音書の冒頭にある系図の中に四人の女性が登場し、そして最後にイエスの母マリアの名がでてる。ユダヤの系図では、本来なら男性の名前のみ記される中に、女性が登場するのは極めて異例である。
イエスの系図に四人の異邦人が現れることは、イスラエルという狭い民族的な枠を超えて、異邦人もまたイエスの救いの対象であり、後にイエスの福音がすべての人に伝えられていくことを予め示しているかのようだ。
その4人とはタマル・ラハブ・ルツ・バテシヴァで、この中で「戦禍」が過ぎ越した女性というのはラハブである。
出エジプト後、モーセの後継者ヨシュアはエリコの町を偵察させるために二人のスパイをして「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。
二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ」。
女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。
「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。5日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません」。
彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。
城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
ラハブは屋上に上って来て二人に次のように言った。
「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。
そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。
二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう」。
ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる」。
ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、「真っ赤なひも」を窓に結び付けた。
この赤い糸で、戦禍を避けるという徴は、出エジプトの際にイスラエルは鴨居に羊をぬって疫病を「過ぎ越す」出来事と符合し、それは新約におけるイエスの贖罪を暗示し、予言するものとなっている。

聖書は、人間にとって最も尊いものが「信仰」であるということを告げている。
しかもその信仰とは、「神と共に歩む信仰」というものである。
そのことが最もよくわかるのが「へブル人への手紙11章で」、筆者であるパウロは我々はこのような「雲のように証人に囲まれている」のだから、信仰の道を突き進もうとへブル人を励ましている。
「神と共に歩む」ことに関して印象的な場面がある。
イエスが十字架の死後、弟子達は失望してエマオという村に向かう途中、復活したイエスが弟子達が気づかぬまま、共に歩いていたという場面がある。
実は「エマオに向かう道」というのはシンボリックで、エマオとは最も古い市場(いちば)がありイエスを失った弟子達は、イエスの「復活」の約束を信じられないまま、再び「この世」に向かい始めたのである。
彼らが、語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
イエスが彼らに何を語り合っていると聞くと、彼らは悲しそうな顔をして「あなたはエルサレムに泊まっていながら、この都でこのごろ起ったことを知らないのか」と聞く。
結構ユーモアのある場面だが、イエスは「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ」と、聖書の預言から「復活」を説き明かしている。
後に弟子たちは、目が開かれイエスと気づくが、気がついた時にはイエスは見えなくなってしまう。
後に彼らは、「イエスが語られていた時、こころが燃えたでないか」と振り返っている(ルカ24章)。
作家の遠藤周作は、十字架で亡くなった弟子達がエマオの町に行く時に、復活したイエスが共に歩んでいる場面にインスピレーションを得て「同伴者イエス」をコンセプトに「イエスの生涯」を書いている。
さて、イエスの十字架で刑死された正にその時、神殿の「至聖所」の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとある(マタイ27章)。
この出来事の意味は奥深いもので、いままでは大祭司しか入れなかった「至聖所」に誰もが入ることができるようになった。
つまり、イエスの十字架の贖罪によって、神と人間を「隔てるもの」がなくなったということなのだ。
パウロは、次のように語っている。
「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(コリント人への第二の手紙3章)。
そして、「私たちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(同13章)と。

聖書は、信者が「顔と顔をあい見る」ように神を知ることが出来る日が来ることを預言している。
憚ることなく、神の見座にちかづこうではないか、とある。 またイエスは「あなた方は知るべきことさえも知らない」と教えつつ、世の初めから「隠されている」ことをあなた方にしらせよう」(マタイ13章)と語っている。
ところで新約聖書の最後にある「ヨハネ黙示録」とは、英語で「Revelation」であるが、その動詞その”reveal”は「ベールをはがす」という意味である。
地中海にパトモス島という島があるが、使徒ヨハネはローマ皇帝によって流されたが、そこで「この世の終わり」について黙示をうけ、書き記したものが「ヨハネ黙示録」というものである。
モーセの顔多いが取られた時と等しく、「面」と面を突き合わせて語れると気が来たということである。