聖書の言葉から(不正の富を使っても)

新約聖書のイエスが語った「たとえ」話のなかで、信者からも敬遠されがちな「たとえ話」がある。
「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦100石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、80石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」(ルカによる福音書10章)。

最初に、その時代に対して賢い「この世の子ら」の話から始めたい。
アルフレッド・ノーベルは、1833年、スウェーデンの首都ストックホルム生まれ。
父のイマヌエルは発明家だったが、生まれた時には破産していて、ノーベルが生まれたころは一家は貧乏暮らしだった。
しかし、イマヌエルが発明した「機雷」がロシア軍に採用され、一家はロシアのサンクトペテルブルクに移住し、一家は一転して裕福な暮らしとなった。
ノーベルは家庭教師から英才教育を受け、若いころは文学に熱中し、本気で文学者の道に進むことも考えていたほどだった。
1853年、クリミア戦争が始まり、イマヌエルの工場は急拡大した。
しかし1856年、クリミア戦争が終わると、兵器の需要は激減し、イマヌエルの工場は潰れてしまった。ノーベルたちはストックホルムに戻り、一からやり直すことにした。
ノーベルはたまたまある化学者から、発明されたばかりの薬品ニトログリセリンの破壊力を聞き、これを爆薬として開発しようとした。
なにしろ、ニトログリセリンは爆発性の液体で、その爆発力は黒色火薬の5倍にもなった。
しかし、そのままでは使えなかった。
ニトログリセリンは、強い爆発力が有ったものの、液体のためショックですぐに爆発するという危険性があり極めて扱いにくかった。
加えて、逆に爆発させたい時には爆発しない、という不安定さもあった。
1862年、ノーベルは父や兄弟たちと一緒に、スウェーデンに、当時話題になっていたニトログリセリンの小さい工場をつくった。
ところが彼の小さい工場でも、大変な爆発事故が起こり、工場が破壊されたのはもちろん、5人の労働者が死亡した。
そのなかには彼の末の弟もいた。父親もこの事故にショックを受け、まもなく世を去ってしまう。
彼は残った兄弟たちと協力して、この爆薬を安全なものにしようと研究に打ち込んだ。
ノーベルは研究の結果、ニトログリセリンは、180度以上に加熱するか、急激に圧力をかけると、確実に爆発することを突き止めた。
そこでニトログリセリンの側に容器に入れた火薬をおき、火薬を導火線で爆発させることでニトログリセリンに圧力をかけ確実に爆発させる、という仕組みを考えた。
この起爆装置を「雷管」といい、この仕組みは以後世界中で使われるようになった。
しかし、確実に爆発させることは出来るようになったが、意図しない爆発が起きてしまう、という問題は未解決のままだった。
ノーベルは、ニトログリセリンが危険なのはショックが伝わりやすい液体だからと考え、ならば固形化すれば良いと思いつき、何かの物質にしみこませて固形にすることを試し始めた。
炭やレンガでは爆発しないし、おがくずでは風が吹いただけで爆発する。
試行錯誤の末、湖近くでたまたま珪藻土(けいそうど)(植物性プランクトン珪藻の化石)が油を吸っているところを見出した。
これで試してみると、なんと三倍のニトログリセリンを吸収したうえ、爆発力はニトログリセリンと遜色なかった。
紙、パルプ、おがくず、木炭、石炭、レンガの粉などさまざまな材料を試してもうまくいかなかったが、1866年にケイソウ土(単細胞藻類であるケイソウの遺骸からなる堆積物)にと安定性が増し、扱いやすくなることを発見した。
また、ノーベルは爆薬または火薬を爆発させるために、起爆薬その他を管体に詰めた「雷管」を使うことで、爆発力を維持することもできた。
1年後、彼はギリシャ語で「力」を意味する「dunamis」から、発明品を「ダイナマイト /dynamite」と名付け、1867年に特許を取得した。
ダイナマイトは、アルプス山脈を貫くトンネルなど、それまで不可能と思われていた土木工事に大いに活用された。
1870年にプロイセンとフランスの戦争「普仏戦争」が勃発した。ドイツ諸国家の一部に過ぎず弱小国と思われていたプロイセンは、ダイナマイトを橋の破壊などに活用することで、大国フランスに勝利した。これはダイナマイトが兵器として活用された初の戦争となった。
ただ当初、煙が残り相手に発射場所が確認できやすく、視界が遮られるので軍事目的には相応しくなかった。
そこでノーベルは、1876年、新兵器「無煙火薬」の開発に着手した。当時の黒色火薬は爆発させると大量に煙が出るうえにすすが付くため、軍からは煙もすすも出ない無煙火薬が熱望されており、開発競争となっていた。
フランスに拠点を構えたノーベルは、フランス軍のために開発に取り組み、1844年、ニトロセルロース・ニトログリセリン・樟脳を混ぜて作る無煙火薬「バリスタイト」を完成させた。
この功績で、ノーベルはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。ノーベルの人生の絶頂期であった。
こうしてノーベルは、「無煙火薬バリスタイト」を開発して、純粋な「軍用火薬」として世界各国に売り込み、いつしか「死の商人」とよばれるようになった。
世界各地に約15の爆薬工場を経営し、ロシアにおいては「バクー油田」を開発して、巨万の富を築いた。
しかし、ノーベルの人生には"翳り"が見え始める。
1888年、ノーベルと仲の良かった兄が死亡した。
新聞社はそれをノーベル本人の死と取り違え、掲載した死亡記事では、お悔やみを述べる代わりに「人類に貢献したとは言い難い男が死んだ」と書いていた。
また翌年には、ノーベルの母親が死亡した。
また、フランス軍は、ライバル会社の無煙火薬を採用し、バリスタイトは生産中止に追い込まれてしまう。
ノーベルは1890年にイタリア軍にバリスタイトを売る契約を結ぶが、フランスの新聞からはフランスで研究した火薬を他国に売った裏切り者と非難された。
ノーベルはフランスを出てイタリアに移り住む羽目になった。そして、この頃から持病の心臓病も悪化していった。

聖書には「不正行った利口な家令」とは反対の「悪い僕(しもべ)」の譬え話がある。
「天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるなければ許されないだろう」(ルカ19章)。
このたとえ話の僕とは違い、冒頭の「利口な家令」は、弱い者から搾り取って自ら助かろうなんて考えなかった。
もはや主人からの信望を得ることはできないなら、いっそ、他の負債者の負担を軽くしておいて「友達」になろうと考えた。
それは、主人の財産を奪うという「不正」を行うことになるのだが、負債者たちに恩を売っておけばいい仕事に雇ってくれる、あわよくば「すまい」さえ与えてくれるかもしれないと考えたのだ。
しかも、そうした家令の生き方を、懐の深い主人は、「不正な富を用いてでも、友をつくったほうがよい」と褒めたのである。
さて、持病が悪化したノーベルは、病室にあってベルタ・フォン・ズットナーの書いた「武器を捨てよ!」という本に出会う。実はズットナーはノーベルの知人で、かつてはノーベルの秘書を勤めたこともあった。
1892年、ノーベルはズットナー主催の平和会議に出席した。しかし、ズットナーが平和のためには各国は武器を捨てるべきと主張したのに対し、ノーベルは各国が究極の兵器を持つことで互いに「恐怖」のため戦争をしなくなって平和が訪れると主張し、二人の考えはすれ違った。
ノーベルは自分の主張を推し進めるように、1894年にはスウェーデンの兵器工場を手に入れ、大砲の生産を開始した。
この時、爆発事故で家族が亡くなったことの他にショックだったことは、前述のように彼が死亡したと誤認され、死亡記事に「人類に貢献したとは言い難い男の死」と伝えられたことだった。
ところで、聖書のたとえ話に、「タラントのたとえ話」がよく知られている。タラントはユダヤ社会で金銭の単位だが、「タレント(才能)」の語源となっているからだ。
ノーベルが信心深いとは思えぬが、自分の事業が果たして人類に貢献したのか、「タラント」の使い途として正しかったか。神様の目から見て、爆発事故で家族を失ったことや爆弾による戦死者のことを考えれば、タラントを無駄に散財しているのではないか。
そんなようなことを考えたのかもしれない。
ノーベルは遺書で、自分の遺産を安全確実な有価証券に変え、その年利を前年に人類に貢献した人物に与えるように指示していた。
授与する分野は「物理学」「化学」「生理学および医学」「文学」「平和」だった。
一方、なぜ彼が興味をもった「数学」をいれなかったのか。それは極めて人間くさい理由からだった。
実は、ノーベルが同じスウェーデン人のミッタク・レフラーという数学者と大層仲が悪く、「万が一にもアイツに賞をやることになるのはゴメンだ」と考え、数学を対象から外したのだとされる。
1896年12月10日、ノーベルは脳出血で63歳にして亡くなった。生涯未婚で使用人一人に看取られただけの寂しい最期だった。
しかしその死後に、たくさんの友を得たばかりか、「永遠のすまい」を与えられたかのように、その名が人類に刻まれた。
ノーベルは、総資産の94パーセント、現在の日本円で250億円を遺していた。そればかりかこの遺産を研究者に与えるとして、その構想はスウェーデンたけでなく国外でも大反響を呼び「ノーベル賞」と名付けられ、1901年からノーベルの命日12月10日に授賞式が行われることになった。
彼の死後、ノーベル財団(本部・ストックホルム)が設立され、1910年からノーベル賞の授与が始まった。最初は五部門でスタートしたが、1969年に「経済学」が新設され6部門になった。
多くの研究者が、ノーベルが残した”富”によって大きな夢を抱いたし、研究の過程で生じた負債を返したりすることもできたに違いない。
多くはノーベルが若いころに興味を持って学んだものだったが、なぜ「平和」を入れたのかは奇妙である。
ノーベルの遺言書では「平和賞」の趣旨を「国家間の友好、軍隊の廃止または削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物」としている。
彼の秘書としてかつて働いていたズットナーが、戦争反対をテーマにした小説「武器を捨てよ!」(1889年)が、当時欧米で話題になっていた。
その小説にノーベルの心が代わり、「平和賞」を思い立ったからではないのか。
実際、「ノーベル平和賞」の受賞者をみれば、かつての新聞記事の「彼が人類に貢献したとは言い難い」という評価を打ち消すのに十分である。
ちなみに、女性としてはじめて「ノーベル平和賞」を受けたのは、1905年あのズットナー(第5回)である。彼女は作家として、戦乱相次ぐ欧州で生涯を平和運動に捧げたことが評価されたのだ。
また、ノーベル平和賞受賞者(第8回)のアンリ・デュナンも、ノーベルとは違った意味で、数奇な人生を歩んだ人物である。
スイス人のデュナンは、「赤十字」創設に没頭のあまり本業である製粉会社の経営に失敗し、1867年、39歳の時、破産宣告を受けた。
以後放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまった。
1895年、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院でデュナンを見つけたと報道した。
デュナンはこの時すでに70歳にもなっていたのだが、1901年に赤十字誕生の功績が認められ、「ノーベル平和賞」をおくられた。
その後デュナンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月、ハイデンの養老院で82年の生涯を閉じたのである。
ソルフェノールの戦いで、敵味方に関係なく負傷兵を救ったことがモノをいったのだ。
「デュナン発見」は、本人はいうにおよばす世界にとっても幸運なことであったといえる。
さて、イエスは弟子達(光の子ら)に、「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(マタイ福音書10章)と語っている。
たとえ話の「この世の子らは、その時代に対しては、光の子らよりもよほど利口である」を反映している。
聖書では、「負債」はしばしば人間が生まれながらにもつ「罪」の譬え、「永遠の住まい」とは「神の国に入る」ことを意味する。
新約聖書には「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」(コロサイ人への手紙2章)とある。
また「永遠のすまい」についてイエスは、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14章)と語っている。

アシンシュタインは、「ノーベル賞をとったすべての科学者が、ノーベルと同じ問題に直面する」とかたっている。
冒頭のたとえは、「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口であるこれはあくまで世の人の知恵を語っている」とある。 キリストは神の子に「ハトのように柔和で、ヘビのように賢くあれ」とある。
ノーベルは、「死の商人」として不正の富で財産を築いたが、その遺産を世界平和や人類進歩の為にささげ、死後「多くの友」をえたことになる。
そうして得た友がたとえにあるとうり、彼を「永遠の住まい」に導くとあるのは興味深いところだ。
聖書で「永遠のすまい」は、神の国を意味している。
家令がしたのは減じたこと、家令の権限でそれをやった。