約束の丘と實相寺

ジョンレノンの妻オノヨーコのルーツは、美しい水郷の町として知られる 柳川である。
柳川の川下りの中での「案内」で、旧小野家の門あたりに差しかかると、必ずといっていいほど語られる。
最近のNHK「ファミリーストーリー」で、シンガーソングイター福山雅治のルーツもまた柳川であることを知った。
今も柳川には 福山家の本家があり、かつて自動車の販売 整備をする「福山モータース」を営んでいた。
遡って、雅治の曽祖父にあたるのが福山茂市は 幕末の安政4年(1857年)生まれ、明治の初め「仏壇職人」になっている。
そんな茂市の三男として1897年に生まれたのが敬一で雅治の祖父にあたる。
大正時代、海軍にいた敬一は「通信員」として朝鮮半島南部の町「鎮海」に任じられた。
「鎮海(ちんかい)」は 日露戦争をきっかけに軍港として開け多くの日本人が 移り住んでいた。
敬一がこの地で出会った女性が石田久(ひさ)、雅治の父方の祖母にあたる。
久の父・角治郎は もともと滋賀県石部の材木商の息子で、結婚後、妻の実家のある山口に移り住んで、商売をしていた。
久は地元の山口高等女学校で学ぶが、意外な人物とも知り合いであった。
久の2歳下の弟憲太郎と同級生であったのが、中原中也である。
福山は 、「汚れっちまった悲しみに」は、うロックミュージックと通じるものがあると思っていただけに、そんな接点があったとは、と喜んだ。
久は 女学校を卒業後、父・角治郎の仕事の関係で朝鮮半島に渡る。
角治郎が「土木建築請負業」商売に成功し 建築業を始め、その後 石田家は仕事の拠点を鎮海に移す。
海軍にいた福山敬一が赴任していた町で、福山の祖父・敬一は近所で評判の美人の久と出会う。
敬一はそこで、結婚を申し込み日本に戻り、1924(大正13年)年 福岡・柳川で結婚する。
昭和の初め、敬一の姉ツタが長崎で暮らしていたののが縁で、敬一と久は 長崎へ移り住んだ。
その敬一と久夫妻の間に生まれた次男が、雅治の父となる「明」であった。
明は、名前のとおり 明るい性格で、弟や妹の世話も よく見ていたという。
1941年 明が9歳の時太平洋戦争が勃発し、1945年になると 長崎もたびたび空襲を受けるようになる。
そのため 住宅密集地では火災の延焼を防ぐため「建物疎開」が行われ、福山家も自宅を取り壊され引っ越しを余儀なくされる。
新たな住まいは 元の場所から1キロほど離れた稲佐山の麓で、眼下に三菱重工の造船所を見下ろす斜面にあった。
そして運命の日がやってくる。8月9日、長崎は原爆の悲劇に見舞われる。
祖母の久が80歳の時、小学生だった孫の課題のために原爆投下の時の様子を語っていた。
当日、午前10時半ごろ久は 12歳の明を連れ自宅から歩いて5分ほどの米の配給所へ向かう。
久は明を少し離れた木陰で待たせ配給を待っていたところ、11時2分に原爆がさく裂。
久と明がいたのは 爆心地からはおよそ3キロの位置であった。
久はとっさに 近くの溝の中に伏せほとんどケガはなかったが、明の姿が見えない。
明が先に自宅に向かったかもしれないと急いで戻り、家族は幸い無事であったものの、明はいなかった。
数時間後、ボロボロの服を着て明が戻ってきたので、家族一同ほっとした。
その時の状況を明本人が記したものが市役所に保存されている。
11時を過ぎた頃 爆音がしたので空を見上げた時、ピカっとしてすぐ大きな音がしたので段のそばで身を伏せ、慌てて防空壕へ逃げ込んだ。
原爆が投下されてから数時間、明はそこに身を潜めていた。
福山家全員が助かったのは、前述の建物疎開が大きく関係していた。
原爆の爆風が直接的に来ることを稲佐山防ぎ、その威力が少し減じられたからだ。
ミュージシャン福山雅治は、節目の年にはふるさとで大規模なライブを開催してきた。
その会場は 福山自らの歌で「約束の丘」と呼んだ「稲佐山」である。
長崎の原爆投下から6日後に終戦をむかえる。
食糧難の中、福山家は7人の子供を抱えており、その苦労は並大抵のものではなかった。
明は中学を卒業すると工場勤めをした後、20代半に父敬一が営んでいた不動産業の手伝いを始める。
店の名は 「まるふく不動産」、1958年には宅地建物取引員の免許も取得している。
さて、ここからが、雅治の母方の実家の物語である。
福岡県の大川市で商店を営む高田家の娘・貞子は、遠縁にあたるみかん農家の長男・山口力麿との縁談がもちあがった。
商家の娘に農家が務まるかという不安もあったが、結婚を決意する。
山口家は大村湾を望む長崎県大草村にあり、ここで古くからの「みかん農家」であった。
1945年待望の第一子が誕生するが、それが後に雅治の母となる「勝子」である。
2人にはその後4人の子供が生まれ、力麿はカメラ好きで 家族や友人の写真を数多く撮っていた。
しかし1957年 力麿は若い頃から患っていた腎臓が悪化し、40歳という若さで 帰らぬ人となった。この時、長女の勝子は12歳、末の子は まだ2歳であったが、悲しみに暮れている暇はなかった。
貞子は農家を続け女手一つで 子供たちを育てなければならず、そんな母の苦労を見て育った勝子は、手に職をつけようと長崎の洋裁専門学校に通い始める。
当時、稲佐山の麓に叔母が営む「駄菓子屋」があり、勝子は学校帰りに 叔母のもとをよく訪ねた。
その店によく出入りしていたのが近所で不動産屋を営む「福山明」である。
1965年33歳になった明は近所にあった「なじみの駄菓子屋」で1人の女性と出会う。福山家は「一目ぼれ」の家系であるようだ。
勝子も明るい明の人柄にひかれ1967年結婚、その2年後に明と勝子の間に次男が生まれ、「雅治」と名付けた。
雅治は中学3年になると 兄と結成したバンド活動に夢中になり、明もうれしそうに見守っていたという。
明は、不動産の仕事の合間にマージャンをして、マージャンの全国大会で準優勝したこともあった、
マージャンに出かける時は、社長はいないといってくれといって出かけたという。
ただ、不動産の仕事ではお客にフレンドリーで感謝されていた。
雅治とバンドを組んだ兄は、小学校の作文で「仕事と遊びのけじめがいい父」と書いている。
しかし52歳の時、体調を崩し肺がんであると判明。10か月の闘病の末に生涯を閉じた。
当時 勝子はオーダーメードの服を作る仕事をしていた。雅治は17歳でギーターに熱中、音楽漬けの日々を送っていた。
当時、福山はバスで学校に通っていたが、近くの女子高生のファンクラブができて「バス停の君」とよばれていた。
高校卒業後、雅治は電気会社に就職するものの僅か5か月で退職し、プロのミュージシャンを目指し上京を決意する。
親戚の中には上京を止めた人もいたが、母方の祖母貞子は雅治の背中を押した。
ただ、家族には「古着屋」で働くといって長崎をでた。
そして東京の横田基地のある福生で生活を始める。その時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていた。
福山はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えている。
上京して半年後オーディションを受け、見事合格。1990年 ミュージシャンとしてデビューする。
デビューを飾った「PEACE IN THE PARK」。
その歌詞には長崎への思いが込められていた。
そしてデビューから3年後の平成5年。5枚目のアルバム 「Calling」で初の1位を獲得する。
更に出演したドラマ「ひとつ屋根の下」が大ヒットし、一気に スターダムを駆け上がり、この年の大みそか「NHK紅白歌合戦」に初出場している。
そしてデビューから10年、ふるさと長崎の稲佐山で念のライブを行うことができた。

福岡県小郡は、爆笑問題の田中裕二のルーツだという。そればかりか、小郡は田中家が開拓した町といっても過言ではない。
小郡市の一角に その屋敷はあった。屋号は 小郡の田中を縮めて「小田屋」。
家系図によると田中宗家は6代目長男利左衛門正利の筋だが、三男の筋に裕二の田中家があった。
田中家のルーツは戦国時代、初代・田中播磨正晴の身分が武士であったことが判っている。
正晴は 現在の佐賀と長崎を治めた戦国武将・龍造寺家の家臣だったと伝えられている。
16世紀半ば九州は、龍造寺・大友・島津の三つどもえの勢力争いが繰り広げられていた。
しかし1584年、隆信が島津との戦いで死去。
龍造寺家に仕えていた田中正晴は「牢人」となり、小郡にたどりついた。
当時の小郡はどの勢力にとっても魅力のない不毛な湿地帯であったが、主を失った正晴にとって生き延びるには、かえって好都合であった。
以来 この地で細々と農耕に従事し、そして 江戸時代になり6代目・利左衛門正利を中心に田中一族が奮起する。
正利は悪条件での農耕をやめ馬を使って荷物を運搬する仕事を始める。
更に 各地の特産品を仕入れて 商いも始め、結果 田中家は 財を蓄えることができた。
その後、正利は周辺の湿地の土地改良を進め耕作地を広げていく。
さらに酒造りも始めるが、1657年予期せぬ事件が勃発する。
キリスト信徒たちが中心の農民による「天草の乱」で、幕府は九州の各藩と共に鎮圧に乗り出す。
小郡が属した久留米藩も鎮圧に参加し、藩の負担は大きく、年貢の取り立ては厳しくなる。
その結果、夜逃げや夜盗が蔓延するようになる。
そこで、田中正利は 地元の有力者・池内家とともに小郡の「町づくり」に乗り出す。
1653年村の中心に「實相寺」を建立し、自身も出家した。現在も本堂の脇に正利の墓がある。
400年前、田中裕二の祖先である田中一族は小郡の町自体を築いていたのである。
小郡中心部にある指定文化財になっている大きな屋敷「平田家」は、田中家分家の一つである。
裕二の8代前にいたのが田中七五郎。その兄である市郎左衛門で、その息子・高信が平田家に養子に入る。
江戸から明治にかけ 平田家は「櫨蝋作り」で大成功を収めていた。
1780年代 小郡ではろうそくやびんつけ油の原料となる「櫨の木」の品種改良に成功。ろうそくは 大坂の市場で飛ぶように売れ、小郡には作業場が建ち並び職人の数も増加する。
平田家を含めた田中一族が櫨蝋作りをけん引し、集まった金を 「小郡銀」と呼ぶほどの繁栄した。
しかし明治に入ると、中国やヨーロッパから外国産の安いろうそくが入ってきて危機をむかえるが、平田家4代当主の伍三郎高徳の才覚で切り抜ける。
1874年平田家と田中家はそれまでの資金を元手に「貯金組合」を発足させ、1893年には「伍盟銀行」を設立する。
そして1832年に銀行を閉じるまで小郡の経済を支えた。
裕二の曽祖父に当たるのが田中七五良で、酒の醸造や櫨蝋を造るかたわら村会議員を長らく務めたあと「伍盟銀行」の幹部となる。
七五良の次男が裕二の祖父にあたる久二次で、 師範学校を卒業後、小郡小学校など周辺の学校で理科の教師をしていた。
久二次の長男が正直(まさなお)で、裕二の父となる人物である。
正直は理科の教師だった父の影響もあり、地球環境やテクノロジーといったことに興味津々であった。
1944年 久留米工業専門学校精密機械科に進学し、叔父が東京で始めた精密部品の工場に就職することになった。
それが中野区の「鷺宮製作所」で、今や 従業員2900人を抱える自動制御装置のトップ企業である。
そこで正直は、「ベローズ」の研究に心血を注いぐ。
「ベローズ」とは 特殊合金で作られた蛇腹状の金属管のことで、温度などの変化によって伸縮する特性があり、様々な装置にベローズを組み込むと自動でスイッチをオンオフとし、温度や湿度を一定に保つことが可能になる。
正直は仕事一筋で、酒も たばこも 何にもやらず、囲碁だけが唯一 趣味。
そんな正直に縁談話が持ち上がった。
旧姓・原宣子が育ったのは八女市の中心部かつての福島町。江戸時代 庄屋だったといわれる「原家」。
明治になると宣子の祖父・富哉は警察官となり、その後八女の警察署長まで務めた。
警察官だった富哉の長男であり、後に裕二の祖父となる農夫雄(のぶお)は歯科医となっている。
そんな原家で、1930年長女として生まれたのが宣子で、田中裕二の母である。
宣子は、活発な女の子で、町の祭りでは進んで踊りを披露、 趣味は 洋服作りで、女学校卒業後は八女の服飾専門学校へ通った。
そして八女の服飾専門学校の講師となった頃、縁談話があった。
話を持ってきたのは宣子の伯母で、住まいが小郡の田中家の近くであった。
相手は東京でエンジニアをしている田中正直。
宣子は正直の実直さに惹かれ、1954年2人は結婚し、鷺宮に新居を構えて、翌年長男が生まれた。
1961年には 長女・里美も誕生。その4年後に田中裕二が生まれる。
父・正直はエンジニアとして特許と実用新案を31件出願し、発電所の配管やダムの開閉などのインフラにもベローズが応用され、仕事の幅を広げていた。
一方 母・宣子の子育てにはこだわりがあり、長男の啓一はプロのファッションデザイナーとなり、長女の里美もファッションとジュエリーのデザイナーとして活躍する。
1980年 田中裕二は地元の都立井草高等学校へ入学し放送部に所属していて、一浪の末昭和59年に日本大学芸術学部演劇学科へ入学。
そして「あの男」と運命の出会いを果たす。
太田光は、田中裕二の同級生で演劇学科の中でも特に裕二とウマが合ったという。
ところが1年後 裕二は突如大学を中退。この時 裕二20歳。大学も辞めお笑いも続かず、コンビニでアルバイトをしながら漠然と過ごす日々が続いた。
当時 鷺宮製作所の常勤監査役だった父・正直は、そんな息子を静観していた。
一方、母の宣子は体調が思わしくなく、56歳の若さで急死した。
悲しみととともに、裕二は中途半端な自分で終わるのかと自問する日々。
1988年、裕二は大学時代の友人・太田光と新たなコンビ「爆笑問題」を結成する。
1933年、2人が挑んだのはお笑いの登竜門「NHK新人演芸会」であった。そこで大賞を授賞した「爆笑問題」は その後大ブレイクしていく。
「爆笑問題」が結成されたのは宣子が亡くなった翌年であった。
父・正直は、2017年に90歳で亡くなるまで、妻の分まで裕二を応援し続けた。