T・カポーティー原作で映画化された「ティファニーで朝食を」ではオ-ドリー・ヘップバーンが自由奔放な女性ホリ-・ブライトリ-を演じた。
彼女がティファニーのショーウィンドウを覗きこむシーンで映画は始まるが、このホリーの部屋の上にうウニヨシなる日本人が住んでいて、出っ歯とめがねでステレオタイプ化された当時の「日本人像」というものを見せつけられのには、かなり閉口させられる。
とはいえ、ティファニー社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の伝統美」との出会いであった。
ティファニーの祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカ・ボストン近くに居を定めるが、ニューヨークで現在のティファニー社の基礎を作ったのはチャールズで、1837年に同郷で義兄のヤングとともに「雑貨店」を開いたのが発端である。
店の売り上げを伸ばそうと、品物を入れ変えたり並び替えたりしたりしていたところ、ある日「ボストン港」に入港する船から降おろされた「日本製」の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われた。
そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。これが、ティファニーと日本との関わりの始まりとなった。
ところで、ティファニーといえば宝石であるが、この宝石は「革命」のドサクサの中で多く入手したものである。
フランスで2月革命がおこり、ヨーロッパに革命が広がりはじめると、ヨーロッパの王族・貴族は「国外脱出」のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわした。
その過程で「門外不出」とされたような貴重品が次々とティファニーのものになったのである。
そのチャ-ルズの息子のルイスは、画才があり評価を得たのであるが、生来同じ処にいられない性格で、室内装飾の色ガラス製作を試みる中で「ガラス工芸」に魅せられる。
そのうちジャーナリズムにとりあげられ、世間の注目をあびるようになる。
しかし、ルイスのガラス器は「生活雑貨」にすぎず「芸術」とは認められないと評されるや、熱がさめたように売れなくなってしまった。
この行き詰まりの中、ラファージという日本を旅したアメリカ人画家が、ルイスの「ガラス工芸」の復活に協力したのである。
このラファージとの協力により、ルイスはガラス工芸の中でも、乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程を「確立」していった。
そして驚くのは、ラファージの妻の名前は「マ-ガレット・ペリー」。黒船来航のペリー提督の弟の孫という関係にあたる。
ラファージは、妻の実家で偶然にも「広重の浮世絵」を見て、すっかり日本画に魅せられ、日本を旅することを決意したのである。
ラファージはボストンで岡倉天心らを交流し、日本の美への理解を深めていったのである。
しかしルイスとラファージの蜜月はそう長くは続かず、製法特許をめぐって裁判沙汰になってしまう。
その後の展開は、ルイズとラファージとの「熾烈な競争」の中から、「ティファニー・グラス」というブランドが確立したといっても過言ではない。
ラファージは「日本美術」を範としてステンドグラスの第一人者として第4回1889年パリ万博でも勲章を得る一方、ルイスの方は、ガラス製品を大量生産し全米に流通させた。
ちなみに、この前回の第三回パリ万博で徳川の随行していたのが渋沢栄一である。
ルイスは、新しい技術者やデザイナーを招いて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほどの「大量生産」で応えていったのである。
というわけで「ティファニー製品」には、「江戸のコスモポタリズム」が凝縮されているのである。
先日、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスが「宇宙旅行」から帰還し、「宇宙時代」の幕開けを告げたが、このニュースに思い出す映画がある。
「2021年宇宙の旅」(1968年)、「ブレードランナー」(1979年)で、いずれも年代的に「今日」を描いたものだ。
実は「ブレードランナー」の舞台設定は、2019年、ロサンゼルスということになっている。
宇宙開拓の前線に送り込まれた遺伝子工学の産物、「レプリカント4体」が逃亡し地球に帰還した。
レプリカントを捕獲する“ブレードランナー”の一員、デッカードは(ハリソンフォード)が捜査にあたるうち、人間よりも崇高なレプリカントの精神を知るる。
それは、一言でいうと「人間になれないピノキオの哀しみ」とでもいうべきもので、音楽のヴァンゲリスが切ないメロディを挿入する。
主演のハリソン・フォードもいいが、レプリカント役のルトガー・ハウアーと美女ショーン・ヤングが圧巻の存在感がある。
舞台となったロサンゼルスの風景・生み出された「酸性雨」降る混沌とした未来の街は後のSF作品のスタンダードとなった。
そして荒廃した街かどから聞こえる、日本語による懐メロのメロッディーの抑揚が奇妙に耳に残る。その一角は、新宿の歌舞伎町がモデルなのだという。
監督は、シド・ミードをデザインに起用し、登場する車両から建築や都市景観に至るまで、未来世界すべてのデザインを任せた。
というのも、ミードは「工業製品は状況や環境とセットでデザインされるべきだ」と考える工業デザイナーの第一人者であった。
バプテスト教会の牧師の息子としてミネソタ州で生まれ、ミードは画業を始める以前、兵役中に沖縄の米軍基地に駐留した経験がある。
ブレードランナーが制作されたのは1979年、その3年後にエズラ・ヴォーゲルの「ジャパン アズ ナンバー ワン」が出版された。
ところで、AKB48の歌にもなった「フォーチュン・クッキー」は中国発と思っている人が多い。
アメリカやカナダの中華料理店に行くとカナリの割合で出される「フォーチュン・クッキー」 とは、意外なことに日本人が「創案」したものだった。
お菓子の中に「運勢」が表記されている「紙片」(おみくじ)が入っているため、「フォーチュン(運勢)クッキー」とも呼ばれた。
その源流は意外にも日本の「辻占い」である。元々の「辻占」は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うもので、「万葉集」などの古典にも登場するほど古いものである。
江戸時代になると、「辻占」は、お祭りや市の日に辻に立ち、そのオミクジを小さな紙片にして、せんべいの中に入れたものが「辻占せんべい」である。
フォーチュン・クッキーとは、「二つ折り」にして中に短い言葉を表記した紙を入れた形状は、日本の北陸地方において新年の祝いに神社で配られていた「辻占せんべい」に由来するものある。
ところで、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にある「ジャパニーズ・ティー・ガーデン」は、1894年に開催されたカリフォルニア冬季国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
そして、庭園やその敷地内の茶屋を運営していたのは、萩原真という日本人移民の「庭師」であった。
萩原は、訪れた客に「お茶請け」としてこの煎餅を提供した。
博覧会の終了後、恒久的な公園の一部となり、1895年から1925年まで、萩原は庭園の公的な「管理人」を務め、庭園を運営した。
萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、千本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せている。
園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。
「フォーチュン・クッキー」は、この万国博覧会に出品されてから広まり始め、戦後、次第に中華料理店がこの煎餅を取り入れるようになったのである。
そこにはちょっとした経緯がある。
日清戦争末期の1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論で、黄色人種が白色人種を凌駕するおそれがあるとする主張である。
ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日清戦争、義和団事件などに際してこの言葉を用いたのが最初とされる。
それまでイギリスとアメリカは日本に対して一貫して「好意的」だったのに、「日露戦争」を境に徐々に日本人を排斥する動きが起きる。
特にアメリカが、ロシアを意識して「満州の権益」を期待しながら日本の「外債の購入」や「講和の労」をとってきたのに、なにひとつ彼らの利益はアジアに確保できなかったあたりから、急激に「日本人移民」の排斥運動がはじまる。
そのひとつの表れは、世界最大の「チャイナタウン」のあるサンフランシスコは、もともと「ジャパンタウン」であったのが、日本人はテキサスに移転させられ、そこに中国人が住み着いて生まれたもので、この経緯がフォチュンクッキーが「中国発」と誤解される要因ともなった。
さてアメリカは、コロンブスの新大陸発見以来、ソノ地にもともと暮らしていた「アジア系住民」を殺戮したり追い出したりしたりして、清教徒(ピューリタン)が建国した。
そこから黄色人種がアメリカにワザワイをもたらすという恐れ「黄禍論」が、しばしば表面化することがある。
それは自らの「原罪」ゆえか、宿痾のように付きまとっている不安なのである。
世界一の「大国」でありながらもナオ、自分達がやったのと同じことを、逆にヤラレルのではないかという「恐れ」を抱いている国なのだ。
アメリカは建国以来、「リメンバー パ-ルハーバー」の合言葉でハジメテ一つになったといわれている。
逆にいうと、パールハーバーがアメリカ国民の「負の琴線」にフレタということである。
嘘のようで本当の話なのだが、1939年オ-ソンウエルズの語りで「ニュ-ヨ-クが異星人に襲撃されている」という臨時ニュ-スで始まるドラマの放送を流した時、ニューヨーク市民はすさまじいパニックに陥った。
アメリカが異星人に襲われる、言い換えるとアメリカが異文化の人間に蹂躙されるというのは、あの大国にしがアメリカで氾濫し始めた頃、「猿の惑星」や「グレムリン」がつくられた。
彼らの襲撃や悪戯が、アジアにある一国のオボロゲな影を全く意識してはイナイとは言いきれない。
なぜなら戦時中から日本人は「イエロー・モンキー」とか「リトル・イエロー・デビル」などと呼ばれていたからだ。
イスラーム金融のはじまりと日本の金融の始まりはよく似ている。それは意外にも、聖地参詣(巡礼)。
イスラームにおいてメッカに巡礼するためには、かなりの費用がかかる。
一生に一度とはいっても何日もかかり、仕事を休むことになるので、皆でオカネを出し合って、順番に巡礼にいけるようにしたのがイスラム金融の始まり。
これは日本で江戸時代に流行した「お伊勢参り」とよく似ている。
庶民にはそういう大金をつくることがで出来ないので、それを解決するために「伊勢講」というシステムが考え出された。
「伊勢講」とは町や村などある一定の組織の中で、各自が少しずつをお金出し合い、クジ引きや話し合いなどによって「代表者」を選出する宗教的「互酬」システムである。
実際、庶民がいざ参拝となると伊勢近郊の者ならともかく、遠隔地となれば膨大な金額がかかる。
そこで、その代表者が「代参」という形で伊勢参拝をする、つまり村、町の人たちの代わりにお伊勢参拝するのだ。
また日本には「無尽」とよばれた金融の一形態がある。「無尽」とは、一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期的に掛金を行い、一口ごとに抽選ないし入札により、すべての加入者が「順番」に給付を受ける資格を取得する「互恵的」仕組みのことである。
この無尽は、庶民の金融システムとして、鎌倉時代中期に生まれた「相互扶助システム」がその起源とされ、今日の金融組織の母体といわれている。
また、イスラームにおいて女性が身にまとうのが、体を覆い顔を隠す「ヒジャブ」。どういうわけか、この「覆いもの」に「ニンジャ」という名前がついている。
イスラム今日では、男は異教徒との戦い(ジハード)に出征中、女性達は「ニンジャ」を身に着けて、家庭を守った。
その意味で、日本の「割烹着」とも似ている。
日本の戦時下、妻はいかなる時も貞節を守るべき存在として、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが国策として推進された。
そうして満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが「割烹着」である。
ゆったり感のある割烹着は元々料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
ところで、日本の和服が、ヨーロッパの女性解放に一役かったといったら意外すぎるかもしれない。
実は、19世紀ごろまで女性をしばりつけていた要素のひとつが、ファッションであった。
20世紀初頭までの西洋のファッションはコルセットを使用し、ウエストから上半身を極度に細く絞り、下半身は針金を輪状にして重ねたクリノリンという骨組みを使用して、スカートを大きく膨らませるスタイルをとっていた。
女性の腰回りを男性の首ほど細くして、体を圧迫、健康によかろうはずがない。
そこに、コルセットから開放された新たな美を追及しようという動きが現われる。
ポール・ポワレはウエストの位置を上げ、高いウエストの位置から、布をドレープさせ、緩やかなシルエット、布の曲線の美しさを表現した。
しかし、メゾン(店)からはポワレのスタイルは美しくないと判断され、メゾンから追い出されてしまう。
その後、ポアレは自身のやり方を貫くために独立した。
当時の有名女優がポワレの服を気に入り、積極的に身に着けるようになったことがきっかけとなり徐々に広がっていった。
ほぼ同時期、ポワレ他にも、マドレーヌ・ヴィオネといった女性デザイナーもコルセットを外すデザインを提案していた。
19世紀後半、日本の横浜などの開港地からヨーロッパに大量に輸出された生糸、絹製品、工芸品、浮世絵版画などが輸出され、モネやゴッホなど後期印象派の画家が浮世絵から多くのインスピレーションを受けていた。
特に1867年、第三回のパリ万国博覧会は、日本が初めて公式に参加した国際博覧会であった。
徳川慶喜の弟・徳川昭武を団長として、若き日の渋沢は幕府使節団の一員に加わっていた。
面白いのはパリで使節団を待ち受けていたのは、ライバル・薩摩との外交バトル。どちらが日本の代表か、世界にアピールするため、激しい駆け引きとPR合戦が繰り広げられる。
これをきかけに「ジャポニズム」といわれる日本ブームが起きていたのだが、服装やモードでも、日本の着物や文様のデザインが重要な変化をもたらした。
ポール・ポワレは当時、比較的ゆったりと動きやすく出来ていた着物の小袖をヒントに、1906年、コルセットを使わないハイウエストのドレスを発表、1909年頃、「キモノ・コート」とよんだ作品を発表している。
モード界の革命は、コルセットからの開放を意味し、日本の着物がそれに一役かったばかりか、「女性開放」への意識を目覚めさせることにもなる。