江戸のコスモポタリズム

T・カポーティー原作で映画化された「ティファニーで朝食を」ではオ-ドリー・ヘップバーンが自由奔放な女性ホリ-・ブライトリ-を演じた。
彼女がティファニーのショーウィンドウを覗きこむシーンで映画は始まるが、このホリーの部屋の上にうウニヨシなる日本人が住んでいて、出っ歯とめがねでステレオタイプ化された当時の「日本人像」というものを見せつけられのには、かなり閉口させられる。
とはいえ、ティファニー社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の伝統美」との出会いであった。
ティファニーの祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカ・ボストン近くに居を定めるが、ニューヨークで現在のティファニー社の基礎を作ったのはチャールズで、1837年に同郷で義兄のヤングとともに「雑貨店」を開いたのが発端である。
店の売り上げを伸ばそうと、品物を入れ変えたり並び替えたりしたりしていたところ、ある日「ボストン港」に入港する船から降おろされた「日本製」の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われた。
そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。これが、ティファニーと日本との関わりの始まりとなった。
ところで、ティファニーといえば宝石であるが、この宝石は「革命」のドサクサの中で多く入手したものである。
フランスで2月革命がおこり、ヨーロッパに革命が広がりはじめると、ヨーロッパの王族・貴族は「国外脱出」のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわした。
その過程で「門外不出」とされたような貴重品が次々とティファニーのものになったのである。
そのチャ-ルズの息子のルイスは、画才があり評価を得たのであるが、生来同じ処にいられない性格で、室内装飾の色ガラス製作を試みる中で「ガラス工芸」に魅せられる。
そのうちジャーナリズムにとりあげられ、世間の注目をあびるようになる。
しかし、ルイスのガラス器は「生活雑貨」にすぎず「芸術」とは認められないと評されるや、熱がさめたように売れなくなってしまった。
この行き詰まりの中、ラファージという日本を旅したアメリカ人画家が、ルイスの「ガラス工芸」の復活に協力したのである。
このラファージとの協力により、ルイスはガラス工芸の中でも、乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程を「確立」していった。
そして驚くのは、ラファージの妻の名前は「マ-ガレット・ペリー」。黒船来航のペリー提督の弟の孫という関係にあたる。
ラファージは、妻の実家で偶然にも「広重の浮世絵」を見て、すっかり日本画に魅せられ、日本を旅することを決意したのである。
ラファージはボストンで岡倉天心らを交流し、日本の美への理解を深めていったのである。
しかしルイスとラファージの蜜月はそう長くは続かず、製法特許をめぐって裁判沙汰になってしまう。
その後の展開は、ルイズとラファージとの「熾烈な競争」の中から、「ティファニー・グラス」というブランドが確立したといっても過言ではない。
ラファージは「日本美術」を範としてステンドグラスの第一人者として第4回1889年パリ万博でも勲章を得る一方、ルイスの方は、ガラス製品を大量生産し全米に流通させた。
ちなみに、この前回の第三回パリ万博で徳川の随行していたのが渋沢栄一である。
ルイスは、新しい技術者やデザイナーを招いて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほどの「大量生産」で応えていったのである。
というわけで「ティファニー製品」には、「江戸のコスモポタリズム」が凝縮されているのである。

先日、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスが「宇宙旅行」から帰還し、「宇宙時代」の幕開けを告げたが、このニュースに思い出す映画がある。
「2021年宇宙の旅」(1968年)、「ブレードランナー」(1979年)で、いずれも年代的に「今日」を描いたものだ。
実は「ブレードランナー」の舞台設定は、2019年、ロサンゼルスということになっている。
宇宙開拓の前線に送り込まれた遺伝子工学の産物、「レプリカント4体」が逃亡し地球に帰還した。
レプリカントを捕獲する“ブレードランナー”の一員、デッカードは(ハリソンフォード)が捜査にあたるうち、人間よりも崇高なレプリカントの精神を知るる。
それは、一言でいうと「人間になれないピノキオの哀しみ」とでもいうべきもので、音楽のヴァンゲリスが切ないメロディを挿入する。
主演のハリソン・フォードもいいが、レプリカント役のルトガー・ハウアーと美女ショーン・ヤングが圧巻の存在感がある。
舞台となったロサンゼルスの風景・生み出された「酸性雨」降る混沌とした未来の街は後のSF作品のスタンダードとなった。
そして荒廃した街かどから聞こえる、日本語による懐メロのメロッディーの抑揚が奇妙に耳に残る。その一角は、新宿の歌舞伎町がモデルなのだという。
監督は、シド・ミードをデザインに起用し、登場する車両から建築や都市景観に至るまで、未来世界すべてのデザインを任せた。
というのも、ミードは「工業製品は状況や環境とセットでデザインされるべきだ」と考える工業デザイナーの第一人者であった。
バプテスト教会の牧師の息子としてミネソタ州で生まれ、ミードは画業を始める以前、兵役中に沖縄の米軍基地に駐留した経験がある。
ブレードランナーが制作されたのは1979年、その3年後にエズラ・ヴォーゲルの「ジャパン アズ ナンバー ワン」が出版された。
ところで、AKB48の歌にもなった「フォーチュン・クッキー」は中国発と思っている人が多い。
アメリカやカナダの中華料理店に行くとカナリの割合で出される「フォーチュン・クッキー」 とは、意外なことに日本人が「創案」したものだった。
お菓子の中に「運勢」が表記されている「紙片」(おみくじ)が入っているため、「フォーチュン(運勢)クッキー」とも呼ばれた。
その源流は意外にも日本の「辻占い」である。元々の「辻占」は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うもので、「万葉集」などの古典にも登場するほど古いものである。
江戸時代になると、「辻占」は、お祭りや市の日に辻に立ち、そのオミクジを小さな紙片にして、せんべいの中に入れたものが「辻占せんべい」である。
フォーチュン・クッキーとは、「二つ折り」にして中に短い言葉を表記した紙を入れた形状は、日本の北陸地方において新年の祝いに神社で配られていた「辻占せんべい」に由来するものある。
ところで、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にある「ジャパニーズ・ティー・ガーデン」は、1894年に開催されたカリフォルニア冬季国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
そして、庭園やその敷地内の茶屋を運営していたのは、萩原真という日本人移民の「庭師」であった。
萩原は、訪れた客に「お茶請け」としてこの煎餅を提供した。
博覧会の終了後、恒久的な公園の一部となり、1895年から1925年まで、萩原は庭園の公的な「管理人」を務め、庭園を運営した。
萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、千本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せている。
園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。
「フォーチュン・クッキー」は、この万国博覧会に出品されてから広まり始め、戦後、次第に中華料理店がこの煎餅を取り入れるようになったのである。
そこにはちょっとした経緯がある。
日清戦争末期の1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論で、黄色人種が白色人種を凌駕するおそれがあるとする主張である。
ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日清戦争、義和団事件などに際してこの言葉を用いたのが最初とされる。
それまでイギリスとアメリカは日本に対して一貫して「好意的」だったのに、「日露戦争」を境に徐々に日本人を排斥する動きが起きる。
特にアメリカが、ロシアを意識して「満州の権益」を期待しながら日本の「外債の購入」や「講和の労」をとってきたのに、なにひとつ彼らの利益はアジアに確保できなかったあたりから、急激に「日本人移民」の排斥運動がはじまる。
そのひとつの表れは、世界最大の「チャイナタウン」のあるサンフランシスコは、もともと「ジャパンタウン」であったのが、日本人はテキサスに移転させられ、そこに中国人が住み着いて生まれたもので、この経緯がフォチュンクッキーが「中国発」と誤解される要因ともなった。
さてアメリカは、コロンブスの新大陸発見以来、ソノ地にもともと暮らしていた「アジア系住民」を殺戮したり追い出したりしたりして、清教徒(ピューリタン)が建国した。
そこから黄色人種がアメリカにワザワイをもたらすという恐れ「黄禍論」が、しばしば表面化することがある。
それは自らの「原罪」ゆえか、宿痾のように付きまとっている不安なのである。
世界一の「大国」でありながらもナオ、自分達がやったのと同じことを、逆にヤラレルのではないかという「恐れ」を抱いている国なのだ。
アメリカは建国以来、「リメンバー パ-ルハーバー」の合言葉でハジメテ一つになったといわれている。
逆にいうと、パールハーバーがアメリカ国民の「負の琴線」にフレタということである。
嘘のようで本当の話なのだが、1939年オ-ソンウエルズの語りで「ニュ-ヨ-クが異星人に襲撃されている」という臨時ニュ-スで始まるドラマの放送を流した時、ニューヨーク市民はすさまじいパニックに陥った。
アメリカが異星人に襲われる、言い換えるとアメリカが異文化の人間に蹂躙されるというのは、あの大国にしがアメリカで氾濫し始めた頃、「猿の惑星」や「グレムリン」がつくられた。
彼らの襲撃や悪戯が、アジアにある一国のオボロゲな影を全く意識してはイナイとは言いきれない。
なぜなら戦時中から日本人は「イエロー・モンキー」とか「リトル・イエロー・デビル」などと呼ばれていたからだ。

イスラーム金融のはじまりと日本の金融の始まりはよく似ている。それは意外にも、聖地参詣(巡礼)。
イスラームにおいてメッカに巡礼するためには、かなりの費用がかかる。
一生に一度とはいっても何日もかかり、仕事を休むことになるので、皆でオカネを出し合って、順番に巡礼にいけるようにしたのがイスラム金融の始まり。
これは日本で江戸時代に流行した「お伊勢参り」とよく似ている。
庶民にはそういう大金をつくることがで出来ないので、それを解決するために「伊勢講」というシステムが考え出された。
「伊勢講」とは町や村などある一定の組織の中で、各自が少しずつをお金出し合い、クジ引きや話し合いなどによって「代表者」を選出する宗教的「互酬」システムである。
実際、庶民がいざ参拝となると伊勢近郊の者ならともかく、遠隔地となれば膨大な金額がかかる。
そこで、その代表者が「代参」という形で伊勢参拝をする、つまり村、町の人たちの代わりにお伊勢参拝するのだ。
また日本には「無尽」とよばれた金融の一形態がある。「無尽」とは、一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期的に掛金を行い、一口ごとに抽選ないし入札により、すべての加入者が「順番」に給付を受ける資格を取得する「互恵的」仕組みのことである。
この無尽は、庶民の金融システムとして、鎌倉時代中期に生まれた「相互扶助システム」がその起源とされ、今日の金融組織の母体といわれている。
また、イスラームにおいて女性が身にまとうのが、体を覆い顔を隠す「ヒジャブ」。どういうわけか、この「覆いもの」に「ニンジャ」という名前がついている。
イスラム今日では、男は異教徒との戦い(ジハード)に出征中、女性達は「ニンジャ」を身に着けて、家庭を守った。 その意味で、日本の「割烹着」とも似ている。
日本の戦時下、妻はいかなる時も貞節を守るべき存在として、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが国策として推進された。
そうして満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが「割烹着」である。
ゆったり感のある割烹着は元々料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
ところで、日本の和服が、ヨーロッパの女性解放に一役かったといったら意外すぎるかもしれない。
実は、19世紀ごろまで女性をしばりつけていた要素のひとつが、ファッションであった。
20世紀初頭までの西洋のファッションはコルセットを使用し、ウエストから上半身を極度に細く絞り、下半身は針金を輪状にして重ねたクリノリンという骨組みを使用して、スカートを大きく膨らませるスタイルをとっていた。
女性の腰回りを男性の首ほど細くして、体を圧迫、健康によかろうはずがない。
そこに、コルセットから開放された新たな美を追及しようという動きが現われる。
ポール・ポワレはウエストの位置を上げ、高いウエストの位置から、布をドレープさせ、緩やかなシルエット、布の曲線の美しさを表現した。
しかし、メゾン(店)からはポワレのスタイルは美しくないと判断され、メゾンから追い出されてしまう。
その後、ポアレは自身のやり方を貫くために独立した。
当時の有名女優がポワレの服を気に入り、積極的に身に着けるようになったことがきっかけとなり徐々に広がっていった。
ほぼ同時期、ポワレ他にも、マドレーヌ・ヴィオネといった女性デザイナーもコルセットを外すデザインを提案していた。
19世紀後半、日本の横浜などの開港地からヨーロッパに大量に輸出された生糸、絹製品、工芸品、浮世絵版画などが輸出され、モネやゴッホなど後期印象派の画家が浮世絵から多くのインスピレーションを受けていた。
特に1867年、第三回のパリ万国博覧会は、日本が初めて公式に参加した国際博覧会であった。
徳川慶喜の弟・徳川昭武を団長として、若き日の渋沢は幕府使節団の一員に加わっていた。
面白いのはパリで使節団を待ち受けていたのは、ライバル・薩摩との外交バトル。どちらが日本の代表か、世界にアピールするため、激しい駆け引きとPR合戦が繰り広げられる。
これをきかけに「ジャポニズム」といわれる日本ブームが起きていたのだが、服装やモードでも、日本の着物や文様のデザインが重要な変化をもたらした。
ポール・ポワレは当時、比較的ゆったりと動きやすく出来ていた着物の小袖をヒントに、1906年、コルセットを使わないハイウエストのドレスを発表、1909年頃、「キモノ・コート」とよんだ作品を発表している。
モード界の革命は、コルセットからの開放を意味し、日本の着物がそれに一役かったばかりか、「女性開放」への意識を目覚めさせることにもなる。

(新宿の歌舞伎町がモデルという) 江戸後期、二宮尊徳は荒廃した農村を、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じてたてなおした人物である。
わずかな土地でもって課せられた税の全てをまかわなわなければならず、正直に働くことさえバカバカしくなって身を持ち崩すものが増えていった。
そして望みなき生活を酒や博打で憂さを晴らすものが多くいたのである。
自ら離散した家を若くして再興した体験をもつ二宮は、どんな事業にも「元手」がいることを学んでいた。
まず再興を手がけた農村を長期の年貢の計算、一戸あたりの所有鷹、耕地面積、家族、農具、食料在庫、便所から馬の有無まで調べあげた。
勤勉だと見た農民には農具を与え、身利息でカネを貸した。村人が背負っていた高利の借金は立て替えて返済し、低い金利や無利息にした。また無借金の者には褒美として年貢を免除するなどした。
そして少しずつ貯めて大をなして行くことを実践させたのである。
以上のように二宮は、荒れ果てた農村の復興にあたりマネーゲームをしたのではなく、借りた者の生活設計を考えて、借金の返済から将来に備えた貯蓄の面倒までみたのである。
また仲間同士の責任感を与え「連帯保証」の仕組みをつくっていった。
また「仁義礼智徳」の五つの徳目を守ることににより、人間関係の信頼が破られずに、借金の回収不能がおきないような「精神的」土台をも築きあげたのである。
1997年にノーベル賞を受賞したインドのムハマド・ユヌス氏の「グラミン銀行」は二宮「報徳仕法」と実に似ている。
実は、「二宮尊徳」は内村鑑三が英語で書いた「代表的日本人」に登場し、JFケネディは大統領就任の際、その中の一人「上杉鷹山」を最も尊敬する人物にあげている。
6世紀、ヘンリー8世の正妻カザリンとの間に生まれたメアリ1が王位につき、愛人のアンブーリンとの間にできたのエリザベスとの間には 葛藤が絶えなかった。
、 メアリは自分が王位にある間、腹違いの妹・エリザベスをロンドン塔に幽閉するが、メアリの突然の死でエリザベスに王位が転がりこんできた。
そのエリザベス女王には、「メアリ」と名のつくもうひとりの女王との戦いが待ち受けていた。
それが、スコットランド国王のメアリ・スチュアートで、このメアリは、遠くヘンリー8世の血をひいており、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
メアリー・スチュアートは、美貌かつ多才であり、絶対王権をめざすエリザベスにとって穏やかならぬ存在であった。
なぜなら、イングランドでは、エリザベスがヘンリ8世の「庶子」であったことを問題にし、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリ・スチュアートこそが「正統な」王位継承者とみなす意見がくすぶっていたからだ。
ところが、そのメアリ・スチュアートがエリザベスのもとに転がり込んでくる。
夫の殺害疑惑など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となったのだ。
エリザベス1世にとってそれは脅威となり、家臣たちの不穏な動きを察したため、ついにメアリを謀反の罪で死刑にしてしまう。
ところでエリザベス1世の写真を見ると、ある一箇所に自然に目が行く。それは、滝のように首から流れている「真珠の首飾り」。
フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などたくさんのジュエリーを持ち込んで来たからである。
エリザベス女王が、大きく目立つ真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートへの「対抗心」によるものだと推測できる。
ところで、真珠は形状において一般的に「真円」に近いほど価格が高くなるが、生き物が生み出した石だから多少のクボミがあって当然で、「真珠のエクボ」などとよばれている。
ちなみにヨーロッパで17世紀頃より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味している。
そしてバロックとよばれる真珠が、「ペイズリー」の形を思いださせるのにはわけがあるのかもしれない。
「ペイズリー」とは、インド北西部のカシミール地方で織られたカシミア・ショールに付けられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その「代表的生産地」こそがメアリ・スチュアートの国スコットランドの町「ペイズリー」なのである。
さらに「ペイズリー」のカタチ、我々日本人にとってどこかで見た感があるのは、日本の古墳で時々発掘される「勾玉 (まがたま)」とよく似ているからだ。
「ペイズリー」といえば、「海外発」とばかり思い込んでいたが、その起源は「日本発」ではないかと思えるほどウリ二つだ。
実際、ヨーロッパで「バロック様式」が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社の設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期で、実はオリエンタルな影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎の東インド会社「出島支店」を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きている。
ヨーロッパで起きたバロックの勃興は、実は東洋との接触、なかでも日本との接点を見逃してはならない。
ちなみに、マリーアントワネットの母親であるオーストリアの女帝マリア・テレジアは、「有田焼」(古伊万里)の愛好者である。
「日本の女王の勾玉」、「インドのペイズリー」、「ヨーロッパのバロック」と、相互に繋がっていてモノが生まれ変わる「輪廻」の世界さえ思わせる。

イスラム金融の各取引が提供される際には、各金融機関等に設置されているイスラム学者委員会(シャリア・ボード)が取引の詳細を調べ、シャリアに適っている(シャリア・コンプライアントである)ことを事前に認定していることが前提となる。
宗教的な意味での「公正取引委員会」みたいなものである。
イスラム金融では、「市場の万能」を許さないように、それが社会に「埋め」込まれているのだ。

日本と欧州の貿易は、16世紀よりオランダまたは中国を経由しており、鎖国中もわずかながら日本の工芸品は欧州に渡っていましたが、1853年、ペリーが浦賀に上陸して正式に開国した後の1859年からは、欧州との直接の貿易も始まりました。ジャポニスムが興った要因の一つは、欧州との貿易開始8年後に開催された1867年パリ万博博覧会と言われています。そこで江戸幕府は、陶磁器、漆器、版画、着物など大量の展示を行い、閉会後には出展品を全て売却しました。それが日本文化が欧州で広く紹介されることとなったのです。文献によると、かなり法外な価格でも飛ぶように売れていたとのこと。その翌年1868年に明治政府が誕生、日本が初めて公式参加した1873年ウィーン万国博覧会を機に、外貨獲得と日本文化のレベル向上のため、政府は全国の地場産業に対しても積極的に海外博覧会への出品を奨励しました。地場産業もそれに呼応して精緻精巧な作品を次々と海外博覧会へ出品し、欧州でのジャポニスムの熱狂は頂点に達します。 ジャポニスムのもう一つの要因は、浮世絵の存在です。フランスを中心とする欧州の上流階級の人々が浮世絵を評価しコレクションを始めると、浮世絵を販売する商人が現れ、大量の浮世絵が海外へ輸出されました。浮世絵は欧州の芸術家に衝撃的な影響を与えており、例えばガラス工芸ではエミール・ガレが浮世絵に影響された作品を多く残しています。特に好んで多用された蜻蛉のモチーフは、それまで欧州では使われなかった図案でした。また、上から見下ろすような浮世絵独自の構図も欧州では見られなかった表現方法であり、遠近法で写実的な世界を描くことが主流であった欧州の人々に大きなインパクトを与えました。初めてそれを目にした彼らの驚きと感動は大変なものであったといいます。当時浮世絵の影響を受けた画家は、ゴッホ、マネ、モネ、ドガ、セザンヌ、ロートレックなどが挙げられますが、彼らは浮世絵を収集して模写を行い、こぞって自身の作品に浮世絵の要素を取り入れ、新たな作風を構築していきました。 ジャポニスムは日本側が意図して興した現象ではなく、欧州人が時代を変えていこうとしていた時期に、タイミングよく開国と重なったことが要因と思われます。1870年、フランスは帝政が崩壊し共和政へと移行する中で、民衆が文化の担い手という意識が強まります。浮世絵は民衆のための芸術とされ、特に葛飾北斎の浮世絵は「民衆を導く自由の女神」を描いたドラクロワなどに比肩するとも評されました。また日本は「謎めいた国」の他にも「近代化されていない夢の国」とも言われ、ゴッホなどは浮世絵を学ぶに留まらず、日本は光と色彩に満ちた国であるとその憧憬の念を高め、その光と色彩を求めて南仏でゴーギャンと共同生活を始めました。情報が限られた時代であり、ゴッホは想像を膨らませ、願望を作品に投影したとのこと。また、パリ・モードでも大きな変化が起きました。身体を締め付けるコルセットからの解放を目指していたデザイナーが、着物のデザインや裁縫に着目し、筒型のドレスを開発しました。日本の文化は欧州のファッションの近代化にも繋がっていたのです。 ジャポニスムは発生から約50年後の1920年頃に終焉しましたが、それからちょうど1世紀が経ち、政府は再びジャポニスムを興そうと、今年は欧州で政府主導の日本文化発信の事業が2つ実施されます。1つ目はフランス政府と連携した大型日本文化紹介のイベント「ジャポニスム2018」の開催です。今年7月〜来年2019年2月の8ヶ月間開催され、キャッチコピーは「世界はふたたび、日本文化に驚く」。展覧会、舞台公演、映像、生活文化の4つのカテゴリーで、日本の伝統芸能から現代美術、ポップカルチャーなどを紹介する50を超えるプログラムが用意され、パリ市内の20以上の美術館や劇場などが会場となります。安倍首相は「日仏は共に文化を重視する国で、文化交流をさらに強化する」と、開催に強い意欲を見せています。2つ目は日本の文化や技術などの海外拠点施設「ロンドン・ジャパンハウス」の開業です。外務省企画による海外拠点施設であり、地場産業企業や芸術家にとってロンドン・ジャパンハウスの存在は今後、大きな影響力を発揮していくことでしょう。

最近、ユヌス氏がグラミン銀行総裁を解任されたニュースの衝撃が広がっている。
ユヌス氏が法令で定められた60歳の定年をこえて総裁の座にとどまっているのが表向きの理由だが、実際は「バングラデシュの顔」ともいえる存在となったユヌス氏が、政府にとって「政治的な脅威」となるのではないかとの警戒感があるとの見方が強い。
ユヌス氏は、国民の40%が一日1ドル以下で生活するといわれるバングラデシュで、貧しい人たちのための銀行「グラミン銀行」を設立し、マイクロクレジット、つまり無担保で小額のお金を融資して貧しい人達の自立を助けてきた。
グラミンとは「村」という意味だが、ユヌス氏の取り組みは、貧しい村の人たちの暮らしを良くするために、電話などの通信の整備、教育のための奨学金、貧しい子どもたちの栄養改善など多岐にわたっている。
こういう地域への市場参入をはかる世界的な食品会社や日本の衣料品会社との「合弁事業」も行うまでになった。
ユヌス氏の取り組みは、政府が行き届かない分野、つまり「草の根」の働きで着実に成果を出しているといえる。
ノーベル賞を受賞した「グラミン銀行」の取り組みを聞いて、日本に「先人」がいるではないか、と思う人は少なからずいるにちがいない。
ユヌス氏はひょとしたら内村鑑三の英語版「代表的日本人」などで「二宮尊徳」を読んだのではないかと思えてくる。
二宮尊徳が生きた江戸時代に、日本は270ほどの藩に分かれていたが、基本的に藩という「小国」の中で自存することがアタリマエであった。
時には上杉鷹山のような名君がでたとしても、それは藩の枠内の中での改革であり、他藩を助けるわけではなく、まして幕府が藩を助けることはなかった。
つまり「藩の自治」こそが大前提であった。
ところで、天下太平の江戸時代後期、諸藩の多くは贅沢を続け出費がかさみ商人から借金を積み重ねた。
そうすると家臣の俸禄を減らしてで追いつかなった。藩の収入を上げようと安易な年貢や税の引き上げを課せられ、百姓達は生活が苦しく逃げ出すものさえ多くいた。
ポランニーの言うが如く市場を社会に「埋め込む」とはどいういうことか、利子をとらない金融がこの世に存在するという点で「イスラム金融」に注目したい。
調べてみて驚いたことは、イスラム金融と先述した日本の「伊勢講」には共通の「誘因」から成立しているということである。
青天を衝け」。その主人公、渋沢栄一の活躍の原点ともいえる大舞台がありました。