聖書の言葉より(人智を超えた道)

旧約聖書によれば、世界は「光あれ」という言葉を始まりとして、神によって創造された(創世記1章)。
一方、新約聖書によれば、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ福音書1章)とある。
ここで、「ことば」が"言葉"ではなく、”言”と訳されていることに注目してほしい。
新約聖書の”言”はギリシア語の「ロゴス」で、「理由、原因、説明、理性、論理、言葉」など多様な意味を含み、"ワード(言葉)"をも含んでいる。
さて一般的に、芸術家がものを創ろうとする時、作る対象を「構想・計画」するのがふつうである。
神と人を同列におくことはできないが、世の始まりにも「構想・計画」が存在したにちがいない。
その「構想・計画」を「ロゴス」と考えると、旧約と新約の「世の始まり」の関係がスッキリする。
つまり、まず「ロゴス(計画)」があって、神の「光あれ」にはじまる、天地創造がなされた。
「ロゴス」がソフトウエアならば、天地がハードウエア。天地を動かす原理が「ロゴス」とも理解できる。
それでは、「人間の創造」についてはどうか。
聖書には「神は自らに"似せて"人間を造った」(創世記3章)とある。
英語版聖書では、「似せて」を「same image」とあったので姿カタチのこともあるが、聖書に沿っていえばそれよりも確実にいえることがある。
それは「互いに言葉が通じる」ということ。
人間は普通、言葉を学習して修得するのだが、「エデンの園」でアダムとエバは、学ぶ相手も術(スベ)もなく、神と直接語り合っている。
人間が「バベルの塔」を造って神の頂に昇らんとして神の怒りをまねいて言葉を乱される前なので、「人間の創造」以前に単一の「言葉」が用意してあったということである。
結局、新約聖書の「はじめに"言"があった」という短いフレーズに、この世界は偶然できたものではなく、神の計画の下に創造され、神の目的の下に展開しているというメッセージが含まれている。
だからこそ神は、そのことをこの世に示すために、何人も「預言者」を送りこんだのである。
さて、ギリシア語「ロゴス」を理解する近道は、聖書の「世の始まる”前”」という箇所に注目することである。
例えば、イエスは「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。 父よ、"世が造られる前"に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました」(ヨハネ福音書17章)と語っている。
」 さらには、聖書の「あらかじめ定められたこと」「はじめより隠された奥義」「私が生まれる前から」などが含まれる箇所にも注目したい。
そういう箇所はおよそ50カ所以上もある。例えば、イスラエルの二代目の王ダビデが詠った詩には、「私が母の胎内に造られた時、あなたはすべてご存知でした。あなたの目は、胎児として私が造られるのをご覧になり、まだ私の生涯の一日も始まらないうちに、そのすべては、あなたの書物に記されました」(詩篇139)とある。
またパウロは、「母の胎内にあったときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ人の手紙11章)と書いている。

20世紀最高の天才科学者といわれるのがアルバート・アインシュタイン。
彼がなした科学的功績の全貌は凡人には理解できないが、その「思考方法」に学ぶところは少なくない。
その中で「等価原理」というものがある。
違ってるように見えても、実は同じものを別角度で見ているにすぎないということ。
アインシュタインは様々な科学的現象の事例を挙げているが、身近な例をあげると、自動車走行において、自動車が動くとみても、風景が動ているとみてもよい。
そして二つの見方に価値の差はなく、「等価」である。
そもそも自転や公転のすごい回転をしている地球の上で走っている時速60キロの自動車に乗っている人のスピードは、測定者の座標軸を宇宙におくか、地球におくか、自動車におくか、対向車におくか、風景におくか、歩行人におくかで測定値が違ってくる。
つまり、どこに座標軸におくかで速度は違って見えるが、実は同じものをみているのに過ぎない。
ここから話は飛躍するが、この世界で起きていることは、偶然なのか必然なのか。
アインシュタインの有名な言葉に「神はサイコロを振らない」という言葉がある。
この言葉は「量子力学」を批判して使った言葉だが、アインシュタインの「等価原理」を当てはめると、人間にとって「偶然」に見えることでも、神の側にたてば「必然」ということにもなりうる。
また、「千年は1日、1日は千年のごとく」(第二ペテロの手紙3章)という言葉からすると、人間の目から「進化」と見えることも、神の観点からすれば「創造」ということにならないだろうか。
ところで、運命のいたずらに翻弄される人々を、比喩として「漂流者」とよぶことがある。
しかし本人の自覚としては「漂流者」でも、外からみると「神に仕組まれた道」を歩んでいるように見える人もいる。
日本は海洋国家であるから、当然漁にでたまま漂流しそのまま行方不明となり、魚の餌となった人々も少なからずいたであろう。
ところで日本に無事戻ってきた漂流者の中で外国での生活をした者は、江戸時代の鎖国政策の中で危険人物である反面、貴重な情報源であった。
もし彼らが高い語学力を習得していたとすれば、開国へと向かおうろする日本で、高い稀少価値をもつ人材であった。
日本史の中で「漂流者」というだけなら大黒屋光太夫など数人の名前が思いうかぶが、漂流が神に仕組まれかのように見えるのは、通訳として日米交流に貢献したジョン万次郎や、日本初の「民間紙」をだしたジョセフ彦などである。
ジョン万次郎は1827年土佐の国中浜谷前の漁師の次男として誕生した。しかし、1841年14才の時、正月5日足摺岬沖で漂流する。
10日間漂流して南海の孤島・鳥島に漂着し仲間と143日間生きながらえ、たまたま立ち寄った米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受けた。
漂流仲間とはホノルルで分かれ一人捕鯨船員として太平洋を渡った。そして16才で船長の故郷・マサチューセット州フェアーヘブンに帰航した。
そして万次郎はオックスフォード校、バートレット専門学校で英語、数学、測量、航海の教育を受けた。
24才の時に沖縄より上陸し帰国した。取り調べの後解放され26才で土佐藩の士分にとりたてられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。
このとき後藤象二郎、岩崎弥太郎などが直接万次郎の指導を受けている。
1860年33才の時には批准書交換のための使節団一員として艦長勝海舟の「咸臨丸」に乗船した。
この時万次郎は教授方通弁主務として乗船し、この船には当時26歳だった福沢諭吉も同行しした。
米国民は、万次郎の流暢できれいな英語に驚嘆したという。
1860年42才の時、明治政府の命を受け開成学校(東京大学)の教授となり最高学府の教壇に立った。そして1898年、東京・京橋の長男中浜東一郎医博宅で72才の生涯を終えた。
彼の数奇な運命に導かれた貴重な知識や、技術、体験は近代日本の夜明けに、日米友好を中心とする国際交流の礎に多大な影響を与えた。
なお、現在でもホイットフィールド家と中浜家は子孫の交流が続いているとのことである。

中島みゆきの曲に「地上の星」は、空からの視点で、地上の”星”を歌ったものだが、「漂流者」は海ばかりではなく、漂流するごとくに地上をさすらう人々もいる。
スターリン時代のソ連は、ヒットラーに優るとも劣らぬほどユダヤ人を弾圧していたが、ウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど、超絶技巧を誇るピアニストとして注目されていった。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
さらに世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中、ゴードン一家は日本に滞在し続けるのである。
現在、東京・赤坂の「東京ミッドタウン」がある一帯は、かつては「赤坂区檜町」と呼ばれていた。
古くから著名人や外国人などの集まる地区の一つであり、ウィーンからシベリヤ鉄道経由で日本にやってきたゴードン一家もここで暮らすことになった。
ベアテは家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となり、遊びと結びついた童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、日本に来て3カ月ぐらいで日本語を話せるようになっていた。
ゴードン家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まる「サロン」と化していた。
ゴードン一家での会話や、ゴードン家に集まる人々との情報のやり取りの中で、ベアテはさまざまなことを吸収していった。
とりわけ、ゴードン家では日常的に日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らしていたことも幸いして、ベアテ自身はさして努力をするわけでもなく、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていった。
さてゴードン家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあって、ゴードン家の方から梅原氏に、身の回りの世話を頼める「家政婦」さんを紹介してくれないかという申し出があった。
そして紹介されてやってきたのが、小柴美代であった。
ベアテは、5歳から15歳という多感な時期を日本で過ごすが、小柴は毎日の生活の中で一番身近に接していた日本人女性であったといえる。
そして好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられること、正妻とおめかけさんが一緒に住んでいること、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないことなど、「子守唄」を聞くようにして日本の女性についての「情報」が蓄積されていった。
そして、幼いベアテにとって忘れられないの日があった。1936年2月26日の大雪の日である。
226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、日本人は表立っては優しいのに、内面にはかり知れないものを秘めていると思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心にも感じとった。
1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにあるミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジはアメリカでセブン・シスターズとよばれる名門女子大のひとつであった。
ベアテ女史は、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしていたが、1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探した。
そして、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。その仕事を見つけた当日、民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
ただGHQ民生局のメンバーとして日本に帰ってきたベアテ女史にとって、美しい風景が無残な焼野原に変ってしまていることに、「悲しみ」を抑えることができなかった。
ベテア女史の両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、乃木坂にあった家は焼けつくされており、玄関の門の柱だけが、かつての自宅の場所を確認する唯一の目印だったという。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベアテ女史の抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって打ち消されていった。
それどころか、世界に誇れる憲法を作ろうという理想にも燃え立っていたのだという。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテア女史の仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、「反対勢力」に利用される可能性があったからだ。
ベアテ女史は10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのように定めているかをリサーチした。
草案の作成は「極秘」で行われていて、怪しまれないように、いろいろな図書館を回って資料を集め、それをGHQの「民政局」に持ちこんだ。
ベアテ女史は草案の中に、母親・妊婦・子供、養子の権利、職業の自由までをも含めて書き、それを民生局課長ケーディス大佐の所にもっていた。
しかし大佐は「社会保障について完全な制度をもうけることまでは民生局の任務」ではないと一蹴し、その権利条項の大半が削られた。ベアテ女史はその時、悲しさと悔しさで涙が止まらなかったという。
さて、ベアテ女史が「両性の本質的平等」(憲法24条)の草案を書くにあたって、乃木坂の家で家政婦として働いていた小柴美代の存在が、小さいものでなかったことは、ベアテ女史が講演会などで必ず「家政婦のミヨ」との出会いを語っていることや、ニューヨークの自宅に美代を呼んでいることでもわかる。
ちなみに、小柴美代をゴードン家に紹介した洋画家・梅原龍三郎と同時期に活躍した洋画家・赤松麟作には自分の幼い娘を描いた「良子」という作品がある。
この娘こそ、後にベアテ女史が涙をのんで削除した「女性の権利」を、約40年後に「男女雇用機会均等法」としてカタチあるものにした女性キャリア官僚の先駆け・赤松良子である。
最後に、次のような聖書の言葉が思い浮かんだ。
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書55章)。

ちなみに、アメリカで万次郎はミシンを初めて日本に持ち帰っている。