「老い」の比較優位

「女房役」(官房長官)が、トップ(首相)につくのはなかなか厳しいものがありそうだ。
菅首相には、かつての菅官房長官のようなすぐれた女房役がいないということもある。
菅首相は、政治的な関係・立場など周りに目配りして語るために、ほとんど国民に伝わるものがない。
ところで新聞に、花田虎上(第66代横綱若乃花)が横綱の地位にあった頃の心境を吐露していた。
横綱に求められるのは最強とか品格で、お目付け役の横綱審議委員会から、日常の言動から歩き方までも注文がついて、戦国武将のような「堂々」とした振る舞いを現代に求められる。
また勝負に勝てばいいといものではなく、いわゆる戦い方も「横綱相撲」が求められる。
横綱になると相手を受けてから攻めることを求められるので、「今なら絶対決まる」と思っても、立ち合いで相手を左右にかわすなどの変化相撲を控えざるをえなくなる。
若乃花が、横綱に昇進したのは1998年5月、夏場所の千秋楽で大関武蔵丸を破り、大関として2場所連続優勝した。
驚いたのは、花道を戻りながら「横綱に上がってしまう。どうしよう」と、うれしさはなかったという。
横綱としては結果を残せず、けがが悪化し、休場の繰り返し。99年秋場所は、7勝8敗に終わった。
横綱が15日間出場して負け越すのは2人目(大乃国以来)という不名誉な記録を作った。
先輩横綱の名を汚したくない一心でやってきたので、すでに心は折れていた。
師匠である父親(元大関貴ノ花)は「もう少し頑張れ」と。また、横綱は選手であると同時に、相撲協会という会社では役員、看板なので、いきなりやめては会社が困るともいわれた。
それがわかっていても、心が戻ることはなかった。
引退は翌2000年の春場所でで、横綱が負けると飛ぶ座布団が、若乃花の場合、勝って飛んだ。
連日、地響きのような声援で、むしろ横綱として情けない」という声が聞こえてきた。
そして、「引かせて欲しい」と父に伝えた。
横綱にならなければ、名大関でいられたとも言われた、父が大関で終わったことが、一家のコンプレックスのように感じていた。
それで、横綱になって両親に一つ、恩返しできたとも思う。
横綱は引退しても横綱。今もテレビで笑顔を見せると「横綱なのに笑うなんて」と言われる。「第66代横綱」という肩書を一生背負わなきゃいけないのだという。
さて、若乃花と似た状況に陥った、ひとりのノーベル賞学者のことが思い浮かんだ。
2002年、ノーベル化学賞受賞者・田中耕一の苦しみは、受賞当日から始まったという。
受賞時43歳、無名の若きサラリーマンがノーベル賞を受賞したため、そのニュースは当時日本中を熱狂させた。
授賞理由となった研究は28歳の時(入社2年目)のものである。
博士号もない現役サラリーマン初のノーベル賞とは、確かに夢物語である。
田中はタンパク質をイオンの状態にする方法がないものか試行錯誤していた。
各々のタンパク質は、細胞内で物質を運搬したり、分解したり、細胞の形を維持したりといった独自の役割を担っている。
タンパク質の「重さ」をはかるには、分子を一つずつイオンにして分析機器にかける、タンパク質はレーザーを用いてこわさないようにするには、イオン化する必要があった。
問題はタンパク質のようなたいへん大きい分子(高分子)は、レーザーの熱でバラバラに壊れてしまう。
そこで田中の研究グループは、タンパク質のような高分子に何か特別な物質を混ぜてイオン化することで分子を保護できないものかと試行錯誤していた。
そんなある日、実験中に、別々の実験で使うつもりだったグリセリンとコバルトの微粉末をまぜてしまうという失敗をしてしまう。
普通なら捨ててしまうのだが、田中は「捨てるのはもったいない」と考え、分析してみることにした。
すると、溶液中の高分子がそのままイオンの状態になったのである。
田中のグループは、さらなる解析と検討を重ね、「ソフトレーザー脱離法」としてタンパク質をイオン化させる方法を完成させた。
こうした成果がノーベル賞に繋がるのだが、田中氏は自分はノーベル賞ににふさわしい研究成果を出してはいないということだった。
田中はノーベル賞受賞の話を聞いて「初めは何かのドッキリかと思った」とほどで、受賞後はメディアの取材を遠ざけてきた。
人が羨む立場ではあっても、それにふさわしくあるために並々ならぬ精力を使い、若いころから牢獄に入れられたようなものなのかもしれない。
そんな田中が再び表舞台に登場したのが、2018年2月のことであった。
アルツハイマー病の原因とされる物質の発見により「認知症発症の20年以上前に早期発見できる」という研究が英科学誌ネイチャー電子版に掲載され、ようやく手応えのある研究ができたという。

日本の高度経済成長を支えた人々の中に、「三等重役」といわれる人たちがいる。「三等重役」とは「サラリーマン重役」のことで、創業社長でもオーナー社長でもなく、一般社員と意識的にも能力的にもさほど変わりのない人物が取締役、あるいは社長になったことを指し、源氏鶏太(げんじ けいた)の小説「三等重役」によって広まった語である。
この小説では、前社長が「戦争協力者」とされて公職追放され、思いもよらなかった人物が社長になる話である。
実は同じ敗戦国であるドイツでも同じようなことが起きたが、少し状況が異なる。ドイツの場合、中堅より若い層が戦争の罪科を多く負ったからである。
ところで、最近ドイツでは、辞意を表明したメルケルに変わる有力後継者選びが混迷している。
メルケル属する「キリスト教民主同盟」( CDU)は、ナチズムの戦争犯罪の追及を党是としている。
2015年1月、元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが94歳で亡くなった。
ワイツゼッカーといえば、ドイツの戦争責任やユダヤ人迫害の歴史と向き合うよう国民に求め、ガウク大統領はメッセージの中で「過去と立ち向かうドイツの立場を世界中で代弁してきた」と死を悼んだ。
1985年5月「荒れ野の四十年」と題したドイツ敗戦40周年の連邦議会演説で発した「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」との言葉は有名だ。
ドイツ国民が犯した罪と歴史を直視しなければナチス・ドイツが迫害したユダヤ人や近隣諸国との真の「和解」はできないとの訴えで、国内外で大きな反響を呼んだ。
ワイツゼッカーは、第二次大戦に従軍し、ポーランド戦線で一緒に戦っていた次兄は戦死した。
戦後のニュールンベルクの戦犯裁判でナチスの外務次官だった父親の弁護に加わった。
戦後、中道右派の「キリスト教民主同盟」(CDU)に入党し、連邦議会議員、西ベルリン市長をへて、84年に連邦大統領就任している。
94年の退任後も、欧州連合(EU)の機構改革を提言するなどして、今や「ドイツの良心」とまで評されている。
しかし、このワイツゼッカー以上の「老人の星」ともいうべき人物がいる。ワイツゼッカーが属した「キリスト教民主同盟」を創立したコンラッド=アデナウアーである。
第2次世界大戦後の西ドイツ首相。キリスト教民主同盟の指導者。冷戦時代の西ドイツ首相として、その経済復興を実現させた。
西ドイツの首相(在任1949~63年)として、その「奇跡の経済復興」を指導した政治家として重要な存在である。
戦前にはケルン市長を務めたがナチスには反対し度々投獄された。
第二次世界大戦後の1945年にキリスト教民主同盟を結成し、ドイツが東西に分離独立してドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、その初代首相に選出された。
しかし、わずか1票差で選出あり、政権はキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟連合と自由民主党など小政党の連立内閣であった。
しかしアデナウアーは、アメリカのマーシャル=プランなどの経済援助によってドイツ経済を復興させ、さらにNATO加盟とともに再軍備を認めさせるなど、50年代の冷戦時代のドイツをリードして奇跡の経済復興を実現した。
彼は一貫して東ドイツを国家として認めず、対話を拒み、西側の一員として西ドイツを繁栄させることを最優先した。
その政策は統一に冷淡であると次第に人気を失い、1963年のド=ゴールのフランスと間で独仏友好条約を成立させたのを花道にして引退した。
ところで、コンラッド=アデナウアーが西ドイツの首相に就任したのは70歳をすぎていたが、どんなにひいき目に見ても、人並み外れた何ものをものを見いだすことはできない、と評されていた。
アデナウアーが70歳で首相になったのは、それより若い世代の多くが戦争で亡くなり、ナチスだったために排除され、そして若者の多くが疲れ果てていたからだった。
そこで、老人が頑張らなければならなくなったからだ。
なぜならドイツの政界は、砂漠と化した森のように、すっかり人材が枯渇してしまったからである。
当時の40代、50代のいわゆるナチス世代は、ボロボロに潰され、威信を失墜していた。
30代の若者は戦没兵士の墓地に横たわるか、捕虜収容所でうずくまっていた。
そのために70歳の老人が日の当たる場所に立つことになったのだが、彼は賛成派、反対派双方の期待を上回る「老人パワー」を発揮したのだった。
まさかドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、1949年の発足後わずか5、6年のうちに、戦勝国とほぼ対等の同盟国にまでのしあがり、賠償や解体の問題にけりをつけ、「再軍備」まで許されるまでになるとは、誰一人予想していなかったろう。
そしれ、まさか議会制民主主義が、立派に機能するようになるとは、いったい誰が予想できたであろうか。
こうした内政・外交両面の成功は、まさにアデナウアーがもたらした成功である。
アデナウサーが、なぜ年老いてから輝き始めたのか。
1946年、70才になった彼は決意を固めた。それと同時にこれまでたまりにたまったエネルギーがいっきに爆発したかのようだ。
決断力、指導力、忍耐力、目的意識、確固たる自信があふれ出て、3年の間にいっきに頂点、すなわちドイツ連邦首相の地位に就き、14年ものあいだトップに君臨し続けた。
アデナウアーは、老いて自由闊達となった「神老」というべき存在である。
そこで思い浮かべるのが、「論語」にある孔子の次の言葉である。
「われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」。
孔子によれば、60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになったという。

「死の哲学」で知られる元上智大学教授のアルフォンス・デーケン先生は「老い」の豊かさについて啓蒙されてきた。
というよりも、老いを「絶好のチャンス」とらえておられる点で、ユニークであった。
要するに「老い」とは若い頃とは異なる新たな「精神的次元」を提供するので、かえって「創造的」な仕事をしている人々の多いというのだ。
「老い」とは、体の衰えや不足を感じれば感じるほど奮発して、障害や試練や幻滅を刺激や起爆剤とも思い、精神力や創造力を自分の内面から開拓し、新しい人間となって敗北を勝利へと転換できるというのである。
つまり、老人とは「新しい人」のことである。老人は新人である。
黒沢明の「生きる」の主人公は、癌の宣告を受けて初めて、何か人の為になることを小さなことであってもしたいと、ハジメテ思うことができた。
そして衰弱した体に鞭打って最後の半年を町の児童公園つくりの実現の為に奔走し、ついにそれが実現した。
生涯はじめて「何事か」をなしとげて、亡くなった。
この映画の主人公のように、「老い」には自分の生きる意味を問うという態度をもたらし、この世の執着から離れ、権力から自由になれるという面もある。
デーケン先生は「第三の人生」という著作の中で、その「新しい人」の実例をいくつか紹介されている。
ミルトンという詩人は、晩年の20年間両眼失明という憂き目を見たのに、崇高な詩文を書き、ベートーベンは晩年の15年間全く耳が聞こえなかったが、死ぬまで作曲を続けた。
ゲーテは80歳を過ぎて「ファウスト」を完結させ、デフォーは職を転々として59歳で「ロビンソン・クルーソー」を書き、ミケランジェロは70歳でサンピエトロの大壁画を完成した。
ハイドンもヘンデルも70歳を過ぎてから不朽の名作を創作した。
シャガールは、90歳の誕生日に長生きの秘訣を尋ねられ「働いて働いて働きぬいた」と答えたが、その意味は「働く」とは創造的自己実現であり、「働く」こと自体に喜びの源泉があるということである。
さて、塩野七生はローマに住み、ローマ帝国興亡の千年を描く「ローマ人の物語」にとりくんできた。
ローマ人たちの多くは、45歳を過ぎてから政治家になって国家の要職についたり、商売をはじめたりしている。
古代ローマには60歳以上の高齢者しか参加できない「元老院」という組織があり、実質上のローマの政治をとりしきっていた。
一般に高齢者は風呂を好むものだが、ローマには有名なカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場など、「風呂文化」がしっかりと根づいていた。
それでは、日本において「パスク・ロマーナ」に近い300年近く続いた江戸時代はどうだったか。
そして江戸時代こそは、日本史に特筆すべき「老い」が価値を持った社会であった。
儒教に基づく「敬老」「尊老」の精神が大きく花開いたからだ。
徳川家康は江戸幕府を開く前に「論語」を愛読していたそうだが、幕府の組織をつくるにあたって、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」とした。
家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかる。
ローマにせよ江戸にせよ、幸福を人生の前半に置くのではなく、後半に置くというのは共通している。
つまり農耕社会において人間は年を取れば取るほど経験が豊かになってその智恵を必要とするため、当然に老人を尊重する社会となっていく。
日本にもそういう意識は、戦前まではっきりと残っていたと思う。
ところが、現代はエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、「若さ」こそが売りとなる文化と言い換えることもできる。
現代社会は、高齢者が「情報(経験)優位者」というわけにはいかず、「老人の智恵」は貴重なものとは尊重されなくなった。
かつての「老人の智恵」「経験値」「職人の技」でさえも、デジタル化されて、ほぼAIに負ける運命にある。ならば、「老い」の比較優位はないのか。
しがらみなき自由、迷いなき境地、その自由度が創造に発揮されるなら、なおよかろうが。