渋沢家と共に歩んだ人々

渋沢栄一は「日本資本主義の父」といわれるだけに、関わった人々は数しれないが、その中でも特に家族同様に関わった人々がいる。
個人的な話だが、1970年代終わり、大学で尾高邦雄教授の社会学(産業社会学)を受講した。
その際、尾高教授の一族が、NHK交響楽団の指揮者としてしばしばTVに出演しておられ、とにかくすごいファミリーであるという噂を聞いていた。
我が福岡市にも「寺尾四兄弟」、熊本荒尾市には「宮崎四兄弟」というスーパーブラザーズがいるが、この「尾高山脈」には及ばない。
実は、この尾高一族の一人が現在放映中のNHKの番組「青天を衝け」に登場している。
さて尾高邦雄教授は、実業家・尾高次郎の五男として東京市根岸に生まれる。
教授の兄弟の中で、長男は郷土教育家の尾高豊作、次男は大川平三郎の養子となった製紙実業家(王子製紙)の大川鉄雄、三男は法哲学者の尾高朝雄、四男は早世した美術研究者の尾高鮮之助、弟(六男)は指揮者の尾高尚忠である。
そもそも、「尾高家」というのはNHKと関係の深い一族なのだ。
尾高尚忠(ひさただ/1911~ 1951)は、幼少の頃から音楽に親しみ、旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。
1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。
戦後も引き続いて日響のタクトを振って活躍したが、戦中から戦後に蓄積した極度の疲労から1951年1月12日の名古屋での地方公演を最後に病に倒れ、39歳で死去した。
尾高は死の直前、日響機関誌「フィルハーモニー」に”強行軍的演奏旅行”と形容した当時の日響の超多忙ぶりを示した寄稿をしている。
燕尾服の上からヒロポンを注射して指揮台に立つような有様だったという。
そこで尾高の死後には、ある音楽評論家が「尾高を殺したのはNHKであり、NHKがすべて面倒を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」云々という一文を毎日新聞に寄稿した。そのことがきっかけとなり、日響は尾高の死の約半年後にの全面支援を受け「NHK交響楽団」に改称された。
また、交響楽団は日本の優れた管弦楽曲に贈られる賞に「尾高賞」の名を冠した。
なお、我が大学時にNHKでその指揮ぶりを披露されていたのは、尾高尚忠の次男の尾高忠明である。

渋沢栄一に「雨夜譚」(あまよがたり)という自伝がある。なんだか源氏物語を思わせるタイトルだが、雨夜のごとく先行き不明な道を渋沢自身が、自他と問答をくりかえして歩んできたことを暗示している。
なにしろ渋沢は、資本主義社会の設計という、道なきところに道を作ったのだから。
渋沢栄一は、「血洗島」(現埼玉県深谷市)という不気味な地名のついた地を出身地として、その精神の有り様はある意味で奇跡のようでもある。
この渋沢自伝「雨夜譚」で、渋沢家と前述の尾高家との深い関わりを知ることができた。
「雨夜譚」には、渋沢栄一が7歳の時には従兄である漢学者の尾高惇忠(おだか あつただ)のもとに通い四書五経や「日本外史」を学んだとある。
「青天を衝け」で田辺誠一が演じる尾高惇忠は、幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の「尾高塾」を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた。
その惇忠に教えを受けた一人が渋沢であるが、渋沢に「素読・暗記などより、出来るだけ多くの本に接し、その意味を考察すること」と教えている。
そして「論語」は、後年、渋沢の人生の規範になった。
尾高惇忠は、明治時代にはいると、富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。
そして渋沢栄一の三女フミのは、尾高に嫁いで、その子が東大法学部の尾高朝男である。要するに、尾高家は渋沢家と共に歩いた一族であった。
さて、渋沢が若き日に、血気にはやる者たちと謀った「高崎城乗っ取り」計画がある。
高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜外人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画だが、尾高惇忠の弟・長七郎の説得により制止されている。
「雨月譚」によると、渋沢は大義のために命を惜しむつもりはないが、ここで犬死(いぬじに)するよりは、もっといい死に場があると説得されて、それを受け入れたという。
その後に方向を転じて、従兄弟の喜作と知己のあった一橋家家臣・平岡円四郎通じて、一橋徳川家の家臣となる。
そして渋沢は一橋家の兵備充実や収益増加を建言してそれが成功し、一橋徳川家の経済官僚として、商工業の振興に関わっていく。
そして、徳川15代将軍・慶喜の異母弟・徳川昭武(あきたけ)がパリの万国博覧会に参加することになり、渋沢はその随員のひとりとして一行の庶務会計係を命ぜられた。
渋沢ら使節団は博覧会の式典後、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスと欧州各地を視察、西洋文明を見聞した。
この時の経験が、後の「日本近代資本主義の父」としての教養の基盤となった。
渋沢が帰国すると、年号は明治に変わっていた。大政奉還後に慶喜は徳川宗家の家督を徳川家達(いえさと)に譲り、政権を返した徳川家は静岡に転封され、その藩主となった。
渋沢は静岡で謹慎する慶喜に面会して、そのまま同地にとどまり、郷里から妻子を呼び寄せて静岡藩に出仕した。渋沢は静岡藩で「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を上げた。
渋沢は突然、明治新政府の太政官に呼び出された。新政府が渋沢の活躍を評価して、大蔵省の租税正(そぜいのかみ)に任命したのだった。
渋沢は大蔵省では新たな政策を推進する一方、官営富岡製糸場の設置や国立銀行条例の制定に奔走した。ちなみ、富岡製糸場の初代場長は「尾高塾」の先生であった尾高惇忠で、尾高の長女の勇(ゆう)は志願してその最初の工女になっている。

大正デモクラシーの時代は、人間の欲望がそれまでになく解き放たれていた。世の中には船成金や石炭成金があふれた。
そうした浮かれた時代に鉄拳をくらわすような出来事を密かに期待する文化人や経済人さえいた。
当時の論評には、大震災の意味を「天譴」や「天誅」として捉えた識者も多かったからである。
「天譴」の是非はどうあれ、少なくとも大震災を偶発的な自然災害ではなく、人間にとって何らかの「メッセージ」と感じたものは少なからずいた。
こうした「天譴論」の筆頭に立つ経済人こそが、日本資本主義の立役者である渋沢栄一である。
同時に渋沢栄一は、関東大震災後の「復興」にもっとも大きな貢献をした。
つまり、渋沢は大震災を「資本主義」の正しい姿にもどすチャンスととらえていたのだ。
それは渋沢の「我が国民は大戦以来いわゆるお調子に乗って太平をむさぼってはきはしなかったか。今回の大震災は何か、何か神わざのようにも考えてならない」という談話でもわかる。
それだけ氏にとって、経済界や社会風潮に目に余るものがあったのだろう。
一方で渋沢は、関東大震災が弱者をさらに苦しい立場に追い込んだ事実も充分認識していた。
渋沢は、大震災善後会創立、副会長になり、民間の経済人として救護・救援活動に力を尽くした。
そして災害を受けた都市の復興のみならず人々の心の復興をも目指したのである。
渋沢栄一の言葉は当時の時代雰囲気を伝えると同時に、今日の「教訓」として受け止めたい。
①大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは決して進むべきではない。空論に走りうわべを飾る国民は決して真理の発達をなすものではない。
②有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だが、これは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら資金ができぬはずがない。
③すべて物を励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。いやしくも正しい道を、あくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。
④老人が懸念する程に元気を持って居らねばならぬ筈であるのに今の青年は却て余等老人から「もっと元気を持て」と反対な警告を与へねばならぬ様になって居る。危険と思はれる位と謂うても、余は敢えて乱暴なる行為や、投機的事業をやれと進めるものではない。堅実なる事業に就て何処までも大胆に、剛健にやれといふのである。

太平洋戦争の敗戦の混乱期に対応したのは、当時大蔵大臣であった渋沢栄一の孫・渋沢敬三である。
特に、戦後起きたハイパーインフレーションに、我々が学ぶ教訓はたくさんある。
ますは、「不良債権」の問題。戦争末期から軍需産業の資金繰りは、銀行の融資によって行われていた。
国は戦時補償の支払いを上記の「臨時軍事費」を除いて停止したが、それは軍需産業への膨大な貸付が「不良債権化」したことを意味する。
当然に銀行の信用は落ち、預金の一斉引き出し、すなわち「取り付け騒ぎ」がいつおきてもおかしくない状況にあったといえる。
それを防いだのが政府による「預金封鎖」の強行である。つまり銀行の顧客は預金が引き出せないようにしたのである。
約二年半あまりつづいた「預金封鎖」の間にも、インフレーションは進行し物価は12倍にも跳ね上がったのである。
預金額が物価にスライドするわけはなく、顧客の預金資産の多くが実質的な意味で政府によって十二分の一にまで奪われたことになる。
つまり、銀行と企業の再建は、預金者の負担によって行われたということである。
戦後の「預金封鎖」の出来事は、過剰な不良債権をかかえる現代にも通じるところがある。
何しろ、「ゼロ金利政策」によって、預金者は相当な預金金利を奪われているのであるが、それが不良債権問題を抱える大手ゼネコンや金融機関を救済するための措置であることは明白である。
しかし、それでも十分な解決が見込めないような時、政府が「預金封鎖」に加えて、「禁じ手」である(ハイパー)インフレ政策を行う可能性がないわけではない。
増税する必要もなく、国債の日銀引受というう方法で赤字財政を解決できるならば、こんな安上がりな方法はない。また、「預金封鎖」が長期間できなければ預金に「財産税」をかければ手早く解決できる。
終戦後しばらくして「預金封鎖」「財産税」を実施した折に、渋沢秀雄蔵相が語った説明は次の通り。
「国民としての実に始末の悪い、重い重い生命を直すためのやむを得ない方法なのです」。
「重い重い病気」とは当時進行していたハイパーインフレーションさすが、今後、政府の財政赤字の非常解決策の「口実」となりうる「重い病気」である。
幾分、戦時下に似ている現在のコロナ禍の下、そんなことがあり得ないわけでない。
世界では、現状の自粛生活にもかかわらず、工業製品への需要が高止まりしている。今後、ワクチン普及による経済回復があれば需給は逼迫する。
さらにそこに、やや遅れて登場する米国をはじめとする巨額の経済政策が需要サイドに加わる。
ここのところ、世界の債券市場で金利が上昇しており、インフレの予兆ともみられている。
高率のインフレは日本にとって悪夢だ。今の低成長で財政赤字の下、インフレがおきたらどうなるか。
給料のあがらない庶民の生活はもっと苦しくなり、企業収益の改善がなければ、株価も不動産価格も暴落する。
そして、金利上昇により政府の債務返済応力は疑問視され、国債の引き受けてもなくなる、というのはあくまでも「最悪のシナリオ」。
さて、大蔵大臣としての渋沢敬三は心休まるところがなかったであろうが、もうひとつ別の顔がある。
それは、民俗学者・宮本常一の結びつきである。
宮本常一は1906年、山口県の周防大島の貧しい農家に生まれた。
苦学して天王寺師範の夜学を終了し小学校の教員になったのち、民俗学に目覚め教師のかたわら土地の古老などから「昔話」の蒐集を始めるようになる。
宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ-ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。
一方、渋沢敬三は財界の大立物・渋沢栄一の孫で、幼い頃から動物学者になりたかったものの、日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。
そして渋沢敬三は、東大卒業後に銀行員としてつとめ1944年に日銀総裁にまでなっている。
戦後、幣原内閣の大蔵大臣として預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの政策を打ち出し、日本経済の復興の足場を築いた。
しかしその反面で学問への情熱は冷めやらず、古くからある各地の玩具などを集めて自宅を開放して「アンチック・ミュ-ジアム」としていたのである。
渋沢と宮本の出会いは、1935年に宮本が柳田の記念講習会に出席したおり、渋沢敬三が自宅に蒐集している「アンチック・ミュ-ジアム」を仲間とともに見学したのがきっかけである。
そして宮本は、渋沢に郷里である瀬戸内海の漁村生活誌をまとめるように勧められ、1939年妻子を大阪に残して単身上京し、芝区三田にあった渋沢の「アンチック・ミュージアム」(のちの日本常民文化研究所)に入り民俗調査を開始したのである。
渋沢は宮本に、自分の処に居ればいくらでも旅をしてイイからと勧められ、宮本は渋沢の家に起居るようになり、爾来宮本は「渋沢の家族の一員」となってしまった。
宮本は1961年まで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。その点、赤塚不二夫とデビュー前のタモリの関係に似ている。
渋沢は、宮本常一という学問におけるいわば「分身」を身近に置いたというわけである。
宮本常一は柳田国男の知遇を得て、渋沢に育てられた感じだが、象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田国男と対照的に 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり漂泊民や被差別民を取材し研究した。
宮本常一は、日本の離島や山間僻地を訪ねて歩いた4000日の距離は16万キロ(地球を10周)、泊めてもらった民家は1000軒を越えるという。
宮本は、単なる民俗学者ではなく ノンフィクションライターの先駆者のような存在だった。
宮本が民族学研究にこれだけの精力を注げたのは、財界人である渋沢秀雄との出会いがあってこそだが、少々腑に落ちない面を感じることを禁じえない。
財界の頂点にあった渋沢は、周防大島に生まれた宮本を食客として招いたが、家族も子供も居た宮本が学者になることを許さず、宮本が渋沢家の食客から自立するのは、渋沢の亡くなる2年前の1961年のこと。
宮本はこの年に文学博士号を取得するが、すでに54歳になっていた。御本人がその点、どんな思いを抱いていたかは、定かではない。
渋沢栄一を祖父にもった財界のトップ渋沢敬三は1963年に、「旅する巨人」宮本常一は1981年に没している。