聖書の人物から(イスラエル)

聖書でイエス・キリストの系図の始まりは、「アブラハム・イサク・ヤコブ」と続く(マタイ福音書1章)。
ヤコブは神によってその名を「イスラエル」と改め、その子12人の系統に属するのが「イスラエル民族」である。
したがってアブラハムの兄弟、イサクの兄弟、ヤコブの兄弟の系統は、「異邦人」というくくりになる。
(例えばアブラハムの甥ロト→モアブ人、イサクの兄イシマエル→アラブ人、ヤコブの兄エサウ→エドム人)。
さて、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエル王国(10部族)と南のユダ王国(2部族)に分裂する。
北の「イスラエル王国」は多くが偶像崇拝に陥り、アッシリアの攻撃やバビロン捕囚などにより離散し、「失われた10部族」ともいわれ、残存した人々も「サマリア人」とよばれ「半異邦人」扱いされた。
一方、南の「ユダ王国」はユダ部族と、ベニヤミン族の2部族で成り立ち、AD69年にローマに滅ぼされるまで「ユダヤ教」の信仰と伝統を守り続けた。
さて、イエス・キリストの系図は「アブラハム イサク ヤコブ "ユダ"・・・ダビデ・・イエス」となっているので、ダビデ王やイエス・キリストは12部族の中の「ユダ部族」に属していることがわかる。
そして、このユダ部族から「ユダヤ人」という名前で呼ばれるようになったのである。
さて、ヤコブ(イスラエル)の12人の子供のうち、11番目のヨセフと12番目のベニヤミンは、ヤコブの最後の妻ラケルとの間に出来た子で情が通じる。
ヨセフはヤコブが年老いて出来た子なので、父親に溺愛された。そんなヨセフは、あるとき夢をみた。
畑で束を結わえていると、ヨセフの束が起き上がって、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢である。
普通なら、こんな夢は胸にしまっておくのだが、繰りかえしみる夢だったためか、ヨセフはその夢を兄弟たちに語って聞かせた。
兄弟達には面白かろうはずはない。彼らは「おまえはわれわれの王になるというのか。実際われわれを治めるつもりか」と怒った。
そして、兄弟達はヨセフを陥れる計略を行う。
荒野を遊牧していた時、ヨセフを落とし穴に落とした。そして父ヤコブに切り裂かれた服を見せて、ヨセフがライオンに食われたという嘘の報告した。
ヤコブは、誰も慰めることができぬほどの悲しみを露わにして泣いた。
しかし、死んだと思われたヨセフはラクダの隊商に発見されエジプトの役人に売られていたのだ。
その売られた先で、ヨセフは特異な能力を発揮して主人の信任を得て、重用されるようになる。
ところがまたもや"落とし穴"が待ち受けていた。
主人の妻に誘惑され、それを拒んだヨセフはその女の虚言により主人の怒りを買い、獄屋につながれる。
しばらくして、同じく獄屋に繋がれていた王家の料理番が奇妙な夢を見て気がふさいでいた。
そこでヨセフがその夢を解き明かす。それによれば、料理番の落ち度なきことが明らかとなって助かる夢だった。実際、料理番はヨセフの解き明かしどおりに免罪される。
その料理番は、ヨセフに大いに感謝して王へのとりなしを約束するが、無情にもヨセフのことをすっかり忘れてしまう。そして、2年の月日が経過する。
ところがまたある時、「エジプト王」が7頭の肥えた牛と7頭の痩せた牛が現れる夢を見て不安に慄いていた。
そのことを知った料理番は、ようやく獄屋に繋がれたヨセフのことを思い出し、王にヨセフの特異な能力について語った。
ヨセフは、王の夢の解き明かしのために獄屋から出され、王の夢がエジプトにまもなく起こる7年の豊作と7年の飢饉を示すものであることを解き明かした。
そして、ヨセフの解き明かしに基づいて豊作の7年間に備蓄を行い、それに続く7年間の飢饉を乗り越えることができたのである。
この功績により、ヨセフはエジプト王の信任を得て、ユダヤ人でありながらエジプトの宰相となる。
この時、ヨセフはすでに30歳になっていた。
さて、7年間の飢饉はヨセフの家族が住むカナン(パレスチナ)の地にも及んでいた。
ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちは、「エジプトの備蓄」のことを知り、食糧を買うためにエジプトの宰相に面会を求めた。
その宰相とは、誰あろうヨセフ。それとは知らぬ兄弟達は、地にひれ伏して彼を拝んだ。
その時、ヨセフは20年も前に故郷で見たアノ夢が現実になったことを知る。
そしてヨセフは、扉ごしに兄弟達が弟(つまり自分)に犯した罪の報いだと語り合っているのを聞いて号泣する。
ヨセフは素知らぬ顔を装い、残してきた幼い弟(ベニヤミン)を連れてくるように命じた。
彼らは幼い弟をつれて再び、宰相(ヨセフ)を拝んだ。
ところが宰相は、意外な対応を示した。「あなた方の父は、その老人は無事か」とその安否を問い、彼らを食事の席に招いたのだ。
その席でヨセフは自分を制しきれず、ついに「わたしは弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです」と告白する。
兄弟たちは、言葉を発することもできないほど驚く。
そして遠い昔にヨセフを陥れた罪につき、ひれ伏して詫びるが、ヨセフは兄弟に対して「恐れることも、悔やむこともありません。神が命を救うために、先にわたしをエジプトにつかわされたのです。ききんはなお五年は続きます。帰って父に告げなさい。ためらわずにエジプトに下ってくださるように。わたしが家族も家畜も、すべてのものを養いましょう」と語った。
そしてヨセフは同じ母親(ラケル)に生まれた弟ベニヤミンを抱きしめて泣き、他の兄弟たちとも抱きあって口づけをした。
兄弟たちは父のもとに帰り、すべての事情を話した。
ヤコブは気を失うほど驚き、なお信じられず、我が子の数々の贈り物を見て、ようやくそれを信じた。
そしてヤコブはエジプトに向かい、一族は「再会」を果たして抱きあった。
そして、ヨセフは兄弟に対して恨みをおくことがなかった。すべてが神の計画と配慮のもとに行われたことを悟ったからである。

旧約聖書のイザヤの預言に、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ書11章)とある。
イスラエルの系図を仔細にみると、ダビデ王の父親がエッサイであることから「新芽」がダビデを指すことは明らかである。
実際、ダビデが「新芽」に相応しく、民族期待の存在であったことは、預言者サムエルが「少年ダビデ」を見出した際のエピソードが物語っている。
古代ヘブライ王国「士師の時代」、士師(さばきつかさ)という霊に満たされた者が時々現れては国を治めていた時代であった。
しかし民衆は周辺の国の圧迫を脅威に感じ、預言者サムエルに、他の国と同じように我々を治める王がほしいと訴える。
サムエルが神に伺い立てると、神はそれを許し「ヘブライ王国」となる。
そして、サムエルは神に導かれ、サウルを即位させるが、サウル王は神の御心に沿わず、ついには失脚する。
サムエルは次の王を見出すため、ベツレヘムに行き、主に示されて、エッサイとその子たちを呼ぶ。
7人の息子たちに次々に面会するものの、サムエルは「主が選んではおられない」と、エッサイに他にはいないのかと尋ねる。
すると羊の群れの番をしていた少年のダビデがいた。
サムエルは神の示しに従って「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と告げ、王に立てたのである(Ⅰサムエル16章)。
さて、イザヤの預言にある「若芽」はどうであろうか。イザヤは続けて「異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける」と預言している。
イスラエルばかりか異邦人をも「望み」をかけるのは、全人類に及ぶ「神の国の福音」を宣べ伝えよと語った復活したイエス以外には考えられない。
パウロは、「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1章)と宣べている。
実はパウロは、イエスキリストの直接の弟子ではなく、反対にイエスの十字架の後にクリスチャンを捕縛するのを任務とする熱心なユダヤ教徒であった。
しかしキリスト信者たちを逮捕するためにシリアのダマスコへ向かう途上で、突然光を受け、「なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞き、地面に投げ出され回心したのである。
パウロは、自らを「イエスは、月足らずで生まれたようなこのわたしにも、現れてくださった。わたしは使徒たちの中では最も小さな者」と語っている。
また、自分の血筋について次のように語っている。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(ピリピ人への手紙3章)。
つまりパウロは「遅れてやってきた」使徒であった。
それは、エジプトの宰相ヨセフが10人の兄弟を前に、「ひとり残してきた」末っ子ベニヤミンを呼び寄せる場面。さらには、預言者サムエルがエッサイの子供7人を並べたところ、「他にいるはずだ」と、少年ダビデをよんでくる場面を思い起こさせる。

聖書という書物の「深遠さ」は、出来事の場面や構図が、後の出来事の”影”のように起きていて、それが幾重にも重層すること。
また、神は「来たるべきこと」を前の出来事を通じて「預言」しているのではないか、と思われるフシが随所にみられることである。
例えば、イザヤの預言に出てくる「若芽」にせよ、それがあてはまる。「出エジプト」において、モーセがエジプト王パロを前に数々の不思議を行う。
その際に使った「杖」から「若芽」が出てくる場面がある(民数記17章)。
「杖」から若芽は出ることは普通にはありえず、ここに救世主の出現や「復活」という神の計画が暗示されている。
実はこの「杖」はモーセの所有ではなく、モーセを支えた兄アロンの持ち物なので「アロンの杖」とよばれ、ヘブライ王国の「三種の神器」のひとつに数えられている。
ところで、世界には建国の精神や美学が込められた「シンボル的存在」というものがある。
スイスのウイリアム・テルがその典型であるが、日本の場合「源義経」がそれにあたるかもしれない。
また文学者が社会が抱えた矛盾や苦悩を体現するように描いた人物像というものもある。
中国の文学者・魯迅が「阿Q正伝」に描いた「阿Q」もそういう存在だ。
その意味で、ヤコブという人格には「イスラエル民族」を体現したかのように映る。実際に神はヤコブに「イスラエル」という名を与えている。
聖書の中に、もう一人「イスラエル民族」を体現したような人物がいる。「サムソンとデリラ」という映画で知られる「サムソン」である。
このサムソンが生きたのは、前述のような「士師の時代」で、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配され、主なる神への純粋な信仰が失われ、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う」(士師記21章)、牧者を失った状態にあった。
士師サムソンは、御使いのみ告げによって「ナジル人(神への献身者)」として生まれ、その使命は「イスラエルをペリシテから救う」ことであった。
イスラエルの人々は、ペリシテの圧力で武装解除されていたが、サムソンは手にしたロバの顎の骨で、ひとりでペリシテ人と戦い、千人を倒したという。
そんなサムソンの怪力を恐れたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わす。
ペリシテの女デリラの誘惑に負け、その力の源泉が「長髪」であることを明かしてしまう。
そしてサムソンはデリラは膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の捕虜となり、目をくり抜かれ、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる。
その後ペリシテ人たちは神ダゴンの祭りを開催し、大会堂にペリシテ指導者を集め、サムソンはその前で戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
そしてペリシテ人は、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言ってダゴンをたたえた。
その間、サムソンは、大会堂の二本の大黒柱に寄りかかって、「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って柱に寄りかかると、会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかる。
ペリシテ人は、サムソンの「髪が伸びている」ことに気がつかなかったのだ。
サムソンは、自らの命を犠牲にペリシテ人を倒すという使命を達成するのである。
このサムソンの起伏に富んだ人生について気づいたことは、サムソンという存在がイスラエル(ユダヤ人)の過去・現在・未来を含んだ歴史そのものなのだ。
こうした見方は「ダニエル書2章」に、イスラエルの未来が「人間の体」に比肩されつつ預言されていることをみても可能だと思う。
士師サムソンの時代の後、王制となり最初の王としてサウルが立てられるが、サウル王は神より民の思いを優先した。
そのため、ペリシテ人(パレスティナの語源)によって十戒の石版やアロンの杖が収められた「契約の箱」が奪われるという大失態をおこす。
その間、イスラエルは打ち負かされ、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)という状態になる。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」、あたかも「目をくり抜かれた」状態に陥る。
一方、「契約の箱」を奪ったペリシテ人の側でも、「契約の箱」故に「疫病」に悩まされ、多くの者が打たれた。
そこでペリシテ人は、その箱を各地にたらい回しにした末、イスラエルに送り返したのである。
結局「契約の箱」は、奪い取ったペリシテ人には「災い」をもたらし、イスラエルはそれを「取り戻す」に及んでその力を「回復」したことがわかる。
サムソンがデボラによって髪を切り取られ力を失い、髪が伸びるにつれ力を回復した状況と重なる。
髪自体が力を生じたのではなく、髪を剃り落さないというナジル人としての「契約の遵守」こそがサムソンの力の源泉だったからだ。
ペリシテ人デリラの誘惑とは、イスラエルが何度もその陥穽にはまり込んだ、バアルやタゴン神崇拝などの異教の神々の誘惑とみることができる。
「足かせをかされる」とは、古代のバビロン捕囚から中世のヨーロッパのゲットー、近代のヒットラーによるホロコーストまでの歴史がそれを表している。
実はAD69年ごろイスラエルは、ローマ帝国に攻め込まれ、「契約の箱」は行方不明である。
聖地エルサレムにユダヤ教の神殿を復元できず、そこにおさめるべき「契約の箱」が失われている。つまり「目がくりぬかれる状態」は現在進行中である。
サムエルはペリシテ人もろとも建物の下敷きとなって死ぬが、それはユダヤ人とパレスチナ人との世界を巻き込んだ最終戦争(ヨハネ黙示録16章)の"影"か。
さらには、ヤコブの子たちが殺したヨセフが実は生きていて、エジプトの宰相となって兄弟たちと相まみゆるという「構図」は、 十字架死したイエスが、イスラエル民族と再会(再臨)し、ユダヤ人がついにはイエスを"救世主"と認める”預言の成就”を指すのか。