歴史と出逢う街「中洲」

かつて森田一義(タモリ)が名乗った「中洲産業大学教授」という肩書、案外と「現実」を反映している。
福岡市中洲は古くは工場のある地域だったからだ。
中洲の明治通り沿い、松居壹番館ビルの前の飲食店のノボリに隠れるように「福岡藩精錬所跡」の碑がある。
福岡藩最後の殿様・第11代藩主の黒田長溥(ながひろ)は、開明的な殿様で、中洲に幕末の頃に鉄の精錬所や反射炉、硝子製造所などの「理化学研究所」を造り、中洲を文化・技術の街としたのである。
実は、溥は実は薩摩の島津家から養嗣子として黒田家に入った身。薩摩藩第八代藩主・島津重豪(しげひで)の十三男なのである。
この重豪の曽孫(ひまご)が斉彬。つまり、斉彬と長溥は大甥・大叔父の関係で、2歳違い(斉彬が年長)の二人は兄弟のような仲だったという。
実家・島津家の家督争い(いわゆる「お由羅騒動」)では、長溥が斉彬派の亡命者を受け入れ、幕府の要人に手をまわして斉彬の藩主相続を実現させた、斉彬にとっての大恩人だった関係なのだ。その二人の関係が「日本国旗の制定」にも繋がっていく。
1853年11月に、薩摩藩主島津斉彬は幕府に大型船・蒸気船建造申請を行った時、日本船の「総印」として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、「日の丸」を日本全体の総印とするように進言した。
幕府もその必要を認めて、1854年に「日の丸」を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した。
提案者の島津斉彬が「日の丸」のサンプルを作って幕府に提出しようとするが、斉彬が望むような色が出せず頼ったのが、黒田長溥であった。
実は、福岡藩の山口村(桂川町)には赤色の染料となる茜(あかね)草が産出し「茜屋」という地名が残るほど茜染が盛んに行われていた。
このと茜染めの「日の丸」サンプルが、日本の(実質上の)「国旗」誕生へと繋がったのである。
繁華街・中洲の対岸に”キャナル・シティ”がある。
"運河の街"という名前なのだが、ここは鐘ヶ淵紡績(カネボウ)の工場の跡地に出来たものである。
実は、鐘ケ淵紡績(カネボウ)の本社は東京の墨田区・鐘ヶ淵なのだが、大阪支店(鴫野工場)に「h」字型の水路があり、この水路は通称“カネボウ運河”と呼ばれており、そこに由来があるのかもしれない。
明治時代に製糸業に従事した女性達が記録「女工哀史」がよく知られているが、他にも「ああ野麦峠」は、長野県諏訪の紡績工場で働く女工の過酷な労働状況を描いていた。
いずれも相当過酷な労働環境で、身を削って国・会社の為に働いていたといってよい。
この状況に危機感を描いた紡績会社側が、 女工の福利厚生・健康維持のために「バレーボール」を手軽に女性でも出来るスポーツとして導入し、各紡績メーカーに浸透していった。
1964年4月、東京オリンピックで金メダルをとった「東洋の魔女」と呼ばれた「ニチボー貝塚」チームの良きライバルとして競ったのがカネボウであった。
また、東中洲「福博出会い橋」の入り口には、三人の舞子のブロンズ像がある。
1925年開催のパリ万国装飾美術博覧会に博多人形師・小島与一の「三人舞妓」が出品され「銀牌」をうけた作品のレプリカである。
博多人形の制作は、福岡市築城の際に黒田父子と共に岡山(播州)より移り住んだ瓦職人にルーツがある。
現在の福岡市祗園町はかつて多くの瓦職人が住んだために瓦町とよばれていた。
こうした瓦師に弟子入りした陶工・安兵衛の息子吉兵衛が彫塑の技術を学び、その子の吉三郎とともに現在の博多人形の基礎を築いたといわれている。
そして明治後期から大正にかけて多くの優秀な博多人形師を育てたのが白水六三郎である。
白水は人一倍研究熱心で博多人形制作のための人体研究の必要性から九大医学部の「解剖実験」にたちあった。それはゴッホやダビンチと共通している。
小島与一は15歳の時、この白水六三郎に入門し、1890年に東京で開かれた「内国勧業博覧会」で、博多人形の素朴で繊細な美しさが全国に知られるようになった。
そして今、博多山笠の飾り山を製作する博多人形師達のほとんどが小島与一の弟子にあたる人形師達なのである。
「三人舞妓」の像は、1920年のパリ万博で「銀賞」を受賞した作品で、千代子夫人が小島与一二十五回忌に建て福岡市に贈ったものである。

博多では、「押絵」というものが行われていた。
花鳥人物などの形に厚紙を切って美しい布を張り、その間に綿を入れて高低をつくり、物をはりつけた絵をいう。
博多では、士族の娘や、中流以上の町人の娘達は、きまったように手仕事としてならった。
しかし押絵を櫛田神社の絵馬堂に奉納したのは昔のことで、いまではすたれてしまった。
この「押絵」を世に知らしめる作品を書いたのが「夢野久作」である。
夢野は江戸川乱歩と同じく、その幻想的な耽美的世界によって大正ロマンの代表者の1人といえる。
夢野久作は本名・杉山泰道で、1889年(明治22)杉山茂丸の長男として福岡市住吉に生まれた。
杉山茂丸は、政界の裏面で、台湾統治・満鉄創設・日露戦争などで暗躍した玄洋社出身の人物である。
久作は、父が政治運動に東奔西走したので、祖父に謡曲、能、四書五経を学び、上達がはやく「神童」といわれた。
中学修猷館に入学した頃より「文学で立つ」ことを志していたが、それは父親の喜ぶところではなかった。
慶応義塾大学文科に入ったが、父親は学業廃止を厳命し大学退学後2年間の放浪生活を送った。東京本郷の喜福寺で剃髪し、法名を泰道と名乗り、大和寺を托鉢して歩いたこともある。
異母弟が死去したため、杉山家を継ぐことになり、法名のまま還俗して杉山家所有の「香椎農園」に戻っている。
「香椎農園」は、立花山ふもとに広がる「和白カントリークラブゴルフ場」あたりにあった。
旧作はその後、喜多流謡曲の教授となったり、九州日報の記者を勤めるなどしながら小説を書き、1929年「押絵の奇跡」により作家的地位を不動のものにした。
「夢野久作」が描いた独自の幻想世界は近年「映画化」され、あらたなファンを獲得している。
夢野は、主人公・トシ子の口を借りて彼女の生家の風景つまり中州の風景を語らせている。
「私の生家は、福岡市の真ん中を流れて、博多湾にそそいでおります、那珂川の口の三角州の上にありました。その三角州は東中州と申しまして、博多織で名高い博多の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋がかかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵の横に在りますのが私の生家でございました」。
この記述に基づいて、中洲に「飢人地蔵」を探すと、キャナルシテイの遊歩道が中洲に繋がるあたりの那珂川沿いに、この「飢人地蔵」があるのを確認できた。
中国辛亥革命を起こした孫文と、杉山茂丸も繋がる「玄洋社」人脈により、福岡と深く関わる。
南京臨時政府が発足し、翌年1912年に、孫文は中華民国臨時大総統に就任する。
しかしほどなく、軍閥の袁世凱(えんせいがい)に地位を譲るが、翌年の1913年、2月13日から3月28日まで、44日間、「前国家元首」の栄光に包まれ、日本政府の賓客として来日した。
かつて、日本に亡命した孫文を支援したのは玄洋社や宮崎滔天、犬養 毅、一部の炭鉱経営者と限られた人たちだったが、今回は大違いで、宿舎は帝国ホテルで、博多まで特別列車。主要駅では万歳三唱で迎えられ、市長が表敬挨拶して歓待している。
ところで、革命軍を組織する資金で、武器だけでも何万丁を入手するには膨大な金額が必要となる。それは、孫文の財政を支援した人たちも同様である。
1911年、革命軍が武昌で蜂起して革命に成功した辛亥革命において、この挙兵に日本人として一番に駆けつけたのが、「玄洋社」の末永節(すえなが みさお)である。
また孫文は、平岡浩太郎と中野徳次郎、安川敬一郎ら、福岡の炭鉱経営者に多くの資金援助を受けている。
そして、孫文は福岡へ来た時、革命を支援した「玄洋社」や炭鉱経営者に感謝の気持ちを述べている。
まず孫文は戸畑で安川敬一郎を訪ね、安川が設立した明治専門学校(現九州工業大学)で講演し、福岡では九州大学、大牟田では三井工業学校(三池工業高校の前身)で、学生たちに演説をしている。
そして、3月17日、福岡着当日午後六時より東公園の「一方亭」に招待され、炭鉱経営者の歓迎会が催されている。
19日には、旅館「常盤館」に宿泊し、平岡常次郎氏の案内で博多聖福寺境内なる故平岡浩太郎氏の墓に行っている。
「常磐館」は蓮池近くの石堂川に面したガソリンスタンド脇に「石碑」がある。常盤館は玄洋社がよく利用した一流料亭で、その主人は紫藤仁三郎で、杉山茂丸とも関係が深かったといわれている。
ところで、戦後の史観では、平岡や頭山の玄洋社は「利権獲得」が目的の右翼集団のようなレッテルを貼られてしまっている。
そのせいか、福岡県人がいかに中国革命を支援したかにつき、表立って語られることは少ない。
しかし、孫文と福岡の人々との交流を見ればそれが皮相な見方であることがわかる。
そもそも、孫文清朝の「お尋ね者」にすぎなかったし、革命に成功するかどうか、勝算があったわけではない。
孫文自身も後年、「自分の生きている間に革命が成立するとは思わなかった」と述懐しているくらいだ。
そんな孫文を一貫して支援しているのだから、これは利害を越えた「義侠心」としかいいいようがない。もちろん、それを引き出したのが孫文の「魅力」だったともいえる。
しかし、目先の利害を超えた福岡の人々の「義侠心」はどこから生まれたのだろうか。
平岡と安川は玄洋社員であり、平岡は西南戦争で西郷軍に参加し、禁固1年の刑を受けている。
安川の長兄は明治初年の福岡藩の贋札事件で藩主をかばって死刑。
次兄は、明治七年の江藤新平がおこした佐賀の乱に官軍として鎮圧に向い、三ツ瀬峠の戦で戦死している。
こうした時代を身にしみて感じていた彼等からすれば、中国革命に資金援助をするのは、逆境にある人間を支援しようという志なくしては、説明ができないように思う。
孫文は常盤館以外に、孫文が宿泊したのが福岡天神の中央公園にある「旧福岡県公会堂貴賓館」である。
ところで東中洲の入り口の「福博出会い橋」。
福岡と博多が出会う橋と思っていたら、実はそうではなく「福岡博覧会」からきている。
福博出会い橋付近に、フレンチルネッサンスを基調とする木造公共建物を見ることができる。
これは、1910年第13回九州沖縄八県連合共進会の開催に際し、会期中の来賓接待所を兼ねて共進会々場東側の現在地に建設されたもので、現在も保存されている。

博多の街には、「冷泉町」という名の町があるが、町名の起こりからして、めでたくもまた怪しい。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようかとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。
冷泉中納言が宿泊していた龍宮寺(当時は浮御堂と言っていた)に人魚を運び、塚を作って埋葬した。
その「人魚塚」は現在でも「龍宮寺」に残っており、希望すれば「人魚の骨」といわれる実物を見ることができる。
冷泉町側から橋を渡った「西中洲」には、かつて「大博劇場」という映画館があった。
この大博劇場こそは、ドイツ生まれのユダヤで天才物理学者・アインシュタインが1922年に福岡て講演を行った場所である。
その冷泉町が太平洋戦争末期における福岡大空襲の「爆心地」となった。その「グランウンド・ゼロ」の地点は冷泉公園として整備され、園内にはそのことを示す「記念碑」がたっている。
それは、中洲周辺が「工業地帯」であったことと無関係ではない。
したがってB29の爆撃こそが、中洲を工場の街から飲食街へと転換したということがいえる。
その象徴的存在が、めんたいこの「福屋」である。
ところで、1946年に朝鮮から博多に引き揚げてきた川原俊雄夫妻は、ある日「中洲市場25軒を引揚者に」という募集記事をみて、入店を決めた。
当時、中洲は福岡大空襲で焼け野が原で最初に開いた店は乾物食品ばかり扱っていた。
しかし、河原夫妻は釜山で食べたタラコの味が忘れられず、1950年ごろからキムチ風の味付けでタラコを自宅裏で漬け始めた。
「メンタイ」とは韓国語でスケトウダラのことで「明太」と書いて「ミョンテ」とよぶのだが、タラコ(スクトウダラの卵)はその子供ということで「明太子」(めんたいこ)と名づけた。
川原は「味の明太子」をつくりあげるまで、長い時間をかけて試行錯誤した。
何よりも原料であるスケトウダラの卵の質が良くなければならない、というのが絶対の条件だった。
結局、俊夫の目にかなったものは、北海道羅臼、稚内、釧路で水あげされ、加工されたタラコだった。
最後に一番苦労したのが「調味液」であった。どんな調味液に、どのくらいの期間、漬け込むかによって味はきまる。いわば「秘伝」の味である。
作っては捨て、作っては捨ての連続でしだいに味に改良を積み重ねていった。
川原の店「ふくや」の知名度はあがっていったが、「明太子」は最初の10年は全く売れない奇妙な存在だった。だが川原には、いつか必ず売れるという確信めいたものがあった。
そして、「秘伝」の味に自信があったのか「特許」をとることもなかった。
近くの冷泉小学校の先生達が昼ご飯のおかずに「明太子」を買いに来るようになりその味は口コミで広がっていく。ランチ時には冷泉公園で、明太子を口にするサラリーマンも見られるようになった。
1960年頃からで小料理屋が酒の肴に「明太子」を注文するようになり、「明太子」の名を全国に広げたひとりが北海道出身の佐々木吉夫。
1933年にスケトウダラの産地・北海道礼文島の漁師の家に生まれる。中学を卒業すると島を出て道立高校に進み、牛乳配達のアルバイトと奨学金、居候先には出世払いにして、中央大学に進学する。
大学卒業後、議員秘書となって福岡選挙区の地域活動として、中小零細企業者の世話活動にも取り組んだ。
1975年、新幹線が延伸し博多駅まで開通し、駅構内に賑わいを作ろうと、スーパーマーケット形式の総合食料品店を開業した。
1978年に「福さ屋」株式会社を設立。北海道の発展に貢献した「高田屋嘉兵衛」を名を冠した鮮魚店「嘉兵衛」も営んでいる。
新幹線開通を機に、明太子は博多の特産物として全国に知られる。まるで龍宮時の「人魚の御利益」にあやかったかのように。