「ふるさとの歌」の故郷

夏が近づくと、TV各局で「ふるさとの歌」に関わる番組が増える。しかし、「ふるさとの歌」が指す本当の故郷がどこなのか、作者が誰で、歌詞の意味さえよくわからないものが少なくないという。
ところが、長い歳月を経て、それがわかった時の関係者や当地の人々の喜びはひとしおであろう。
♪静かな湖畔の森の陰(かげ)から♪で始まる「静かな湖畔」は長く作詞者不詳であった。
それがわかったのは、ひょんなところからであった。
その作詩者は山本多岐彦、日本基督教団・三崎町教会牧師(1938~68年在任)である。『讃美歌第二編』25番「うたごえ高らかに」や191番「主のまことはくしきかな」などの訳詞も担当している。
1925年、慶應義塾大学予科に入学早々、友人に誘われて中央バプテスト教会(現・日本基督教団・三崎町教会)で受洗する。
慶應大法学部を卒業後、関東学院神学部で学び、関東学院中学部の教師となる。
折しも、長野県・野尻湖の一番奥まった湖畔に、東京YMCAが青少年のためのキャンプ場を設けられた。
その3年後の1935年夏、リーダーとしてやって来たのが、当時27歳の山本多岐彦であった。
5週間のキャンプ中、東京にいる婚約者に書き送った手紙の1通にこんなことを書いていた。
「郭公(かっこう)がしきりにないてゐます。こんな詞がうかんできました。『静かな湖畔の森の蔭から もうおきちゃいかがと郭公が呼ぶ。カッコー、カッコー、カッコ カッコ カッコ』これにいい曲をはめてみませう」。
山北は68年、三崎町教会で説教と聖餐式を行った直後に入院し、間もなく60歳で亡くなる。
遺書には、「告別式は簡略に。バッハのカンタータ『イエスはわが喜び』。わたしのことをいわず、主だけが語られ、信仰を私に与えて下さった主の恵みだけを伝えて下さい。ではまた、多喜彦」。
それから14年後、「遺品」を整理していた夫人が、前述の手紙いわゆるラブレターを見つけた。
この時、夫人の記憶と、歌のメロディがようやく結びついた。
それまで作詞者不詳とされてきたが、1982年8月11日付)の新聞が「湖畔のカッコー 身元はっきり 作詞者は山北多喜彦さん」と報じた。

福島県岩瀬牧場は明治の初め、国内で初めての西欧式牧場として開設された。
約10万坪もの広さをもつこの牧場は、明治天皇の東北巡行の際、鏡石・矢吹・須賀川に広がる原野の開墾を側近の人に申し述べたことが、開拓の発端となった。
その後伊藤博文内閣により宮内省直営の「宮内省御開墾所」に指定され、1907年にはオランダより乳牛13頭と農機具を輸入。その際に日本とオランダの友好の印として「鐘」が贈られている。
福島県、岩瀬牧場の近くの“鳥見山公園”には、「牧場の朝」の歌碑があり、次のような「歌碑の由来」が書かれている。
「肝心の作詞者が不明であったが多年にわたる医師最上寛氏及び作曲家平井康三郎氏並びに関係者の追跡研究の結果明治の文筆家である杉村楚人冠(本名廣太郎)の作と断定するにいたった。
町はこれを記念し「牧場の朝」発祥の地である当公園の一角に作曲者故船橋栄吉氏の息女である船橋豊子氏の協賛を得てこの歌碑を建立した」。
杉村楚人冠(すぎむら そじんかん)は、1872年、和歌山県和歌山市にて生まれた。父は旧和歌山藩士の杉村庄太郎。
16歳で旧制和歌山中学校を中退し、法曹界入りを目指して上京する。
英吉利法律学校(のちの中央大学)邦語法律科で学び卒業す、アメリカ人教師イーストレイクが主宰する「国民英学会」に入学している。
1891年、文才をかわれて19歳にして「和歌山新報」主筆に就任するが、翌年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学。
その後、本願寺文学寮の英語教師を務めながら執筆に携わり、1897年、教職を棄て3たび上京。在日アメリカ公使館の通訳を経て、1903年に池辺三山の招きにより東京朝日新聞(のちの朝日新聞社)に入社した。
入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していて、終戦後は特派員としてイギリスに赴く。
滞在先での出来事を綴った「大英游記」を新聞紙上に連載するや、軽妙な筆致で一躍有名になった。
杉村は帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、日本で初めて「電子電波メディア局」の一部門を再編創設し、1924年には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設した。
新聞「縮刷版」の作成を発案したのも楚人冠である。
のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。
その他、『日刊アサヒグラフ』(のちの『週刊アサヒグラフ』)を創刊したりするなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。
楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、外遊中に広めた知見を活かした著作により、日本における「新聞学」に先鞭をつけた。
さて、「牧場の朝」の作詞が杉村楚人冠であることが判明したのは、1973年に最上明が楚人冠の紀行文に「牧場の暁」という文章を見つけたことによる。
ただそれを歌詞にしたのは別人という可能性がないわけではない。
ちなみに「楚人冠」という変わった名は、中国の「史記」の逸話によるもである。
項羽といえば虞美人や「四面楚歌」の故事が有名であるが、咸陽に入城した項羽が秦の王宮を焼き尽くしたことをある者が嘲って、次のように語ったという。
「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。(項羽は冠をかぶった猿に過ぎないと言う者がいるが、その通りだな)。
関東大震災後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」と、家屋を「枯淡庵」と称した。
「アサヒグラフ』誌上で手賀沼の風景、そして別荘地としての我孫子(あびこ)を紹介し、多くの文化人がそれがきっかけで住むようになり、その発展に大いに貢献した。

「静かな湖畔」の作詞者・山本多岐彦の息子が第13代の青山学院の学院長(2010年~14年)であった山北宣久(のぶひさ)、略して「山宣」であるが、歴史上「山宣」(やません)の名前で市井で親しまれたのが山本宣治(のぶはる)である。
山本宣治の実家は、宇治の歴史ある割烹旅館である。
山本は、「生めよ増やせよ」の国策の時代に、人口増による貧困を訴え産児制限を唱えたが、右翼によって暗殺された。
学者出身の国会議員・山本宣治の死は、弱冠39歳の時であった。
山本宣治は若い頃アメリカ大陸に渡って、当時の日本には無かった「自由と民主主義」の思想を身につけ、学者になってからも、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって世の中をよくする運動に身を投じた。
やがて労農党の代表として衆議院議員に当選し代議士になってからも、戦争へ戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対し、軍国主義者から命を狙われた。
実は、人々が「山宣」と呼ぶほどに親しんでんだその人は、宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあったからだ。
今でも、宇治の町ではの命日である3月5日、善法の墓地で「山宣墓前祭」をひらき、彼の意志を受け継ぐことを誓い合う集いをもっている。
墓碑銘にある「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」は、官憲によって塗りつぶすまで建立を許されなかったものである。
しかし何度塗りつぶされても、いつのまにか誰かに彫りとられ、「山宣ひとり孤塁を守る」の墓碑銘が浮き出したという。
さて、山本宣治が生まれ育った宇治といえば、宇治茶でよく知られている。
「夏も近づく八十八夜」の歌い出しで知られる「茶摘(ちゃつみ)」は、1912年に発表された日本の童謡・唱歌で、京都の宇治田原村の「茶摘歌」を元に作られたとされる。
歌詞の二番にある「日本」は元々は「田原」だったという。
「茶摘み』は、日本の茶摘みの風景を切り取った歌。
♪♪~夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは 茶摘ぢやないか あかねだすきに菅(すげ)の笠 日和つづきの今日此の頃を、心のどかに摘みつつ歌ふ
摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにや日本の茶にならぬ~♪♪
八十八夜は、立春の日から「八十八日目」であることからその名がついた。
いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、その後に摘まれる茶葉よりも栄養価やうまみ成分が多く含まれている。
昔の人は、成分を調べるまでもなく、経験的に「新茶」が優れていることを悟っていたのであろう。
もう1つは、「お米」と「お茶」の関係で、八十八夜はちょうど田に籾を蒔く大切な時期。そして、「八」は末広がりな姿をしていることから、縁起のいい数字とされている。
また、「八」「十」「八」の3つの字を組み合わせると「米」という字になるため、農業に携わる人びとに大切にされてきた。
というわけで、その時期に採れる「新茶」は、縁起がいいとされているのである。
「八十八夜といえば茶摘み」というイメージが定着し、八十八夜の数日後には、暦の上での夏の始まり「立夏」を迎える。
実は、静岡がお茶の産地となったのは、大政奉還によって徳川家が駿府すなわち静岡に来たことと関係している。そしてお茶といえば、江戸時代、「茶壺」が怖れられた時代があった。
その「茶壺」には宇治茶が収められていて、その茶壺を掲げて、江戸から宇治の間を往復した「お茶壺道中」というものがあった。
将軍家用の宇治茶を「取り寄せる」ためのもので、これが大名行列をもしのぐ規模で行われ、一行の総数は、500名以上にのぼったと言われている。
それではお茶ごときに、そんなモノモノしい行列をしつらえたのか。
このお茶壺道中を始めたのは、三代将軍・家光である。
徳川家の「士気高揚」および諸大名が徳川家に服従するかを試してやろうと、将軍家用の「茶壺に権威」をもたせて通行させたのだ。
5代将軍の綱吉の「生類哀れみの令」にも似た権力者の「身勝手さ」で生まれたものある。
これはすっかり制度化されてしてしまって、以後「お茶壺道中」は幕府の「権勢」を世に問う一大イベントになったのである。
さて、我々も馴染んだ♪~すいずい ずっころばし ごまみそ ずい~♪で始まるわらべ歌は、まったくの意味不明であるが、この歌の「情景」を書くと次のとうりである。
「ある農家でずいきのゴマミソあえを作っていたところ、表を将軍様に献上する"茶壷道中が"通りかかった。
驚いた家の人たちが急いで奥へ隠れる。静まりかえった家の納屋の方では、ネズミが米俵を食べる音。井戸端ではあわてた拍子にお茶わんを欠く音。息を殺している中でのいろいろな音。やがて茶壷道中は去って行く」。
そんなことで、毎年、新茶のシーズンにお茶壺の一行が通るときは、田植えや畑仕事も一切禁止させた。
「下にい」「下にい」の言葉が聞こえると、庶民は土下座。諸大名も駕籠から降りて、道を譲らなければならなかった。
それに気をよくしたのは、お茶壺道中の一行は、「権威」をカサに着て各地で「狼藉」も働いたとか。
その恐ろしさを歌ったのが、♪茶壺に追われて、戸ぴっしゃん♪である。
ところで、宇治の旅館や料理屋は当然「宇治茶」と縁深い。茶摘みは重労働でもある。
1894年(明治27年)創業の「花やしき浮舟園」の若主人「山本宣治」に、権威への反骨心が養われたとしても不思議ではない。

一昨年より、韓国での元徴用工による戦後補償訴訟で「元徴用工問題」が急浮上。
韓国最高裁は、「元徴用工」らに対する給与の未支払いなど「個の請求権」はいまだに済んでいないと、一旦は日本企業に支払を命じる判決を出した。
北海道紋別市の鴻之舞(こうのまい)鉱山もまた朝鮮からの徴用工を雇った歴史がある。
紋別市の中心市街地で、オホーツク海側から約25キロ程の地点である。
この地を含めて、オホーツク海側の川では、明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり、「ゴールドラッシュ」となった。
紋別の鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で、1915年に鉱床が発見されると、「鉱区設定」を巡る紛争が起きた。
結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、1917年に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を得て、以降1973年に至るまで操業を続けた。
「鴻之舞(こうのまい)鉱山」は、元山鉱・倶知安鉱を中心に、金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第3位の産金の実績を誇っていた。
鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期には人口1万5千人を数えるまでになった。
しかし、1943には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなったため、一時的に地域の人口は激減した。
1937年に勃発した支那事変の長期化により鉱山労働者が次々と徴兵され、ついには操業に支障をきたすようになった。
このため親会社の住友は朝鮮総督府や企画院に対して大陸からの労働者補充を幾度に渡り要請し、1939年には、政府の労務動員計画に基づく「朝鮮人労働者の移入」が開始されたのである。
第二次世界大戦後、1948年に操業を再開したが金価格が下落し、資源も涸渇したことから、1973年に住友金属鉱山は鴻之舞鉱山の閉山を決めた。
1932年から1952年にかけて、石北本線丸瀬布駅と鴻之舞を結ぶ索道「鴻丸索道」による物資輸送が行われている。
鉱山が栄えたころの1943年から1948年までの短い期間であったが、紋別中心地と鴻之舞との間に鴻紋軌道が敷設されていた。
軌道は物資輸送等に使用されたが、現在は道紋別丸瀬布線が通るのみである。
1949年、紋別市街と鴻之舞を結ぶバス路線が開設されている。
「上藻別」地区へ走る路線はかつての紋別市街と鴻之舞を結ぶ路線の名残であり、路線名は「鴻之舞線」で変わっていない。
木製の構造物は既に朽ち果て、集落もないが、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見される。
鉱山があったことを示す碑、「鉱山犠牲者の慰霊碑」が建立されている。
♪とおい とおい はるかな道は♪ではじまる「銀色の道」は、1966年にダークダックスとザ・ピーナッツがそれぞれ発表した。
作曲者の宮川泰(みやがわやすし)は小学生の一時期鴻之舞に在住した時期がある。鴻紋軌道の光景をイメージして「銀色の道」を作曲した述懐している。