現地の「心」と化した人々

江戸時代「伊勢参り」がはやり、伊勢の人たちは旅人を手あつくもてなした。
松浦武四郎は1818年、伊勢国(三重県)出身、伊勢参道の商家で生まれた。
生来の旅好きで16歳の頃より、全国いたるところを旅した。その旅の費用は、伊勢参りの際の「お礼」として各地の人々が彼を受け入れた。
そうして、とうとう辿り着いたのが最北の蝦夷地(今の北海道)。未知の大地での旅を支えてくれたのは、住民のアイヌの人たち。
けわしい山野や想像を絶する気候に苦楽を共にするうち、武四郎はアイヌが「カイ」とよぶ故郷での暮らし、その過酷な現実を知ることになる。
そのうち、「幕府の役人」に抜擢され、蝦夷地をくまなく跋渉して樺太にも渡り、「東西蝦夷山川地理取調図」を完成する。
これは、北海道経営の基礎にもなる大業で、道路開墾の策や札幌に統治の府を置くべきことを箱館奉行に上申した。
しかし、武四郎の真髄はここに留まらず、さらに踏み込んで調査で出会ったアイヌの人々をありのままに描き、「近世蝦夷人物誌」などまとめたことにある。
その最大の目的は、江戸でアイヌの人々の苦境を広く伝えんとするものであったから、その業績は一役人の域を超えていたといえる。
当時、江戸末期のアイヌの生活は、日本人との交易によって日本の商品への依存がますます強まるなかで、先祖代々の狩猟や漁労の生活が「激変」していた。
アイヌは、アメリカ先住民と同じく金属や衣服などを植民者や出入りの商人から購入することで生活の便宜を高めた。
その一方で、アイヌの生活を根底から変えていく。
「交易」に必要な鳥獣類を得るために必要を超えて狩猟を試みたことで、鳥獣を近くの生息地から遠方に追い払うことになった。
北海道奥地まで探検した武四郎には、和人による「砂金採集」のための水流調整により鮭の遡上や産卵が妨げられたことが苦々しい行為として映った。
武四郎は、松前藩の商場知行制(あきないばちぎょう)の発展によって、長いことアイヌ民族が尊重してきた鳥獣や魚介などの生態系がくずれ、アイヌの精神までもが市場に侵される経過を的確に分析した。
そして、弱まる生存システムを補うために「交易品」に依存せざるを得なくなる悪循環を嘆いた。
タンザニア湖周辺の生活の激変を描き、2004年ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞した「ダーウィンの悪夢」を思わせる。
その一方で、武四郎の北方探検は江戸にも知られ、幕末には、大久保、西郷、木戸らは蝦夷地情報を知るために、武四郎の家を訪れている。
そして1869年に戊辰戦争が終結し「開拓使」が設置されると、これまでの調査実績を認められ、「開拓判官」の職に任命された。
判官とは、次官に次ぐポストで、武四郎が新天地で理想の政治を目指すには十分な職であったハズだった。
武四郎の最初の仕事は、この北の大地に「新たな名前」をつけること。
武四郎の脳裏に浮かんだのは「カイ」。つまり、アイヌの人たちが故郷を呼ぶ名を含めた「北加伊(カイ)道」。
実際、武四郎は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。
しかし、開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。
また武四郎は、東京での勤務とされ、現地で手腕を振るうこもできず、孤立した武四郎は、開拓使を辞めてしまう。
ちなみに初代の開拓長官・東久世通禧は、禁門の変で逃れた七卿のうち九州大宰府に逃れた「五卿」の一人で、福岡県二日市の武蔵寺(ぶぞうじ)の近くに、その「歌碑」がある。

故・中村哲がアフガニスタンに導入したのは、福岡県筑後地方に残っている「水車」の技術だ。
朝倉の水車群は堀川用水と呼ばれる潅漑用の水路に沿って設置されている。
今から約250年前の宝暦(1760年代)にはすでに水車があったらしいと言われているが、ここの水車群の中で最も有名な「菱野三連水車」は寛政元年(1789年)にそれまで二連の水車だったものが一基増設され「三連」になったという記録がある。
市によると、1789年には存在していたという記録があり、現役の大規模水車としては日本最古。
1990年に堀川用水とともに国史跡に指定された。山田堰や水車の技術はアフガニスタンで広大な砂漠を農地につくりかえる「緑の大地計画」のモデルにもなっている。
2001年10月に米軍がアフガニスタンを爆撃した際、「ペシャワール会」では全国に呼びかけ「いのちの基金」を設立し、空爆下に緊急食糧配給を行ている。この活動が大きな反響を呼び、多くの基金が集まった。
そして、この基金をもとに始まったのが「緑の大地計画」で、アフガニスタン東部における灌漑用・用水路建設を含む総合農村復興事業では、東部を流れるクナール川から水を引き、クナール州からナンガルハール州一帯に農業を復活させようというもの。
故・中村医師は ペシャワ-ル会が継続した理由を、本部がもしも東京にあったなら色々な論客がやってきて、肝心の現地の感覚とかみ合わなくなり、空中分解したのではないかと語っている。
あくまで現地の人と同じ立場での生活をできるだけ共にするというのが中村哲の信条であった。
この信条に「アラビアのロレンス」が思い浮かぶ。
オスマントルコは、インド西部に位置するアフガニスタンと東に地中海を挟む広大な地域を支配域とした。したがって第一次世界大戦が始まる前まで、アラブ地方はオスマン・トルコに支配されていたといってよい。
大戦が始まると、オスマントルコはドイツ側につき、英仏と戦う。この時イギリスは、トルコ支配下のアラブ人を味方につけるために、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国家をつくるという約束を与えた。
「フセイン・マクマホン協定」である。
1916年これを信じたアラブ側によって独立が宣言され、トルコに対するアラブの反乱がおきる。
この時、アラブの反乱軍に加わり烏合の衆に近い諸部族を組織して率い、イギリスとの連絡にあたったのが、トーマス・ロレンス大佐である。
ロレンスはもともと考古学者として、アラブ人と早くから交流し、現地の情報に通じていたため、イギリス軍は彼の存在を見逃さず情報将校として用いたのだ。
さて、映画「アラビアのロレンス」ではピーター・オトゥールがロレンス大佐を演じたが、その実際の外貌は一人のカメラマンに焼け付くような印象を残している。
「アラブ人群集の中に一人、目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年の姿をみかけた。まるで中世十字軍戦争当時の戦士がそのまま抜け出してきたかと思えた」。
また、ロレンス大佐がアラブ人を操縦する「天才」につき、彼と行動をともにした将校が次のように語っている。
「彼らの感情を不気味なまでに感じ取る能力、あるいはまた彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力」。
さらに別の将校は、「ロレンスという男は、彼自身および彼の部下に対する静かな信頼、そしてけして命令するのではなく、ただかくかくして欲しいと依頼するだけで、見事に目的を達しうる人間であった」と語っている。
「砂漠を愛する理由」を問われ、ロレンスは清潔だからと答ている。詳細は省くが、ロレンスの出生にまつわる「影」を感じさせる言葉である。

1960年からTV放映が始まった『快傑ハリマオ』というヒーロー、ターバン風の布を頭に巻き、2丁拳銃で悪者をなぎ倒す。
異国人でありながらイスラーム社会に溶け込んだ点でロレン大佐と幾分、共通している。
このモデルとなったのが、日本軍と共にマレー戦線で活躍した谷豊(たにゆたか)であった。ハリマオはマレー語で「虎」を意味するという。
ドラマ『快傑ハリマオ』の元になったのは、戦中の1942年に公開された『マライの虎』だが、谷豊のことは、殆ど知られていない。
ところが1985年、新聞が「ハリマオの虚像と実像」と題た記事を掲載し、この記事がひとりのノンフィクション作家を刺激した。
中野不二男は、「ハリマオ=谷豊」に関する綿密な取材を重ね、1983年『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社)が出版された。
写真つきの先駆的な調査で、大まかな人生の軌跡は判明したが、関係者が物故しているなど不明な部分も多かった。
特に、ハリマオ=谷豊が、日本軍に協力した経緯などの重要な部分が抜け落ちていた。
その後、マレーシアの政府職員でもある土生良樹の『神本利男とマレーのハリマオ』(展転社/1996年)により、その謎が解き明かされる。
土生は、谷豊と行動を共にしていたマレー人から直接話を聞くことに成功し、欠落していたジグソーパズルが完成する。
戦争直前、ハリマオの名は、マレー北部で大盗賊集団を率いる大頭目として名を馳せていた。
部下の数は3000人。統治者の英国人や金満華僑を震え上がらせていた。
人を殺めることはないが、各地で襲撃を繰り返し、そのクビには莫大な懸賞金が懸けられていたという。
そして 開戦前からバンコクで諜報活動を続けていた田村浩大佐は、マレーの有名な盗賊ハリマオは日本人のようだというウワサを聞く。
それは、あくまで風評でしかなかったが、実際のところ、ハリマオとは紛れもなく日本人であった。
1911年(明45)年、日本からマレーへ移住してきた一家は、トレガンヌ街で小さな理髪店を開業した。街には移り住んできた日本人も多く、助け合いながら、商売を営んでいたという。
大黒柱が急逝したばかりの一家を悲劇が襲うのは、昭和7年のことだった。
英語学校から自宅に戻ろうとした谷繁樹は「逃げなさい」という声を聞いて、近所の医者の家に駆け込んだ。シナ人の暴徒集団が日本人商店の襲撃を始めていたのだ。
谷繁樹はひとりのシナ人が手に生首をぶら下げて歩いてく様を覗き見た。暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が目撃したものは、血まみれになった首のない妹シズコの惨殺死体だった。
これがハリマオこと谷豊(たに・ゆたか)の人生を大きく狂わした、余りにもショッキングな出来事だった。 暴徒を目撃した繁樹は、谷豊の弟である。
惨事があった時、兄・豊は九州・福岡の地にいた。徴兵検査を受けるために一時帰国し、そのまま日本の会社に勤めていたのだ。
しかも失意の最中であった。 豊は徴兵検査の結果、身長がわずかに足らず、「丙種合格」となった。これは不合格に等しい。当時の規定では丙種は第二国民兵にあたり、軍には採用されなかったのだ。
この不合格が、豊の心に屈折した思いを与えたのかもしれない。
妹がシナ人に惨殺されたことを福岡で知った谷豊は、単身マレーに渡り、犯人探しを始める。下手人のシナ人は裁判にかけられたものの無罪放免で消息不明になっていたのだ。
この時、谷豊は21歳。 谷豊は、統治者のイギリス官憲に強く抗議するが、逆に不審者として一時投獄されてしまう。
更に、伝手を辿って日本の政府関係者にも懇願するが、誰も取り合ってくれない。
味方が居ないことを知った谷豊はひとりで復讐を開始する。裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。義族的な行為と見られた為か、マレー人の配下も増え続けた。
やがて華僑の商店も標的にし、義族的な活動は広がりを見せ始める。遂には金塊を積んだ鉄道車両の爆破など大規模な犯行にも及んでいた。
この頃、すでに谷豊は日本名を棄てハリマオの愛称で通していたようだ。新しい部下は谷豊が日本人であることを知らなかったという。
マレー語は堪能だったが、その一方で、日本語では不自由する面もあったという。谷豊は教育面を心配した両親の配慮で日本の学校に通っていた時期もあった。しかし、日本語レベルの違いから、イジメにあうなど良い思い出はなかったようだ。
言葉の面で苦労したことが、谷豊の心に陰を落としていたとも伝えられる。 「自分は何人なのか」というアイデンティティーの問題だ。
さて、前述のバンコクに駐在する田村大佐は、開戦を睨んで「マレー人工作」を命じられていた。マレー人の協力が得られなければ、戦線を拡大できないことは火を見るより明らかだった。
そこで、田村大佐は、マレーに潜入して「ハリマオ」を探し出すよう、ひとりの日本人に要請する。
田村大佐が白羽の矢を立てたのが、神本利男(かもと・としお)だった。
神本は警察官で、満州では甘粕正彦元憲兵大尉から絶大な信頼を得ていたという無名人物だが、異彩を放つ人物である。
異彩というのは、道教の満州総本山・千山無量観で3年間修行を積み、満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生であったこと。
「密命」を帯びてマレー半島を南下した神本は独自のネットワークを駆使し、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めた。
そして窃盗でタイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、神本はいきなり日本軍への協力を仰ぐ。
しかし谷は、「俺は日本人ではない」とマレー語で叫んだという。 そして神本が日本人と断定して追及すると谷豊は複雑な胸中を語り始めた。
妹の殺害事件で日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われ、あげくの果ての「盗賊など恥晒した」と非難された現実を切々と訴えたという。
谷豊は日本という国から見捨てられたように感じていたのだ。
しかし神本は、「この半島は戦場になる。おれはマラヤをマライ人に戻したいと思っている。その為に君の力を貸してくれないか」と説得した。
更に、神本は日本軍に現地人が協力してくれるなら、必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る訴えた。
またムスリムとなっていた谷は、コーランの「開端章」を暗誦してみせた神本に驚愕したという。
結局、神本の人間的な魅力に引き寄せられた谷は説得に応じ、敢然として「反英活動」に邁進することになる。
復讐のためにマレー半島に戻ってからはや10年が杉、谷豊は29歳になっていた。
1942年、真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島に進攻した日本軍は、その後「銀輪(自転車)部隊」で半島を南下し、2月に英国の東アジアにおける要衝であるシンガポールを制圧した。
しかし谷豊はシンガポール占領か1ヶ月後にマラリアにかかり、シンガポールの陸軍病院で32歳の生涯を閉じている。マレーの心をもちイスラム教徒となったひとりの日本人の数奇な人生の終焉だった。
死後ただちに配下のマレー人イスラム教徒によりシンガポールのイスラム墓地に埋葬された。
しかし谷豊氏の生涯は日本人の心に宿り続け、戦後「大東亜の英雄「ハリマオ」として蘇るである。
個人的な話だが中野不二男の『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社)の内容は、衝撃的だった。ハリマオのモデル谷豊の実家は、JR竹下駅に近い五十川であることを知った。
そればかりか、福岡市南区にある我が母校・曰佐(おさ)小学校の出身であった。
そして「第十七回卒業生」の中に確かに彼の名前「谷豊 死亡」の欄を確認することができた。

旧筑紫郡曰佐村の農家に生まれた谷豊のの父はシンガポールにわたり理髪店を経営するが、子供の教育のために一時日本に戻った。
谷豊と弟が曰佐小学校を卒業した後、谷家はふたたびシンガポールに戻った。1937年に日中戦争が始まるとマレー半島でも反日的な機運が高まっていた。
トレンガヌにあった谷家の理髪店は華僑によって襲撃され、谷豊の妹が殺害されるという悲劇がおきた。
ここからが谷豊の波乱の人生の始まりだが、その後の谷豊氏の経歴は不明である。
ただ、成人した谷豊が馬賊の首領として出没するようになり、いつしか人々から「マレーの虎」(ハリマオ)と呼ばれるようになった。
日中戦争の長期化にともない日本軍は東南アジアに活路を求め、現地の地勢や情報に詳しい谷豊と接触し、「藤原機関」の一員として谷豊氏を取り込んだ。谷豊氏はこの時はじめて、公的な働き場所を得ることができたともいえる。
予算がないのに海外ロケ。月光仮面10分15万円。ハリマオは30分70万円。
第三部「アラフラの真珠」では香港・カンボジアにロケに行き、アンコールワットの前で撮影を行っている。
1500万円かかった。森下仁丹がアジア市場拡大をはかっていた、「せんこうしゃ」の小林社長は、スポンサーからの扱いもふえるという見込みのいわば先行投資だった。
森下仁丹のCMびアンコールワットのロケ風景が出て来たりする。肝臓や胃腸によい生薬がたくさん入っている。消化を助ける。
英語のせりふに字幕がない。アジアを舞台にするとあらゆる人種の人が登場する。役者もそうで色々なことばがとびかう。スーパーがないことで無国籍ムードを高める。大事なところではかたことの日本語で語る。
銃撃戦がやたら多い。子供が拳銃を持つ「拳銃少年太郎」の拳銃使いがすごい。それは、昭和30年代当時の西部劇人気にあやかたためである。
ハリマオ最大の謎は、「私の仕事は終わった」と言い残して終わる。都市伝説がうまれ。撮影中に象に踏まれて死んだとか、動物園に転職し象の世話をしているうちに踏まれてしんだとか、馬からおちたという説もうまれた。
勝木敏之の行方はその後、杳としてしられない。

映画監督デビット・リーンは、「人間の営み」を雄大な自然の中で謳いあげた。
監督が描く人間のドラマ自体も壮大だが、それを凌駕するような大自然の猛威が、いずれも圧倒するような画面の中に描かれている。
「アラビアのロレンス」では波のようにうねる砂漠、「ライアンの娘」ではとてつもない海嵐、「ドクトルジバゴ」では果てしない豪雪といった、熱き人間ドラマをさえ呑みこんでしまいそうな自然の営み。
その意味で、映画の主人公は人間に立ちはだかる自然だったかもしれない。
さて、 実は、映画「アラビアのロレンス」の中で一番印象に残ったのが次の会話だった。
「ロレンス大佐、あなたを砂漠にひきつけているのは何です?」という質問に対して、「清潔だからだ」と応えた場面である。
このセリフから、詳細は省くが、彼の出生にまつわる「影」のようなものを感じる。